『それは揺らぎからはじまった』
こあとる&sudo共著
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第4章
二人は小屋の中には入らなかった。なかには、もはや見るべきものはなにもない。
奴らはこの小屋を使っているかもしれないが、根城にはしていない。いくら化け物じみた連中でも、食事をするし睡眠もとる。あの小屋のなかには、そうした生活の痕跡はなかった。
頻繁に出入りをしているようだが、それはあの落とし戸の下に隠された地下室を使うためだけだったようだ。落とし戸の下……その光景を思い出しても、榊はもう精神的な打撃は受けなかった。他に考えなければいけないことがある。
いずれにせよ、連中はどこかこの付近に潜んでいることは間違いなかった。榊たちが途中で車を降りざるを得なかったように、このあたりの樹木の密集する土地では車を利用することはできないし、そもそもあの化け物じみた連中は車を運転するような体も頭も持ち合わせているようにはみえなかった。
「小屋まわりを探ってみよう。そのほうが、早くビル・ウィティカーにたどりつける」
榊の言葉に、剣奈は黙って視線をかえし、小さくうなずいた。
二人はとりあえず小屋の外周を回ってみた。もはや小屋そのものにはたいした注意も払わなかったが、それでもこれがかなり年代を経た建物であり、またそうとうに頑丈なものであることはわかった。
外壁の石壁や、屋根のほうも苔むしているのが見えたが、目立った損傷といえるようなものはなにもなく、ほとんど人の手が入っていないであろう建築物にしては非常に状態がよかった。この小屋はいったいいつからここにあるのだろう、そもそものはじめから、あの化け物連中のような狂信者に使われてきたのだろうかと榊は思った。
小屋の裏に回ると、そこには森を切り開いた土地が広がっていたが、広場といってもなにがあるわけでもなく、かつては畑か何かだったのかもしれないその土地は腰丈ほどの草が生い茂るただの草むらにすぎなかった。
照りつける午後の日差しのなかで、生い茂った草むらを眺めているうちに、榊はふと小屋のなかの地下室を思い出した。ひょっとすると、あの落とし戸の下と同じく、この草むらの下にも何かとんでもないものが埋められているのかもしれないなと考えたが、そんな弱気な想像をしてしまった自分自身に苦笑した。
こんな考えに陥るのも、ここいらの雑草がどうも気に障る色つやをしているせいだなと、榊はひとり勝手に納得した。ひどく密生しているせいなのか、丈は長いが妙にひょろりと細くのび、なんだかしなびたような感じがするのは気のせいか。またもやおかしなことに頭を巡らせている自分に気がつき、榊はひとつ首を振って雑念を追い払った。
雑草だらけの広場に視線を走らせたが、目を引くようなものはなにもなかった。ただの放棄された畑地というだけなのか。
そのとき榊は、剣奈が小屋の裏口のほうへ近づき、広場とは別の方向を眺めているのに気がついた。なにか見つけたのか……だったら早く言えばいいものを、と胸のなかで毒づきながら、榊は無言で立ちつくす剣奈に近づいていった。
榊が隣に立つと、剣奈は視線をあわせようともせずに目の前の地面を指し示した。
「わかるか」
剣奈のもの言いにいまさら腹を立てることもなく、榊はその方向に眼を走らせた。最初は何のことかわからなかった……裏口から続く、広場と同じような草むらがあるだけだった。
しばらくすると、なにか違う、というのが感じられてきた。なにかがある、というわけではない。ただの草むらが広がる風景なかに、他とは微妙に違いがある。榊は目を凝らし、ついでその場にしゃがみこんだ。そして、ようやく違和感の正体がはっきりとわかった。
「……道か」
剣奈もうなずいたが、それほどはっきりとした踏み分け道が残っていたわけではなかった。草むらのなかに、丈の短くなっている箇所が帯状にあり、しゃがんで眺めてみるとさらにそれがよくわかった。踏み折られた草も見え、時折そこを通っていくものがいるのは間違いないようだった。
「なるほどね……いい目してるな」
つぶやく榊に、ようやく剣奈がちらりと視線をよこした。
「無駄口を閉じて、かわりに目を見開いているからだろう」
「言ってくれるね」
榊はわざとらしく顔をしかめてみせ、立ち上がってごくかすかな道の痕跡を頼りに先に立って歩き始めた。剣奈もふたたび口を閉じ、榊のすぐ後に続いた。
草むらに残る道は森の奥へと続いており、足元の草もまばらになる林のなかへはいると、道の痕跡はまったくわからなくなってしまった。それでもこれまで一直線に伸びてきていた道筋から考えると、連中が目指す先はスペリオル湖に突き出す半島の先端であろうことはわかった。
連中の目的地がどのくらい離れているのかわからなかったが、いまの榊はそれを苦にする気持ちをもたなかった。榊はいちど立ち止まり、後ろからついてくる剣奈をふりむいた。
「目印をつけられるようなものをもってくればよかったな。行きはともかく、この林のなかだと帰り道に迷うかもしれない」
剣奈はというと、どうでもいいという風に軽く首を振ってみせた。
「いまさらそんなことを考えても無駄だ。おまえの方向感覚を信頼するしかない」
「そういわれてもな……おれの頭のなかにGPSが埋まっているわけでもないし」
そうはいっても、榊自身も道に迷うなどという不安はなかった。筋金入りの都市生活者である榊だが、複雑に道路の絡み合う東京はもちろん、地図にも載らない山奥であっても、道に迷うなどということは経験したことがなかった。
動物的ともいえる鋭い方向感覚は、アウトドアとは無縁な剣奈も同様であり、これが生来のものなのか、この仕事を続けていくうちに身につけたものなのかはわからなかった。おそらく両方なんだろうと思いつつ、剣奈に向けて軽く肩をすくめてみせると、榊はふたたび前を向いて歩き始めた。
森のなかを歩いていくうちに、やはりここは静かすぎると榊は思った。鳥や虫の鳴き声ひとつ聞こえず、小動物の動き回るような気配も感じられない。
それに、小屋の裏手の草むら同様、この森の木々にもどことなく妙な生気のなさが感じられ、榊はまたも根拠のない不安感を募らせた。
「……いやな感じだな、ここは」
「まったくだ」
思わずつぶやいたひとりごとに、剣奈が即座に反応したのには榊も驚いた。この男も人並みに漠とした不安を感じることなどあるのか。しかし小屋の前で榊たちを襲った化け物に比べれば、剣奈のほうは少なくとも生身の人間であるのは確かだった。
それにしても普段の剣奈の冷然とした態度を考えると、いまの弱気ともとれるひとことは、かえって榊に薄ら寒い思いを強くさせた。
二人は無言で森のなかを歩き続けたが、20分ほどは何事も起こらなかった。
風景も変わらなかった。視界のすべては木々で覆われ、空もかろうじて太陽が見えるといったところだった。道もなく、木々のせいで直線ルートをとることもできず、ふつうなら5分とたたずに迷いそうなものだが、先行する榊もあとに続く剣奈も、その足どりにためらいはない。
お互いに確認するまでもなくわかっていた……間違いなく、半島の先端にまっすぐ向かっていることを。
二人の歩く先の風景に、ようやく変化が見え始めた。前方の木々の密度が薄くなり、光が見えてきた。それが湖に反射する太陽の光であることはすぐにわかった。
湖水面のさざ波が無数の太陽の姿をあらわし、そのまばゆいばかりの光のうずに、榊は一瞬目をくらませた。榊は光に向かって手をかざし、足を止めて剣奈を振り返った。
「さてと、すぐに湖まで出ちまうが……奴らのアジトらしいのは見えないな。まさか、湖のなかに潜ってるんじゃないだろうな?」
剣奈もまた反射光に目を細めていたが、すぐには返事をしなかった。しばらく考え込んだのちに……表情の乏しい剣奈だが、少なくとも榊にはそのように見えた……ゆっくりと、小さく首を振って見せた。
「……違うな。あのときの半人の怪物は、水棲という感じではなかった。顔つきもインスマス面とはほど遠かったしな。俺の見たところでは陸の……というより地下に潜むものどもの一派だろう。………?」
剣奈はそこで言葉を切ると視線を下に落とし、こんどこそ本当に考え込んでいた。その目に剣奈には珍しく懸念の色が浮かんでいるのを見てとり、榊は驚いて立ちつくした。
「なんだ。どうしたってんだ?」
あわてた榊の問いかけは完全に無視された。剣奈の思索はあいかわらず自らの内にのみ展開されるようだ。
冷然と無視を決め込む剣奈の態度には腹を立てさせられたが、そのためにかえって榊は冷静になっていった。剣奈が浮き足だって助言を求めるようなことをしたら、それこそ榊はパニックを起こしていただろう。
「……そうか。うかつだったな」
長い沈黙の末に、剣奈はようやく口を開いたが、それもひとりごとの域を出るものではなかった。榊はちょうどたばこを一本吸い終えたところだった。剣奈の様子を見て、こうなったらなにか言い出すまでゆっくり待ってやろうじゃないかと黙って突っ立っていたのだった。
「うかつ? なんのことだよ」
たばこを投げ捨てた榊に向かって、剣奈はようやく視線をあげてよこした。
「小屋の裏の空き地だ。あそこを調べ直さなければならない」
「なんだ? 戻るってのか? せっかくここまできたんだぜ」
「もちろん、この先を見てからのことだ」
素っ気ない剣奈のものいいに、榊はおおきく息を吐いた。
「それで、あの小屋の裏になにがあるっていうんだ」
「行けばわかる。まずこの先を調べてからだ」
剣奈はそういうと返事も待たずに、こんどは自分が先頭に立って歩き出した。榊もあわててそれを追いかけていく。剣奈に並びかけても、榊は小屋裏の草むらについての質問をせず、黙って歩き続けた。この野郎と組んで仕事をするのはもうごめんだという、すでに幾度も繰り返し考えてきたことを腹に収めて。
そこから5分ほど歩き続けると、森の切れ目が見えてきた。湖畔まではまだ達しないが、その手前にどうやら開けた土地があるようだ。
また広場か、と榊は思った。剣奈のやつは小屋裏の広場を気にしていたが、ここにもなにかあるというのか? また思わせぶりなせりふをはくんじゃないだろうな、となかばうんざりしながら榊は先へ進んだ。
さらに近づいていくと、こんどこそほんとうに『なにか』があるのがわかった。生い茂る木々のあいだに、それが見え隠れしている。
薄暗い灰色の地肌をしたものがいくつか、ちらちらと榊の目に映った。先刻の小屋のような建築物ではないようだった。それよりもずっと小さい、というより細長いというべきだろうか、ともかく相当な数が地面に建っているようだ。
森を抜けるまで、榊にはそれのはっきりした輪郭をとらえることができなかたった。剣奈が先に立って広場に足を踏み入れた。
とたんに剣奈の足が止まり、そこで立ちつくしてしまった。続いて榊もじゃまな枝をかき分けて木立を通りぬける。
そして剣奈同様立ちつくし、ようやく全貌の見えた『それ』を呆然と見上げることになった。
榊は唖然としてそこに建ち並ぶ鳥居のごときしろものを見上げた。
身の丈の二倍を超える高さのそれは、もちろん鳥居などではなかった……荒削りな岩肌もあらわな石柱でできており、それぞれ二本の柱の上に渡される横梁は一本だけであった。その鳥居に似た石柱建築物は全部で四基あり、それぞれが四方にべつの方角を向いている。また、四基の鳥居の周囲には、より小さな石柱が無数につきたっていた。
「ねえ、ドラえもん、ぼくたちいつ『どこでもドア』を通ったっけ? ……おい剣奈、ここはアメリカだったよな、イギリスの平原なんぞじゃなくて」
榊がようやく我にかえって言ったとき、剣奈はすでにその異様な石柱建築物を子細に調べまわっていた。
「イギリスか……たしかにこれはストーンヘンジそのものだな」
ドラえもんの声色をまねることもなく剣奈はうなずいた。石柱にふれ、鳥居を見上げ、さまざまな角度から観察を続ける。榊は最初からそうした作業を剣奈に任せ、そびえ立つ石柱を漫然と眺めながらぶらぶらと歩いた。
「あのストーンヘンジよりはだいぶ規模は小さいが……しかし、これもかなり古いな」
そう言われてみてみれば、風雨にさらされた岩肌やこけむして変色した様子を見れば、榊にもこの石柱建築物……あるいは遺跡と呼ぶべきか……が相当な年代を経ているものであるらしいことはわかった。先に見た小屋も相当な年代物だったが、この遺跡の場合は桁が違うようだ。
「こんな目立つものがアメリカのど真ん中にあるとはな……なんでこれまで見つからなかったのかね。歴史や人類学をやっている学者なら、こういったものをほっとかんだろう」
「まともな人間の目に触れることはほとんどなかっただろう……結界みたいなものだ。こいつを見つけられるのは、おれたちのような人間か……『奴ら』だけなんだ」
「まともな人間には、ね……そうかもしれんな」
オカルトには疎い榊にも、剣奈の言う結界の意味は分かった。地理的条件など、さほど問題にはならない。現に、榊と剣奈はろくな装備ももたずに徒歩でここまでやってきていた。
しかし、この遺跡と小屋、そしてそれらをとりまくこの森に漂う雰囲気には、人を寄せ付けようとしない、あるいは逆に人が忌み嫌って近づこうとしなくなるようなものがあった。それは、最初にこの森に足を踏み入れてからずっと、榊が感じていたことだった。
いまや榊にとってなじみのものとなったこの感覚は、しかし、説明しようとしても簡単にできるものではなかった。
人が暗闇のなかで感じる不安に、それは似通っているともいえる。遺伝子に組み込まれているのだ、と剣奈が以前榊に説明したことがある。暗闇が太古の危険に満ちた闇夜の記憶を呼び覚まして人を恐怖させるように、『奴ら』の存在は人の精神をおびやかす。最初の『ヒト』がこの地上に生まれ落ちる遙か以前から『奴ら』は存在し、以来人間の肉体と精神に忌まわしい影響を及ぼし続けてきたのだ。
その影響が実際にはどんな形で現れているのか、榊は知らないし知ろうとも思わなかった。榊にわかるのは瘴気のようにまといつくいやな雰囲気、臭いのないおぞましい腐臭のような、酸が少しずつ肌を焼いていくような不気味な感触だった。
いま、その感覚が強烈に榊を包み込んでいた。あの小屋の落とし戸の下をのぞき込んだときよりももっと強く。榊はその忌まわしい感覚がもっとも強くなる箇所、遺跡の中心、四基の鳥居に囲まれたその中心へと足を踏み入れていった。
そこにあるのは、平たく大きな厚い石板のようなものだった。まわりの石柱よりもていねいに削りだしてあるような感じで、寝そべるのにちょうどいいソファーくらいの大きさの長方形をしている。ベッドよりはやや高く、腰ほどまでの高さがあった。
榊はぐるりとその周囲を回ってみた。ただの長方形の石だというのに、はらわたをかき回されるような気味の悪さがあった。
そのなにかの台座のような石を眺めているうちに、それが他の石柱とは若干色合いが違うことに榊は気がついた。色が濃い、というより黒っぽいのだった。元は同じ色なのに、この台座だけが黒く変色しているようだった。
榊はしゃがみ込み、台座の石の表面にじっと目を凝らすうちに、その理由を悟った。
「……あの液体だ」
いつのまにか榊の隣に立っていた剣奈が、そうつぶやいた。榊にもわかった。これは、あの小屋の地下にためられた液体がかけられたことによって変色しているのだ。限りなく黒に近いあの赤い液体によって。繰り返しかけられ、風雨にさらされてゆくうちにこのような石の色になったのだった。
「こいつはいったい……?」
「祭壇のようなものだな。なにかの儀式に使っているんだろう。あの液体を使って。あの小屋は、液体の貯蔵にのみ使われているようだ」
「儀式か……おっと、どんな儀式かなんて説明するな。聞きたくもない。しかし、ここにもいないとなると、連中はいったいどこに隠れてやがるんだ?」
榊は立ち上がり、あたりを見回した。むろん、周囲に化け物連中が潜んでいる様子はなかった。そうであれば、とっくに襲われていたはずだった。あの小屋の手前で襲いかかってきたような化け物じみた連中が、数十人もいっせいに飛びかかってくるのを想像すると、さすがの榊も肝が冷えた。
「儀式が行われるのは真夜中だろう……そもそも夜行性だからな、連中は。となると、やはりあの小屋まで戻らなくてはならん」
「さっきもそんなことをいってたが、ここはどうするんだ? せっかく見つけたんだぜ」
「どうせ連中は夜になれば姿を現す。それまでに、できる限りの手は打っておく」
「へえ、あんたがそれほど神経の細かい男だとは知らなかったな」
榊の減らず口にはこたえず、剣奈は祭壇に背を向けて歩き出していった。榊はそれ以上詮索せずに剣奈のあとについていった。
どうせ剣奈の考えなどわからないし、もしもわかるようならおれも気が狂ったってことなんだろうな、などと考えながら、榊は剣奈に従うことにしたのだった。
『出来るかぎりの手』を打つのには、小屋に戻ってから更に時間をかけなければならなかった。
剣奈の指示に従って、小屋のまわりに複雑な図形を描き込み、要所に石片を埋め込んでいく。ひととおりの作業が終わった後、榊はうんざりするような行為の結果を離れた場所から眺め回してみた。
幾何学的、と言うべきなのかどうか。大小の円と、それをつなぐ直線と曲線。榊が枯れ枝を使って引いた線のあちこちに、剣奈によって何か文字らしきものが書き込まれていた。
「――何の役に立つんだ、こいつは? これだけ手間かけて効き目がない、ってんじゃあ、俺の腰が浮かばれんね」
長時間にわたる中腰の代償に顔をしかめながら、榊は剣奈を睨み付けた。
図形を描く作業が終わってからも、剣奈はどこかから取りだした紙片に何かを書き続けていた。
――どうせ、何かまじないがらみなんだろうが……珍しいな。
実際のところ、剣奈が魔術的な作業を行うところは滅多にお目にかかれない。剣奈の言葉を借りるならば、『絶対に必要なとき以外は、絶対に使ってはならない』ものだから、だそうだが。
――――その絶対が、今だってことか……。
ひしひしと感じられる切羽詰まった状況に榊がうんざりした時、思い出したように剣奈がとどめを刺してきた。手を休めて榊を見やり、そっけなく答える。
「……せいぜいが、気休めだ」
「……勘弁してくれ……」
脱力して地面に座り込む榊を見て、剣奈は作業を再開し始めた。視線を紙片に向けたまま、
「……やらなければ、命にかかわってくるが」
「気休めが、俺たちの生命線だってのか?」
「そういうことになる」
「……やってられるか」
くそ、と毒づいて、榊は立ち上がった。剣奈も作業を終えたらしく、紙片を懐にしまって近付いてくる。
「それで、次はどうするんだい? 厄除けのお守りでも取ってこようか?」
やや皮肉めいた――驚くべき自制でもって、それだけで済ませた――榊のセリフに、剣奈は変わらず無表情で答えた。
「……確かに、必要かもしれんが。もう、時間がない」
空を見上げて、剣奈が目を細める。
だいぶ陽の傾いた空は、かすかに紅く染まりつつあった。
「……。ざっと、一時間ってとこか」
榊も空を見上げ、陽の落ちきる時間を見積もった。
夜と、昼の境目。
それは、榊たちふたりの不利と有利の境目でもあった。
「急ぐぞ。奴らが本格的に動き出す前に、何としても見つけだす」
「見つけだす? ――何を?」
早足で歩き始めた剣奈を追いながら、榊は尋ねた。どちらかといえば独り言に近い剣奈の言葉は、毎度の事ながらひどくわかりにくかった。
剣奈は歩みを止めることなく、顔だけを榊に向けて、応じた。
「連中の、住処だ」
そう言って剣奈が足を止めたのは、小屋の裏手だった。
ぼうぼうと生えた茂みに、榊が現実ばなれした妄想を、抱いた場所。
現実ばなれ、した?
榊は愕然として、周囲を見渡した。自分でもそうと気付かないうちに、刀の鯉口を切っていた。
耳から、どこか遠く剣奈の言葉が聞こえてきた。
「……連中は、頻繁にあの祭場に出入りしているはず。当然、儀式に必要な触媒をため込んでいるここにも、何度も立ち寄っているはず……」
剣奈がゆっくりと、ウィルディ・マグナムを取りだした。
茂みの中を慎重にかき分けながら観察し、言葉を続ける。
「……あの小屋にあった足跡の数から考えても、連中の数は決して少なくはない。最低でも十匹以上が、祭場からこの小屋を往復している……」
榊も、剣奈の意図を読みとっていた。ベルトから抜き出した鉄鞘を逆手に構えて、茂みをかき分けていく。
剣奈の言葉尻を引き継ぐように、榊の口が言葉を紡ぎだした。
「ところが、ここにある獣道は、あまりにも小さい……。注意しなければ、見つけられないほどに……。人間大の生き物が、何度も通っているはずなのに……」
がさり、がさりと、ふたりは茂みをかき分けていく。
足下の地面に注意を払いながら、それでいて、周囲の何かに気を配りながら。
「……予想できる範囲の連中の生態、最初の遭遇において、突然やつが姿を消したこと、それだけ大人数の集団が、今まで人の目に触れていなかったこと……。よく考えれば、当然のことだった。……済まんな。俺のミスだ」
剣奈が自分の非を詫びるなど、今までなかったことだ。一瞬、榊の進みが止まった。
緊迫した空気が、ほんのわずかにゆるんだような感覚。
「――いいさ。だいたい普通は気付かないね、そんなこと」
作業を再開しようとした榊の目が、茂みの一角で止まる。
不自然に茂みがまばらな、直径1メートルほどもない、空間で。
近くまで寄って、注意して観察し、初めてそれとわかるほどの。
「……つまり……つまり、こういうことなんだろ、剣奈?」
刀の柄に右手を添えて、榊はそこに踏み入った。
「連中の住処は、地上にはない。どこかにその入り口がある……。もっとも簡単に見つけられそうな場所とすれば、儀式に必要なブツのあるこの小屋の近くだ……」
そこには、ぽっかりと縦穴があいていた。
地下に向かってずっと続いているらしいその穴は、丁度、人が一人通るのに支障のない程度の大きさだった。
「ビンゴだよ、剣奈。……それで、こいつを見つけてどうしようってんだい?」
剣奈の気配が、いつの間にか真後ろまで来ていた。
剣奈の口調は、やはりこともなげだった。
「……こちらから行く。連中が儀式を始めたら、どうにもならん」
「そう来るだろうと思ったよ、クソッタレめ」
榊は自棄ぎみに口元をひきつらせ、笑って見せた。
澄んだ音を立てて抜き放たれた日本刀が、ぎらりと夕日を跳ね返した。
通路、というよりは、洞窟だった。
細い縦穴に両手を突っ張り、10メートル以上潜った頃、穴はゆるやかなカーブを描いて大きなトンネルに繋がったのだ。天井までの距離をはっきりと認識できないほど大きなトンネルは左右にどこまでも伸びており、スペリオル湖の半島を縦断しているようにも思えた。
榊はトンネルに出てくるなり、思い切り顔をしかめて口元をおさえた。トンネル内のひどく澱んだ空気に染みついた、強い悪臭のせいだった。小屋の中で見たおぞましい光景をも連想してしまいそうになって、あわてて頭をふってそれを追い払う。
「ひどい匂いだね……どこかに死体でもあるんじゃないのか?」
ほとんど光の射し込まなくなったトンネルの中で、それでも榊は四方を見渡してみた。多少は夜目がきくように鍛練はしてあるが、かろうじてトンネルの輪郭がつかめる程度だ。十歩も進めば、すぐに何も見えなくなってしまうだろう。
「……どうしろっていうんだ」
ぶつぶつと愚痴っていると、不意に隣で光がともった。ひどく無機質な強い白光に、目がくらむ。
手をかざして見やると、剣奈の手に缶ジュースほどの大きさのプラスチック・ケースが握られていた。半透明のクリアケースから、強い光があふれ出している。
剣奈はケースを右手で掲げて、周囲を照らしだした。
「……トンネル事故用の、携帯ランプだ。ハロゲン光で、1時間はもつ」
「用意の、よろしいことで。――で、どっちに行く?」
榊が顎をしゃくって見せると、剣奈はさしたる逡巡もなく、歩き出した。榊の方向感覚が正しければ、祭場とは反対側の――半島の付け根に向かう――方向のはずだった。
「連中のコミューンがあるとすれば」と、剣奈は歩きながら話した。「祭場から離れていることは考えられない。逆に言えば、こちら側に何があるのか、ということだが」
「出口だろ?」
「確かに、空気の流れは感じられるが……こんなでかい出口では、隠し通すのは不可能だ。そもそも連中だけでは、これだけの規模のものは作れない。作れるにしても、もっと時間がかかるはずだ」
ウィティカーらがここに住み着くようになった時期から考えると、時間が足りない――そう、剣奈はつぶやいた。
「確かにな……」
榊はハロゲン灯で照らし出された天井を見上げた。たっぷり5メートルはあろうかという高さのこいつを作るには、専門の掘削機を使っても一年やそこらで出来るものではない。壁面に手を当ててみると、妙につるりとした感触が違和感を与えた。
「溶剤でも、使ったのか……?」
ハロゲン灯の光をかすかに反射する壁面は、建築溶剤でも塗ったかのような表面を見せている。どうやってこのトンネルを作ったのかなど、榊には想像もつかなかった。
「……俺の読みが正しければ、おそらくこの先は出口ではない……出口として使うのであれば、こんな大きさは必要ない」
「別の何かがあるってのか」
「ああ。こんな巨大な通路を必要とする、『何か』だな」
妙にもってまわった剣奈の言い回しは、榊の嫌な予感をきれいに逆立てた。本来剣奈は、こんな言い方をするような奴ではない。
――つまりこいつでさえ、そうであってほしくないと思っている……?
「……おい、剣奈――」
榊はさらに突っ込んで聞こうとして、言葉をとめた。
トンネルの中の悪臭が、一層強くなったためだった。いいかげん麻痺しかけていた嗅覚をさらにねじまげるような強い臭気が、前方から漂ってきている。
「……ひどいな……あの小屋か、それ以上か……」
「…風だ。前方に、なにかある」
なるべく口で息を――口の中にまで嫌な唾が湧いてきそうな匂いだったが――しながらぼやく榊に、剣奈はひどく警戒した表情で応じた。
「風……?」
指摘されてからはじめて、榊もそのことに気が付いた。
匂いが漂ってくる、ということは、空気の流れがあるということだ。
――風ってことは……やっぱり出口ってことか?
口を開くのも嫌になってきた榊は、そんな意味の視線を剣奈に送ってやったが、剣奈は前方の闇に注意を向けつつ、首を横に振った。
ハロゲン灯を差しだし、慎重に足音をしのばせて進んでいく。榊はいぶかしく思いつつも、それにならって後を追う。
ふたりが実力以外で、互いに認めあっている数少ない点。そのうちのひとつが、危険を敏感にかぎ分ける直感というべきものだった。これが両者共にそろっていなければ、とうにふたりはどこかで命を落としているだろう。一方がある事柄に関して危険を感じた場合、もうひとりもその直感に――じぶんのそれが違うと感じるまでは――従う。これこそふたりがいつしか定めた、生き抜くための暗黙のルールだった。
人が本来踏み込むべきではない場所で、生き抜くための。
すこし歩くと、実際にかすかな空気の流れを感じることができた。匂いはいよいよ強くなり、ねっとりとした湿度の高い空気がはりついてくる。歩を進める靴底が、ぴしゃり、と水たまりを踏みつけた。
――糞、嫌な感じだ……。
榊もここに来て、ちりちりとした不安を感じ始めていた。状況がわずかづつ変化していくことに対して漠然と感じる、吉兆もしくは凶兆――榊のそれが、外れたことはない。
今回のそれは、遅れてやってきた分を取り戻そうとするかのように、榊の中でふくれあがっていた。無意識に歩みが遅くなり、何歩分か剣奈に遅れてしまう。
水たまりの数が増し、ちょろちょろとどこかで水の流れる音も聞こえている。ゆったりとカーブを描いたトンネルを歩きながら、榊が刀を握りなおした……その、時。
視界の中に、不意に変化がおとずれた。
トンネルの外周が明かりの中で途切れ、さらに広大な空間につながっていることが見て取れたのだ。まるで周囲の闇が凝縮して、ふたりの行く手を阻む壁となったかのようだった。
「終点ってわけだ」
さすがに立ち止まった剣奈の背に、榊が話しかける。不安を追いやるため、恐怖を紛らわすため、そしてそのふたつが融合し、もっとも厄介なものにならないため。
狂気に支配されるのを、ふせぐため。
しかし、剣奈は答えなかった。
凍り付いたかのように、ハロゲン灯を片手に、微動だにしない。
剣奈に追いついた榊は、そこでようやく、明かりの照らし出す先を見ることができた。光が届くぎりぎりの部分に見える、奇妙な物体。
つるりとして黒い光沢を持った、曲面。なにか大きなものの、どこかの一部――。
なぜか榊は、ぞくりとした。
「……て……」
もっとよく見ようとして目を凝らした榊の耳に、かすれたうめきが聞こえた。それが剣奈のものだとわかって、榊はぎょっとして剣奈の顔をのぞきこんだ。
「……何て……ことだ……」
剣奈の顔は、血の気を失っていた。目は大きく見開かれ、惚けたように開かれた口元からは、かすかにカチカチと歯のなる音がもれてきている。
「剣奈……?」
恐怖している。
光の先にあるその物体を見て、剣奈が何かを察したのは一目瞭然だ。そしてその察した事実が、剣奈を恐怖させている。
「……グラーキィ・アポカリプス……地震……地下の奉仕種族……儀式場……そうだ、可能だ……星辰の位置も……手段も……」
かすかに揺れだしたハロゲン灯の光の中で、榊はそれに向き直った。
ぎりり、と歯をかみ合わせ、食いしばった歯の間から、声を絞り出す。
「説明だ、剣奈。――何が判った?」
自分は、理解できなかったのだ。榊は、それがわかった。
『幸運にも』、理解できなかった。
理解できないものには、恐怖できない。確実に狂気に捕らわれつつあったとしても、それを恐怖として感じるには理解しなければならない。
剣奈には、解ってしまったのだ。
あの奇妙な物体を一目見ただけで、『こちら側』のそれとは違う法則に精通した剣奈には、なにもかもが呑み込めてしまったにちがいない。
恐怖を、取り去らねばならない――いま、すぐに。
狂気に、変わってしまう前に。
剣奈の頭の中を理論理性で埋め尽くし、恐怖を締めだすのだ。
「剣奈、説明だ」
敵意すら含んで言い放ったセリフに、剣奈が絶息していたかのように息を吸い込んだ。利き手のウィルディ・マグナムを構え直し、ふたたび榊に向けられた視線は、果たして憎悪にあふれていた。
奴らの所行にか、それとも。
恐怖した、自分にか。
榊と同じ狂気をはらみ、それでいてまったく異なる心を持つ、戦士の目であった。
「……奴らの、目的の見当が付いた」
「ようやく種明かしってわけだ」
一転、おどけてみせた榊には応じず、剣奈はゆっくりと歩き出した。トンネルの先にある空間と、そこにある物体が、ハロゲン灯の明かりに照らされて徐々にはっきりとわかってくる。
今までのトンネルを通路とするならば、そこは、部屋のようなものらしかった。トンネルのスケールにあわせた『部屋』の大きさはかなりのものだったが、落盤があったらしく、今やその大半ががれきに埋もれてしまっていた。
そして、その『部屋』の空間のほとんどを、占有しているもの。
「こいつは……」
光の中に浮かび上がった『それ』に、榊は絶句した。
一見すると、巨大な芋虫、というところだろうか。
硬質観のある、黒いなめらかな体皮に全身を包んだ、巨大な芋虫だ。胴回りは最大で5メートル近くあり、全身にフジツボ状の器官が――直感的に、脚なのだろうと思った――付いている。頭部と思える場所には目や口の代わりに、胴部分を小さくしたような触手がびっしりと生えていた。
イソギンチャクとナマコと芋虫をでたらめにかけあわせて、地中を生活の場として適応させた……榊はそんな連想をしたが、それも正確ではない。強いて言えば、というだけで、『それ』は榊の知っている地球上のどんな生物の形態とも異なっていた。太古の昔に海で栄えた原生生物のような、人間には絶対に理解できない進化をたどったものだ。
「……はるか昔から存在する、地の底を住処とする、『独立種族』……。ブライアン・ラムレーは、自分の著作の中で『クトーニアン』と呼んでいる」
「死んでる――のか」
その生物――剣奈の言葉によれば『クトーニアン』の胴体には、巨大な落石が突き刺さっている。この場所で落盤が起こったときに、天井から剥離してきたものらしかった。
「…おそらくは、あの部分が急所だったんだろう……。先人の記述によれば、数千度の地熱の中でも活動できるくらいタフな生物のはずだ」
「……生物、っていうよりは、怪獣だね」
説明する剣奈が銃身を下ろしているのを見るとはなしに見ながら、榊も手にした刀が重さをなくしていくのを感じていた。
接近戦武器としては、日本刀は世界でも屈指の性能を誇る。剣奈のウィルディ・マグナムも、拳銃としての破壊力では最強の部類に入るだろう。
しかし、それがこの生物に大して、どれほどの効果をもつものか。
あの部分に落石をつきさした天上の誰かに、榊は珍しくも感謝した。
「で、この大怪獣が、あの地震を起こした、か?」
半分冗談のつもりで言った榊だったが、剣奈はあっさりと肯定してきた。
「その通りだ。これだけ大型の成体なら、あのくらいの地震はわけもない」
「……できれば、否定してほしかったんだが」
ぞっとしたように肩をすくめてから、榊はあの祭場が何の目的で作られたのか理解した。
「……ウィティカーたちが、こいつを召喚したわけだ……」そう言って、剣奈に向き直る。「目的は?」
「……地震を、起こさせるためだ」
「そりゃそうだろうが。地震を起こして、どうするつもりだったんだ?」
それは何度か、榊も考えた疑問だった。
テロリズムか何かかと考えたこともあったが、今になってみると馬鹿馬鹿しい考えだと思わざるをえない。こいつの起こす地震なんかよりも、こいつ自身を地上で暴れさせれば、百万倍も効果的なパニックを誘発できるだろう。地中を移動できるということを考えれば、まさに神出鬼没だ。
ニューヨークのビル群をなぎ倒しながら、はい回る。州軍が出動するかもしれないが、歩兵の携行火力では傷一つつけることはできまい。戦車や戦闘ヘリが到着するころまでには、ニューヨークは火の海になっているだろう。
おそらく、とつぶやく剣奈の声が、一大パニック映画のワンシーンから榊を引き戻した。
剣奈はほんの少し言いよどんでから、
「……こいつのいる位置から考えると、ここはおそらく半島の付け根だ。新聞の記事によると、マグニチュード4.3の地震が一分近く、ここで発生した」
剣奈はハロゲン灯で、広大な周囲を照らし出した。光の中に浮かんだ天井や壁、床のいたるところに、深い亀裂が生じている。
「もしあのまま、さらに地震が大きくなって、長時間続いた場合、ここを中心として亀裂が広がる。周囲はスペリオル湖の水しかなく、脆弱な半島の地質では、それに長時間絶えることはできない……」
ゆっくりと、自分の言葉を吟味するかのように、剣奈は続ける。
「地震によってウィニマックほか、周囲の村や町は壊滅的な打撃を受ける。亀裂はおそらく拡大して、地割れになる。そこからは当然、スペリオル湖の水が入り込む。橋かボートでなければ、渡れないくらいの幅になるだろう。事実上この半島は、ちょっとした隔絶状態となる……」
唖然として聞いている榊に、剣奈は顔を向けて、言った。
「連中は、ここを外界から隔離しようとしている……。ウィティカーが、ウィニマックの連中に言い残した言葉を思い出せ」
――このようないわれのない不当なおこないには、必ずやそれにふさわしい報いがあることを覚えておくがいい。これまでに起こったほんのささやかな出来事は、それだけで終わることなどない。私はここを出ていくが、それは永遠にというわけでは決してないのだ。そして貴様らは知ることになるだろう、すばらしき世界は、もう目の前にあるのだということを。
「すばらしき、世界、か?」
榊の苦笑まじりのセリフにも、剣奈は表情を変えなかった。
「そうだ。連中はこの半島を、連中の拠点として改造するつもりでいる。子孫を増えれば、あの魔術書を使ってより大きな儀式が行える。独立種族をもっと喚びだし、地下に更にトンネルを広げ、子孫を増やし続けて……このままいけばここを中心として、アメリカ全土に巨大なコロニーができるだろう」
榊は苦笑をやめて、やれやれと嘆息した。ウィティカーもこいつも、まったくいかれてる。
体の奥からくる戦慄を止めるためには、そう思うしかなかった。
「それで? 俺たちはどうすればいい? 州軍の出動でも要請するか……それとも、蛟のダンナに……」
「時間がない。奴らはおそらくすぐにでも、もう一匹の独立種族を召喚した……いや、今もしているはずだ」
「……どういうことだ」
「これだけ強力な独立種族になると、魔術の強制力をほとんど受け付けない。ただ一度の儀式では、支配どころか召喚もできないだろう。ただしき方法にのっとって、『喚び』続ける必要がある……何度も、何日も」
「儀式はまだ、途中だってことだ。次の儀式は――」
「……今夜だ。止めなければ、とんでもないことになる」
「もう金輪際、蛟のダンナにはだまされないからな」榊はたっぷりと毒のこもった口調で吐き捨てた。「戻ったら、ねじこんでやる」
「戻れたら、の話だが」
言わずにおいた部分を剣奈に代弁されて、榊は片眉を吊り上げた。日本刀を半身で構え、ゆっくりと後ずさる。
「――まずは、ここを出る手か」
剣奈も銃を構え直し、榊にならった。
「……それは同感だ」
いつの間に、現れたのか。いや、最初から潜んでいたのかもしれない。あるいは他の通路を通って来たのか――。
がれきで埋められた空洞の暗闇から、榊たちをつらぬく視線。
敵意、殺意、そして、どんよりと澱む狂気をふくんで輝く、いくつもの眼が。
次々と、闇の中に浮かび上がった。
「九匹……いや、十匹、か? こりゃまた難儀な……」
「走れ」
抑揚もなく囁いた剣奈の声に、落雷のような銃声が被さった。
闇の中から殺到しかけた影のいくつかが、文字通り吹っ飛んだ。銃弾に対して耐性を備えもつ彼らでも、人間と大差ない体重しか持たない以上、強力な着弾衝撃を誇るウィルディのマグナム弾を受ければ、踏ん張ることなどできない。
立て続けに弾装プラス一発――九発を撃ち込み、剣奈も走り出す。先行した榊だったが、すぐにその背を、人間のものとは思えない咆吼が追ってきた。
榊はあらためて、驚愕した。やはり剣奈のウィルディでも、足止めにしかならないのだ!
こうなりゃ、接近戦で。
意を決した榊は、右手にひっさげた刀の刃筋を直した。
「――剣奈! 切り込むぞ! 援護だ!!」
併走する剣奈は、しかし、
「――駄目だ! 前からも来たら、俺たちでも勝ち目はない!」
全力疾走するふたりの背後からは、音も立てずに疾駆する異形の追っ手。時おり響く咆吼は、仲間に伝える警鐘にも聞こえる。
「――手詰まりってか!? お得意の魔術はどうした!」
半ばやけくそで叫んだ榊の言葉に一瞬眼を細め、剣奈は右手をふところに突っ込んだ。
「……やむをえん」
かすかな独白を、榊の耳がとらえる。
ふたたび抜き出された剣奈の右手には、名刺大の紙束が握られていた。小屋の前で、剣奈が何かを書き付けていたものだと、榊は看破した。
イアール タンタ トツグ ティーヨグ
ナコブ ハー フングルイ ウォルバドス
ウォルバドス フタグン……。
剣奈の口から紡がれる、奇妙な韻律。
榊ですら、数えるほどしか聞いたことのないそれこそ、剣奈のもうひとつの特技だった。
魔術、である。
「……イア! ウォルバドス!!」
最後の一説を叫び、紙片を背後に投げつける。投げつけられた紙片の束は、トンネル一杯にばらばらと散らばった。
榊の眼に映った紙片の紋様は、燃える眼を中心にいただく五芒星。
――『古き印』!
一瞬遅れて、上がったのは、追跡者たちの絶叫だった。
見よ、今まさに肉薄しようとしていた異形の追跡者たちが、散らばる紙片の前でたたらを踏み、立ち止まったではないか! 古書店の時のように迂回することも許さず、散らばった紙片の印は、彼らを閉じこめる格子となったのだった。
ハロゲン灯の明かりの中に、ふたりが入ってきた横穴が見えてくる。
しかし、助かったという安堵感は、榊の胸には湧いてはこない。
ふたりがこれから向かう先は、さらにおぞましく、恐ろしい場所なのだ。
遠く引き離した追っ手の、最後の咆吼が、ふたりの耳に届いた。
止めることなどできないぞ、と榊には聞こえた。
第4章 了