『それは揺らぎからはじまった』
こあとる&sudo共著
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第3章
背後から声をかけられる寸前、榊はその気配に気づいていた。
俗に『殺気』とか『殺意』とか呼ばれる、それ――何者が放ったのかもわからない意志が、榊ですら今まで数えるほどしか感じたことのない強烈さで榊の後頭部を殴りつけてきたからだ。
剣奈に軽口をたたいていた時の弛緩した思考は、まばたきする間に切り替わった。
コートの裾が、爆発したかのように跳ね上がった。
枝をゆらし、茂みをかき分ける音がした。
刀に右手をのばす。もどかしいほど遅い。
「あぶない!」
背後から声が。
気配が迫った。
柄に手がとどいた。
体勢を低くして、刀を――。
いかん。間に合わない。
気配は? 真後ろまできている。このままでは振り向く前にやられてしまう。ではかわすしかない。駄目だ。相手の動きをいったん止めなければ、自分の不利は変わらない。
どうする。
どうする、どうする、どうする?
一秒にも満たない一瞬のなかで、榊がためらったとき。
目の前で、剣奈がくるりと振り返った。
剣奈の手に握られているウィルディが見えた瞬間、榊の思考回路は最善手をはじき出した。
森の静寂を大口径銃の轟音が引き裂き、思い切り伏せた榊の頭上を銃弾が駆け抜けた。
苦鳴があがった。
膝立ちの姿勢で身体を半回転させ、榊も振り返る。
そこにうずくまって倒れているのは、おそらくは、人間だった。
服も身にまとっておらず、異常にやせ細った手足は不自然なほど灰色がかってひび割れていたが、人間の男に見えた。かすかにけいれんしているところを見ると、まだ生きてはいるようだ。
「……何なんだよ、いったい」
となりにならんだ剣奈に言うでもなくつぶやき、榊は大きく息をはいた。わずかな時間で大量の汗をかいていることに気がついて、顔をしかめる。
剣奈の方に顔をむけて――。
「まだだ!」
剣奈がするどい口調でさけぶと同時、いままで声も立てずにうずくまっていた襲撃者が、バネ仕掛けのような勢いでふたりに飛びかかってきた。
呼応する、二発の轟砲! 胸と腹に一発ずつ、正確無比にたたき込んだのは剣奈ならではだったが、つづいて起きた事実の方に榊は目をむいた。マグナム弾の衝撃で吹き飛んだ男が一回転し、両手足でしっかりと着地したのだ。対人相手では文字通り必殺を誇る、マグナム弾を三発も受けて!
「……やはり……!」
剣奈の口調にかいま見えた焦りが、榊に事情を呑み込ませた。
この襲撃者は、人間ではないと。――蛟の予感は、はずれてなどいなかったと。
この事件が、自分たちの管轄だと。
三度、男が向かってきた。獣のように四つ足で、獣のように疾走してくる。
銃身をむける剣奈の前に、榊がすべり出た。
「俺がやるよ」
答えを待たずに、刀をかまえる。
男が迫った。こちらの間合いにはいるまで、あと数歩。
刹那、男の全身がぐうっとたわんだ。両手足をつかって、榊の頭上へ跳躍する。
上からなだれ落ちる右腕に猛禽を思わせる鉤爪がついているのを、榊はその一瞬で見て取った。
ただ一度、しゃっ、と息をはく。
身をかがめざま、上に向かって跳ね上げた片手打ちの一撃。がつりという手応えとともに、男の右腕は肘の先から斬りとばされていた。
先刻とは比較にならない絶叫が、男の口からほとばしった。榊を飛び越すように着地すると、森の奥へと走り出す。
立て続けの轟音とともに、その背中にウィルディ・マグナムの銃弾が突き刺さった。着弾の衝撃も手伝ってか、男がつんのめるように茂みに飛び込む。
「くそ。やはり、たいして効かん」
剣奈が毒づいた。計五発、すべて胴体に撃ち込んでいる。大型の肉食獣でも仕留められるはずだった。
ウェストホルスターから予備のリボルバー――こちらもウィルディに勝るとも劣らぬ大型拳銃だったが――を取り出す剣奈とともに、榊は用心深く茂みに近づいた。相手が動いた様子はなく、にわかに静寂が戻ってくる。
「死んじまったんじゃないだろうね」
静寂に気詰まって、榊は口を開いた。
「……その方がありがたい」
「そりゃ、同感なんだがね」真顔で答えてきた剣奈に、顔をしかめてみせる。「今んところ、貴重な手がかりだろうが」
尋問には答えられないかもしれないが。そう榊は思い直す。愛想笑いが通じる顔でもなさそうだったし――。
顔?
榊はそこで、ふと思い出した。『あれ』が襲いかかってきたとき、顔が見えた。
あの顔は……。
「……いない」
剣奈の声で、榊は我に返った。立ち止まっていたらしく、剣奈が茂みのなかをのぞき込んでいる。
「いない、だって?」
榊も茂みの奥に目をこらした。――確かにいない。近くにいる気配もなかった。
「どこに隠れやがった……」
茂みをかき分けて調べてみても、逃げた形跡すらなかった。そもそもあれだけの銃弾を受け、あまつさえ腕まで切り落としたというのに、ほとんど血痕が見あたらない。ほんの数ヶ所、ドス黒い染みが散らばっているだけだ。常人ならば一面、血の海になっていてもおかしくないほどなのだが……。
「……まあしかし、化け物だしな」
そう考えて、結論づけた。多少強引にせよ、そう考えると納得もいくというものだ。
榊は茂みから出ると、
「逃げられた。……そう考えるのが妥当なところだろ?」
剣奈がうなずく。
「……だろうな。手傷を負わせはしたが……致命傷かどうかは自信がない。『あれ』が俺の知ってる種類の化け物ならば、なおさらだ」
「あとで詳しく聞きたいね。……もっとも」
榊は山道のほうへ振り返った。おどけた口調にあわせた仕草で、首をかしげて見せる。
「今はどちらかというと、きみの話が聞きたいな。おれはきみに、俄然興味がわいてきたよ」
榊のかけた声に応じて、樹の影からひとりの女性があらわれた。先ほど榊が襲われたとき、とっさに声をかけた人物。
ミシェル・カーライルだった。失敗した、とでも言いたげに顔をしかめている。
「とりあえず助かった。命の恩人とお近づきになりたいと思うんだが、どうだい?」
「あなたたち、いったい何者なわけ?」
ミシェルはいぶかしげな表情で、数歩後ろにさがった。警戒しているのだろう、視線は榊の方、というよりは、榊の持っている刀に向けられている。
「そりゃこっちが聞きたいね。地質学専門のガクセイさんで、ジュードー・ガール。その上尾行まで得意ときたもんだ。声をかけられるまで、気がつかなかったよ。……まあ、そう逃げないでくれるかい? べつにあんたまで斬ろうというわけじゃない」
榊は刀を鞘に戻すと、両手をひろげてみせた。剣奈の方を見やると、すでに二丁ともしまい込んでいるようだ。
「ザッツ・オーケーってわけだ。友好条約に調印といこうじゃないか」
ミシェルに向き直る。不承不承、といった体でうなずいた。
「……わかったわ。ただし、調印するなら不戦条約に。悪いけど、とても信用できそうにないもの」
自分のペースを取り戻したのか、後半は小さく笑って応じる。
「イエス・サー。それでいいよ」榊もにやりと笑って見せた。「じゃあさっきの質問の答えだ。おれはニホンのサムライ・ソルジャー。こっちはニンジャ。ふたりでイビル・スピリットと戦いに来たのさ」
「答えになってないわ」
「あながちはずれてもいないんだがな。さっきの立ち回りを見たんだろう? 脚本があるように見えたかい?」
ミシェルはちらりと道端に落ちている『もの』に目をやり、眉根をよせた。榊が切り落とした、襲撃者の右腕である。
「……特殊メイクには、見えないわね」
榊は腕に近寄ると、無造作にひろいあげ、ひねくりまわしてみた。切り口からもほとんど血が出ていないために妙に作り物めいて見えたが、まちがいなく本物だ。切ったときの手応えからも、そう断言できる。
しかし、と榊はあらためて思った。
――しかし……なるほど、化け物だな。
基本的なかたちは、人間の腕に似ている。だが腕の細さにくらべて異常なまでに手の部分が大きく、かなりアンバランスだった。五指はどれも常人の倍以上の太さをもっており、指の先端はそのまま鉤爪になっている。この部分は人間というよりは、鳥やトカゲに近い。
青白い肌には体毛が一本もなく、紙やすりのような手触りだった。
「……あななたちの狙いは、あの化け物?」
「違うよ。おれたちは生物学者でもサーカスの団員でもない……どちらかといえば捜し物か。あれが関係してるのは確かだろうけどね」
そうなんだろう? と、腕を剣奈の方にまわして言う。剣奈は慎重にそれを受け取ると、注意深く観察しはじめた。
しばらくして、剣奈は納得したようにうなずいた。
「……間違いないだろう。だが……」
剣奈が榊に向き直った。この女に、その先まで話していいものかどうか――呑み込んだ言葉を目で聞いてくる。
榊は片眉だけを器用にあげて、
『かまわないだろ。知られてどうなるものでもない。せいぜいおれたちが狂人かジャンキーだと思われるくらいだ。慣れたもんだろうが』
最後のセリフは皮肉をたっぷりこめてやる。
「内緒話ってワケ?」
日本語で話した榊に顔をしかめて、ミシェルが言った。
「――おっと、こりゃたびたび失礼したね。ただ、ここから先は確かに部外秘だ。おれたちの正体もふくめて、先が聞きたければ、まず君の方から種明かしをしてもらいたい」
「フィフティーじゃないわ」
「そりゃそうだ。これは不戦条約なんだろ? だったら君の方が、条件的には不利だ。戦力も立場も、おそらくは情報量も、こっちが上なんだからな」
「……それは、どうかしら?」
「そう思うなら、ここでお別れって手もあるな」
実際、榊も剣奈もミシェルをどうこうしようとは思ってはいない。だがミシェルの方がふたりに何らかの利益――おそらくは情報だろう――を求めているのは明らかだった。数時間も人里離れた森のなかを尾行してきたとなれば、好奇心だけというのは絶対に無理がある。榊にとっては、とっておきの切り札だった。
果たして、わずかにためらったあと、
「いいわ。説明してあげる。ただし、この先もあたしも同行させること」
「話の内容しだいだろうけどね……」
榊は剣奈にウィンクしてみせた。剣奈は同行には不満だろうが、予想できた範囲だ。
ミシェルはふたりを交互に見やると、ジーンズのポケットから手帳のようなものを取りだし、ふたりの前にかざした。
「……ずいぶんと、変わった生徒手帳だな」
ある程度の予想はしていたのか、剣奈が抑揚のない声でつぶやいた。めずらしく皮肉がこもっていたが、榊からはそれに気づく余裕はなくなってしまっていた。
「FBI、だって!?」
「連邦検査局捜査官のミシェル・カーライルよ。コパーヒルの殺人事件との関連性について、ビル・ウィティカーを内偵調査中――これで満足かしら?」
榊は判断ミスを知った。公安組織の線は当然榊も考えてはいたが、ここまで大きな組織が調査に乗り出しているとは考えてもいなかった。それこそ州警察の内偵くらいに思っていたのだが……。
切り札を隠し持っていたのは、ミシェルの方だったのだ。
「なんだって、FBIなんかが出てくるんだ? 片田舎のけちな殺人事件じゃないか」
せめてもの反抗に矛盾点を指摘した榊だったが、あっさりとミシェルは首を横に振った。
「そのウィスコンシンの片田舎で、いるはずのない大型生物に咬み殺される犠牲者が出て、震源不明の地震がおこって、おまけにこの州でここ一年の内に蒸発した人間が二桁を軽く上回っていたとしたら? ――『けちな殺人事件』なんて形容、でたらめもいいところだわ」
「最後のは初耳だぞ」
「ウィニマックをのぞいた、ウィスコンシン全体での話。コパーヒル、カルメット、ホワイトパイン、マルケット……ここを中心にして、一番遠い場所でも100キロ少ししか離れていないわ。ついでに……」
「ついでに?」
身を乗り出した榊に、ミシェルはにんまり笑った。
「同行の件、どうかしら? ここでお別れって手もあるけれど」
榊は目だけを動かして、天を睨んだ。
「……いいとも」
ミシェルが満足そうにうなずいた。
「たったひとつだけ、ほぼ全部の事件に共通する供述があったのよ。被害者が蒸発した日の前後に、町の人間の記憶にない『よそ者』が町で見かけられたこと。国籍どころか人種すらもはっきりしない、異様な風貌という点だけが一致している……見ようによってはまったく無関係に思えるかもしれないけど、おおまかな特徴は一致しているわ」
榊の頭のなかで、いくつかのピースが唐突に組み合わさった。
ジェイムズ古書店によくあらわれたという、『よそ者』の客。
ウィティカーの家に深夜あらわれたのも、やはり『怪しげな風貌のよそ者』だった。
蒸発の事件もあわせるとみっつ――いや、ウィティカー自身もある日突然あらわれた、いわば『よそ者』だ。これでよっつ。
そもそも、『よそ者』とはどういう意味か? 見た覚えのない、自分の記憶の範疇にない人物。アメリカでは見たこともないような、国籍も人種も不明の。白人にも黒人にも、黄色人種にも特定できない、異様な風貌の……。
剣奈を振り向いた。
榊が一言も言っていないにもかかわらず、剣奈はうなずいた。あるいは、榊の眼にその時やどった光を見て取ったからかもしれなかった。
狂気という、光を。
「……どうしたの?」
ミシェルの声が、やけに遠くに感じられる。榊は小さく息をはいて、にわかに波だった神経をなだめた。
「……目撃された連中の特長は?」
「服装はまちまちだけど、血色の悪い青白い肌、痩せぎすの長身、ひどく伸びた鼻梁と頬骨のはった顔立ち……コンピュータ合成でモンタージュを造ったけど、まるでネズミよ。肌の色からすると白人らしいけれど、骨格上あり得ないわ」
「ウィティカーの家の前で会ったやつは、おぼえてるかい」
唐突にちがう話題に移った榊のセリフにとまどいながらも、ミシェルはうなずいた。家を調べていた榊たちに、帰れといった男。
「おぼえているけど。あの男が……」
どうかしたのか、と言いかけたのだろうが、途中でミシェルは言葉をきった。榊の言わんとしていることが理解できたのだろう。ミシェルの言った特徴と男のそれが、ぴたりと一致しているのである。
「……確かに似ているわ。モンタージュでは、もっと面長だったけれど……」
「あの男は、ウィニマックの人間だと思うかい?」
ミシェルは即座に首を横にふった。
「あたしもあの店で、かなりの人間と会ったけど……記憶にないわ。彼が関係者だと?」
その質問には答えず、
「……じゃあ次だ。さっき襲ってきた化け物、きみも見ているな?」
「……なにが言いたいの?」
話が見えずにいらだって訊くミシェルの眼をのぞきこんで、榊は言った。
「……あの男だったよ」
「?」
「あの男の顔だったんだよ、さっきの化け物は。――そうなんだろう、剣奈?」
眼のすみで、剣奈がうなずくのが見える。
ミシェルの反応は、最初は理解できていない様子だった。しばらくするとたちの悪い冗談だと思ったのか苦笑しかけ、そこで凍り付いた。
まだ、榊はミシェルの眼を見ていた。
だから、ミシェルも見ることができた。榊の眼を。
そこを塗りつぶしていく、狂気を。
「冗談……」
しぼりだした声が、かすかにかすれる。
「俺にもやっと予想がついたよ。――関係者か、って訊いたな? 関係者どころか、古書店の主人を殺ったのも、行方不明になった連中をどうにかしたのも、たぶんみんなあいつか、あいつの同類だ。地震はともかく、そのふたつの件に関して言えば、間違いなくウィティカーがからんでるだろうね。
あいつはウィティカーを調べようとした、おれたちを狙ったんだから」
「……『奉仕種族』の一種だろう。おそらくはもともと人間だったものが、信仰の過程で変身した……きわめて異例だが、前例がないわけではない」
剣奈が後をつぐ形で話す。
「『奉仕』っていうからには、大物がいるか」
「……ああ。くだんの地震にも、おそらく関連してる」
「見えてきたじゃないか。……さて、ミス・カーライル。おれたちはこれから、あんな化け物がうろつくところへハイキングなんだがね。同行するのはかまわないけど、いまいちおすすめできないな? 連中がバッジに驚いてくれるとは思えないしね」
軽口で、狂気を打ち消す。
榊のいつもの手だが、一番の特効薬だった。
ミシェルは鋭くにらみ返してきた。こちらは敵愾心で、狂気を無理矢理振り払ったようだ。
「今の話が、あたしを遠ざけるための作り物じゃないって証拠は?」
「そう思うんだったら、ついてくればいいさ。君の自由だ」
「じゃあ、訊くまでもないことよ」
ミシェルがうなずいた。切り口上で言ってのけると、
「こっちは仕事なのよ。ハイキングじゃないわ。事実かどうか証明しなくちゃ、ね」
榊は肩をすくめて、おそれいったよ、と呟いた。右手を差しだし、笑いかける。
「それじゃあ、お手柔らかにな、ミス・カーライル。おれたちへの職務質問は、なるべくおさえてもらいたいけどね」
「不戦条約中――じゃなかったの?」
今度の笑みはうまく通じたようだ。
ミシェルはいたずらっぽく笑い返すと、榊の手を握り返した。
「――じゃあその男の依頼で、ウィティカーを探ってるってこと? ええと――」
「蛟拝人。おれたちのパトロンさ。――言っとくけど、何者か、とかは聞かないでくれよ。正直なとこ、おれたちにもよくわからん」
獣道を踏み分けて進む道すがら、ミシェルと榊たちはひととおりの情報を交換していた。
ミシェルは事件のあらましとウィティカーとの関連を驚くほど正確に把握しており、榊はそれにオカルト面での知識をあてはめてやるだけでよかった。
たったひとつだけ榊がミシェルに伝えなかったのは、魔術書がからんでいる事だ。今回の依頼の内容からして、FBIに持って行かれるわけにはいかない。ましてや魔術書の存在が明らかになれば、ミシェルはまず間違いなく押収しようとするだろう。
――そうして地下の巨大な秘密倉庫に、永久に隠遁ってか? 映画じゃあるまいし。
榊は昔見たハリウッド映画のラストシーンを思い出した。映画も怪しげなテレビ番組も嫌いではないが、依頼がらみではやっかいなだけだ。
それでも、と榊は考えた。まっとうな話し相手がついた分だけでも、はるかにましと言えるかもしれない。薄暗い森の、息も詰まるような踏み分け道の同行者としては、剣奈は最悪のランク間違いなしだった。
「まっとうな人たちじゃないとは思ってたけど、オカルティストとは思わなかったわ。しかも、相当ディープね」
ミシェルの声にからかうような響きが混じる。
「冗談じゃない、おれはいたって普通さ。ディープだって言うなら、こいつとその蛟ってダンナだろ。そりゃあもう、深いのなんのって」
榊はあわてて否定したが、聞き入れてはもらえなかったようだ。剣奈にいたっては、否定すらしない。面倒なのか、自覚してるのか――おそらく両方だろう。
「おれにしてみれば、君も大したもんだけどね」
「あたし?」
そうさ、と榊はうなずいた。
「えらく柔軟にできてるじゃないか。こんな言い方もなんだが、おれが君だったら信じないね。こんなヨタ話」
「完全に信じたわけじゃないわ。ただ、完全な嘘とも思えない。
地質学専行の学生、ってのが今回の表向きの肩書きだけど……実際に大学じゃ地質学をやってたのよ。例の地震がニュースになったとき、真っ先におかしいと思ったわ。調査を進めていくうちに、あなたたちにも話した震源の移動をつきとめて……はっきりいって、異常もいいとこなのよ。FBIの特別ファイルにだって、記録がないくらい」
「X・ファイルってわけだ? 本当にあるとはね」
「呼び名は違うし、全部UFOとエイリアンに結びつけているわけでもないけど」視たことでもあるのか、ミシェルは苦笑して応えた。「調査のうえ原因不明の、迷宮入りした事件のファイルみたいなものならね。今度の地震も、ひょっとしたらそれに載ることになるかもしれないわ」
「迷宮入りになるってことか」
「もしあなたたちが言ってることが本当だとしたら、調書になんかできるわけないでしょ」
「ごもっとも。……おれもヨタだと思いたいんだが」
「それを調べに行くのよ。ウィティカーと他の事件の関連もあるけど、あたし個人としてはそっちの方が興味あるわね」
「とんでもない捜査官もいたもんだ」
「――あら、個人の興味と仕事は別でしょ? あなたなら理解できると思うけど」
「……降参だ」
榊がしかめ面で両手をあげたとき、黙りこくったまま先行していた剣奈が立ち止まった。
右手をあげて、ふたりに止まるよう合図する。
「どうした?」
榊の問いに、剣奈は無言で目くばせしてみせた。すこし先で森がまばらに開けており、そう大きくもない小屋が一軒建っているのが見えた。
「……ずいぶん古そうな代物だな。知ってるかい?」
後のセリフは、ミシェルへのものだ。
「いいえ。炭焼き小屋かなにかかしら」
榊は小さく肩をすくめて、小屋の方に目を凝らした。
人の気配はない。
何年も放置されていたらしい小屋はひどく傷んでおり、離れた場所からでも人が住んでいる様子はなさそうだった。鎧戸がはめこまれた窓と正面の扉にはすべて木板が×字に打ち付けられて補強されてはいたが、その効果もろくに残ってないように見える。
「何にせよ、行ってみるか」
剣奈がうなずいて、ウィルディ・マグナムを抜く。ミシェルはそれを見てわずかに顔をしかめたが、追求はしてこなかった。かわりにシャツの裾を持ち上げ、腰のベルトにはさみこんでいたらしい拳銃を取りだした。剣奈の銃と同じ――サイズは比べようもないものだったが――オートマチックである。
「……38ブローニングのショート・モデルか。悪くない」
剣奈がぼそりとつぶやいた。視線からしてミシェルの銃のことを言っているのだろう。
ミシェルは剣奈を見返すと、誰に言うともなく、言った。
「……オカルトだけかと思ったら、銃もディープなのね」
「断っておくが、そいつだけだ」
あらかじめ釘をさしておいてから、榊も刀を抜いた。
しん、と静まり返った小屋へ、ゆっくりと進んでいく。自然と榊を先頭にして、両脇をふたりがサポートする形になった。
「もしさっきみたいなヤツが出てきても、殺しちゃ駄目よ」
「相手に言ってくれ。あれが相手だとしたら、ミサイルで撃っても過剰防衛とは言わせないぞ」
「――尋問の必要があるわ」
「うなり声しか返ってこないって」
小声で軽口をたたきながら、小屋の前へ。扉は――錠らしきものは見あたらなかった。粗末な取っ手がついた引き戸になっている。
取っ手に手をかけて、ふと榊は顔をしかめた。
「……腐臭か」
口を開く前に、剣奈が代弁してくれる。ミシェルも感づいたらしい。
かすかに鼻腔にとどいてくる、甘酸っぱいような、それでいてひどく不快な臭い。
「死体でもあるか」
扉を引く手がにぶる。――ままよ、となかば自暴自棄になって、榊はいきおいよく扉をスイングさせた。
わずかに臭気が強まったが、そこには何もいなかった。がらんとした殺風景な部屋が、三人を迎えた。
石を組み上げてできた暖炉があるだけで、あとは何もない。床はほこりがぶあつく積もっており、この部屋が長い間使われていないことと、それでもだれかがこの小屋に入ってきたことが見て取れた。
「足跡……か? かなり多いな」
大小いくつか、裸足の足跡が、ほこりの上に転々と付いていた。辿っていくと、左側にある扉との間を何度も往復している。目をこらせば、すでに消えかかった足跡もあった。かなり前から出入りがあったらしい。
「なかにはずいぶん大きなものもあるわね……これなんか異常なくらい……」
ミシェルはいくつかの足跡を調べたあと、ひとつを指した。
比較的新しい部類のそれは、たしかに大きかった。剣奈や榊の足跡よりもさらにふた廻りは大きく、土踏まずからつま先までの部分は常人の倍は長かった。そのかわりなのかどうか、かかとに当たる部分がまったくなく、つま先立ちで歩行したように見える。
「……連中のものだ。ここが使われているのは間違いない」
剣奈も足跡を調べて言う。
「じゃあ、まずはあっちからだ」
榊は足跡が示すまま、扉の前に来た。剣奈がついてくる。ミシェルはまだ、部屋のなかを見回していた。
扉をあけて――榊の喉がぐうっ、と音を立てた。
腐臭の強さが、いきなり増したのだ。鼻の付け根を、おもいきり殴られたような感覚が榊をとらえる。
暖炉にくべるためのものだったのか、いくつかの薪が転がっている部屋だった。調度品も窓もないところからして、倉庫として使っていたのだろう。
その部屋に、腐臭が充満しているのである。小屋自体の造りが比較的しっかりしているのか、となりの部屋とは比べようのないレベルだった。
植物が腐敗した、臭いではない。
動物が、腐敗した臭い――人間の生理的嫌悪や不快感に、直接手をつっこんでくるような臭い。
榊はコートの袖で鼻と口をおおいながら、おもわず数歩後ずさった。剣奈もさすがに顔をしかめ、それ以上部屋に入ろうとしない。
いったん扉をしめたあと、
「……吐きそうだ」
榊はようよう言った。今朝から食事をとっていなかったことを、天上の誰かに感謝する。わずか十秒たらずだったが、臭いが全身にしみついているような錯覚を感じた。
「ひどい臭いね」
ミシェルが鼻をおさえながら近づいてきた。
「元凶らしきものはなかったけどな……」
「……いや。床に落とし戸があった。たぶんあの中だ」
「ほっとくわけには……だめか、やっぱり」
ミシェルにじろりとにらまれ、榊が嘆息する。
「死体かなにかだとしたら、手がかりになるわ。ここは見てみる手だと思うけど」
「仕事熱心な……」
うんざりした調子で、榊は大きく息を吸い、止めた。再度扉を開け、床を見る。
あった。
取っ手もついていない粗末なものだったので、見落としたのだ。
後ろにふたりがついてきているのを確かめ、榊は落とし戸を持ち上げて――。
瞬間、凍り付いた。
そこに、あったもの――その落とし戸の下にあったものは、液体だった。
どろどろとした、赤黒い液体。
限りなく黒に近い赤色をしたその液体のなかに、いくつもの物体が浮かんで混じり合っていた。
赤ん坊。
いや、胎児と言うべきか。ふつうの大きさのものはもちろん、まだ手のひらほどの大きさにしか育っていないものや、人間の形すらとっていないものまで、さまざまな大きさの胎児の死体が、びっしりと蛆をたからせて液体と溶け合っているのだった。
ひっ、と背後で、ミシェルが息を呑んだのがわかった。同時に臭いを嗅いでしまったのか、外へ駆け去っていく足音。
榊はそれを頭のすみで捉えながら、じっと落とし戸のなかを凝視していた。
どろどろと溶け、混じり合う腐汁と胎児。
その光景は、榊の強固な精神をも停止させてしまうほど、おぞましいものだった。
「……」
さっきから誰かがなにかを言っているのがわかったが、榊はただその光景をながめていることしか考えつかなかった。
「……さかき」
思考が、ひどくゆっくりと回り始める。
誰かが、自分のことを呼んでいる。
「……榊」
ああ、これは剣奈の声だ。
珍しいことに、ひどくせっぱつまった口調だ。
「榊っ!」
ぐいと、肩をつかまれた。
無理矢理振り向かされた榊の視界が、剣奈を捉える。
だしぬけに、思考が回復した。
すさまじい腐臭が、榊の嗅覚に戻ってきた。
「…………!!」
榊の網膜に落とし戸の下の光景がよみがえり、榊はその場にうずくまって激しく嘔吐した。
……なんだ。なんなんだあれは? 榊は分裂しかける思考を必死でかき集め、意識を集中しようとする。そうして脳裏に浮かぶのはあのおぞましい光景。ガキの死体、いや、赤ん坊の亡骸だ……いったいやつらはなにをするつもりなんだ? なにを考えている? なんの……ために……
そこで榊の思考は停止した。というより考えるのをやめた。
おれがそんなことを考えてもどうにもならない。そうだ、魔術だの太古の神話だのと、そんなものにおれが頭を悩ませる必要はない。それは剣奈に任せておけばいい。奴こそ真正の魔術師であり、あの忌まわしい神話の研究者なのだから。
それを逃避というなら勝手にするがいい。だがおれは、精神を腐敗させ、人間を狂気へと駆り立てるあのおぞましい魔術と神話への思索を放棄するかわりに、この肉体でやつらと対決することにしたのだ。どれほど危険な狂信者でも、想像を絶するほどのばけものであろうとも、この刀で断ち切れるものであるかぎり逃げはしない。ともに戦う仲間のだれよりもやつらに肉迫し、だれよりも危険な最前線に身をさらす一兵士であることを自らに課したのだ。狂った奴らの考えることなどほうっておけばいい……
そして榊は、意識を唯一確かなもの、猛烈な肉体反応へと振り向けた。
まだ腹の底がふるえるような感覚はあるが、内蔵がめくれあがるような先ほどまでの嘔吐感はもうなかった。胃の内容物を吐きつくし、胃液まで絞り尽くして、すっかり軽くなった腹はむしろ爽快なほどだ。
のどの奥にはにがい胃液の味が残っていたが、それを唾液とともに吐き捨てる。もはや嫌悪感も恐怖も薄れていた。
残っているのは、あのおぞましい狂信者どもに対する頭が焼き付くような怒りだけだった。その激しい怒りは、あるいは狂気とも呼ばれることを、榊自身も承知していた。だがいまの榊には、その狂気とのはざまに身をおく以外に、ある意味での正気を保つすべはないのだった。すでにこれまで、この世界に満ち満ちている狂気をその目にしてきたがゆえに。
「おい、榊」
再び、剣奈の心配そうな声が聞こえてきた。心配そうな声? まさかな。剣奈の声にそんな響きを感じるなんて、まだおれはどうかしているな。
ふと気がつくと、榊は落とし戸のわきにうずくまり、両手でしっかりと日本刀を握りしめていた。鯉口に指をかけ、関節が白くなるほどかたく柄を握りしめて。
いったいおれはなにを斬ろうというのだ? ……いや、わかっている。あの落とし戸のなか、赤ん坊をあんな目にあわせた奴をだ。人間を、おれたちを襲ってきたような、わけのわからないけだもののようにして操るような奴を。
ビル・ウィティカー。おれは奴を斬る。奴を殺す。
予言者気取りの狂った魔術師、あるいはあのおぞましい神を奉る神官のつもりなのか。奴が何者にせよこの刀で斬り倒す。そんなに『旧支配者』どもに会いたいのなら、このおれが連中のもとへ送り届けてやる。
榊はゆっくりと立ち上がった。刀をかたく握りしめた指から引き剥がし、腰へ差し直す。吐瀉物で汚れた口元を拭い、剣奈を振り向いてにやりと笑ってみせた。
「FBIのお嬢さんを探してこよう。あの様子じゃ、ひどいことになってるだろうからな」
剣奈の表情もいつもどおりのものになっていた。冷たい、無機質なガラスのような視線で榊を眺めている。やがてなにかに納得したように小さくうなずくと、くるりと背を向けて部屋から出ていった。
榊もそれを追って外へ出たが、扉を抜ける前に、ちらりと後ろを振り返ってみた。あの恐ろしい悪臭漂う落とし戸を。そこに込められた恐怖が、絶望が、そして怒りが、榊にははっきりと感じることができた。
別におれは正義の味方を気取るつもりはない。だが、奴は許せない。
なぜならあの落とし戸のなかの殺された赤ん坊は、おれ自身なのだから。おれはあの腐臭にまみれた赤ん坊の亡骸と同じだ……ただ単に、運に恵まれて生き延びているだけに過ぎない。生き延びたために、この正気と狂気のはざまの世界でのたうつことになったのだ。
これは復讐だ――おれ自身の復讐なのだ。
小屋を出ると、ここへ来るまで歩いてきた道のわきで、木の根本にミシェルがうずくまっていた。
榊と同じように、はらわたがひっくり返るような苦しみを味わっているに違いなかった。そのすぐ近くに剣奈がいたが、なにをするでもなく突っ立って、榊が近づいてくるのを待っていた。ミシェルに声をかけようともせず、こういうのは榊の役だろうと、その目がいっていた。
役割分担か、と榊は思い、さっきまで自分も同じ事を考えていたのを思い出して、皮肉な気分にとらわれた。
榊はミシェルに近づくと、そのすぐわきにしゃがみこんだ。彼女の足元は吐瀉物にまみれていたが、それは別に気にならなかった。なにしろ、ついさっきまで榊自身がそのざまだったのだ。榊は、小刻みにふるえるミシェルの肩に手をのばした。
「おい……大丈夫か? しっかりしろよ。そんなざまじゃやつらに喰われちまうぜ……体も、心もな。あんたはFBIの特別捜査官なんだろ? だったら……」
「関係ないでしょ!」
榊の言葉は、突如はりあげたミシェルの金切り声でかき消された。
「あんな……あんなことをやるなんて、人間じゃないわ! わたしたちは……FBIは、ひとの犯した犯罪を捜査するのよ。あれは……あんなのはちがう。化け物。怪物よ。あんなことをするなんて……わたしは……わたしには……」
突然の狂乱ぶりに、榊は驚いて息をのんだ。いまやミシェルのいうことは支離滅裂な言葉の羅列となり、ヒステリーを起こす寸前までいっていた。
ミシェルの表情はこわばり、異常なまでに発汗し、瞳孔は開きかけている。アドレナリンがすさまじい勢いで血管を逆流するさまが見えるようだった。歯の根をならし、口から泡をとばしながらわめき続けるさまは、まさにヒステリー反応そのものだった。
榊はこれまでに何度も、こうして他人が恐怖におののき、パニックを起こし、精神が失調していくのを見たことがあるが、それは何度経験しても気分のいいものではない。ましてや、ミシェルの場合もとが美人なだけによけいに凄惨なありさまだった。
恐怖でパニックを起こしかけた人間を落ち着かせようとしたら、言葉だけではどうしようもない。どうせ相手は聞いていないのだ。
榊はこれまでの経験から、精神的な痛手を一時的にでも忘れさせるには、強烈な肉体的苦痛が有効であることを知っていた。もっとも、それも時機を失するればヒステリーを増長させるだけのことだったが。
榊は小刻みにふるえるミシェルの体をしっかりとつかみ、その頬を思い切り平手で張った。容赦のない打撃に、ミシェルの口が一瞬で閉じた。
続けて返す手でもういちど張りつける。ミシェルはもはやわめき散らすのをやめ、驚いた眼で榊を見つめ返していた。その眼からは、先ほどまでのパニックの兆候は薄れているように見えた。
「おい、落ち着け! 黙ってろよ、いいな?」
ミシェルが呆然としている隙に怒鳴りつけ、ついで榊は声を落とした。ミシェルはしっかりと口を閉じたまま、かわりに瞳を精一杯開いて榊をみていた。
「いいか、よく聞けよ。こいつはもう警察の管轄じゃない。あんたの仕事じゃないんだ。FBIだろうがなんだろうが、ここから先はまともな人間が関わるようなことじゃない。こいつはおれたちの仕事だ。おれたちのような人間のな。わかったか?」
ミシェルのこわばった表情がようやく動いた……落ち着いたものとはいえない、混乱したものだったが。恐怖にふるえる女の顔と、昂然と顔を上げる警官の表情、この場から逃げ出すという考えに対する安堵とためらい、理解と拒絶、怒りと絶望、ありとあらゆる感情が混沌としてその顔に浮かんでは消えた。
「でも……でも、わたしは……」
「黙れ! しゃべるな、考えるな」
榊はふたたび怒声を叩きつける。考えるいとまを与えさせてはならなかった。
「もういいんだ。あんたはここから帰れ。帰ってから考えるんだ、報告書だとか、そんなようなことをな。ま、どうせXファイル行きだ……だから、ここから先はモルダーとスカリーのコンビに任せて、あんたは帰れ」
榊の軽口に、ふたたびミシェルの瞳に警察官としての職業意識が燃えさかるのが見えた……だがそれも一瞬だった。榊から目をそらしてうつむき、なにもいいかえそうとはしなかった。
ようやくミシェルのヒステリーはおさまったように見えた。いまだ、かなりのショック状態にあるにしても、最悪の錯乱状態からは脱したようだ。
榊は背後の剣奈を振り返った。ひとの心理状態については、剣奈のほうが専門家だった。なにしろ、心理学の本なんぞを書いて生計を立てているのだ。榊の視線での問いかけに、剣奈は軽くうなずいてみせた。榊はミシェルに向き直り、うつむいたままの彼女の肩に手をかけた。
「それじゃあ、おれたちはこの先を見てくる。ひとりで帰れるな?」
返答はなかったが、榊は立ち上がり、剣奈とともに小屋のほうへと戻っていった。
小屋の前まできたとき、榊は一度だけミシェルのほうを振り返った。彼女はまだそこにいた。うつむいたままで、いまだ呆然としているようだ。
「彼女、大丈夫かな?」
やや心配そうな榊に対して、剣奈はいつもどおり氷のように平静だった。
「さあな。いずれにせよ、いつまでも彼女にかまけているわけにもいくまい」
「そりゃそうだが……あいかわらず冷たいね」
「そんなに気になるなら、戻って彼女の手でも握ってやっていたらどうだ」
突き放すような剣奈の言い方に、榊は横目でじろりとにらみ、それからあきらめたように首を振った。
「わかった、わかったよ……おれが悪かった。さあて、仕事にとりかかるとするか」
次の瞬間には、榊の頭からもミシェルのことはすっかり消え去っていた。
第3章・了