小説目次


『それは揺らぎからはじまった』
こあとる&sudo共著


終章


 『ディープ・ブルー』でその日最後の客がハイボールを飲み干したのは、すでに午前4時を過ぎた明け方近くのことだった。
 静かな有楽町の街へと出ていく客を、ひとり残ったバーテンがカウンターから見送る。ゆっくりとスイングしたドアが、音も立てずにぴたりと閉じられた。
 バーテンはカウンターを片づけると、グラスを磨き始めた――店に置いてある、すべてのグラスを。
 ゆったりとしたテンポの弦楽器の音色が流れるなか、バーテンはグラスを磨き続ける。
 ガラスの無機質な輝きが出るまで磨き上げるのではなく、かすかにくすんだ鈍い光を放つように磨いていく。
 最後のグラスを磨き終えたバーテンが視線をあげると、その目の前のカウンターに店のオーナーである蛟拝人が座っていた。いつからそこに座っていたのか、バーテンにはまるでわからなかった。
「ご苦労様でした」
 やんわりと笑みを浮かべた蛟に向かって、バーテンは目礼した。とくに驚いた様子も見せず、バーテンのほうも軽い笑みを返した。
「今日は、もうよろしいですか?」
 蛟がうなずくと、バーテンはふたつのカクテル・グラスを取りだした。仕事の最後を一杯のカクテルでしめくくるのが、ふたりの男の習慣になっていた。
 スピリットに、しぼりたてのライム、ジンを加えて、ブルーのカラー・シロップ。
 手早くシェイカーをふり、グラスにそそぐ。
「『フリークス』――ですか。先手をとられましたかね」
「今日は、秋野様がおいでになられていましたので――」
 バーテンは慣れた調子でいたずらっぽく笑った。普段蛟がカクテルの指定をすることはなかったが、ある特定の客が訪れたときだけ、蛟はこのカクテルを注文するのが常だった。数日前、陽性と陰性の対極をなす個性的なふたりの青年が来たときと同じに。
 深い青色のカクテルがそそがれたグラスを手に、ふたりは乾杯する。
『今日一日の仕事に』
 ふたりの声が重なった。一拍おいて、蛟はもう一度ひとりでグラスをかかげた。
「それと――彼女の明日の仕事に」
 いつもと同じ、蛟のセリフだった。そのときになって、バーテンはカウンターに置かれた英字新聞に気がついた。
「あのおふたりですか――数日前の」
 ウィスコンシン州版の大きなゴシック体で書かれた見出しを読んだバーテンは、思わずといった感じで問いを発してしまい――後半をやや注意深くなった声で続けた。こちらの『仕事』について関心を持つのは、バーテンとしての職分を超えることだった。
「ええ。どうやら、彼らはうまくやってくれたようですね……」
 別段バーテンの不作法を咎めることもせず、蛟はいつもどおりのにこやかな笑みを浮かべて応じた。英字新聞を広げて、それから思い出したように付け加える。
「完璧に、とはいかなかったようですが」
 新聞の見出しには、こう書かれていた。

 スペリオル湖南部の半島地盤に断層

 昨日午前1時30分頃にスペリオル湖南部で観測された2度目の地震によって、震源地直近の半島の地盤に大規模な断層が発見された。
 2度目の地震観測から即日現地入りして調査を開始していたミスカトニック大学研究チームが確認したもので、同研究チームのソールズベリ教授によると、さらに長時間地震が続いていた場合には半島は陸から切り離され、スペリオル湖に浮かぶひとつの島のようなものになっていたという。
 2度にわたる不可解な地震と今回発見された断層との関係が注目され、各方面からのさらなる調査・研究が行われる……

「入手できなかったものもあるようですが、まず成功といっていいでしょう。
 ……それにしても」
 英字新聞をわきにのけると、かわりに目の痛くなるような極彩色の小冊子を取り上げて、蛟は目を細めた。
 その表紙を飾る露骨なまでにデフォルメされた忍者と侍の合成写真は、ハリウッド映画のスチル写真をおそらく無断で使用したものだ。アメリカ庶民のゴシップ情報誌、いわゆるタブロイド紙だった。
「連絡もよこさずになにをやってるんでしょうかね、あの二人は。いや……もう一人、増えているようですが」
 蛟の笑顔は先ほどと変わらなかったが、その瞳にわずかながらおもしろがるような色が浮かんでいるように、バーテンには感じられた。
 バーテンは余計なことをいわず、ただタブロイド紙の表紙にだけ視線を走らせた。こちらの扇情的な書体の大見出しは、さらにわかりやすい英語で、いっそ幼稚ですらあった。

 ニンジャとサムライの逆襲!

 田舎町のバーにサムライ・サーベルの白刃がきらめく!
 事件の一部始終を目撃したバーの店員のコメント。
「そりゃもうすごかったよ! アイツらぜったい──ああ、絶対ホントのほんものさ!
 あの二人が店に来たのは2度目なんだ。前のときも騒ぎだったけど、今回はとんでもなかったぜ。なんせ、えらい美人のブロンドを連れてくるんだもんな。さすがっつうか、いや、おったまげちまったよ。
 サムライたちが店に入ってきたとき、前に会ったときのことを覚えてたもんで、オレも嬉しくなっちまって聞いてみたワケさ。『運が良かったのかい?』ってね。そしたらサムライのやつ、にやりと笑って――これがまた、いい男なんでドはまりさ――ブロンドねえちゃんの肩を抱いて、いきなりキスしやがった! そりゃもうすげえ熱いやつよ! んで、唇を離して、こうだ。
『見ての通りさ』
 くそ、イカスぜ! シビれちまった──そうだろ?
 そのあとはキレちまったほかの客たちと乱闘になって、カタナが出るわ、カラテ使いのニンジャが飛び回るわでそりゃもう興奮したぜ! そんでもってブロンドねえちゃんがまたすごいジュージュツの達人でよ、でけえデトロイトあがりの黒スケまでぽんぽん投げ飛ばしちまうんだ。いやあやっぱ強いサムライにはいい女がよってくるもんなんだなあ。それにしてもまたサインしてもらえなかったのが残念で……」
 地元警察がこの3人の男女の行方を追っているが、いまのところまったく手がかりはつかめていない。捜査にあたっている警官も「東洋の神秘、ニンジャの術で、煙のように消えてしまったかのようだ」と話している。

「これは………その………」
 バーテンにはすぐに、ふたりの『配役』に気が付いた。震える手でもったカクテルグラスを、何とか用心深くカウンターに置くことに成功する。吹き出すのを堪えることができたのは、暁光だった。
「本当に、何をやっているのでしょうね」
 蛟はそれほど表情を変えることもなく、いつものように穏やかな笑みで、それでももう一度繰り返して言った。
 空になったグラスをもてあそんでから、しばらくの間その光沢を眺め、必死で笑いを堪えているバーテンに目を向けて──。
「もう一杯、いただけますか」
 バーテンは、ぴたりと笑いを止めた。二〇年近く勤め上げたプロ意識と──今まで起こったこともない異例の出来事が、止めさせたのだ。
「『フリークス』で、結構ですか?」
 形式のみの質問だったが、蛟はゆっくりと、丁寧にうなずいた。
 わずかの間躊躇してから、バーテンは材料を二杯分、マドラーに注ぐ。蛟も、何も言わなかった。
 ほどなく、ふたたび蒼い液体に満たされたグラスがふたりの前に置かれた。
「今度は──何に?」
 バーテンはグラスを掲げて、蛟に尋ねる。店の中で揺れるゆるやかなシタールの音色にあわせるかのように、蛟は答えた。
 小さくつぶやくような声だったにもかかわらず、はっきりと聞こえた。
「ふたりの、……『こちら側』への帰還に」
 『こちら側』への、帰還。
 その言葉はあまりにも曖昧すぎて、バーテンにははっきりと理解することができなかった。
 アメリカから日本への帰還のことなのだろうかと、考える。バーテンにはそれ以外なにも考えつかなかったが、しかし──。
 違うのではないかと、直感的に感じた。
 蛟はただ、にこやかに笑っているだけだった。
 だからバーテンはただ、蛟が差し向けてきたグラスの縁に、そっと自分のそれを打ち合わせた。
 澄んだ音色が、シタールの響きに溶けた。
 遠い地のサムライとニンジャへの、小さな祝福の音色だった。




第5章