『それは揺らぎからはじまった』
こあとる&sudo共著
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第1章
1988年というのは、日本人がアメリカを訪れるのによい年ではない。
というより、最悪の時期だった。
ジャパン・マネーが世界を席巻し、ことにアメリカの産業界を揺るがしていたためだ。アメリカの各企業、特に自動車業界は深刻な打撃を受け、人件費削減のために大幅なリストラを強いられた。
当然ながら大量の失業者が発生し、彼らが中心となっていわゆるジャパン・バッシングの気運が高まっていた。マスメディアも日本への攻撃色を強め、また政府がそれを後押しする形となった。
政府は自らの無能を日本へ責任転嫁することでごまかそうとしたのだが、国内情勢が逼迫したときには国民の目を外敵のほうに向けさせろ、という古くからの教えに従ったわけで、これは非常に効果的だった。
そんなわけで、ニューヨークやワシントンD.C.、ロサンゼルスやサンフランシスコといった日本人お気に入りの観光地域ではまだしも、アメリカ中・南部では激しい反日感情が吹き荒れることとなった。
もっとも、東西海岸地帯であっても、湯水のように金をばらまく日本人が好かれたはずがない。内心苦々しく思いながら、背に腹は代えられないと愛想を振りまいていただけにすぎない。
それに、日本人から貴重な外貨を絞り取るのは彼らにとって至上命題だったに違いない。
しかし、それすらできないアメリカ中部の住民にとっては、日本人はただ憎いだけの存在だった。
いま、榊志郎のいるウィスコンシン州の田舎町は、まさにそんなアメリカの一地方都市だったのである。
「……ジャップ」
憎々しげな響きのこもった低い声が、カウンターで生ぬるいバドワイザーを飲んでいた榊の背後から聞こえてきた。自分のことをいっているのはすぐにわかった……狭苦しいバーのなかには、他に日本人などいなかったからだ。
たいして気にはかけていなかったが、これほどまでにあからさまな敵意を向けられるとは、正直なところ榊も思っていなかった。バーのなかに一歩足を踏み入れたその瞬間から、燃えるような憎悪の視線が全身に突き刺さってきた。
しかし、これは仕方のないことだった。榊志郎という男は、黄色人種ということを抜きにしてもとにかく目立つ男だったからだ。
なによりもまずその容貌が人目を引いた。
男でさえ息をのむような美形だったのだ。
かといって、女のように整った顔立ちというのとはまるで違う。整ってはいるが、ある意味ではいかついとさえいえるほどの荒々しさを秘めた顔だった。力強さと繊細さを同時に感じさせる、野生の雄の顔だった。6フィートを越すすらりとした長身は、まさしく鍛え抜かれた肉食獣を思わせる。
また、そのときの服装がいけなかった。
特別変わった格好をしているわけではない……白いシャツに、洗いざらしのジーンズ、そのブーツカット・ジーンズの裾の下からは鋲の入ったカウボーイ・ブーツがのぞいている。この9月の暑いさなかにふくらはぎまであるコートを着込んではいたが、それにしたところで地味なカーキの薄手のもので、それほどおかしなものとはいえない。
にもかかわらず、その榊の姿は恐ろしく目立った。というのも、いかにもアメリカ的なその服装が、当のアメリカ人たちよりもはるかに似合っていたからだ。
そのままカウボーイ・ハットをかぶり、馬にまたがれば、マルボロのテレビCMにだって登場しそうに見えた。
それは、ある種理想のアメリカ男性像を具現化したものだった。その理想像が、こともあろうに黄色の日本人なのだ。これが癇にさわらないわけがなかった。
日頃の不摂生でだらしなく肥え太ったブルーカラーのアメリカ人が、羨望のあまりに自分に対する憎しみをつのらせているなど、榊には気づきようもなかったし、気づいていてもどうもしなかっただろう。3分の1ほど残ったバドワイザーを一息にあおると、空き瓶をバーテンのほうに押しやった。
カウンターの中にいるのはバーテンというほど上等なものではない……客を目の前にして、椅子にそっくり返り頬杖をつきながらテレビを眺めているような手合いだ。
「ビールをもう一本。次はもうちょい冷えた奴を出してくれ」
榊の言葉に、バーテンよりも早く背後の連中が反応していた。
「けっ、黄色の小僧が生意気なことをいいやがる」
先と同じ声。今度はさっきよりも大きい。
バーテン自身は返事もせずに足元の冷蔵庫を開け、バドワイザーの瓶を取り出して榊の前に置いた。
「……お客さんも悪いときに来ちまったなあ」
バーテンは空き瓶をつかんでまたもや足元にあるゴミ箱に放り込むと、独り言のようにつぶやいた。皮肉でも同情でもない。視線はテレビ画面から動かなかった。
「どういう意味だ?」
榊はビール瓶のふたをひねりながらきいてみた。今度は冷えたのが出てきたようだ。あるいは前のオリンピックからの売れ残りかもしれない。
「向こうのテーブルの奴らだがね」
バーテンはかすかにあごをしゃくってみせた。
ビールを飲みながら榊がそちらに視線をやると、テーブルを囲んでいる6人の男たちが険悪な目つきでこちらを見ていた。白人もいれば黒人もいるが、みな大柄の典型的な肉体労働者風であることが共通している。
「デトロイトから来てるのさ。仕事がなくなっちまってね。で、あっちに固まってるのがシリコンバレーの連中」
「へえ」
榊のもらした声はバーテン以上に気のないものだった。
「おれはトヨタの営業じゃないし、日立の技術屋でもないんだけどね」
バーテンの表情が初めて動き、にやりと笑うと榊を見た。
「ほら、日本でも言うだろう? プリーストが憎けりゃローブまで憎いって、ね」
今度は榊が笑う番だった。
「この店で日本びいきなのはあんただけかな?」
「だろうとも。ま、悪いことはいわねえから早めに宿にでも戻ったほうがいいと思うね。やばそうな雰囲気だから」
そういいながらも、バーテンは榊が押しやった空き瓶の代わりに新しいビールを出してよこした。今度のはまた一段と冷えていた。
「けんかでもふっかけられるかな?」
「さあねえ」
「どうでもよさそうだな。店が壊れるかもしれないのに」
バーテンはぼんやりとした目で榊を見た。壊れるのはあんただよ、というように。
「どうでもいいさ。どうせおれの店じゃない」
「へえ」
「週末だけのアルバイトさ。もめ事が多いからね、店主がいやがるんだ」
「おれだってもめ事をおこしたいわけじゃないが……」
榊は腕を上げ、コートの袖をまくって時計を見た。午後3時20分。
「連れがこなくてね。ここで落ち合って宿を探すつもりなんだ」
「お連れさんは日本人かい?」
「ああ」
「女?」
「ゲイシャ・ガールじゃないよ。冴えない野郎を待ってるのさ」
「へええ……」
バーテンはにやりと笑って榊の顔をじろじろとながめた。
「なんだ?」
「いやね。あんたみたいなとびっきりの色男が男と待ち合わせとはねえ」
バーテンのにやけた顔に、榊は苦笑いを返した。
「男にほめられても嬉しくないね……それにいまここで「ハイ、ハニー!」なんていってブロンド美女が現れたらどうなると思ってるんだ?」
バーテンの笑いが止まらなくなった。
「それこそどえらい騒ぎが起こるだろうな」
バーテンの笑い声は通りから聞こえてくるすさまじい轟音にかき消された。
マフラーをどこかに落としてきたような車のエンジン音だ。エンジン音がバーに近づいてくると、今度は甲高いタイヤの悲鳴がそれに取って代わった。ゴムの焼け焦げるにおいが店の中まで漂ってくるようだ。
エンジン音はバーの前で消えた。今や店の中にいる誰もが入り口のほうをみていた。この町の住民の3分の1はそちらを見ていたに違いない。
ドアが開き、男がひとり入ってきた。
薄暗いバーの中に午後の陽光が射し込み、男の姿は黒いシルエットとなって浮かび上がっていた。
ドアが閉まり、逆光がなくなっても、男の姿は黒々としていた。身に着けているなにもかもが漆黒なのだ。
ダーク・スーツなどではない、完全な黒の上下。黒のカッターシャツ。ネクタイは締めていない。黒光りするブーツ。濃いサングラス。やや長めの髪も黒い。唯一、肌の色だけが黄色人種のものだった。
やっと来たか。榊は小さくため息をついた。
剣奈諒、それがこの黒づくめの男の名だった。アメリカでの足になる車を探しに行っていたのだが、どうやらろくでもない車を見つけてきたらしい。その助手席に座ることを考えると、榊は早くもげんなりしてきた。
それにしても、まったく冴えない話だな。
榊は相棒の男をつくづくと眺めながら思った。
剣奈諒は小柄とはいわないが、榊より3インチほど低い背丈をしたやせぎすの男で、頬などはナイフで削ぎ落としたような感じである。その細身の体は、実際には太い骨格と強靱な筋肉によって支えられていることを榊は知っていたが、だからといって外見の印象が変わるわけでもない。
いつも青白い顔をしているこの無表情な男は、旅の友としてはまったくもって面白味に欠ける。
「……またジャパニーズがきやがったぜ」
一瞬のまれたように黙り込んでいたテーブルの男たちが再び敵意を燃え上がらせていた。
榊には聞き覚えのある声だった。「デトロイト組」のなかでもひときわ大きな体をした黒人が、黒衣の男、剣奈をにらみつけていた。
剣奈は、切れ長の表情のない目で黒人に視線をやった。
その冷たい視線は自分よりもふた回りほども大きな黒人の体格を確認しただけで、すぐに興味をなくしたようにそらされた。ゆっくりと榊のほうへ歩み寄り、隣のスツールに腰を下ろした。
「険悪だな」
ぼそりと、低い声で榊にいう。その生来の青白い肌には全くといっていいほど汗が浮かんでいない。
夏も終わりの季節だが、アメリカ大陸中部のウィスコンシン州はまだかなり暑い。榊も丈の長いコートを着てはいたが、それも含めてすべて薄手の服しか着ていない。汗が噴き出すというほどのものではないが、それでも冷えたビールのありがたみを味わっていたところなのだ。
『日本車をハンマーで叩きつぶしたい気分らしいぜ。おれたちを三菱自動車の回し者だと思ってる』
『おれは日産派だが』
「英語がしゃべれねえのかよ、くそジャップが」
またしてもGMかクライスラーのリストラ対象者が怒鳴っていた。日本語が分からずにいらだち、しかもそれを喧嘩の口実にしたいようだ。
もっとも、それは剣奈にしても同様だった。
「アメリカ至上主義か。失業問題もろくに解決できない国なのにな」
「なんだと……」
冷静というよりは冷酷なまでの剣奈の言いぐさにデトロイト組の黒人が絶句した。バーにいる全員がなかば呆気にとられて剣奈を見ていた。
「日本車のせいで仕事がなくなったか。しかし本当にそれだけのためか?」
さきほどまでいきりたっていた黒人が完全にのまれたように黙り込んでいる。よもや、ちびの日本人にこれほど毒気のある言葉を浴びせられるとは思ってもいなかったのだろう。
「ドイツ車はどうだ? 他のヨーロッパ勢は? みんな世界中に輸出されて、どれも売れまくっている。アメ車だけがだめなんだ。なぜなら、大きいことはいいことだ、という思想がそもそも間違っている。なんでもアメリカが世界一、そんなものはもう市場では受け入れられないんだ」
今や榊も唖然として剣奈の長広舌を聞くだけだった。今日のこの男はどうかしている。いや、いつもだってまともではあり得ないが、こんな演説をぶつなんてのはまったくもって剣奈らしくない。
「アメリカはなりが大きいだけの赤ん坊だ。おっぱいをもらわなければ生きていくこともできない。せいぜい、日本やドイツの乳首をかみ切らないようにすることだ」
「ジャップ……リメンバー・パールハーバー………」
それまで黙り込んでいた黒人が言葉をのどから絞り出すようにうめいた。怒りのあまり、膨大な筋肉をまとった体が小刻みにふるえている。剣奈の放つ極低温にやけどをしたようなものだ。
「そのせりふは没個性の極みだな。ハリウッドのお国が泣くだろう。今では、アメリカが世界に誇れるものなど映画とスポーツしかないだろうに」
それ以上は言わせなかった。黒人は無言で立ち上がると、猛然と剣奈に向かっていった。
巨漢の黒人がタイヤのように太い腕を振り上げ剣奈に殴りかかる。しかしそのとき剣奈はすでにスツールから立ち上がり、冷徹な目で相手の動きを見ていた。
黒い巨大な拳が剣奈の頭部をなぎ払う……そう見えた瞬間にはもう剣奈はそこにはいなかった。一歩相手のほうへ踏み込みざま、鋭く右手が突き出される。
剣奈の拳は、深々と巨躯の黒人の腹へめり込んでいた。
「………!!!」
声にならない悲鳴を上げ、黒人は前のめりにどうと倒れた。腹を抱え、血の混じった吐瀉物をまき散らしながら床中をのたうち回る。
「……やりすぎだ」
榊は顔をしかめた。これはもうただではすまない。デトロイト組の残りの連中はすでに立ち上がり始めている。シリコン組だってどう出てくるかわかったものではない。
「なあ、あんたのお連れさん、ありゃカラテマンかい?」
カウンターの中の店員が妙に興奮した面もちで聞いてきた。これから店の中でひと騒動起きそうだというのに、ひどく嬉しそうだった。
「いや。奴のは忍術さ」
「おお! ニンジャ! なるほど、あれが現代の黒装束ってわけだな! しかし、もう日本でも絶滅してるって聞いてるぞ」
絶滅というのも妙なものだが、榊の悪のりをどうやら本気にしたらしい。おかしな男だった。
「だとしたら、奴が最後の生き残りだな」
そのとき、がしゃん、という音がしたので榊は振り返った。見ると、デトロイト組の白人の一人がビール瓶を砕いていた。冷えたビールの瓶が、まがまがしい凶器へと姿を変えている。
その音がさらに2度続いた。手に手に凶器を持って、デトロイト組の残りの連中が剣奈のほうへやってくる。
「あらら……」
榊が間延びした声を上げた。凶器を目にしても、緊張感のかけらもない。彼と同じくまったく動揺した様子のない剣奈に声をかける。
「あんたひとりで大丈夫か?」
「問題ない」
その落ち着き払った言葉に、デトロイト組の連中はいきりたった。
「てめえひとりでいいだと? でけえ口をたたきやがって。日本人は黙って金だけ払ってりゃいいんだよ」
「ほう、ただの失業者組合かと思ったら物乞いだったのか」
嘲りや皮肉な語調ではない。淡々と、ただ事実をありのままにいうような剣奈の言葉に、彼らは完全に理性を失った。
「殺してやる!」
冷気と熱気のぶつかり合いのような騒ぎに背を向けて、榊は悠然とビールをのどに流し込んでいた。その彼のまわりに、太った白人とメキシコ人が近寄ってきていた。
「立ちな、黄色の色男。てめえの相手はおれたちがしてやる」
榊は背後に立つ二人を一瞥した。でぶは頭のてっぺんからつま先までシャワーを浴びたみたいに汗で濡れていて、薄汚れたTシャツが肌にぴったりとついていた。メキシコ人は対照的に涼しい顔だ。共通しているのは、ひどいアルコール臭と目の奥に燃える憎悪。
「さっきいったことは聞こえただろ。あんたらの相手は奴がする。おれの出る幕じゃない」
「ふざけるな。いまさらてめえだけ逃がしゃしねえ」
そのせりふを無視して剣奈のほうを見ると、ちょうど彼に飛びかかった男が膝頭に蹴りをくらってぶっ倒れるところだった。
「自分たちの心配をしてろよ。どうやって奴から逃げるかってね」
「なめんじゃねえ!」
でぶが砕けたビール瓶を持ち上げて叫んだ。榊は自分に向けられたガラスの刃をじっと見つめる。
「そうか。そんなにやりたければお相手するさ……けど、おれは素手の喧嘩が苦手でね」
いいざま、榊はスツールから降り立ち、コートをはね上げて右手を脇の下につっこむ。
でぶが身動きもできないうちに、榊の右手は再び抜き出されていた。メキシコ人のほうはその動きに素早く反応し、腰からナイフを抜き出して榊に切りかかろうとする……しかしその動作は途中で急停止し、その浅黒い顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
でぶもメキシコ人も凶器を手にしたまま凍り付いたように立ちつくし、榊の右手を凝視していた。
その手の中にあって、鈍い光を放つ長大な日本刀を。
バーの中の誰もが魅入られたようにその美しい凶器に視線を吸い寄せられていた。繊細な姿形をしながら、すさまじく鋭利な切れ味と破壊力を秘めた、日本でも屈指の工芸品に。
「おまえが先に抜くとはな」
誰もが息を飲み込んで見守るなか、さらにひとりの男の鼻を拳で叩きつぶしていた剣奈がつぶやいた。
次の瞬間には、その両手に2丁の拳銃が握られていた。テーブル席にいる全員を威圧するように構えられた銃は、ともに大ぶりのリボルバーとオートマチックで、これにはバーのなかのアメリカ人も見とれているわけにはいかなかった。
テーブル席の客たちは口々に何か叫びながら立ち上がり、少しでも拳銃から離れようと逃げ出していた。
もっとも、剣奈自身が入り口をふさぐように立っていたため、誰も外に逃げることができずに壁際に後退するだけだった。
榊の前に立ちふさがっていたでぶの白人も、ビール瓶を放り出してすっとんでいった。ナイフを手にしたメキシコ人だけが、まだ呆然としたままその場に立ちつくしている。
一歩、メキシコ人は前へ足を踏み出した。攻撃の意志があったとは思えない。呆けた表情のまま、バランスを崩したかのように前のめりに進んだだけだ。
しかし、榊の体はそんなことを考えるよりも早く反応していた。すっと持ち上がった刃が一直線にメキシコ人の左肩口へと振り下ろされる。
誰もがまっぷたつに両断されるメキシコ人の姿を想像してうめき声を上げた……だが、そうはならなかった。鈍く乾いた音とともにメキシコ人の体は床に沈み込み、一瞬あとには二つに折れた鎖骨を押さえて悲鳴を上げながら床を転がり回る羽目になっていた。
「峰打ちだよ……誰も死にやしない」
榊は日本刀の刃のついていない峰を見せながら陽気にいったが、誰も同調しなかった。口々に低い声で「ジャップ」、「サムライ」、「カタナ」、などとつぶやいている。榊は、時折狙いを変えながら銃を構えている剣奈に向かって肩をすくめて見せた。
「もうやる気はないみたいだぜ」
剣奈はかすかにうなずいたが、2丁の拳銃はおろさなかった。
「やりすぎだ」
「あんたにいわれたくないよ」
榊は苦笑して刀を鞘に収めた。カウンターを振り返り、陰に隠れてみているバーテンに声をかける。
「やっぱり騒ぎになったな。ビール代と、残りはチップだ」
カウンターに100ドル札を放り投げると、榊は残ったビールを飲み干すときびすを返した。いまだに壁際に寄り集まっている客たちに銃で狙いを付けている剣奈の肩を叩くと、入り口に向かった。
「おい! おい、あんた、ちょっと待ってくれ!」
ようやく拳銃をホルスターに納めた剣奈とともにドアを開けようとしたとき、カウンターから声がかかった。振り向くと、バーテンがなにやら興奮した面もちで榊に向かってさかんに手を振っている。
「あんた! 本物のサムライだったんだな。なあ、おい、サイン、サインしてくれよ! あ、あと写真も……」
一気にまくし立てるバーテンを見て、榊は思わず笑ってしまった。世の中には変わった奴が本当に多い。
「悪いね。おれはプロじゃないんでサインも写真もだめだ。それに、警察が来る前にふけたいんでね」
「警察……警察なんて気にしなくても大丈夫だよ! あ、おい、待ってくれ! それじゃあまたこの店に来てくれよ! 週末はいつもいるからよ!」
榊は笑って手を振り、バーの外へ出ていった。
「運が良ければね」
榊たちはバーをあとにし、剣奈のシヴォレーでコパーヒルの町外れへと走っていった。
すさまじいエンジンの爆音と排気音、堅いサスのせいで小さなギャップを乗り越えるたびに突き上げられ、そのつど車体はぎしぎしと異音をたてた。まったくもって乗り心地がいいとはいえない。そんなものは追求していないのだといわれればそれまでだが。
「どうする?」
剣奈が前方を見据えたままでむっつりといった。別に機嫌が悪いわけではない。たいていはこの調子なのだ。たとえさきほど、せっかく銃を撃てる機会がふいになっていたとしても。
「どうするっていっても、きょうのところはどうしようもないさ。モーテルでも探して、おとなしくしてるしかないだろ。ま、死人が出たわけでもなし、明日になれば騒ぎも収まるだろう」
「楽観的だな」
「だから、あんたにいわれたくないね」
榊は顔をしかめた。剣奈のせりふにというより、尾てい骨を突き上げる衝撃のためだったが。
「だいたい、蛟のだんなはこんなアメリカ大陸のど真ん中でおれたちになにをやらせようってのかね?」
「魔導書探し」
「あんたが来たのもそのためだろ。あんなものを読んでなんになる? キチガイになるのが早まるだけだろうに」
「おまえにはわからないだろうな」
「わかりたくもないね」
榊は低くつぶやくと、マルボロを取り出して火をつけた。煙を吐き出すと、2シーターの狭い車内に紫煙がくゆる。薄く煙る車内のなかで、榊は日本で蛟に呼び出されたときのことを思い出していた。
その日、榊士郎が「ディープ・ブルー」というバーに呼び出されたのは、日付が変わるまで一時間もないような深夜になってからだった。
幾度か来たことのある店内には、あまり客の姿はないようだった。ゆったりとしたテンポで、どこの国のものだかわからない弦楽器のメロディが流れている。このメロディが気に入った人間しかここの客にはなれない――ふと前にきいた噂を、榊は思い出した。根拠のないでもない都市伝説に苦笑する。この店内に五分以上の客が入ったところを、榊は見たおぼえがない。
店内を見渡すと、スツールの奥のバーテンと目があった。上品そうな物腰で一礼し、グラスを磨いていた手でテーブルのひとつを示す。すでにふたりの先客が待っていた。
「これはどうも――こちらへ」
うちひとりが、榊を見つけて声をかけた。そう大きくもない声だったが、不思議とはっきりと聞こえてくる。
「悪いね。遅刻しちまったよ」
言いつつテーブルにつき、榊はふたりを交互に見やった。
見知った顔ぶれだった。
ひとりは剣奈――剣奈諒である。分にもれず黒ずくめ、無愛想だ。ストレートのウィスキーがはいったグラスを、飲むでもなくもてあそんでいる。
もうひとり、先ほど声をかけてきたほうは、対照的にニコニコと笑って見せた。
奇妙な、違和感のともなう笑顔。
「とんでもない。予想の範囲内で」
グレーのジャケットと同色のタートルネックを着込んだ、三〇代ほどの男である。テーブルの上で両手を組み合わせ、茶色がかった瞳を榊に向けると、
「早速ですが、用件をお話しすることにしましょうか。剣奈君も貴方も、ご多忙でしょうから」
「そうでもないよ。有閑青年もいいとこさ。あんたほどじゃないにせよな」
「これは手厳しい」
男が笑みを深めた。
不快な笑みではない。にもかかわらず、榊はやはり違和感を覚えた。この男もずいぶんつきあいは長いが、これだけは慣れない。
蛟拝人、という名前以外のことを、榊はこの男についてほとんど知らない。
この店――「ディープ・ブルー」のオーナーであること。
自分たちのいわゆる「副業」の、パトロンであること。
今からする話が、間違いなくその「副業」の件であるだろうこと。
そしてその「副業」が、ひどくやっかいなものであるだろうこと――。
その考えにいたって眉をしかめた榊は、それ以上考えるのをやめた。
「で、今回はなにをすればいいわけだ?」
榊の思考を読みとったようなタイミングのよさで口を開いた剣奈に、蛟は一枚のコピー用紙を差し出した。英字の――おそらくはアメリカの――新聞の小記事を、拡大コピーしたものだった。
「ウィスコンシン北部で、地震を観測……?」
記事の見出しを読んで、剣奈がいぶかしげに呟いた。
「ウィスコンシン? ウィスコンシン州か?」
榊の言葉に、五大湖で有名ですね、と蛟が首肯する。
「この記事が、なんだって?」
理解できずに尋ねた榊の問いに、剣奈が応えた。
「あり得ない」
「何?」
「ウィスコンシン北部には、地震を引き起こすようなプレートは存在しない。地震が起こること自体不可能だ。……この記事にもそうある」
剣奈は榊の方にコピーをまわした。ウィスコンシン北部、スペリオル湖近くを震源地として、最大マグニチュード4.3の地震を一分近く観測、とある。剣奈の言うとおり、記事ではウィスコンシンには地震の原因となるべきプレートが存在していないことと、これだけの規模の地震が半径数キロ圏内でしか測定されなかった事実を疑問視していた。
「不発弾かなにかだったんじゃないのか?」
「一分近く爆発し続ける爆弾があれば、の話ですな」
苦笑気味に答えた蛟は、新たに一枚の写真をとりだした。ポラロイドかなにかで撮ったらしい粒子の粗い写真に、ふるぼけた一冊の本が写っている。
「『グラーキィ・アポカリプス』……ご存じですか?」
榊は剣奈の方を見やった。こういった知識は彼が専門だ。
「実物を見たのは初めてだが」剣奈はうなずいて言った。「二〇世紀初頭に、中東で発見された魔術書だ。秘密結社によってラテン語版が出ているはずだが、これは……」
「原本ですよ。表紙の書体から見ても、現在知られているいかなる文字、象形にも当てはまらない。中身を確認してないので断定はしかねますが、おそらくその発見された最初の一冊です」
剣奈の言葉を引き継いだ蛟が、つづけて話す。
「……これがつい一ヶ月ほどまえ、ウィスコンシンのある古本屋で見つかりました」
剣奈がわずかながら、目をみはるのがわかった。
「世界にふたつとない貴重なモノなんだろ? それがなんだってアメリカの片田舎の古本屋で見つかるんだ」
榊のセリフに、蛟は肩をすくめてみせた。
「私にもわかりませんね。それに、また消えてしまったことですし」
「消えた?」
「ええ。この情報が私のもとにとどいてすぐに。何者かが店主を殺害して奪っていったようです。それが今から三週間前、コパーヒル――くだんの震源地から、さほど離れていない町です」
「そのあとに、原因不明の地震……か。タイミングがよすぎるってことかい?」
「何らかの関連があるかも……と考えられないこともないでしょう? もし本物だとしたら、世界でも屈指の魔術書です。使う者によっては、大変なことになりかねませんなあ」
榊はげんなりとした表情をつくって、ポケットからホープを取りだし、火をつけた。やけにいがらっぽく感じる。
「そこで、おふたりの仕事ですが」
死刑宣告する判事の顔ってのはきっとこんな風に違いないと、榊は思った。
「盗まれた魔術書の捜索と、地震との関連があるか調査、というところか」
剣奈が言って、グラスを干した。あいかわらず無表情だ。もっとも彼の場合、魔術書がからんでいる時点で、仕事を受ける気になったろうが。
「ご明察で。明日一番の便を用意してあります。これは現地での活動費――成功報酬は、別途に用意させていただきます」
ファーストクラスの航空便のチケット二枚と、米ドル紙幣の束が差し出されるのを見て、榊は煙草の煙とともに力なく言葉を吐き出した。
「もっと遅れてくるんだったよ」
「だいたい、お前さんはいいとして、なんで俺なんだ?」
翌日の、午前中。
コパーヒルに向かうシヴォレーの車内で、榊はぼやいた。日本でのやりとりを思い出してしまったせいもある。この「副業」についているのは彼ら二人だけではない。それこそさまざまな能力に長けた人材が蛟のもとにいるはずだった。
「戦闘の可能性が高い、ということだろうな」
剣奈がハンドルをきりながら答える。黄塵をまきあげつつ、制限時速を倍もクリアしたシヴォレーが先行していたトレーラーを追い抜いた。
「すくなくとも俺たちが今まで組んだ連中のなかでは、俺とおまえがもっとも強い。戦闘経験も多いはずだ」
「左様で」
いちいちもっともらしい解答に、榊は嘆息した。
確かに、彼らふたりの戦闘能力は飛び抜けている。榊は実戦剣法五段――おそらくはそれ以上なのだろうが、彼の年齢では五段取得が最高なので――、剣奈は人間離れした銃の腕前。先刻の酒場の乱闘どころか、ヤクザの事務所ひとつをまるごと潰したことすらあった。個人の強さという点で見れば、世界でも屈指のレベルかもしれない。そのふたりが組むとなれば、軍隊くらいしか相手にならないのではないか。
相手が、『人間』なら。
「コパーヒルまで、あとどのくらいだ?」
「じきだ。標識があった」
型破りなスピードのせいもあってか、すぐに町並みが見えてきた。榊はダッシュボードのなかにつっこんである資料を引っぱり出して、読み上げる。
「カページ・ストリート226−2、『ジェイムス古書店』……裏路地だな。歩くか? 路駐になるけどな」
さすがにスピードをゆるめたシヴォレーが、人影もまばらな大通りにはいる。榊は車外からは見えない位置で、黒鞘につつまれた日本刀を差し直した。鍔鳴りしないよう改良された鞘は、ゆったりとしたロングコートですっぽりおおわれてしまい、見つかることはない。
「構わんだろう。そう長居するわけでもない」
剣奈も車を止め、人目がないのを確認してから銃を取りだした。ウィルディ・オートマグナム45口径――対人用拳銃では最高の破壊力をもつ凶器だ。遊底をスライドさせて薬室に弾丸を装填、弾装をはずして送り込まれた一発分を補充する。胸元のシークレットホルダにウィルディが再び吸い込まれるまで、五秒とかからない。
「行くぞ」
榊はうなずいて、シヴォレーのドアをあけた。
目的の店は、すぐに見つかった。
いや、もと店、というべきか。裏路地にひっそりと建っていただろうその古書店も、いまや惨憺たる有様だった。正面のウィンドーは砕かれ、そこからのぞく店内もがらんとしている。すでに片づけられた後らしく、ドアノブにかけられた『SELL ON』の札が微風にはためいていた。
「まあ、三週間前じゃあな」
すでに警察もさんざん調査した後だろう。あきらめ顔で周囲を見渡す榊を尻目に、剣奈はドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていない。
ドアをスウィングして店内に入りかけた剣奈が、ふと足を止めた。
「どうした?」
問いかけた榊に、剣奈は黙ったまま床面を指した。ドアを開けたすぐ入り口――すでにほこりがうっすらと積もった木製の床に、それは刻まれていた。
大きさ10センチほどの、少々いびつな五芒星、いわゆるペンタグラムである。その中心となる五角形の内側に、目のような象形が彫り込まれている。目の「ような」、というのは、ちょうど瞳に当たる部分が丸ではなく、S字状の線になっているためだった。
「『古き印』だ」
「魔術がらみかい」
剣奈がうなずいた。
「一種の魔除けのようなものだ。たいていの『小物』は、これでシャットアウトできる」
ウィンドー割って入ってくるワケだ、と冗談めかした榊だったが、剣奈は首を縦にはふらなかった。
「侵入者は、たしかにこれを避けて通ろうとしたのだろう……それはわかる。だがそもそもこれを避けて通らねばならないモノが侵入者だったとしたら」剣奈は分析するように言葉を切った。「ウィンドーからも入っては来られないはずだ」
「じゃあ、ただの強盗だった?」
「調べてみないとわからん」
剣奈はここでようやく、榊に向き直った。
「聞き込みをたのむ。俺はもうすこし、ここを調べよう」
「あいよ」
榊が表通りの方に出ていくのを見届けた後、剣奈はふと、あることに気づいた。当然といえば当然のことだったのだが――。
「この印を描いたのは、誰だ?」
予想できるとすれば、店の主人以外にない。だが一見何の変哲もない古書店の主人が、どうやってそれを知ったのか。彼が所持していた唯一の――それを確かめる手段はもうない――魔術書は、常人には読めるはずのないものなのだ……。
「思っていたより、複雑だということか」
剣奈はゆっくりと、店内を見渡した。砕けたウィンドー、壁際にならんだからっぽの本棚、ほこりのたまった床、店主の指定席だったろうカウンター。
カウンターの方へ足を向ける。
剣奈は小さく眉をひそめ、カウンターを見た。カウンターの上とその真下に、黒い染みが大きく広がっていた。
かわいて床にしみこんだ、血液だった。おそらく店主のものだ。カウンターから出る間もなく、殺されたのだろう。
どうやって? 剣奈は考え込んだ。いくつか仮定してみる。
真っ先に思い浮かんだのは、銃だった。そして真っ先に否定した。
これほど大量の血が出たとすれば、よほど大口径の銃弾を使用したことになる。たとえば彼のウィルディのような、マグナムだ。さもなければ炸裂弾。どこか肉体の一部がちぎれるような状態にならないかぎり、これだけの血は出ない。
店の外、たとえ路地の一番端から撃ったとしても、大口径弾なら貫通する。炸裂弾ならば破片が飛び散る。カウンターのうしろの壁には、弾痕はなかった。飛び散った血痕も、目をこらさなければわからないほどごくわずかだ。
ならば、刃物はどうだろう。近寄って、油断させた隙に喉を。ちがう。それではウィンドーが砕けている原因にはならない。
ウィンドーの穴は、人一人くぐれそうなほど広がっていた。だれかが体当たりで飛び込んでくれば、ちょうどあれくらいの位置に穴があく。
カウンターとの距離は、五メートル強。主人が熟睡でもしていないかぎり、犯人がカウンターにたどり着く前にそこを出ることができる。
剣奈の仮定は、そこで一番最初の疑問につながった。
なぜ犯人は、ウィンドーから入ってこなければならなかったのか。
なぜウィンドーからならば、入ることができたのか?
それまでの仮定は、すべて犯人が『人間』であった場合のことだった。もし犯人が文字通り人間離れした脚力と膂力をもちあわせていれば、この犯行も不可能ではない。すさまじい勢いで突進してウィンドーを突き破り、一秒とかからず主人を襲い、なおかつ一撃で深い裂傷をあたえて絶命させる……。
馬鹿げた仮定ではあったが、剣奈は榊を待つことにした。
馬鹿げた仮定ではあったが、当たっている自信があった。
第1章・了