【標準歴五〇〇八年四月六二日−西大洋海上】
ディーヒュン湾沖ではめったにないくらい空気が澄んでいて、水平線のはるか彼方まではっきりと見通せた。海上を吹く西風は強く、さすがに冷たかったが、雲一つない空から降り注ぐ太陽の光は夏も終わりとは思えないほど熱く照りつけてきていた。
コウリッジは双眼鏡を下ろして、額に噴き出す汗を拭った。逆さにしていた帽子を取って、くせの強い黒髪をくしゃくしゃとひっかきまわす。長時間直射日光の下に突っ立っていたせいで、ひどく蒸れていた。どうもこの暑さは髪によくないなあ、このまま海兵を続けてたら三〇歳も半ば頃にはすっかりはげ上がってるかもしれないなあ、とコウリッジはぼんやり考えた。赤道から三〇〇〇キロ足らずのこのあたりでは、年中が夏のようなものだ。
陸より涼しい風が吹くだけ海上のほうがましかといえば、そうでもない。重く湿った潮風がまとわりついてきて肌と髪をべたつかせ、どうにも快適とはいいがたかった。
今日などまだましなほうで、いつもならひどい陽炎か霧のために、肉眼監視などほとんど意味のないことのほうが多かった。もっとも、海の敵を探すのに目視以外の方法などとりようもないのだが。
「えらく見晴らしのいい日ですね、中尉。湾の港までよく見えますよ」
同じく海面監視に当たっている水兵長の言葉に、コウリッジは顔を上げた。
「ああ……まったく、この海域じゃめずらしいくらいだなあ」
コウリッジは髪をいたわりながらていねいになでつけると、今度は目深に帽子をかぶり直した。たしかに、遠く五〇キロ先のディーヒュン湾がかすみもせずに見渡せた。
五〇キロ。コウリッジの乗り組んでいる駆逐艦『ライドス』なら一時間足らず、ライドスと舳先を並べる大型漁業艦でも二時間はかからない。たいした距離ではないともいえる――そのあいだに、『ディープブルー』がなければ。
漁業艦『ザンダラ』の後尾で二基のウインチがうなりを上げている。鋼鉄のワイヤーで引っ張り上げられる底引網は、まだようやく両翼の袖網が見え始めたところだが、あのウインチのやかましさなら先の三回と同様にかなりの大漁だろう。
ザンダラの艦長がまた得意げな顔をしているだろうな――その本当に誇らしげになるまだ若い少佐の顔を思い浮かべて、コウリッジは笑ってしまった。その気持ちを読みとったかのように、水兵長も笑みを浮かべた。
「ザンダラの艦長が替わってから、ずいぶん景気がよくなりましたね。あの新任の少佐さん、頭ンなかに魚群探知機でもついてるんじゃないですか」
「変な音波でも出してるのかねえ。そいつで『人魚』どもを呼び寄せないで欲しいもんだなあ」
そりゃ願い下げです、と水兵長が苦笑したとき、足元からとんでもない大声が響き渡った。
「コウリッジ! 海面に異状はないか!」
「潮吹きひとつ見えやしませんよ」
艦橋に向かって怒鳴り返して、コウリッジは小型無線機のスイッチを確かめた。受信可能状態にある。やれやれ、とコウリッジはため息をついた。
「うちのおやじ、いいかげん艦内無線を使ってくれないかなあ」
水兵長もわざとらしく肩をすくめてみせた。
「あの大声なら無線なんぞいりませんよ。だけど、今日のおやじはやたらぴりぴりしてますね。これで三度目じゃないですか」
たしかに妙だな、とコウリッジは考え込んだ。いつもの艦長とは違う。めったにないほど良好な天候、まれな大漁――かえってそういったことが艦長に異状を感じさせているのかも知れない。
「下の様子を見てこよう。監視を続けてくれ」
「了解」
水兵長があわてて双眼鏡をのぞき込み、コウリッジは監視塔から降りた。
コウリッジが梯子をつたって艦橋に降りると、駆逐艦ライドス艦長のリーガンス大佐が無線機を手にして怒鳴っていた。漁業艦の艦長に、あとどのくらいで網を引き上げられるか、と大声で訊いている。
大声揃いの海兵のなかでも、リーガンスの雷のような声は飛び抜けて大きい。右舷側の窓からひげ面を突き出して怒鳴れば、漁業艦の新任少佐が飛び上がるんじゃないかというくらいのものだ。
艦長同士の会話が終わりそうもないので、コウリッジは帽子を取って尻ポケットに突っ込むと、とりあえずソナー担当兵に近づいていった。
「どうだ?」
「なにも。うんともすんともいいません」
たしかにソナー画面はその中心以外ほとんど完全な空白だった。探査音を発信しない受動作動状態だから、駆逐艦三隻と漁業艦のスクリュー音、あとは底引網と魚群がわずかに発する音が『見える』程度だ。
超音波を発信して反射音響を計測する能動作動なら、魚群探知はもちろん索敵も容易だが、それでは敵にもこちらの存在を知らせてしまう。超音波は艦船の発するスクリュー音などとは比較にならないほど遠方まで届くので、『人魚』どころかはるか沖合の『鯨』たちまで呼び寄せることになりかねなかった。
ソナーの超音波発信は索敵に使うのではない。兵器として使用するのだ。
「海面同様穏やかなものだなあ。それにしてはおやじが――」
「コウリッジ!」
『おやじ』の怒鳴り声にコウリッジはソナー画面から顔を上げた。リーガンスがしかめ面をして、白髪の混じった豊かなあごひげをしきりになでまわしている。なにかしら心配事があるときの癖だった。
「どうしました、艦長。なにか気になることでも?」
コウリッジが近づいていっても、リーガンスはしばらく無言であごひげをなで続けていた。ふいに手の動きが止まると、猛禽のように鋭い目がコウリッジを睨みつけた。新米の水兵なら震え上がるところだが、五年もこの眼光とばかでかい怒声に付き合ってきたコウリッジは今さら恐れ入ったりしなかった。
「妙だな」
リーガンスが低くつぶやいた。つぶやくといっても、地声が大きすぎるので艦橋中に聞こえるような声だったが。
「妙って、なにがです」
「どうにも厭な感じがするのだ。敵が近いのかもしれん」
リーガンスの言葉に、コウリッジも表情を引き締めた。コウリッジは上官のこうした予感を信用している。老練の海の戦士が長年に渡って培ってきた本能のようなものなのだ。
「船団に警報を出しますか」
リーガンスが命令すれば、船団は即座に戦闘配備に移行する。漁に当たっての進路決定などは漁業艦艦長に委ねられているが、戦闘となれば全艦がリーガンスの指揮下に入るのだ。
「そうだな……フェグナン少佐には、この水揚げで帰投すると伝えてあるが――」
「敵影見ゆ! 八時の方向!」
リーガンスの声に、ソナー担当兵の切迫した叫びが重なった。
「規模は!?」
リーガンスより先に怒鳴って、コウリッジはソナーに飛びついた。
ソナー画面の左下方に光点が八つほど。ちらちらと明滅してはっきりした数をつかむことはできない。
「『人魚』が八から一〇。この反応は、『石頭』だと思われます」
ソナー担当兵の判断にコウリッジはうなずいた。コウリッジもソナー画面に映る超音波の波形から、おおよその敵の種類を見分けることくらいはできる。
「接触まで一〇分というところか……艦長!」
「ぎりぎりだな……網は投棄しなければならないかもしれん。漁業艦に引き揚げを急ぐように伝えろ。二番、三番艦は密集陣形をしけ!」
リーガンスの怒声に張り飛ばされたような勢いで、通信士が無線機に飛びついた。残り二隻の駆逐艦に漁業艦を囲む防御陣を指示する。ライドスの操舵手も面舵をとり、艦を右舷の漁業艦に接近させていく。
「超音波魚雷を使いますか?」
ソナー画面に映る敵影を見て、コウリッジが訊いた。『人魚』たちも密集隊形を組んで接近してくる。群れの中央に一発撃ち込むだけで、かなりの効果を上げられるだろう。
「だめだ。他にも敵がいるかもしれん。コウリッジ、貴様は甲板で迎撃の指揮をとれ」
「了解」
コウリッジは艦橋を飛び出し、甲板に駆け下りていった。
コウリッジが甲板に降り立つと、呼ぶより早くカズネル一等兵曹が銛を片手にすっ飛んできた。陽に灼けた厳つい顔をわずかに緊張させて、コウリッジにきっちりと敬礼した。
「コウリッジ中尉! 小隊は全員戦闘配置についてます。指示を」
装甲服を着用して戦闘配置につかせろ、という言葉を飲み込んで、コウリッジはつくづくと三歳年長の下士官を眺めた。リーガンス艦長とは微妙に異なるが、カズネルもまた鍛え抜かれた海の戦士そのものだった。
頑丈そうなあごをした顔もシャツ一枚の上半身も見事な赤銅色に灼け、肌にはこれまでくぐり抜けてきた戦闘の激しさを物語る無数の傷跡が浮かんでいる。
とくに目立つのは右肩を大きく切り裂かれた傷で、これは海中で『人魚』と格闘した際につけられたものだった。海軍広しといえども、『ディープブルー』に潜って敵をしとめた水兵などカズネルくらいのものだろう。
そんな武勇談をもつ男が下級兵から受ける支持は絶大なものがあった。カズネルが波にもまれながらも『人魚』に食らいつき、銛を突き立てる瞬間まで見たコウリッジも、部下たちと同様に信頼していた。この男がいれば自分の指揮なんかいらないんじゃないかなあ、とコウリッジはまたしても思った。
「左舷後方から『石頭』が接近中だ。艦尾のスクリュー確保にあと三名を回せ――ああ、おい、カズネル!」
たちまち後尾へすっ飛んでいこうとするカズネルに、あわててコウリッジは声をかけた。
「はい?」
「きみも装甲服を着ろよ。それとも、また海に飛び込むつもりか?」
カズネルは照れくさそうに笑ったが、コウリッジの差し出した装甲服を手に取ろうとはしなかった。
「いや、二度とあんな無茶はごめんですよ。コウリッジ中尉こそ脱いでいたほうがいいんじゃありませんか。あのとき私を助けに飛び込んで、溺れかけたでしょう」
今度はコウリッジが苦笑して、装甲服を着込んだ。
水兵の使う装甲服は、ベストの生地に細い鋼鉄製のワイヤーを格子状に幾重も織り込んだもので、四肢の動きが制限されることはないもののさすがにかなり重い。実際、血まみれの部下を引き上げようと海に入ったあげく、気を失ったカズネルもろとも危うく海底まで沈んでしまうところだった。
「このジッパーってやつが海の中じゃ外れにくくてなあ……」
それでもきっちりと上までジッパーをとじると、無線機からソナー担当兵の報告が入った。戦闘中は常に、海中にある敵の位置を知らせてよこすことになる。
「カズネル、『石頭』を一二頭まで確認したそうだ。あと五分で接触するぞ」
「了解!」
今度こそカズネルは艦尾に向かって走っていった。銛を振り回しながら、リーガンス艦長にも劣らない大声で甲板の小隊に指示を出していく。コウリッジも銛をつかんで左舷側から艦尾へと歩いていった。
『人魚』たちとの戦闘に用いる銛は、火薬や発条あるいは圧搾空気によって射出するものがあるが、コウリッジはさらに原始的な昔ながらの大きな銛を使っている。甲板における指揮官なので海面を見つめて敵を攻撃する機会が少ないためもあるが、実際にはコウリッジにとってもっとも扱いやすいというだけのことだった。
「よし、海兵ども、得物の確認をしろ! 網の装填を忘れるなんて馬鹿なやつはいないな! 漁はすぐに始まるぞ、用意はいいか!?」
カズネルの怒鳴り声に、小隊の水兵たちが力強く答える。一等兵曹のとなりに行くと、コウリッジはうなずいて人差し指を立ててみせた。
「あと一分だ」
「一分前! 命綱をかけろ!」
部下たちが一分前、と復唱して腰ベルトにつけた命綱を舷側に固定した。コウリッジも命綱のフックをレールに引っかける。
命綱を固定するのと同時に、艦が加速した。『石頭』の頭突きでスクリューを破壊されるのを防ぐためだ。
敵部隊はすでに目視できる距離に接近しているはずだが、海面にはあいかわらず背びれも潮吹きも見えない。『人魚』たちはそのとんでもない肺活量を駆使して、長距離潜水をしかけてくる。ソナーで探知されているのは連中も承知だが、肉眼で捕捉できなければやはり攻撃は難しい。
敵部隊が二手に分かれ、うち八頭ほどがまっすぐライドスに向かってくるとの報告が入った。
「左舷後方から『人魚』が跳ぶぞ! 構えろ!」
コウリッジの指示に、小隊が一斉に武器をそちらに振り向けた。各種の銛に混じって、ばかでかい鉄砲のようなネットガンが宙に向けられる。火薬作動で網を射出・展開して『人魚』を無力化する装置だ。
「サナス、頭を下げろ!」
カズネルが叫んだ瞬間に海が弾けた。
海面で八つの白い波が花開き、『人魚』がしぶきとともに猛然と躍り出た。
白っぽい腹部が見えたかと思うと、凄まじい速度で跳びかかってくる。
背部と同じ藍黒色の前ひれを広げて飛来する、紡錘状の体型をした『石頭』は、最近開発中と噂されるジェット航空機を思わせる姿だ。前ひれに付けられたおそろしく鋭利な刃が、陽光を受けてまがまがしく輝く。長く延びた頭の頂部には、その名の由来である分厚く頑丈な頭蓋骨が飛び出し、半透明の妙な色合いをした装甲板がそこを覆う。
頭突きの標的にされた兵が、転がるようにしてすばやく横に飛びのく。ひれの刃も恐ろしいが、体長三メートルを超える『人魚』の体当たりをまともに食らったらまず骨が砕ける。
「左舷、網撃て!」
カズネルの号令で五丁のネットガンから網が射出された。三頭の『石頭』が網にかかった――だが、浅い。
「サナス!」
カズネルの切迫した声に、コウリッジは右舷側に視線を走らせた。艦を飛び越えて急降下する『石頭』の正面に、若い水兵が突っ立っていた。
まだ少年といってもいいような若者は、棒立ちのまま火薬作動の銛をぎこちなく構えている。その顔に激しい恐慌の表情が浮かび、若い水兵はなにごとか喚きながら銛を発射した。
炸薬の爆発音とともに銛が撃ち出されるが、かすりもせずにあさっての方向に飛んでいった。次の瞬間、水兵と『石頭』が交錯した。
『人魚』たちは再び海中へと姿を消した。若者の首とともに。
頭だけを『ディープ・ブルー』の深淵へと連れていかれた水兵の体は、銛の射出器を手にしたまま前のめりに倒れた。凄まじい勢いで吹き出す血で甲板が赤く染まった。
「くそっ! ばかやろう!」
カズネルが激昂して罵声をあげた。この一等兵曹に指揮官として欠けるところがあるとすれば、それは優しすぎることだ。兵ひとりひとりの負傷や死に対して平静でいられず、一瞬であっても我を忘れて怒り狂ってしまう。
コウリッジの胸に部下を殺された怒りや悲しみがないわけではない。だが、コウリッジは小隊指揮官として求められているものを承知していた。
「右舷、なにしてる! 網にかかった『人魚』どもを殺せ!」
無惨な死体に目を奪われていた水兵たちが、舷側に飛びついた。網にとらわれて海面でもがく『石頭』が二頭。一頭はすでに網を逃れていた。
次々と銛が撃ち込まれ、今度は海面が赤く染まった。
「艦尾から三頭、スクリュー確保!」
スクリューに接近するが水流で押し戻される『石頭』を狙撃させる。だが、これは『人魚』たちの囮だった。
「右後方から跳ぶぞ――」
コウリッジの迎撃指示は、あまりにすばやい『人魚』の跳躍に追いつかなかった。二人の水兵がすれちがいざまにひれで胴を強打されて悶絶し、一人が頭突きをまともに受けてヘルメットごと頭蓋骨を砕かれた。
着水を狙って銛を撃とうとした水兵が、別の方向から跳んできた一団に腕を深く切り裂かれて悲鳴を上げた。そいつらが海中に潜るよりも早くさらに別陣が甲板上を斜めに横切り、またしてもいくつかの絶叫と血しぶきがあがった。
「伏せろ、伏せろ! 舷側から頭を出すな!」
こちらもさらに一頭を仕留めたが、『人魚』たちの波状攻撃による被害はとても戦果の割に合うものではなかった。ソナーで攻撃方向を探知しても、これほどすさまじい連続攻撃には対応が間に合わない。
「小隊は死傷者多数、ソナーピンによる支援を要請する! 艦長の許可を取ってくれ!」
コウリッジは無線に怒鳴った。その間にも、わずかな隙を狙って藍黒色の刃が飛来する。命綱を切断された水兵が悲鳴とともに海に転落し、たちまちいくつもの背びれがそこに群がった。断末魔の声は水音にかき消され、一瞬の後にはばらばらに引き裂かれた五体が海の底に沈んでいく。
まずい、この『石頭』どもは相当の精鋭揃いだ、攻撃が正確すぎる――遠距離から甲板上すれすれをかすめる鋭い跳躍に、コウリッジが感嘆混じりの舌打ちをしたとき、無線機が鼓膜を破らんばかりの大声で吼え始めた。
「こちらはリーガンスだ! 二番、三番艦も戦況はよくない――ザンダラではワイヤーを切断され、底引網を投棄した。全艦一斉にソナーピンを発信して活路を開く。コウリッジ、貴様がピン発信の指令を出せ!」
「わかりました!」
コウリッジも負けじと喚き返し、ついでカズネルに怒鳴った。
「ピン打つぞ! 全員に伏せたまま銛を構えさせろ! おれが指示したら一斉射だ、いいな!」
カズネルがほとんど戦力の半減した小隊に指示を伝えると、コウリッジは銛をつかんで無造作に立ち上がった。『ディープブルー』からまったくの丸見えで、間の抜けた標的以外のなにものでもない。
「中尉! 危険です、伏せて!」
「次の跳躍でやつらが着水した瞬間を狙うんだ。海面を見なきゃタイミングが――」
コウリッジの眼下の海が泡立ち爆発したように見えた。四頭の『石頭』がコウリッジただ一人に狙いを定めて跳んできた。
コウリッジは伏せずに横に飛びのいてしのいだが、ひれが頭をかすめて帽子を持っていった。帽子は宙で真っ二つに裂けていた。
「中尉!」
コウリッジが振り向くと、三つの巨大な『石頭』が迫ってきていた。もはや避けることは不可能だった。コウリッジは銛の末端を舷側に突き、穂先で正面の一頭に狙いをつけた。
堅い頭をやり過ごし、白っぽい腹部に銛を突き立てた。『石頭』の巨体を受け止めた銛が歪むが、舷側の鋼板とともに持ちこたえてはじき返す。だがコウリッジも胸に頭突きの強打を受けて吹き飛ばされ、体が舷側を乗り越えて放り出された。
「中尉っ――」
コウリッジは宙でカズネルの叫びを聞いた。直後に延びきった命綱に引っ張られて落下し、コウリッジは左舷艦体に激突した。ひどい痛みに息が詰まるが、同時に『石頭』どもが海中に潜るのが見え、コウリッジは肺に残った最後の息を吐き出して叫んだ。
「いまだ、ピン打て、打て!」
次の瞬間、かあん、という甲高い音とともに艦体の鋼板がわずかに振動するのをコウリッジは感じた。ソナーの最大出力による超音波発信の反響だ。
海面で『石頭』が次々と跳ねた。それは攻撃のためのものではなく、やつらの頭の中にある自前のソナー――超音波を発信・知覚する『耳』をやられたため、方向感覚を失ってもがいているのだ。
「カズネル、やれ、一匹も逃がすな!」
海中に潜って身を隠すこともできず、海面でのたうつ『石頭』に銛の集中砲火が浴びせられる。いまや形勢は逆転していた。
「中尉、大丈夫ですか?」
命綱を引っ張り上げながらカズネルが声をかけてきた。敵はほとんど片づいたようだ。コウリッジも命綱につかまり、艦体に足をかけてよじ登った。
「ああ……平気だよ。残りの『人魚』は逃げたみたいだなあ」
カズネルが伸ばす手をつかみ、コウリッジはようやく甲板に戻って一息ついた。
「いやあ、危なかったなあ。あばらが折れるかと思ったよ」
「――中尉、ご自分を囮にするようなまねはやめてください。こっちの肝が縮みましたよ」
「仕方ない、今回のはずいぶん切れる連中だったからな……いっきに仕留めるには、ああするよりなかった」
カズネルは上官にひどい傷などがないことを確認すると、ほっとため息をついた。
「金輪際かんべん願いますよ。囮なら自分がやります」
「ばかいうなよ、そしたらまたおれまで海に飛び込む羽目になるじゃないか。見ろ、おれは落ちなかっただろう?」
「まったく、中尉は……」
カズネルが苦笑して首を振ったとき、甲板上から異様な音が聞こえてきて、ぎょっとして二人はそちらを見た。甲板上すべての兵がそこに視線を集中させていた。
コウリッジの銛に腹を裂かれた『石頭』はまだ生きていた。巨躯に似合わないきゃっきゃっというような甲高い笑いとともに、ごぼごぼと血の泡を吹いている。『人魚』の表情など読みとれるはずもなかったが、その薄気味悪い笑いには明らかな嘲弄が含まれていた。
「なにがおかしい、この海豚野郎が」
カズネルが憤怒の形相で『石頭』に詰め寄ろうとするのを制して、コウリッジは死に瀕した敵のわきに膝をついた。
「やあ、まったく『ディープブルー』の住人てのはしぶといもんだな」
『石頭』の額にあった装甲板がなくなっていた。むき出しの頭蓋骨がグロテスクな陰影を浮かび上がらせているだけだった。外れて落ちたというのではなく、消滅したのだ。ひれの前面についていた鋭利な刃も同様だった。
「さっきまでその頭に乗っけてたものについて喋る気はあるか。それなら手当をしてやってもいいんだがなあ」
コウリッジはのんびりと声をかけたが、もはや助らないということはわかっていた。一応訊くだけ訊いてみたというだけのことだ。
人類にとって、『ディープブルー』に存在するテクノロジーを解明することは重要な問題だった。広大な海の深淵で発達した独自の技術は、まったくの未知のものであったからだ。『石頭』の頭蓋骨を覆う装甲板のかけらひとつのサンプルさえ、人類が入手できた試しはなかった。
「愚カシイ……人間ドモメ……海ヲ汚スコトハ、我等ガ許サヌ」
深い海溝のような底なしの憎悪が、細長い口から流れる血とともにこぼれ落ちてきた。コウリッジは目を細め、怨念のこもった海豚の目を見つめ返した。
「貴様ラハ、狭苦シイ地上デ足掻イテオレバヨイ……」
「そういう台詞は、もう聞き飽きたな」
興味をなくしてコウリッジは立ち上がり、カズネルの持っていた銛を手に取った。
「もう五〇〇〇年も聞き続けた話だ。海は我らのもの、か」
『石頭』の側頭部に狙いをつけた。そこをやや下方から突けば、銛は堅牢な頭蓋骨とあごとの繋ぎ目を貫き通す。
「おまえらは能なしというわけでもないのに、言うことといったらそれだけだ。なぜなんだ? どうしておれたちに海を渡らせない?」
地上の過半を支配する植物類と違って、『ディープブルー』の住人と人類とは言葉によって意志の疎通を図ることができるというのに――いや、それは単に言葉を交わせるというだけのことで、互いを理解し合えたことなどただの一度もなかったのだ。
「やはり、捕虜にはならんというわけだな。いつもと同じに。おまえらが誇り高いということなのかただの阿呆なのか、おれにはわからない――どちらでもいいが」
コウリッジは引鉄を引き、『石頭』の固い頭を打ち砕いた。
「こいつを海に帰してやれ」
射出器を投げ捨てると、コウリッジは舷側に背を預けて髪を掻き上げた。カズネルは小隊に死傷者を収容するよう指示するとコウリッジのとなりに立ち、たばこを差し出してきた。
「いらないよ。もうやめたんだ」
「そうでしたね」
カズネルはたばこに火をつけると、舷側に肘を乗せてよりかかった。コウリッジも振り向き、艦尾方向に広がる、大海原に見入った。
「この海のはるか彼方に、いったいなにがあるっていうんでしょうね、中尉。『人魚』どもは、これまでもこのさき何千年もそいつを守っていくつもりなんでしょうか」
「さあ……。だけど、おれも子供の頃から考えてたよ。『ディープブルー』を越えたところにある別の大陸、別の世界にはどんなやつらがいるんだろうかってね」
「海兵はみんなそうですよ」
そうだな、と笑ってコウリッジは舷側から離れた。カズネルも体を起こし、たばこを海に投げ捨てた。
海を汚すな、か。なぜともなくほろ苦い気分になって、コウリッジは首を振った。
「まあ、見たこともない大陸より、いまはおれたちの大陸に戻るとしよう。さっさと陸に上がってビールでも飲もう……その前に、艦長に報告しなくちゃならないが」
「了解」
コウリッジは頼もしい一等兵曹の肩をたたいて、艦橋へと向かった。カズネルが並んでいこうとすると、いきなり全力疾走で突っ走り始めた。
大陸どころか世界中に響き渡るような大声がコウリッジを呼んでいたからだ。
<コウリッジ・ユーウォン海軍中尉−駆逐艦ライドス甲板小隊所属>
第二編 了