小説目次


『それは揺らぎからはじまった』
こあとる&sudo共著


第5章


 からくも地底トンネルから脱出した榊と剣奈は、すでに聞こえなくなった怪物どもの叫びをふりきるように森のなかを走りつづけた。
 命からがらほうほうの体で逃げだした、まさにそのとおりのありさまだった。だが、それを恥だとは榊は思わなかった。
 勝ち目のない戦いに身を投じるなど、ただの自己満足の自殺行為にすぎない。
「……どうやらまいたみたいだな」
 ようやく足を止めた榊は――ただそれだけのことにもありったけの意志の力が必要だった――ひとつおおきく息をついて、あとにつづく剣奈に声をかけた。こちらはひどく苦しげに呼吸を乱し、大きく肩を上下させていた。剣奈は榊ほど体力に恵まれていない。
「……ひと、まずは、――な」
 ひとこと発するごとに剣奈ののどは笛のように鳴り、おおきくせきこんだ。呼吸困難で倒れるんじゃないだろうな、と榊はよけいな心配をした。こんなところでこいつに卒倒されたら、笑い話にもならない。
 こいつをかついで逃げまわるなんてのはごめんだな、そんときゃ置き去りにでもしてやるか――不穏当なことを考えながら、榊はまったく別のことを口にしていた。
「あんたの呪文がなければおれたち死んでたぜ。助かった」
「足止め、程度だ――わずかな時間稼ぎにしかならなかったな」
「あんた、まえに言ったな――気休めだって。たいした気休めだよ、ほんと」
 なんとか呼吸を整えつつある剣奈に向かって、榊はにやりと笑ってみせた。剣奈もめずらしく笑みをかえしたように見えたが、ごくかすかなものだったうえにしだいに深まりつつある夕闇のせいでよくわからなかった。
 夕闇――そう、闇だ。すでに陽は沈み、かすかに残る光の残滓も消え去りつつある。
 暗闇こそやつらの領域。おぞましく醜いからだをかくし、やつらにとっての神に祈りを捧げ、いつの日にか陽のもとにおどりでて人間たちを支配するための、そこは住処。そこに足を踏みいれた人間は知ることになる――この地上は、いや、地下も、海も、空も、自分たちだけのものではないということを。暗闇のなかでは、人にあらざるものこそが支配者であることを。
「陽が落ちたな。これで、おれたちの生き残れるチャンスはまた減ったわけだ」
「だったらこのまま逃げ帰るか?」
 剣奈の声はいつもどおりの平板な調子にもどっていて、それが冗談なのか本気なのかわからなかった。榊はほんの一瞬ことばにつまったが、肩をすくめて首をふった。
「いまさらそれができるくらいなら、ハナからこんなとこまできちゃいないさ。そうだろ? 蛟のダンナだってわかってるからおれたちをよこしてるんだ――おれたちは、絶対に、あともどりなんてできないってことを」
 やつらが目の前に存在することを知りながら、それを素通りすることなど不可能だった。それはやつらに対する焼けつかんばかりの憎悪の念を投げ捨てることであり、恐怖に背を向けて逃げだすということだった。そして逃げだした先に残されているのは、すべてを忘却する真性の狂気というおそるべき楽園だけだった。
 狂気にのみこまれないためには、狂気の源に真っ向から対峙してうち破るしかない。
 たとえその狂気の源が、絶対に根絶できないものであったとしても、彼らにはそうするしか道がなかった。逆説的だが、狂気の淵に身をおくことこそ、ごくわずかに残された正気をたもつすべだったからだ。
「そうだな。それは、おまえがトンネルを抜けて走りだしたときにわかった。気づいているか、榊」
「ああ……だけど、あんたも止めずについてきたよな?」
 剣奈は無言で肯定の意を示す。二人が化け物どもに追いまわされ、死にものぐるいで逃げてきたのは――ウィニマックへもどる方角ではなかった。まったくの反対方向、半島の先端、これから忌まわしい儀式のおこなわれるであろう祭場のほうへと、まっすぐに駆けてきていたのだった。
「ま、そういうことさ。なにがあろうとおれたちは前に進むしかない。後戻りできるところはとっくにすぎてるんだ」
 すでに榊の脳裏からは、トンネルのなかで化け物どもの恐るべき鈎爪から危うく逃げだし、恐怖におののいた記憶など消え去りつつあった。次はなんとかしてみせる、その根拠のない思いだけが彼を支えていた。
「夜の儀式場なら、こんどこそウィティカーがでてくるだろう。ウィティカーがあの化け物連中の頭領なら、そいつさえ片づければことはすむ。そうだろ――?」
 そうだ。おれは奴をこの手で斬ると、あの小屋の落とし戸の前で誓ったのだ。なにに対して誓ったのか? おれ自身にだ。これまでになんどもあいまみえてきたあの化け物どものせいで穢れているとはいえ、すくなくともまだおれ自身のものである魂に刻みこんで誓ったのだ。
 おれは、奴を、殺す。狂気によって狂気を吹き払う榊の燃えさかる眼光に、同じ光でありながらも極低温の炎をともす男の眼がこたえる。
「……そうだな。やつらの神を呼び出す召還の儀式は厳密な手順を必要とする。星辰の位置、定められた儀式場、正しい呪文、触媒、生贄など――なにひとつ欠けても儀式は失敗する。いや、失敗するどころじゃない――誤った召還の儀式は、召還者自身を破滅させることになる。そこにこそ、いや、そこにしかおれたちの勝機はないんだが」
「だったら、やるしかない」
 やつらをぶちのめす方法がある――それがごくわずかなチャンスであっても、榊にはそれでじゅうぶんだった。
 剣奈はうなずくといきなり拳銃を引き抜いた――愛用のウィルディ・オートマグではなく、予備として携帯しているリボルバー、カスール・マグナムのほうを。
 なにごとかと目をむく榊のまえでシリンダーを開くと、剣奈は弾倉のマグナム弾をすべて抜き取ってふところにしまいこむ。こんどは別の弾丸を取り出して、ひとつひとつ確認しながら弾倉に装填していった。
「なにしてんだ?」
 剣奈はシリンダーを戻すとなんどか作動状態を確認したのち、ふたたびホルスターへと拳銃を収めた。
「……そうだな、気休めのひとつといったところか」
「ふん……ま、期待しとくよ」
 純銀製の弾丸かなんかかね――榊にはふつうの弾丸と変わらないようにみえたが。はて、銀の弾で死ぬのは狼男だったかそれとも吸血鬼か? 榊はひとつ首をふってばかげた想念を断ち切った。やつらは、ドラキュラなんてかわいらしいしろものじゃない。
「行くか」
 ふたりは歩き始める。半島の先、いまわしい儀式場へ、化け物どもの住処である地底トンネルよりも奥深い、底なしの狂気の深淵へと。


 暗闇のなか手探りでホープを1本抜きだし、火をつける。もういちどたばこの中身を指先で確かめ、榊は軽く舌打ちした。
 ――心もとない、残りは2本か。
 儀式場の近くまでたどり着き、藪に身を潜めてからすでに3時間。いっこうにビル・ウィティカーのあらわれる気配はない。
 地底トンネルのなかで襲ってきた化け物どもも姿を見せず、二人をさがそうとはしていないようだった。これは、榊の予想どおりだった。
 トンネルから儀式場までの道のりは数キロ程度のものだったが、榊たちの足でも1時間以上かかった。
 昼間であれば、多少ぬかるんでいるとはいえ苦にするほどでもない道なのだが、化け物どもに発見されるのをさけるために途中からライトを消していたので、夜目のきく榊たちでもさすがに速度を落とさざるをえなかった。
 ところが、そうして警戒しながらやってきたというのに、藪のなかに腰をすえた榊はいきなりたばこを取りだして火をつけた。たばこの明かりと匂いで連中に見つかる、と注意する剣奈に向かって榊はいった。
 ――奴らはわざわざおれたちをさがそうとなんかしないさ。その気があればとっくに見つかってるよ。そうしないのは、人間なんていつでも殺せると思ってるからだ。儀式のじゃまをするまでは、おれたちのことなんぞすっかり忘れちまってるだろう。だから、やつらが儀式場にくるまで、ゆっくりと待ってればいいのさ……
 剣奈はなにもいわなかった。以来3時間、まったく口を開かない。
 これはべつに榊の屁理屈に気を悪くしたからではない。榊のいうことに一理あることを認めたためであり、口を閉ざしているのは単にしゃべることがないからだった。退屈をまぎらわすために雑談をするなどという、あたりまえの人間のようなことをする剣奈ではない。
 ともかく、二人は待ち続けた。
 もともと榊はそれほど気の長いほうではない。何時間も黙りこくったままいつ姿を見せるともしれない相手を待つなど、とうてい我慢ができなかった。
 だが、奴らが相手なら話は別だった。ウィティカーたちを倒すのに必要ならば、あの小屋の黒い液体のなかで、胎児の屍とともに身を沈めて待ち伏せすることだってやってみせる。
 あの小屋か――榊はふと思い出していた。そういや剣奈にえらくこき使われたが、あのまじないはなんの役に立つのかな。
 急に、それまで身じろぎもせずに儀式場を見つめつづけていた剣奈が動いた。動きといってもごくわずかなものだったが、榊はすぐに気がついた。
 剣奈は夜空を見上げていた。見事な満月がほとんど天頂にさしかかろうとしていたが、もちろんその眺めを楽しんでいるわけではなかった。
「……もうすぐだ」
 剣奈が低くつぶやく。なにがだ、とは榊もきかなかった。わかりきったことだ。もうすぐ、儀式が始まる。ついにビル・ウィティカーがここに現れるのだ。
 榊はたばこをもみ消すと姿勢を変えた。いつでも飛びだしていけるように。
「満月の夜にでるなんて、狼男みたいだよなあ」
 榊は刀を腰に差し直しながら軽口をたたいた。
「月だけで決まるわけじゃない。星辰の位置すべてが召還の条件に合致しているんだ。それに、奴らは伝説のように銀の弾丸で死ぬほどやわじゃない」
「……ああ、やっぱりね」
 榊のことばに一瞬なんのことかという表情を見せたが、すぐに剣奈も2丁の拳銃を取りだしてかんたんに点検を始めた。リボルバーの弾倉を確かめ、ウィルディ・オートマグのスライドを引いて初弾を薬室に送りこむ。
 戦闘の準備は整った。
 もっとも、どうやって召還の儀式を妨害するかという具体的なプランは、いぜんとしてまるでなかった。
 だが、それもいまの榊にとってはたいした問題ではない。儀式をおこなう神官の役割を果たすであろうビル・ウィティカーを斬ればいい。そう思っている。そして榊にはそれで充分だった。
 おそらく20人――いや、20匹以上はいるかもしれないあのおそろしく強靱な化け物どもを突破して、その頭領に近づくのは至難の業だろう。どうやっても命懸けの、いや、死を覚悟しての戦いになるのは目に見えていた。
 それはそれでかまわなかった。これは榊にとって自殺行為ではない。先刻の地底トンネルで連中に追い回されたときとはわけがちがう。
 なぜなら、こんどは確固たる目標があるからだ。ビル・ウィティカーを斬り、あのいまわしい芋虫のごとき奴らの神の召還を阻止する。そのために負うリスクを、自殺行為とは思わない。
 いつのまにか榊は刀の鞘を強く握りしめ、鯉口に指をかけていた。
 ……はやくきやがれ、くそ野郎。けりをつけてやろうじゃないか。どんな頑丈な体をもってるかしらないが、おれの刀を受けきれるかどうか試してやる……
 そのとき、儀式場にかすかな明かりが浮かびあがった。
 明かりの数は次々と増えていく。光は、儀式場のはずれの一点からひとつ、またひとつとあらわれていた。どうやらそこに地底トンネルからの出口があるようだ。
「……くそっ、こいつはろくでもない化け物連中だ」
 思わず榊がうめくほど、たいまつを手にしてあらわれた連中の姿は醜悪だった。ネズミ人間どころではない……そんな喜劇では断じてなかった。
 そいつらがいったいなんなのか、榊にはわからなかったし、理解したいとも思わない。
 わかっているのは、腐臭漂うこの恐るべき化け物どもが、精神の奥底まで穢れきっているということだ。おぞましい精神のゆがみが、その肉体まで変貌させてしまっているのだ。
 ――ビル・ウィティカーを斬るだけで済ませられるもんか、冗談じゃねえ。ただの一匹だって生かしておくわけにはいかない。あんなものがこの世をうろつき回るなんぞ、許すわけにはいかない――
「……来た」
 剣奈の低い声に、榊も儀式場へ注意をもどした。
 たいまつを積み上げてかがり火とした儀式場の中央、祭壇の前に、『それ』はいた。
 『それ』が、もとはビル・ウィティカーという名の『人間』であったなどとは、榊には信じられなかった。
 狂った芸術家が粘土をこねくりまわして創り上げたような頭部は、もはやネズミどころかどんな生物にも似ていない。
 ひび割れささくれ立った皮膚は屍蝋も同然であり、現実に儀式場は凄まじい死臭に包まれている。
 手足の鉤爪は他の連中と同様だが、さらに巨大に、忌まわしい変化を遂げていた。
 爪先立ちの脚とその関節にはなにか異様な変化が生じていて、遠目にはよくわからないが、節の数そのものまで違っているように見える。
 ただひとつ、それがビル・ウィティカーであったことを示すものは、狂気に濁ったやぶにらみの眼だけだった。
 その眼に浮かぶあまりに人間臭い喜悦の色を見た瞬間、榊はこれまでにないほど深甚な恐怖を覚えた。
 人は、これほど忌まわしいものになりうる存在なのか――
 榊が感じたのは底知れない絶望であり、同時に身の裡を焼き尽くさんばかりの激しい怒りだった。
「待て」
 ほとんど反射的にとびだしかけた榊を、氷のように冷静な剣奈の声が押しとどめた。
 榊が振り向いて文句をいうまえに、儀式場から奇怪な『音』が聞こえ始めた。

 いあ いあ しゅど める
 いあ いあ しゅど める――

 それは声、ビル・ウィティカーが朗々と張り上げる声に唱和する化け物どもの歌声だった。
 妙な節をつけて唱和されるその歌には、この世のものとは思われない禍々しい響きがあった。その響きに含まれる狂った喜悦を感じて、思わず榊は怒鳴っていた。
「おい、ありゃなんだ! あれはなんかの呪文だろ。もたもたしてたら、奴らがとんでもない怪物を喚んじまうんじゃないのか?」
 榊の身を裂かれるような焦燥を、剣奈はまったく感じていないようだった。それどころか表情には余裕さえあるように見えて、榊はとまどった。
「静かに。心配するな……儀式は失敗する。見ろ」
 断定する剣奈の言葉に、榊はあわてて儀式場の中央に視線を戻す。だがそこには、神官を気取るつもりか両手を広げて、奇怪な容貌に狂悦の表情を浮かべるビル・ウィティカーの姿があるだけだった。
「なんだ……どういうことだ?」
「よく見ろ。あの液体がない。小屋の地下の、黒い液体が」
 たしかに、剣奈の言うとおりだった。祭壇の周囲にそれらしい桶や容器はなく、化け物どもが用意している様子もなかった。
 連中はあの小屋へ行かなかったのか――そのとき、榊の脳裏で閃くものがあった。行かなかったのではなく、入れなかったのだ。
 剣奈の指示で小屋の周りの地面に描きこんだ奇妙な図形、あれが『古き印』を越える効果を持って、化け物どもを近づけさせなかったのか。
 なんともたいした『気休め』だな――榊は思わず腰に手をやっていた。
「おかげで腰痛が軽くなったよ――それで、あれがないとどうなる?」
「前にも言ったが、召還の儀式では些細なことが成否をわける。触媒もなしに成功するはずがない。もっとも――」
 剣奈がふいに言葉を切ったのは、儀式場に妙な動きがあったためだ。ビル・ウィティカーの前に数匹の化け物が近づき、祭壇の上になにかを――
「――なにかしら代用となるものを用意するだろうが」
「ミシェル!?」
 祭壇の上に横たえられたミシェル・カーライルの姿に、榊は愕然とした。
 小屋で別れたあと、ミシェルは町へ戻らずに単独で探索をつづけ、奴らに捕らえられたのだろう。だからさっさと逃げろと言ったのに――榊は歯がみをして祭壇を見つめた。
 一糸まとわぬ裸身をさらしているミシェルは、意識がないのか、それともすでに死んでいるのか、身動きひとつしない。
 榊を苦もなく投げ飛ばしたことから、そうとうに鍛え抜いた肉体をしているはずだが、かがり火に照らされるミシェルはかなりの細身で、ひどく弱々しく見えた。
 肌は抜けるように白く、すらりと均整のとれた肢体は見事な曲線を描いており、こんな場合でなければゆっくりと鑑賞していたいところだった。
「――なるほど」
「なんだ、どういうことだ!?」
 短く切りそろえた金髪と同じ完璧なブロンドの繁みから目を引き剥がし、榊は怒鳴った。
「触媒となる黒い液体のもとは、腐りきった血液だろう。それが使えないので、代わりを見つけてきたんだ――人間の、生き血を」
「くそっ、なんてこった」
 ふたたび飛びだそうとした榊の肩を、剣奈の手がつかんだ。
「やめておけ。どうせ儀式は失敗するんだ。狂った頭で考え出したことだろうが、触媒を人間の生け贄に代えたところでうまくいくはずがない――愚かな連中だ」
 平然とミシェルを見殺しにしようという剣奈を、それこそ怪物でも見るような目つきで榊はにらんだ。
「この――」
 目の眩むような怒りが沸きおこり、榊は絶句した。
 ここまでいかれた男とおれは組んでいたのか。こんなやつに、なかば命を預けて戦ってきたのか。こいつの狂気は、すでにあの化け物どもさえ越える深淵にまで達していたのか――
 奴らのまえにこの男を斬るべきか、と決意しかけたとき、榊は剣奈の目のなかになにかを見た。いや、見たと信じたかった。狂気に染まる目の光のなかに、わずかに残るなにかを。
 榊の肩から力が抜け、剣奈に対してはめずらしいことに、気安い笑みを浮かべてみせた。
「なあ、剣奈。あんたの言いたいことはわかる。あいつらみたいな外道とまともにやりあおうと思ったら、こっちも外道にならなければ勝ち目はない、そういうことだろ? だが、それでも、おれは人間であることまでやめたくないね」
 ゆっくりと榊は立ち上がり、刀を抜いて肩にかついだ。
「おれは一人の人間としてやつらと戦い、倒してみせる。それがかなわないのなら、せめて人間として死にたい。あんただってそうだろう」
 剣奈は榊の動きを止めようとはしなかったが、その表情に変化もなかった。いつもの鉄面皮はこそとも動かず、目の奥に見えたと思えたなにか――かすかに残る人間性のようなものもいまはない。
 だが、もはや榊は迷わなかった。
「援護を頼む」
 短く言い捨てると、榊は走りだした。化け物どもの囲みのど真ん中、ミシェルの横たえられた祭壇の前、狂気の神官ビル・ウィティカーに向かって。
 疾走する榊の耳には、剣奈が最後に低くつぶやいたことばは届かなかった。
「甘いな……命取りになるぞ」
 剣奈は拳銃を抜き、構え、狙いを定めた。
 榊の背中に向けて。

 いあ いあ しゅど める
 いあーる むなーる しらーりー しゅど める

 化け物どもの歌の調子が変わった。不気味なつぶやきの重奏から、けだものが吼えたてるような絶叫へ。
 熱狂の度合いは凄まじいまでに高まり、その咆哮は陰惨な悦びに満ちあふれ、榊の接近になど気づいてもいなかった。
 ――いよいよサビの部分ってわけか。
 胸くそ悪い合唱団の背後に迫ったとき、唯一正面を向いていたビル・ウィティカーの視線が榊のそれとぶつかりあった。
 ウィティカーの表情に驚きはなく、煩わしさがあるだけだった。
 もはや人間には見えない異形の神官の、それだけは妙に人間くさい感情の表れを見て、榊はにやりと笑い返した。
 ――時間延長はなしだよ、お客さん。
 リードボーカルの反応とともに、コーラス集団がぐるりと榊を振り向いた。見事なユニゾンだが、感心する気にもなれない。
 化け物どもは榊に気づいても詠唱をやめようとしなかった。
 ――ここらあたりで、きっちり料金を払ってもらおうじゃないか。
 榊は化け物どもの熱唱を断ち切るほどの凄まじい気合いを発した。
 渾身の力を込めて、目の前の一匹に向かって白刃を振り下ろす。
 左肩口から袈裟に斬られた化け物は、叫び声をあげる間もなく崩れ落ちた。
 化け物どもの詠唱が途切れ、一瞬の静寂が訪れる――ただ一匹、ビル・ウィティカーの異様ながらも朗々たる声の詠唱をのぞいて。

 となるろ よらならあく しらーりー のいくろむ
 のいくろむ らじあに よならるか しゅど める

 榊はビル・ウィティカーとの間に立ちふさがる化け物の群れを眺めわたし、刀を構え直して言い放った。
「演奏停止だ」
 狂ったような怒りの吼え声とともに化け物どもが殺到してきた。
 おぞましくもいびつにゆがんだ肉体の『元』人間が走り回る姿は、かつて映画で見た生きた死体を思い出させ、奇妙に現実感を喪失させた。
 だが、その死体の手足に伸びる強健な鉤爪、そこだけは生々しい口からのぞく大きな牙は、まぎれもない現実であり死そのものだった。
 幾重にも取り囲んで迫る死の壁に向かって、榊は突進した。
 あいかわらず現実感は希薄だが、同じように恐怖もまた感じなかった。
 あれほど激しかったビル・ウィティカーたちへの身を焼き尽くすような怒りと憎悪さえも、いまは消え失せた。
 ビル・ウィティカーを、殺す――その思いはもはやいかなる感情をも排除する強力な意志となって榊を突き動かしていた。
 迫りくる無数の鉤爪に向かって、榊は刀を振るった。
 一太刀ごとに手首が飛び、脚が転がり落ち、腹を斬り裂き、肩から斬り下ろし、頭を叩き割った。
 だが、化け物どもはまったくひるむことなく次々と飛びかかってくる。
 縦横無尽に斬り払われる榊の太刀筋が止まることはなかったが、ビル・ウィティカーに近づくことはほとんどできなくなっていた。
 化け物どもの数がいっこうに減らず、ビル・ウィティカーの前に立ちふさがる壁を突破することができない。四方から同時に襲いかかるやつらを近づけさせないようにするのが精一杯で、ほとんど唯一の急所といえる頭だけをねらって斬撃を送ることなどできなかった。一度でも化け物に捕まり、動きを止められたら、あとはなぶり殺しにされるだけだ。

 となるろ よらなるか いあ いあ しゅど める

 ひときわ声高く聞こえた詠唱にぎょっとして、榊は祭壇を見た。ビル・ウィティカーが、どこから取りだしたのか巨大なナイフを両手で握り、頭上にかざしていた。金属製の握り手に異様な装飾のついた古ぼけたナイフで、化け物どもの姿同様いびつにゆがんだ刃は、その鋭い切っ先をミシェルに向けていた。
 ――心臓でもえぐり出そうっていうのか!?
 愕然としてむりやり突進しようとした一瞬の隙をつかれ、榊は背後からのびた鉤爪に肩をつかまれた。
「じゃまだ!」
 振り払おうとはせず、榊は振り返りざまに腰だめの胴払いで斬りつけた。
 心臓の上あたりで真っ二つにされた化け物の体が崩れ落ち、後方への視界が開けた。
 ――剣奈のやつ、なんで援護しないんだ!
 いまだ一発の銃撃もしない剣奈を目で追う。
 剣奈は茂みの中に潜んだまま動いていなかった。そして、リボルバーの銃口が、真っ直ぐに榊を狙っている。
 榊はビル・ウィティカーのほうへ向き直り、つかみかかる腕を斬りとばした。
 ――そういうことか、わかったよ。
 榊は斬撃をやめ、ビル・ウィティカーに向かって猛然と走りだした。一匹の化け物に阻まれ、そいつの体に肩からぶつかるが、弾き飛ばすことはできなかった。
 ――くそ、剣奈の野郎……やってやろうじゃないか。
 動きの止まった榊はたちまち化け物どもに取り囲まれた。鉤爪がくい込み、肉を引き裂かれる。腰だめに構えたままの刀を奪おうと何本もの手が伸びるが、刃に触れた指はすぐさま切断されて落ち、つかむことなどできない。
 引きずり倒されそうになるのを必死にこらえ、化け物どもを押しのけてじりじりと前へ進む。だが、とうてい間に合いそうもなかった。
 ビル・ウィティカーのナイフが月光を受けて不気味に光る。
 焦燥のために血の気が引く思いがしたが、実際に血が足りなかった。榊自身の鮮血と、化け物どものどす黒い血とで、体中が真っ赤に染まっている。

 ふんぐるい むぐるうなふ くん やん ふたぐん!

 ビル・ウィティカーの声が吠えるような響きを帯びて夜空にこだましたとき、榊は動いた。
 振り払おうとしていると思ったのか、化け物どもがさらに強い力で榊につかみかかる。だが、榊は前へ進もうとしているのではなかった。
 たわめられたばねが弾けるように榊の体が跳ね上がり、腰だめに構えていた刀の切っ先がはしる。
 一瞬にして静から動へ。
 そしてまた静へと。
 刃は左腰から右前方までの空間を駆け抜けていた。
 がくりと、榊の膝が折れた。
 化け物どもの体が榊を押しつぶす――ただし、上半身だけが。
 力を失った化け物どもの体を無造作に払いのけたとき、榊の目の前にはがら空きの視界が開けていた。その先には、いままさにナイフを振り下ろそうとするビル・ウィティカーの姿があった。
 轟音とともにビル・ウィティカーの手の中にあったナイフがかき消えた。
 カスール・マグナムから放たれた銃弾が一瞬前まで榊の背中があった空間を貫き、ビル・ウィティカーの右手首もろともナイフを粉砕していた。
 ――まったく、こっちは前座もいいところだな。
 榊が斬り開いた肉の盾の隙間をぬって、剣奈のリボルバーが火を噴く。2発目の炸裂弾と同時に、榊は祭壇に向かって飛びだした。
 ナイフと右手を失ったビル・ウィティカーは、残った左手の鉤爪でミシェルの体を切り刻もうとしていたが、胸のど真ん中を撃ち抜く銃弾に吹き飛ばされた。
 榊は祭壇に飛びつくと、ミシェルの裸体を乱暴に担ぎ上げて素早く横にとびすさった。
 背後から追いすがった化け物の一撃をかわし、片手斬りに斬り返そうとしたとき、剣奈の射撃で化け物の頭部がはじけとぶ。
 どす黒い血と脳漿をまき散らしながら倒れる化け物には目もくれず、榊は走りだした。
 榊の前に、化け物の群を迂回してきた剣奈が姿をあらわす。無造作とも思える構えで2連射すると、さらに2匹の化け物がもんどり打って転倒した。
「おい、ウィティカーもくたばったし、ひとまず逃げようぜ!」
 ――できればおれの刀で斬り刻んでやりたかったんだがな。
 弾丸の切れたリボルバーからウィルディ・オートマグに持ち替える剣奈に駆け寄ろうとしたとき、榊も転倒した。
 ミシェルをかばってむりやり体をひねり、榊は思い切り地面に背中を打ちつけた。意外に重いミシェルの体を、まともに胸で受け止めたせいで息が詰まる。
「――! またかよ……」
 榊はふたたびミシェルを抱きかかえ、素早く立ち上がろうとして……できなかった。
 先ほど転んだときと同じで、足元が恐ろしく不安定になっていた。凄まじい振動のために。
「地震……だと!?」
 榊の驚きは、しかし、次の瞬間に絶叫した剣奈の姿を見たことのほうが大きかった。
「ばかな!」
 蒼白になった剣奈の顔に浮かぶ焦燥と狼狽は、増幅されて榊に伝染した。
 ――儀式は失敗するんじゃなかったのか。黒い液体も生贄も儀式を行う神官の命も奪ったっていうのに――
「ばかな!」
 もういちど剣奈が叫ぶが、その声は急激に高まる地鳴りにかき消された。恐怖と絶望に染まるその視線の先に、ビル・ウィティカーの姿があった。
 四つん這いにならなければ体を支えることもできないほどの激震のなか、物理法則を無視するかのように悠然とビル・ウィティカーが立ち上がった。
 ビル・ウィティカーの視線が榊たちをとらえ、その異相が邪悪な笑みの形にゆがんだ――榊にはそう見えた。
 異形の神官の左手があがり、その鉤爪が自らの喉を薙いだ。
 切り裂かれた喉からどす黒い血が噴き出し、祭壇を濡らし、染め上げた。
「ありえない! 触媒もなしに『独立種族』を召喚できるはずが……不可能だ!」
 これまで見たこともないほど取り乱した剣奈の肩に手を伸ばし、榊は声の限りに怒鳴りつけた。
「剣奈、撃て!」
 我に返った剣奈が銃を構えようとするが、膝立ちもできない揺れのために手の中のウィルディ・オートマグの銃口は小刻みに震えた。
「……だめだ」
「ばか野郎、いいから撃てってんだよ!」
 なにも言い返そうとせずに、剣奈は地面に身を伏せた。腹這いの姿勢で銃を前につきだし、引き金を引く。
 正確無比の剣奈の射撃も、これほどの震動のなかではどうしようもなかった。立て続けに撃ち込まれるマグナム弾は、ビル・ウィティカーの体をかすりもしない。
 銃撃と同時に榊も刀をつかんで飛びだそうとしたが、祭壇に近づくどころか立ち上がることさえできなかった。
 ――くそ、あのとき奴の頭を叩き割っておけば……!
 ビル・ウィティカーの笑みが嘲りの色を増し、銃声さえかき消す地鳴りを圧するほどの大音声が轟き渡った。

 いあ! いあ! しゅど める!

 胸と喉にあれだけの大穴を開けて、そんな声を出せるわけあるか――そう思ったとたん、榊はさらに信じられないものを目にする羽目になった。
 突然、ビル・ウィティカーの足元の地面が盛り上がった。
 最初わずかにたわんだとしか見えなかったものが一気に持ち上がっていき、祭壇を中心とした直径10メートルほどの地面が小さな丘のように隆起していく。
 ビル・ウィティカーと祭壇の周りに群がる化け物どもが、狂悦の声を上げて満月の夜空に昇っていく――冒涜的ともいえるその光景に、榊はもはや声もなく見入るだけだった。
 地面の隆起が極限まで達したと見えた瞬間、崩壊もまた突然に起こった。
 さきほどの隆起を遙かに上回る早さで地面が陥没した。一瞬にして祭壇とともにビル・ウィティカーの姿がかき消える。
 ビル・ウィティカーが飲み込まれたと見えた穴から、なにかが這い出してきていた。
 それがあの洞窟のなかで発見した怪物の死骸のものと同じ、この世のものとも思えないおぞましい触手であることを、榊は深い絶望とともに悟った。
 ――なんてこった……奴らはあの怪物を喚びだしちまった――
 踊り狂う触手に続いて、巨大な頭部が現れた――触手が密生しただけの黒い肉の塊を頭と言っていいものなら。
 目もないのにあたりを見回すように首をふるその怪物は、洞窟の死骸をも上回る恐るべき巨体だった。
 怪物の出現に狂喜する異形の召喚者たちに向かって触手が伸びる。
 『神』の玉体に触れる栄誉を授かろうと、化け物どもが恭しくにじり寄っていった、そのとき。
 狂悦の声が死の絶叫に変わった。
 化け物どもの体に回された触手は、祝福の抱擁どころではなく、恐ろしい力で巻き付き、締め上げていった。
 化け物どものマグナム弾さえ効果のなかった強靱な肉体は、骨を一瞬にして砕かれ、四肢は引きちぎられ、凄まじいまでの圧搾力ですりつぶされてどす黒い血の入り交じった肉汁と化していった。
「どうなってんだ……」
 呆然とつぶやく榊の横で、幾分か普段の冷静さを取り戻した剣奈が小さくうなずいていた。
「……奴らは失敗した。不完全な儀式による召喚では、あの怪物、『クトーニアン』を御することができなかった」
 だが――そのことばのあとを続けようとしない剣奈の暗い表情の意味は、榊にも分かった。
 ビル・ウィティカーたちがその邪悪な企ての報いを受けるのは自業自得というものだった。しかし、このままあの怪物が暴れ狂ったら、いったい地上はどうなる――
 榊の陰鬱な未来予想は、怪物のとてつもない咆哮で中断された。
 怪物が凄まじい勢いで地中から飛びだした。その巨体が月光を浴びてぬめるように黒光りし、空に浮かび上がるかと見えたとたん、怪物は芋虫のような体節をくねらせて自らの這い出た穴に飛び込んだ。
 巨体がふたたび地中に没する寸前、ビル・ウィティカーの姿が触手の間に見えた。
 体を潰され、ほとんど首だけとなってなお、ビル・ウィティカーは『生きて』いた。その顔に浮かぶ驚愕の表情を、恐怖と絶望に埋め尽くされたやぶにらみの瞳を、榊は確かに見た。
 怪物が狂った神官とともに地中に潜りこむと、しだいに地震は弱まり――化け物どもの姿も、儀式場の石柱建築物も、すべては地底の闇に消え、煌々と光る満月が地上を照らし出すだけとなった。
 まったく突然に訪れた静寂のなかで、榊は長いこと呆然として地面にあいた巨大な穴を見つめていた。
「……行っちまった、のか」
 いまだに信じられない思いでつぶやくと、剣奈も要領を得ない表情で首を振った。
「あの種の生物の行動様式など、誰にも理解できるわけがない……少なくとも、人間には」
 まさに『人知を越えた存在』ってやつだな――榊は肉体的にも精神的にもひどく脱力して、がっくりとうなだれて深くため息をついた。
 小さなうめき声に気づいて榊は顔を上げた。ミシェルがくぐもった声を漏らし、身じろぎしている。
 榊は素早くコートを脱ぎ、ミシェルの裸身に掛けてやった。ずたずたに切り裂かれて血塗れになった汚いコートだが、なにもないよりましだろう。もちろん、剣奈は、自分のジャケットを脱ごうという素振りさえ見せなかった。
 ミシェルの目が開き、次第に焦点がしっかりしてくると、榊の顔を認めたようだった。
 ゆっくりと半身を起こし、さほど豊満とはいえないまでも形の良い胸があらわになっていることに気がつくと、あわててコートの裾をあわせて隠した。かすかに頬を上気させたミシェルの表情は、ひどく子供っぽく見えた。
 榊の顔に思わず笑みが浮かんだ。アメリカに来てから初めての、心からの笑みが。
 ――そうだな。こいつがまともな世界というもんだ。ゾンビも怪獣も魔法もなし。ちゃんと血と肉の通ったいい女がいる世界。最高だな。
 榊の笑顔につられたように、ミシェルも小さく微笑んだ。憔悴してはいるが、月明かりを受けるブロンドと同じに、その顔は輝くような美しさだった。
「助かったのね……わたしたち」
「運が良かったらしいね」
 ミシェルに手を貸して立ち上がる榊の耳に、かすかな虫の音が聞こえてきた。



第5章 了


第4章 終章