『それは揺らぎからはじまった』
こあとる&sudo共著
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第2章
光もとどかぬような、地の底だった。
ひどくじっとりとした、多量の湿気をふくんだなまあたたかい空気が、闇とともに沈殿している。ただでさえ不快なその場所に、止めのように凄まじい臭気がたちこめていた。
臭気、と一言にいっても、ひとつの臭いではない。
人のものとも獣のものともつかぬ、糞便の臭い。
爬虫類の出すものに酷似した、しかしくらべものにならないほどの、つよい獣臭。
むせかえるような血臭。
カビの臭い。
染み込んだ雨水の、すえた臭い。
腐臭。
普通の人間どころか、ドブネズミでさえ嗅いだ瞬間に嘔吐しそうな、混じり合った臭気――それが、その場所を流れる空気の粒子ひとつひとつにこびりついているようだった。
それは、そこに潜むものたちの残滓だったろうか。
そう、たしかにそこには――とうてい生き物など住める環境とは思えない、暗くしめった闇の底には、『生物』がいた。
獣ではない。虫でもない。魚でも鳥でも植物でも、ましてや人間でもない。
『生』きている、『物』。
だがその『生物』も、いま息絶えようとしていた。巨大と表現するのがふさわしい、ねじれた躯をときおり蠕動させ、むかつくような体液をまき散らしながら、途方もなく長く続いたその忌まわしい生命を終えようとしている。
蠕動はやがて緩慢になり、その躯から体液はほとんど失われた。
『生物』が、息絶える、まさにその時――。
それは、聞こえてきた。
いあ いあ しゅど める
いあ いあ しゅど める
その『生物』がどのような方法で音を感じ取っていたか、またその音をどのように理解していたかを、常人が推察することは到底不可能だっただろう。しかしその音は、『生物』のおぞましい生命に確実に干渉をはじめていた。
いあ いあ しゅど める
いあーる むなーる しらーりー しゅど める
一定のリズムを保ちつつ、それは続いた。
となるろ よらならあく しらーりー のいくろむ
のいくろむ らじあに よならるか しゅど める
あたかも、歌のように。
歌。
それはまさしく、歌だった。大勢の何者かが、詠い、唱えるもの。
詠唱だ。
となるろ よらなるか いあ いあ しゅど める
ふんぐるい むぐるうなふ くん やん ふたぐん
いあ いあ しゅど める……。
『生物』が、大きく身じろぎする。もはや蠢くだけの力も残されていなかったはずの、その躯が。そして。
詠唱をかき消すような轟音が、闇を引き裂いた。それはおそろしく長い間続いて、発生と同様に、唐突に止んだ。
断末魔の叫びをあげ、わずかに残った生命も完全に失ったか、『生物』はもはやぴくりとも動かない。
詠唱はいつの間にか止んでいた。絶叫のあとにおぞましい静寂がふたたびよみがえり、臭気とともに闇を覆いつくしていった。そのなかをひそかに、狂気にまみれた歓喜が駆け巡ったことを、誰も知るはずがなかった。
ウィニマック、という村がある。
スペリオル湖南部に突き出た、半島様の台地、その付け根に位置する村だ。人口は五〇にも満たない。
榊、剣奈のふたりがその村に着いたのは、コパーヒルを出てから約二時間後――すでに日も暮れかかった夕方だった。
村はずれの道ぞいに奇跡のように建っていたモーテルを一室借り、本格的な調査は明日からとして、榊がスプリングのいかれかけたベッドに寝転がる。もっとも日中のほとんどを聞き込みと、シヴォレーの助手席に鎮座するという「拷問」につきあわされたせいで、それすら天国のように感じることができたのだが。
ベッドがふたつ、ユニットバスというのも馬鹿馬鹿しいくらいのシャワールーム、それだけは妙に頑丈そうな、古めかしいダイヤル式の金庫、スイッチをいれても砂嵐しか映らないテレビ、ほかに部屋にあるものといえば、ふたりの客とほこりっぽい空気だけだ。ブラインドもついていない窓から、不気味なほどに大きな夕日が地平線に沈んでゆくのが見て取れた。
――まあしかし、はるばる僻地まできたもんだ。
榊は味もそっけもない天井を見上げて思う。
ふたりがここにたどり着いたのは、コパーヒルで榊が聞き出した情報によるものである。榊はミネアポリスからやってきた新聞記者の名をかたり、いくつかの情報を引き出すことに成功していた。
まず、あの古書店にはよそ者の客が多かったこと。南部なまりの客どころか、ありとあらゆる国籍、人種の人間がある日ふらりと町に現れ、店内に入ったまま長い間出てこなかったのを町の人間何人かが目撃している。そもそも古書店の主人であるジェイムズ・キルビック自身が何年か前にこの町にやってきたよそ者らしかった。
第二に、キルビックの死因が咬殺――なにか牙を持つ生物によって喉を喰いやぶられたことによるショック死――であったこと。ただこれについてはそれらしい獣の目撃例もなく、死体に残った歯形からして既存の犬、猫科のどの生物にも当てはまらなかったらしい。実際新聞でも『するどい牙と強い力をもった、顎のリーチが短い生物』ということしか検死レベルではつかめなかったことを上げ、人間によるトリック説を推していた。
第三に、事件の起こった日、近所の何人かがガラスの砕ける音を聞いていること。時間は十一時を過ぎたあたりで、死亡時間とも一致している。もっとも彼らが聞きとれたのはその破砕音だけで、犯人を目撃できた者はいなかった。直後様子を見に行った死体の第一発見者が現場に到着するまで、一分程度しかかかっていないにもかかわらず、である。
そして最後に、殺人が起こった当日の午後、何人かの客がキルビックの店で店主と口論になっていたことと、その中で目撃者が顔を見知っていた男がひとりだけいたこと。
三〇代ほどの、痩せたやぶにらみの男で、名前はビル・ウィティカー。
目撃者である雑貨屋の主人の証言によると、その男は月に一度、かならず食料をわざわざコパーヒルまで買い出しに来ていたらしく、一度みじかい雑談のなかで自分がウィニマックに住んでいることを漏らしていた。数日のうちに警察は容疑者としてウィティカーを逮捕したが、結果は証拠不十分で釈放――ウィティカーは確かに犯行当時のアリバイがなかったものの、人間を一撃で喰い殺すペットも、偽装殺人に使った凶器も、キルビックを殺す明確な動機もまた持ち合わせていなかったのである。それでも警察はその後二度にわたって重要参考人として出頭を求めているが、いまだウィティカーが犯人だという決定的な証拠はあがっていない。
ふたりは、そのビル・ウィティカーを追ってウィニマックに来たというわけである。
「やっぱり、そのウィティカーってやつが犯人だと思うか?」
榊は視線だけを動かして、剣奈に尋ねた。剣奈はベッドのはしに腰掛け、愛銃を分解整備している最中だった。
「……まだ決めつけることはできないが」
視線を銃から外さずに、剣奈が応じる。
「おそらく事件に関連していることだけは間違いない。警察が逮捕できなかったのも、証拠が不十分だったからだ。つまり……」
「警察がつかめる情報ってのは、あくまで『常識』の範疇内でしかない、か」
「……正解だ。今回の事件には、超自然的な要素が加わっている」
「かもしれない、ぐらい付けてくれ」
榊はげんなりとして答えた。殺人事件と地震との関係をふくめて、榊も今回の事件が蛟の単なる杞憂ではないことに気づいていた。
現状で唯一の手がかりともいえるウィニマックは、ちょうど記事で読んだ地震の震源地の位置にほぼ合致する。その方法はさておき、ビル・ウィティカーが奪った魔術書を使って地震を起こしたと考えれば、事のつじつまが合うのである。
「そもそも、だ。魔術で地震なんか起こせるのか?」
「……直接的には、おそらく不可能だと思う……。可能だとすれば、依頼時に蛟の旦那から言ってくるだろう」
「あのダンナじゃあ、わからないけどね」
榊が混ぜ返した。なかば本気だったが。
「第一、そんなことができるとして、何をしようっていうんだ。世界征服かなんかか?」
「もっと大きいマグニチュードの地震が起こせるなら、不可能なことじゃない。ニューヨークやサンフランシスコなどの大都市ならば、いまの震度でもちょっとしたパニックを誘発できるはずだが……」
剣奈はバラバラになった部品を順に見比べ、ウィルディの部品のひとつを怪訝そうに見やった。手にとって視点をかえ、あらゆる方向から見てみる。
「……消耗しているな。取り替えてくるべきだったか」
「……誘発できるはずだが……何だって?」
拳銃フェチめ、と口の中だけで毒づき、榊が上体を起こして聞き返した。剣奈は榊に視線をうつし、あきらめたように銃の組み直しをはじめた。手元が見えていないはずなのに、驚くほど正確だった。
「……誘発できるはずだが、ウィティカーはここに戻ってきている。警察に追求されるデメリットを考えられないほど馬鹿とも思えん。一回目の地震がテストだったとしても、わざわざ面の割れた『ここ』でやる理由がない……」
「なるほど」
「つまり、このウィニマックでなにかをしようとしている、ということだ。逆に言えば、『ここ』でなければならない何らかの理由があるのかもしれん」
「地震は手段のひとつだってわけだ」
榊は両手を頭の上で組み合わせ、ベッドに再び倒れ込んだ。タイミング良く睡魔が襲ってきて、両目を閉じる。
――地震なんか起こして、何をしようってんだ。こんなど田舎で。
自分も愛刀の手入れをしておくべきかと考え、結局榊はそのまま眠りに落ちた。
寝覚めは最低、最悪だった。
別にベッドに文句を言うつもりはない……多少へこんでいようが、その程度で腰が抜けるほどやわな体はしていない。問題は、起きたときに目にしたものだった。
榊は妙な物音で目を覚ました。かすかな、ほんの小さな音だったが、一定の間隔で執拗に繰り返されるその音が榊の睡眠を妨げたのだった。
榊は軽くうなり、寝返りをうち、目を見開いた……そして、薄暗いモーテルの部屋のなか、自分に向けられた銃口を見ることになった。
「……なにしてんだ、きさまは」
その声に反応したわけではないのだろうが、銃は瞬時に消えていた。
剣奈が無言のまま直立不動の姿勢をとってベッドのなかの榊を眺めている。剣奈は上半身裸で、素肌の上に直接ショルダー・ホルスターを締めている。両手は空のまま両脇に垂らされ、さきほどまで榊を狙っていた銃はホルスターに収まっていた。
「なんのまねだよ、まったく。……おい、まだ6時前じゃねえか」
榊は不機嫌に言ってベッドから降り立った。と、剣奈が銃を引き抜き、榊に向かって狙いをつけた。
剣奈の腕がかすかに動くのが見えてから、榊の頭部に完璧に照準を合わせるまで1秒も要していない。見事な腕前ではあったが、だからといってそれをほめるような気分にはとてもなれなかった。
「おい! やめろっつってんだろ! おれを殺すつもりかよ!?」
榊は本気で腹を立てていた。すでに日本刀をつかんでおり、いつでも抜き打ちに剣奈を斬り倒せる体勢にある。すでに銃を向けられた状況ではもはや勝ち目はないが、刀の届く距離にいる以上、剣奈も無事にはすまない。
「ついにおれをやる気になったってわけか、え?」
榊の内部でぎりぎりと緊張が高まっていった。こんなところで死ぬのか、という思いはある。
こんなにも早く、仮にも仲間と思っていた男の手にかかって。だが、いつかはこんなことになるのではないか、と予想もしていたのではなかったか。剣奈諒という男の飲み込まれた狂気は、遅かれ早かれこのような事態を引き起こすことはわかっていたはずだ。
おもしろい、と榊は思う。
望むところだ。刀と銃と、どちらが早いか見せてやる。そう、奴と同じ狂気が、おれ自身のなかにもあるのだ……榊が鯉口を切った、その瞬間。
「たまは入っていない」
榊がまさに抜刀しようとしたとき、剣奈が低く言った。その口元には、あろう事か微笑が浮かんでいる。
「……なに?」
榊は体勢こそ崩さなかったが、精神的には完全に転倒したも同然だった。その様子を見て、剣奈はにやりと笑った。その笑みのほうが、銃口などよりよほど恐ろしかった。
「ただのトレーニングだ」
言うと同時に拳銃は素早くホルスターに納められていた。そのとき、榊が目を覚ましたときに聞こえていたかすかな音がした。榊の眠りをじゃましたのは、銃をホルスターに抜き差しする音だったのだ。
「……いったいなんだってんだよ?」
極限まで高められた緊張の反動で、いまや榊はすっかり脱力してしまっていた。一度は起きあがったベッドにどかりと腰を下ろし、大きく息をついた。
「日課なんだ。いつもこうして鍛錬している」
「へえ、それじゃあんたの家にはおれの顔写真入りターゲットがあるんだな。それで毎朝おれの頭を狙ってるわけか?」
「夜もやる」
手首、肘、肩と念入りにマッサージをしながら、剣奈は平然と答えた。榊はまさしく狂人を見る目つきで剣奈を眺め、ため息をついて頭を振った。
「あんたのユーモアセンスってやつにはついていけないな。まあいい。だが、2度とやるな。今度おれに銃を向けたら、必ず殺してやる」
「たまは入っていない」
「だからって人に銃を向けていいわけねえだろうが!」
榊の怒声にも、剣奈はまったく動じる気配がなかった。
「わかった。途中で起きるとは思わなかったんだ」
「寝ててもやるな!」
剣奈は返事をせずにホルスターを外すと、肌に浮いた汗をタオルで拭い始めた。榊はそれを見て、銃をホルスターから抜き差しするだけでこれほど汗をかくものなのかな、と思った。
「なあ、おれが起きるまでどれくらいそのトレーニングってやつをやってたんだ?」
「500回」
「……あんたはキチガイだ」
榊は呆れ果てて立ち上がり、自分自身の頭だけでもすっきりさせようとバスルームに向かった。
やけど寸前の熱湯と冷水のシャワーを交互に浴びているうちに、ようやく気分が落ち着いてきた。だが、冷静になって先刻の出来事を思い出すと、かえって困惑が深まった。
剣奈に銃を向けられたこと自体はそれほど心をかき乱されることはない……なにしろいつ何どきでも銃を撃つ機会を逃すような男ではないのだから。問題は拳銃きちがいの剣奈ではなく、榊自身だった……空砲だというあの言葉があと一瞬でも遅れていたら、刀を抜いていただろうか?
抜いていたに違いない、と榊は確信していた。それも、抜きざまに胴を両断するつもりだった。殺すつもりだったのだ。最初から殺気がなかったのはわかっていたのに、銃を構えた剣奈を見ただけで、瞬時に殺す気になっていたのだ。
……結局、おれもやつと同類か。
ひとり苦笑してシャワーを止めると、榊はタオルを手に取った。水滴を拭い、ジーンズをはくと、頭にタオルをかぶってシャワールームを出た。
「またバラしてるのか」
髪を拭きながら部屋に戻ると、またもや剣奈がベッドの上で拳銃を分解していた。こいつは拳銃さえ撃てれば悩みなんかないみたいだな、と思うと、いっそうらやましいような気さえした。
「おれはもう一眠りするよ。しばらく静かにしててくれ」
たいして悩みが続かないのは榊も同じだった。タオルを放り投げると、そのままの格好でベッドに潜り込む。
「騒いでいたのはおまえだが」
「黙ってろ」
あくびまじりに悪態をつくと、榊はすぐさま眠りに落ちた。今度は妙な物音にじゃまされずにゆっくりと眠ることができた。
2時間ほどして榊が再び目を覚ましたときには、剣奈は身じろぎもせずに椅子に座っていた。身繕いを完璧に整え、それこそぴくりとも動かずに真正面を凝視している。
心理学を専攻し、それに関係した本などを書いて生活している剣奈だが、自分自身の内面をまともに観察したことがあるのだろうか。あるいはそれだからこそ、このような人間になったのかもしれないな、と榊は思った。
身動きひとつしない剣奈を無視して、榊は着替えを始めた。といっても、ジーンズをはいて寝ていたのだから、ブーツを履いてシャツを着るだけのことである。
膝下まであるブーツに足を突っ込み、床を蹴りつけてかかとを奥まで押し込む。シャツに袖を通すと、日本刀を取り上げた。今度は鍔に指をかけたりはしない。
鞘の先端を、ガンベルトのように2重になったベルトの間に通す。鞘につけたストラップを左肩に回して、先端のフックを根本に引っかけて吊す。コートを羽織ると、脇の下に吊り下げられて体にぴったりとついた日本刀は、外からではほとんどわからなくなっていた。
「さてと……そろそろいくか。まずはコーヒーでも飲んで、ビル・ウィティカーとかいう野郎を探さなきゃな」
榊は剣奈に向かってモーテルのルーム・キーを放り投げた。剣奈はそれを右手だけの動作でつかみ取り、あいかわらず無言のままで立ち上がった。
モーテルの隣には、ウィニマック唯一の飲食店であるレイズ・ストアがあった。もっとも、人口50人のウィニマックではどんな店でも町で唯一のものなのだが。
このとんでもない僻地に奇跡のように存在するモーテルに、食堂兼酒場兼ガソリンスタンドのレイの店、食品と生活雑貨と医薬品を一手に取り扱うドラッグ・ストア、それだけである。警察も郵便局も役所もなく、町医者すらいない。
こんな土地に好きこのんで住んでいるのはどんな人間なのか、榊には想像もつかなかった。
「いらっしゃい」
温和な声で二人を迎えたのは、榊の想像をはるかに超えてまともな人間だった。40代半ばと見える店主のレイは、中肉中背でグレイの髪と髭をたくわえた感じのよい人物で、人好きのする穏やかな笑みを浮かべていた。
「レギュラーかい? それともハイオクかね」
榊はレイの顔をまじまじと見つめた。冗談を言っているようには見えなかった。
「アラブ人じゃあるまいし、朝からガソリンを飲んだりはしないよ」
榊の言葉にレイは破顔した。下卑た感じのない、上品な笑顔だった。
「いや失礼、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。町の外から来た人は、誰でも最初に給油を頼むものだからね。それじゃ、ガソリンじゃないとするとなにがご入り用かな?」
話しぶりまで上品な中年といったところだ。なぜこんな僻地でこんな男が商売をしているのか、榊にはさっぱりわからなかった。気を取り直して、榊はスツールに座りながら注文した。剣奈も隣に腰を下ろす。
「熱くて濃いコーヒーを。ミルクを一滴たらしてくれるとありがたいな」
「コーヒーをもう一つ。ガソリンはあとでハイオクを30ガロンもらおう」
レイはにっこりと笑ってコーヒーポットを手に取った。
「オーケイ。コーヒー二つ、ミルクは一滴、ハイオクが30ガロン。いい朝だね」
「まったくだ」
榊も笑みを返し、店内を見回してみた。思ったよりも広い店だった。
細長いカウンターには10人分のスツールがあり、それぞれ4人が座れるテーブル席が4つ。ウィニマックの住人の半分を収容できるだけの規模があるわけだ。夜ともなれば、町の男たちが……女も来るのかもしれないが……ビールを飲みに集まるのだろう。
もっともこの朝の客は、榊たちをのぞけば奥から2番目のテーブル席でレポート用紙かなにかを眺めている若い女性がひとりいるだけだったが。
「ここはいつもこんなに空いているのかな?」
沸騰寸前のコーヒーをすすりながら榊は聞いてみた。まずは世間話でもしてから、ビル・ウィティカーのことを尋ねてみるつもりだった。
「町の人間はもう朝食を済ませてみんな仕事に出ているよ。この時間にうちの店にいるなんてのは、物好きな学者さんくらいのものだね」
「学者?」
レイはテーブル席の若い女のほうへ視線を送って見せた。
「地震の研究だとかで来ている大学院生なんだそうだよ。こんな田舎に女の子ひとりで来るなんて熱心なことだね。なんでもこのあいだの地震は、それだけで論文が書けるくらい珍しいものとかで。まあ、確かに珍しいかもしれないな。私も生まれてこのかたほとんどずっとこの町に住んでいるが、地震なんてものには初めて出くわしたからね」
「ふうん、大学院生ね……ずいぶん若い感じがするけど」
そのとき話が聞こえたらしく、テーブル席の若い女がレポート用紙から顔をあげ、なにげなくそちらを見ていた榊の視線とぶつかりあった。
細い金縁のめがねをかけたごく若い女で、榊よりも年下だろう。20をいくつか過ぎた程度にしか見えない。
きれいな顔立ちをしているが、気は強そうな感じだ。ブロンドの髪を短く切っており、それも活動的な印象を与える。彼女は、すぐにまた視線を下に落としてレポート用紙を読み始めた。
「何か理由がなければ、誰もこんな田舎町に来たりしないよ。きみたちはいったいなにをしにここへ?」
愛想の良い声ではあったが、探るような目つきは隠せなかった。警戒されても当然だな、と榊は思った。実際のところ、榊と剣奈が二人で動けば、なにをやるにせよ騒動になるのは目に見えていたのだから。
榊は苦笑して名刺を……ミネアポリスの新聞社の名をかたった偽物だ……カウンターの上に差し出した。
「失礼。まわりくどいことをしてしまったみたいですね。そう、我々がウィニマックに来た理由というのは、取材なんですよ。話を聞かせてもらえますか?」
店主はカウンターの上の名刺をのぞき込み、顔を上げて榊と剣奈を見つめた。笑顔は消えなかったが、警戒した目つきにも変わりがなかった。
「新聞記者さんか……あまり、それらしくは見えないね」
そりゃそうだ、と榊も思った。そもそも、おれと剣奈の組み合わせが新聞記者だのなんだのとまともな商売に見えるほうがどうかしている。しかしまあ、ここはお得意の口八丁でごまかさなきゃならない。なにせ、剣奈の野郎はしゃべりが苦手ときてるんだから。
榊は笑みを浮かべ、わかっているといわんばかりにうなずいてみせた。
「だろうね。そもそもその名刺なんて飾りなんだよ。実際のところ、おれたちはそこの正社員なんかじゃない……フリーランスのライターなんだ。ただ、こうして取材をするには大手の新聞社の名前ってのは役に立つんでね。あんたには効果がなかったみたいだけど」
くだけた口調に戻り、あけっぴろげに話すことで店主の疑念を解消しようと試みる。真実を一つあかし、同時にもう一つの嘘をつく……どうやらうまくいったようだった。店主は笑ってうなずいた。
「なるほど。自由にやるにはいろんなテクニックがいるわけだ?」
「飯を食うためだからね。他にもいろんなやり方があるが、企業秘密ってやつでね。これ以上は教えられない」
「わかったよ。で、なにが聞きたいのかね? もちろん、あのビルのことだろうな」
ビル、という名を口にするとき、この温和そうな男の口調には明らかな蔑みの響きが加わっていた。
榊は驚きを覚えたが、同時にビル・ウィティカーの情報を得るのにはそれほど苦労しなくてもすむことがわかった。誰でも、嫌いな奴の悪口には口が軽くなるものだ。
「そう。ビル・ウィティカー。彼はこの町の住人だそうだね?」
「元のね。元住人だよ。もうこの町にはいない」
「いない?」
「町のみんなで彼を追い出してやったんだ」
急速に温和さを失ってゆく店主の顔を、榊は無言で見つめた。
店主の話では、ビル・ウィティカーはもともとこの町の住民ではなかった。
数年前、このがりがりに痩せたやぶにらみの男は、ふらりとこの町に現れた。町外れの廃屋を買い取ってそこに住み、町の人間とほとんどつきあいをもとうとしなかった陰気な男は、好意をもって迎えられたとはいえないにせよ、最初のうちは誰も疎んじたりはしなかった。こんな僻地に住もうとする以上、元からの町の住民にも多少は変わった人間はいたからである。
ところが、しばらくすると町の様子に変化が現れ始めた。
最初は、よい方向への変化だったといえるかもしれない……少なくとも飲食業をやっている自分にはありがたいことだった、と店主のレイは語った……蠅やゴキブリ、蚊といった虫がいなくなったのである。最初は誰も気づかなかったのだが、やがて各家屋に蔓延していたネズミまでもが姿を消すころになると、その急激な減少、というよりも消失を不思議に思うものが出てきた。
さらにそれは、町の周囲を覆う森林地帯にまで広がり始めた。森には、ウサギなどの小動物が多数生息していたのだが、いつかその姿が全く見られなくなってしまったのだ。
そのころになると、町の一部では奇妙な噂が流れるようになっていた。いわく、虫や動物たちが消えてしまったのはビル・ウィティカーのせいであると。
最初それは単なるたわ言に過ぎなかった。無責任な噂を流し、よそ者だからといって毛嫌いするようなことはよくないと諭すものもいたくらいである。
しかし、徐々にではあるが確実に噂には尾ひれが付き始めていた。
ビル・ウィティカーの家のなかから何十何百というネズミの鳴き声が聞こえた。深夜、大勢の怪しげな風貌のよそ者がビル・ウィティカーの家に入ってゆくのを見た。奇妙な、歌うような何かの呪文のような合唱がビル・ウィティカーの家から聞こえてきた。ビル・ウィティカーの……
ついに、ある家の子供が姿を消すに至って、町の住人の不信と恐怖は頂点に達した。結局のところ、その子供はビル・ウィティカーの家とは反対方向の町外れに乗り捨てられていた廃車のなかで眠り込んでいただけなのだが、それと判明するまでの間に町の住人の集団ヒステリーは暴発してしまっていた――ここからの話はオフレコにしてくれないか、と店主は断って再び話を始めた――ウィニマックのほぼ全住人がビル・ウィティカーの家を取り囲み、子供の居場所を詰問した。ビル・ウィティカーが答えられないでいると、彼を町の外に追い出した。
おそらくはリンチもあったのだろうが、そのことについては店主のレイも語ろうとはしなかった。
「……それで、ビル・ウィティカーの家のなかにはネズミの大群やら怪しげな風貌のよそ者やらはいたのか?」
「いや。それらしいものはなにもなかったよ」
「すると、あんたたちは確たる証拠もなしにビル・ウィティカーをつるし上げて町から放り出したわけだ」
皮肉な口調で榊は言ってのけた。これでは中世の魔女狩りと変わらない。してみると、この上品そうな中年の男は異端裁判の裁判官というわけだ。けっこう似合いの役どころかもしれなかった。
「そういう言われ方は心外だ。私たちは、今でもあれは間違ったことだったとは思っていないからね」
「それはまたどうして?」
店主は再びあの穏やかな笑みを浮かべた。今度は、その笑顔が無実の女に火炙りの刑を宣告するもののように見えた。そして、魔女狩りの裁判官はビル・ウィティカーの罪状を読み上げた。
ビル・ウィティカーは(おそらくは集団リンチのあとで)ウィニマックの町を追い出されるとき、妙な捨てぜりふを残していったという。
「このようないわれのない不当なおこないには、必ずやそれにふさわしい報いがあることを覚えておくがいい。これまでに起こったほんのささやかな出来事は、それだけで終わることなどない。私はここを出ていくが、それは永遠にというわけでは決してないのだ。そして貴様らは知ることになるだろう、すばらしき世界は、もう目の前にあるのだということを」
店主は陪審員に向かって、どうだね、というようにうなずいてみせた。
「彼は狂っていた。本物の狂人だった。あのとき私たちがやったのは正しかったことだと思うね」
そう言った店主の目の奥にこそ、狂気が宿っているように見えた。
榊は店主から視線をそらし、終始無言のままの剣奈をうかがった。相変わらずの無表情だが、これまでの話からも何か考えていることはあるはずだった。剣奈の推理はあとで聞くことにして、店主のほうへ視線を戻した。
「それで、ビル・ウィティカーはいまどこに?」
「ウィニマックの北に延びる半島の先、スペリオル湖の湖畔に引きこもっているようだ。私たちとしても、彼がこの町に近づきさえしなければ、もうあのことは忘れてしまおうと思っている」
リンチのこともな、と榊は思ったが口には出さなかった。そのかわり、話を変えて先の奇妙な地震のことについて尋ねてみた。
「地震のことはなにもわからないな。なにしろ、さっきもいったように初めての体験だったしね。そのことなら、そこの娘さんに聞いたほうがいいんじゃないのかな。専門家だそうだからね」
そうさせてもらうよ、といって榊はスツールから立ち上がり、店主に取材の協力に感謝の言葉をかけてテーブル席にいる専門家のほうへ向かった。かすかに剣奈が顔をしかめるのが見えたが、かまうことはない。ここは榊の領分だった。
「今の話だが……」
一歩踏み出したところに声をかけられ、榊は店主を振り返った。店主のレイは思案顔で榊を見ていた。
「記事にはなるのかね?」
榊は首を傾げて一瞬考え込む素振りを見せ、そして首を振った。
「いや。売れるような記事にはならないだろうな。おもしろおかしく脚色すれば、三流のオカルト紙にならなんとかなるかもしれないが」
店主はなにやら満足そうにうなずき、店の奥へと入っていった。店主の姿が消えると、榊はため息をついて首を振った。やはり、こんな僻地に好きこのんで住んでいるのはどこか変わったところがあるからなのだ。榊は気を取り直して大学院生に近づいていった。
「ここ、いいかな? 少し話を聞かせてもらいたいんだけど」
榊は返事も待たずにテーブル席の向かいに腰を下ろし、自分で「口説き笑顔」と呼んでいる笑みを向けた。榊は自分自身の美貌が女性に及ぼす影響というものを過不足なく理解しており、こうした場合にはそれを最大限に利用するすべを心得ていた。
しかしどうやら、今回はそれがうまくいっていないようだ。
彼女はレポート用紙から顔を上げ、めがねとともにそれをテーブルにおいて榊の顔を見つめていた。
きれいな顔立ちだった。目、眉、鼻、口と、すべてが細く一見たおやかな感じだが、全体としては気の強そうな印象を与える。肌はなめらかだがほどよく日に焼けており、見事なブロンドをわりとおおざっぱに切りつめた髪型とともに活動的な感じがした。
半袖のシャツと足にぴったりと合うジーンズに包まれたその体もすらりとして均整がとれており、かなり美形の部類にはいるだろう。
しかしその視線は冷たく、警戒心とともになにやら怒りのようなものまで感じられた。そんな目で見られるのは、実際のところ久しぶりだった。
「話が聞きたいのなら、まず最初に名乗ったら?」
声までとげとげしい。アプローチを失敗したかな、と榊は後悔し始めた。
「ああ、そうだね。その……」
「さっきの話、聞こえてたわ。フリーのライターだとか」
名刺を取り出そうとする榊の動きを制するように声がとんできた。どうも相手のペースにはまりすぎてるようだ、と榊は柄にもなく動揺した。
「……そう。おれは榊、シロー・サカキ。で、そこにいるのがリョー・ハヤナ」
榊は近くのスツールに座った剣奈を親指で指していった。剣奈の顔は無表情だが、どことなくおもしろがっている感じがある。それが腹立たしかったが、目の前に座った若い女からどうやってとげをとったらいいのか、榊にはさっぱりわからなかった。そもそも、こんな風にいきなり敵意を向けられる理由がわからない。
「それで、きみの……」
「名前はミシェル・カーライル。さっき聞いたと思うけど、大学院で地質学を専攻しているの。このウィニマックに来たのは、修士論文のための実地調査」
「ああ、なるほど。ところで、名前からするとフランス系みたいだね?」
何とか会話の主導権をつかもうと試みるが、ここで名前の話など持ち出して遠回りするのはうまくなかったのではないか、言ったそばから榊自ら後悔していた。
「そう、あたしはカナダ人なの。フランス系カナダ人。ケベックの出身よ。あなたたちは日本人ね?」
「ああ、生まれという意味ではね。で、地震の話なんだが、専門家としてのきみの……」
ようやく気持ちをほぐせたか、と思った矢先に次の言葉が突き刺さってきた。
「記者だなんて嘘ね」
「え?」
思わず間抜けな言葉を返してしまった榊に、またしても冷たい視線が向けられていた。
「武装してる記者がいるなんて思えないもの」
「なんだって?」
阿呆のように聞き返したとき、ミシェルの右手が榊のコートをひっぱっていた。止めるひまもない素早い動きだった。脇の下につった日本刀が丸見えになる。それを目にしても、ミシェルの表情に変化はなかった。
「すごいのをもってるのね。そちらは拳銃、でしょ?」
初めて自分に向けられた言葉に、剣奈は軽く目をみはった。この男の場合、それは非常な驚きを示していることになる。なにしろ、剣奈のウェルディ・オートマグナムはシークレット・ホルスターに注意深く収められており、素人目にはまずわからないはずだった。そしてそれは、榊の日本刀にしても同様だった。
榊は素早く剣奈に向かって目配せする。剣奈は小さくうなずき、スツールから立ち上がってカウンターに10ドル紙幣を置いて歩き出した。ミシェルに視線を戻し、榊も座席から腰を浮かせた。
「どうもおじゃまだったようだ。また、出直すことにするよ」
「ちょっと待って」
ミシェルも同時に立ち上がり、榊の袖をつかんだ。出入り口近くに立っていた剣奈も振り返る。
適当ないいわけをして榊がその場を去ろうとしたとき、いきなりミシェルの右手が襟元をつかんで引き寄せた。意外にも強い力で、とっさには榊にも逆らえなかった。
なにをするつもりなんだ、といぶかった瞬間、いきなり榊の視界がぼやけた。
なんだ? おい、床が見えるぞ、あれ、今度は天井だ……奇妙な浮遊感のなかで榊は混乱したが、すぐにその思考さえ断ち切るようなすさまじい衝撃がきた。
榊は堅い木のフロアに背中から叩きつけられ、胸まで突き抜けるような激痛に一瞬呼吸が止まった。
「………!!」
呼吸をしようにも肺が空気を取り込もうとしてくれない。いまや全身を走り抜ける痛みのために、榊はフロアを転げ回る羽目になった。
一本背負いだ、あの女は柔道をやっている。それも護身術なんてレベルのものじゃない、高位有段者の投げだ。
榊は苦痛にのたうちながらミシェルを見上げたが、彼女は榊を一瞥もくれずに無視し、剣奈のほうへ向かっていった。
榊を投げ飛ばしたミシェルはやっとエンジンがかかったところという感じで、なにか熱気のようなものを発散し始めていた。ややせわしなくなっている呼吸を整え、剣奈をにらみつけている。そのきれいな顔には、まだやる気は十分という感じが見て取れた。剣奈の顔には興味深げな表情が浮かんでいた。
「あなたの相棒、本物のサムライかと思ったらぜんぜんたいしたことないのね。あなたはどうなの? 彼よりはうわてに見えるけど」
剣奈に向けたその挑戦的な言葉は、榊にある女のことを思い出させた。以前榊も、その女から似たような台詞を言われたことがあった。
「身分詐称と武装くらいのことで、そこまでする必要があったのか。ここは自由の国アメリカだと思っていたが」
「知ったことじゃないわ。あたしはカナダ人だもの」
ミシェルは挑発するように笑ってみせた。まずいことになりそうな気配だった。この女は、いったい誰に喧嘩を売っているのかわかっていない。
「やめておけ。おれはやつと違う。女だからといって手加減するようなまねはできない」
「手加減ですって?」
ミシェルの声が怒気をはらむのがわかった。本当にまずいことになりそうだ。
実際のところ、剣奈は手加減というものを知らない。剣奈が刃物をもった女の手首をマグナム弾で吹き飛ばしてしまったのを、榊は見たことがあった。榊は荒れる息をどうにか整え、痛みをこらえながら体を起こした。
「いてて……とんでもない女だ。アメリカ版めぐみだよ、この娘」
立ち上がりながら思わずつぶやくと、はっとした様子でミシェルが振り向き、驚いた表情を見せた。
「カナダ人だそうだ」
ひとり冷静な剣奈が指摘してのけた。
「それがどうした。同じ北米人じゃないか。まったく、さすがにアメリカは広いよ。めぐみみたいな女、そうざらにはいるもんじゃないと思ってたのにな」
「秋野も似たようなものだったが」
またしても細かい剣奈の言葉に、榊は腰に手を当てて背を伸ばし、痛みに顔をしかめるのと同時に苦笑してみせた。
「そういやそうだな。そろいもそろっておかしな連中ばかりってわけだ」
「……ずいぶんタフなのね」
低い声でミシェルがつぶやいた。また一段と剣呑な雰囲気が強まっている。ただ話を聞こうと思っただけなのに、ずいぶんとおかしな具合になってきていた。
「まあね。小説の台詞であるだろ、タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がないってね」
「あたしが女だから手加減したっていうの?」
榊はわざとらしくおどけた様子で両手を広げてみせた。
「そりゃそうさ。ま、次からは得物をもった男二人を相手に喧嘩をふっかけるなんてばかなことはやめたほうがいい。おれはともかく、剣奈がその気だったら、きみはもう腕の一本くらいなくしてるよ。そいつの早撃ちはクリント・イーストウッド並なんだ」
「この!」
ミシェルが再び榊に向かって動いた……素早い動き、理にかなった組みつきかただったが、いくらなんでも二度も女に投げ飛ばされ、息が止まるのはごめんだった。
繰り出されるミシェルの手の動きを見て、易々とその両手首をつかんで引き寄せた。今度はミシェルが体勢を崩し、榊の胸に飛び込む形となった。ミシェルは驚き、抱きすくめられた格好で悔しそうに榊の顔を見上げるしかなかった。
榊は笑ってその目をのぞき返した。
「惜しいね。時間があればきちんと口説いてみたいが、今はそのひまがない。縁がなかったかな」
そういってミシェルの手を離してやった。彼女は顔をしかめて榊をにらみつけたが、もう立ち回りをやる気は失せているようだった。
「どうかしたかね? なにかすごい音がしたが」
そのとき店主が奥から戻ってきてのんびりとした声をかけてきた。店を壊される寸前だったということには全く気がついていないようだった。
「なんでも。コーヒーとビル・ウィテカーの話、ごちそうさま。ところで、彼がもと住んでた家ってのはどこに?」
榊は店主のレイに負けず劣らずの愛想の良さでたずねた。ミシェルはじっと立ちつくしたまま何かを考えているようだったが、その表情からはなにもわからなかった。
「ここを出たら右にまっすぐ行けばいい。すぐ町外れに出る。その先にぽつんと一軒廃屋が建っているからすぐにわかるよ。もっとも、そんなところへいったところでなにもない。私たちも多少は調べてみたんだ」
「ま、とにかく行ってみるさ」
榊は店主に手を振り、ミシェルに向かってはウィンクをしてみせた。ミシェルは目を見開き、すぐに顔をそらした。
レイの言ったとおり、ビル・ウィティカーのもとの住居はすぐにわかった。それは廃屋などというしろものではなく、吹けば飛ぶようなほったて小屋にしか過ぎなかった。
蝶番がはずれかけたドアは開け放たれたままで、ほとんどの窓ガラスは割れていた。ここを取り囲んだとき、町の住人が割ってしまったのだろう。
「ひどいもんだ」
榊は大仰にため息をついて、剣奈を振り返った。
「さて、魔術師のお宅拝見といくか。ここはあんたの出番だな」
榊と剣奈はゆっくりと玄関へ上がる階段をのぼっていった。
榊が廃屋のなかへはいると、剣奈のほうは入り口の前に立ち止まって足元を眺め、すぐになにか納得したような表情を浮かべて顔を上げた。
「どうした? なにかあるのか」
「いや。ないんだ。『古き印』がな」
「『古き印』? ああ、古書店にあったっていうあれか」
剣奈がうなずいて先を続けた。
「予想されたことだ……おそらく古書店の店主は、ビル・ウィティカーを近寄らせないためにこそあの印を用いたんだ。やつらは例外なく『古き印』を恐れ、忌み嫌う。なぜならそれは、やつらがうやまい、付き従い、奉仕する化け物どもを撃退した大いなる存在の象徴であり、その力を分け与えられたものだからだ」
「やつらか……」
榊は苦い表情でつぶやいた。やはりそうなのか。蛟拝人がこの事件に榊たちを使うからには、必ずやつらが絡んでいるだろうとは思っていたが、すでに剣奈は確信しているようだ……ビル・ウィティカーがあの恐るべき化け物ども、『旧支配者』の眷属に仕える魔導士であるということを。それは榊にもうすうすわかっていた。
剣奈も同様だが、榊は偶然を信じない。古書店店主の殺害、魔導書の紛失、そこで見かけられたビル・ウィティカーの姿、そして突如起こった不可解な地震。ここウィニマックでの出来事……すべての偶然は、必然として現れる。なにもかもがビル・ウィティカーを中心に始まっているのだ。
「まったく……」
それだけいってため息をつくと、榊はマグライトを取り出して廃屋のなかに踏み込んだ。剣奈も自分のライトを点灯してあとに続く。
がらんとした薄暗い屋内はほこりっぽく、最低限の家具しかなかった。床は散らかり放題で、割れたガラスの破片や壊れた家具のほか、ありとあらゆるゴミくずが散乱していた。家具は引き倒され、めちゃくちゃに荒らされていた。町の住民がおしかけたとき、素人らしい荒っぽい手際で家捜しをしたのだろう。
そんなことをしても無意味だったはずだ……あの種の魔導に関連したものは、素人が眺めてそれとわかるようなものではない。ホラー映画に出てくるような黒魔術とはおよそ異質なものなのだ。
ひととおり屋内を探し回ったが、とくにそれらしい痕跡は見つからなかった。剣奈が奥へと通じる扉を見つけ、そこを開いてなかを照らしだしたとき、廃屋の前に人の立つ気配がした。
榊は振り返って、玄関口へ出ていった。そこには、先ほどまでレイの店にいたミシェルが立っていた。
「……なんできみがここへ?」
ミシェルはまたしても先ほどの挑戦的な笑みを浮かべてみせた。
「銃と刀をもった記者さんが、こんなところでなんの取材をしてるのか知りたくてね」
「しつこいね……おい、どうだ?」
榊は振り向いて、台所らしい小部屋から戻ってきた剣奈に向かって怒鳴った。
「ここにはなにもない……あったとしても、とっくに運び出しているだろう」
「そうか。じゃあ、あとは野郎のいまのすみかに行ってみるしかないな……」
そこにまたミシェルが割り込んできた。どうにもやっかいな女だ。
「ビルとかいう人のところ? あなたたち、いったいなにを調べているの?」
「きみには関係ないだろ……」
榊は言葉をきり、ミシェルの肩越しに表に視線を投げた。怪訝そうにミシェルが振り返り、彼女も家の前に立つ男の姿を見た。ひどく痩せこけて血色の悪い男だった。剣奈も近づいてきて玄関に立った。男は薄汚れたぼろぼろの衣服をまとい、濁った目で榊たち3人をじっと見ていた。
「そこでなにをしている」
のどの具合が悪いのか、妙にくぐもった声で男はしゃべった。最初、榊はこの男がビル・ウィティカーかと思った。だが、この男は30代のビル・ウィティカーにしては若かったし、やぶにらみでもなかった。その貧相な容貌は、どこか奇妙なものがあり、それはなぜかねずみを連想させた。
「ビル・ウィティカーを取材したくてね。我々は記者なんだ。ところできみは? ビル・ウィティカー本人というわけじゃなさそうだが」
榊の問いには答えず、男の目の奥で何かが動いた。それは押し殺した怒りだった。
「でていけ」
男の声は、くぐもっているというよりはのどの奥で発した濁りのようなものだった。
「いますぐ、ここからでていけ」
男はそう言ってくるりと背を向け、森のほうへ歩いていった。若いわりに丸まったその背まで、なにかねずみを思わせるものがあった。
「おい、待て! きみはこの町の住民なのか?」
もはやなにも答えようとせず、男はそのまま立ち去った。榊は顔をしかめ、突然のことに驚いて立ちつくしていたミシェルはほっと小さく息を吐いた。
「おかしな野郎だな」
「なんだか危ない感じの人だったわね……あなたたちとは違う意味で」
「よけいなお世話だ」
剣奈を見ると、なにか真剣に考えているようだった。榊にはそれが、なにか過去の忌まわしい記憶をたどっているように見えた。剣奈が顔を上げて榊のほうを見た。この男にしては珍しく、そこには焦慮の表情が浮かんでいた。
『急ごう。おそらく今の男はビル・ウィティカーの手のものだ。おれたちを見て、彼に警告を与えにいったのかもしれん』
『だったらさっきの男を押さえるか?』
『かまわん。もう遅いだろう。いまは一刻も早くビル・ウィティカーのもとへたどり着くことだ』
『そんなにやばいのか?』
『おれの想像通りなら』
そこに、憤懣やるかたないという形相でミシェルが割り込んできた。
「ちょっと! 英語で話しなさいよ。今の男の人はなんだったの?」
「きみには関係ないといったろう」
厳しい声で言ったつもりだったが、ミシェルは一歩も引こうとしなかった。
「ふん、そう? もう地震のことは興味なくなったってわけ?」
「ああ、それはもうどうでもいいんだ。さあ、きみはもう帰ったほうがいい」
「どうでもよくなんかないわ。あなたみたいな怪しい新聞記者ならとびつくような話だと思うけどな」
「くどいぜ」
まるで警察官みたいなしつこさにはさすがに辟易したが、ミシェルはまったく気にしないようだった。
「あたしが地質学の研究をしていることはいったわよね。ウィニマックでの奇妙な地震が起こったとき、これは論文の素材になると思ったの。というのも、ウィスコンシン州にあるすべての地震観測所から、あの地震の前後のデータを集めてみたらおもしろいことがわかったのよ」
「震源地はきみの尻の下だったってわけか」
榊はふざけてまぜっかえしたが、ミシェルはたいして気にもせずに熱心に話を続けた。
「失礼ね。ともかく、地震が観測されたのはここウィニマックだけではないの。人には感知できないほどの微震だけれど、同じように局地的な地震がほかの場所でも起こっていたのが確認できたのよ」
「余震かなにかだろ」
「いいえ、ちがうわ。それらの微震はウィニマックでの地震より前に観測されているの。ウィニマックのあとにいっさいの揺れは観測されていない。そして、このデータを時系列順に並べてみると、微震はウィスコンシン州のはずれから始まって、時間を追うごとにこのウィニマックに近い場所で観測されるようになっている」
「……震源地が移動しているとでも?」
いきなりいやな予感がしてきた。榊は剣奈のほうを見てみたが、彼もなにか思い当たることがあるらしく、じっと考え込んでいた。
「そうよ。それも一直線にね。隣接する州の地震観測データにも当たってみたら、メキシコとの国境まで結果は同じ。南東の方角からまっすぐにこのウィニマックに近づいてきているの。それぞれの観測地点と時間から計算すると、ほぼ一定の速度でね」
移動する震源地。それは微震を伴って数万キロの距離を移動し、ここウィニマックで強大な局地地震として現れ、停止した。それがなにを意味するのか。
……あのなじみ深い感覚がやってきた。何度も経験しているが、決して慣れることのないあのいやな感覚。これは不安やおびえではない。そんな甘いものではない。腹の底にたまる異物のようななんともいえない恐怖が、全身に満ちてきていた。
「どう? おもしろいでしょう。あたしが思うに、これは今まで確認されなかった地殻の亀裂が……」
「興味深い話だけど、さっきもいったようにもうどうでもいい。いまはビル・ウィティカーって男のほうがおもしろそうだからな」
榊は感情のこもらない声で言って、ミシェルの演説を断ち切った。ミシェルはようやく黙りこんだが、少し傷ついたかのように見えた。だが、いまは他人のことを思いやるような余裕はなかった。
「それほどおもしろい研究なら、こんなところでおれたちみたいな門外漢に話したりしないで、早く論文を書いて学会かなにかで発表するべきだよ。この町で調査することがあるならそうするんだ。ま、お互い仕事が済んだときに時間があれば、ビールでもおごらせてもらうよ。じゃあ」
そうして、二人はミシェルと別れた。
それからほぼ2時間、榊と剣奈は半島の先に向かって灌木の森のなかを歩き続けていた。ビル・ウィティカーの住居へと続く道は、道などと呼べるようなものではなく、町を出るとすぐに車を降りざるをえず、蒸し暑い森のなかを徒歩で進む羽目になった。
榊は最初のうち、ひどい僻地へきたもんだとか、蛟の野郎はとんでもねえ詐欺師だとか、ミシェルという女は惜しいことをしたとか延々と不平を鳴らしたが、剣奈がなんの反応も示さないのでやめにした。そのうち話はウィニマックを襲った地震の話になっていた。
「ミシェルの話をどう思う? 震源地の移動、とか」
榊はそうした超常現象については門外漢だった。地質学関係の知識もなかったし、とくに魔術だのなんだのがからむものについては剣奈に一任していた。そもそも、剣奈こそが真正の魔術師なのだ。
「さあ。いくとおりか考えられるが」
「心当たりがあるのか? どういうことなんだ?」
「多すぎてどれかわからん」
「冗談じゃねえよ。なんか、ものすごくいやな予感がするんだ。映画であったよな、グラボイズとか……」
剣奈は返事をしなかった。まったく愛想のない奴だった。無駄に体力を消費したくないといわんばかりに、黙々と歩き続けている。
だいたい剣奈は、ひどく重い大型拳銃を自在に操れるわりには、驚くほど体力がない。銃ならいくらでも撃ち続けられるくせに、歩いたり走ったりとなるとすぐにスタミナが切れるのだ。拳銃キチガイめ、と榊は口の中で毒づいた。
やがて、森の小道はようやく開けたところにさしかかった。その先には、なにか建物のようなものも見えるようだった。
やっとついたな、と剣奈に声をかけようとした、そのときだった。
「あぶない!」
突然背後で声があがり、驚いて振り返ると、なにか黒い影のようなものが躍りかかってくるところだった。
第2章・了