小説目次


『薬草師』
こあとる著
<MAIL>



回の一 『グウィリオーン』



 それは寂しい、夜道でありました。
 こうこうと、月の灯が照らす小さな山の中──そこを走っている、山道でございます。
 幾度も人が通ってできたその踏みわけ道は、山むかいにあるふたつの町をむすぶ唯一のものでした。果物売りの商人が、ろうそく職人が、あるいは農夫が、嫌われものの税収の役人が、もう何年も、何十年もむかしからくりかえしくりかえし通った、そんな道です。
 その道にあるものは、ごくわずかでございました。
 かすかな夜霧が、星の光にまとわりついております。
 密生したヒイラギの葉が、けさけさと音をたてております。
 どこか遠くで、夜鳥が鳴いてはばたいております。
 寂しい道の、それがすべての音。すべての光景。
 ああ。いいえ。
 もうひとつ、ございました。
 ささやかなカンテラの明かりが、揺れております。
 それにあわせて木靴のたてる、乾いた靴音がいたしておりました。すべての道が持つ本来の音、道行く者の足音です。
 ささやかな明かりに照らされて見えた顔は、年老いた男のものでありました。うつむいた男の皺深い顔は、その男の歳がもうかなりのものであることを示しておりました。
「遅うなったな……」
 誰に言うでもありませんでしたが、男の口からつぶやきが漏れました。
 隣町から運んできた荷が、両肩にのしかかっておりました。
 隣町の林でとれるシザリの実は、それはすばらしい藍色の染料となるのですが、ひどく量がいる上に、ムラになりやすいという欠点をもっているのです。彼の染めもの師としての腕前は代替りしたあとでも落ちることはありませんでしたから、古馴染みの上客から指名されれば断るわけにもいきませんでした。
 男は歩みをとめて、一息つくように夜空を見上げました。
 もうそろそろ、月が真上に上がってしまうではありませんか。
 ──仕事は、明日からになろうかな……。納期までにはなんとか……。
 男は夜空を見上げて、おおよその仕事の予定を考えます。
 ──よいものが、できればよいが。
 男はめずらしくも、少し不安になっておりました。シザリの実で染めるのは、なにしろ一年ぶりだったのです。
 無理はせず他の色で──一瞬そう考えはしましたが、すぐにそんなわけにもいくまいと首をふりました。藍色は、得意様たっての注文なのですから。
 やれやれと視線を道にもどしたとき、男はおや、と目をみはりました。
道端の、数ヤード先。ごつごつとした岩の並びに、ぽつりとひとりの人影が座っていたのです。
 カンテラの明かりでははっきりとは見えませんでしたが、上品そうなチョッキと裾広のズボンをはき、髪は長く背中にのびておりました。全体的にほっそりした体つきからして、女性なのかもしれません。
 こんな真夜中に女性が、という違和感が男をとらえましたが、身なりからして野盗のたぐいでもなさそうです。寂しい夜道のつれづれに、男は気安く声をかけました。
「どうかしたのかの、あんた?」
声をかけてから男は、その女──かどうかはまだわからなかったものの──がじっとこちらに視線をむけていることに気が付きました。
「……? わしの顔に、なにか」
 言いかけたまま、男の言葉は止まってしまいました。
 何かしら妙な雰囲気が、その人影のまわりをとりまいているのに気がついたのです。
 感情がないとでも、言うべきでありましょうか。人影はまるで座り込んだ岩のように無機質じみていて、人形のように見えました。瞳はみがきぬかれた水晶のように美しかったのですが、それは美しいだけでどんな感情もうつしていない──まさに作り物めいた印象を、男に与えたのです。
 妙、でありました。
 違和感はあったのですが、それがなにかは漠然としすぎていて、男にはわかりませんでした。
 たっぷり一分ほども、ふたりの間に沈黙が流れました。とたんに山のざわめきが、どっと男の耳に入りこんできます。
 こちらをむいて動かない瞳に、カンテラの明かりが揺らめきながら映っておりました。はっきりと見えない人影の顔の中で、そのゆらめきだけが鮮明でありました。
 そして。
 唐突に男はその違和感の理由を、ようやく理解しました。どうして話しかけるまで、理解できなかったのかと思いました。
 理解したときには、身体が反応してしまいました。
 男の喉から高い悲鳴がほとばしったときも、人影は男から視線をはずすことはありませんでした。ただその口元が、にたりといやらしい笑いの形に歪みました。
 ああ。
 男が感じた違和感の正体は、人影の顔にありました。人影の顔、正確には顔の両脇についているものに気付いて、男は悲鳴を上げたのでございます。
 その人影の両の耳が、鋭くとがっていたからでありました。

☆        ☆


 ──小さな、町だなあ……。
 その町にきて、僕が最初に感じたのがそのことだった。
 人口は……二〇〇もなかったと思う。古いレンガづくりの家々はどれもしっかりと建てられてはいたものの、永い年月を雨風にさらされつづけた証拠として、所々しっくいがはがれ、ひびわれてしまっていた。
 それでも、子供たちはみんな楽しげに飛び回っていて、大人たちは仕事に精をだすのが見てとれた。薪をかかえて通りを渡る男性がこちらを一瞥し、やんわりと笑ってくれた。歓迎してくれてるのを感じて、僕は嬉しくなる。よそ者あつかいされた上、あまつさえ追い出し同然の態度をとられた前の町よりもずっといい。
「あの、すいませんが──」
 僕は、その男の方に声をかけた。西の訛りが出ないように心がけたのだけれど、そう簡単に生まれを隠せるわけでもないとわかっただけだった。
 男の人はすこし驚いたようすで、それでも何だね、と応えてくれる。僕の訛りか、さもなくば僕のような旅人がめずらしかったのか。
 ──たぶん両方、なんだろうな。
 普通の人から見れば僕の格好は、それは奇妙に見えるかもしれない。
 頭にはつば無しの帽子をかぶり、ゆったりとしたコートには、いくつものポケットがついている。肩からさげた大きなかばんは重そうにふくれあがっているし、これで腰に剣でもさげていようものなら、傭兵かなにかと間違われても不思議じゃない。
 僕はそう思われることのないように気を付けて、やんわりと尋ねた。
「僕は、旅の薬草売りでして。……えと、あの、宿をさがしているのですが」
 うん、そう。僕は薬草を売って、旅をしているものだ。
 僕のような人間は、そう少ないというわけではない。人にとって薬というものはあればとても便利なものであったし、小さな町や村には腕のよい医師もそうはいないものだから、僕のような人間が必要とされるときもある。
 どうやら幸運なことに、ここでは僕は必要とされたようだった。
「薬草売り!」男の人はおどろいた様子で言った。喜悦が見て取れるほどおおげさなその声が、僕にこの町に病人がいることを教えてくれた。
「それなら、急いでキタ爺さんのところへ行ってやってくれねえか。数日前から寝込んじまって、医者の先生も手におえねえ」
 僕はその言葉に、ちょっと不安になった。
 どうやらこの町には、お医者さまがいるらしい。
 そのお医者さまが匙を投げたとなると、よほどの業病か、見たこともない奇病である可能性が高いということじゃないだろうか。
「どんな病気なのでしょう、それは?」
 とりあえず、尋ねてみる。破傷風や癩患だったとしたら、薬で治すことなんて不可能に近い。
 男の人は、困ったことに首をふった。
「あんな不思議な病気なんざ、俺は見たこともない。クスハ先生だって、そう言ってたくらいだよ」
「……そう、ですか……」
 僕はそうこたえながら、内心はどきりとしていた。
 え、何でって?
 それは僕が以前にも、そう言われる病にかかった人を見たことがあったから。
 『不思議』という表現を用いられるような、奇妙な病気。
 僕が知っているかぎりでは、それはたったひとつしかなかったからだ。

☆        ☆


 教えられたその家は、すぐに見つかった。
 染め物屋であるらしいその家の戸をたたくと、柔和そうな青年が出てきた。不安と憔悴で顔を曇らせていたけれど、それでも僕の身分がわかると、せいいっぱい歓迎の言葉をならべてくれる。
 うん。こうなれば、僕だって張り切らないわけにはいかない。
 狭いながらも落ち着いた居間で、僕はさっそくお爺さんの病状を尋ねてみたのだけれど、
「僕にはまったく、わかりません」
 お爺さんの息子だと名乗った青年は、うつむいたまま首を横に振って、そう言った。道であった男の人と、おなじ言葉だった。
「……この三日間というもの、食事もとらずに眠り続けているのです」
 予想どおりだった。息子さんの表情に浮かんでいるものは病魔への恐れというよりは、未知のものへの困惑といったほうが正しいかもしれないようなものだった。
「『眠り続けている』……ですか?」
 『意識がない』、『意識が戻らない』、そういった言葉を息子さんが用いなかったことが、僕の頭にひっかかった。
 案の定──。
「はい。『眠り続けている』のです」
 ちらりと僕を見上げて、青年は答える。
「クスハ先生は、身体にはまったく異常はないと。でもこれ以上、飲まず食わずの状態がつづけば、その──」
 そこで言葉を切り、またうなだれてしまう。確かに、人の身体は何日もの絶食にたえられるようには、とてもできていない……。
「……わかりました。何とかしてみます」
 少し不安ではあったのだけれど、とりあえず僕はそう言った。
 不安そうに顔を曇らす息子さんを元気づけてあげなければならないと思ったことと、もうひとつ、ある。
 おそらくこの『病』をなおすことができるのは、ここでは僕ひとりしかいないであろうことが、僕のなかで確信となりつつあったからだった。
 さ、どんな理由だって、引き受けたからには全力を尽くさなきゃ。
 僕は大きなバッグのなかをごそごそとひっかきまわすと、小さな陶磁器のポットを取り出し、息子さんに厨房を借してもらった。
 そこでポットに水を入れ、火をかけ、水が湯になりかけた時を見計らって、僕はコートのポケットから干からびた葉っぱを何枚か出した。
 キツネノテブクロ、という名のついた薬草をポットのなかに放りこみ、蓋をする。
 おおよそ、まばたきよっつ。
 その間に僕は、別のポケットからもうひとつの葉をつまみ出していた。
 四枚葉の、クローバー。
 ……それも入れるのかって?
 いや。これには別の使い方がある。薬草以外の、ひどく独特な。
 ポットを火からおろし、椀に中身をそそぐ前に、そのクローバーでそろっと椀の縁をなでてやる。これだけ。
 これで、できあがり。
 息子さんのもとに薬湯をはこぶと、僕は息子さんに言った。
「これを、お父さんに飲ませてあげて下さい。そしてもしこれで目を覚ましたなら、……僕を、呼んでほしいのです」
 息子さんは嬉しそうにうなずくと、寝室へと消えていく。でもその一方で僕は、とても緊張していた。
 たぶんこの薬湯で、『眠る』キタ爺さんは目を覚ますことになるんだろう。
 そして僕は、きっとキタ爺さんから『病』の原因を聞くことができるに違いないんだ。たぶんとても、とても奇妙な、『病』の原因を。
 そんな僕の考えを、扉をはさんだ向こうからの歓声が中断させた。僕は安堵の息をひとつつくと、ゆっくりと椅子から立ち上がった……。

☆        ☆


 空に広がった茜色が、序々にくすみつつありました。
 夜気が、空からしみ出す頃。大地が日差しから夕陽に、そして闇にとすげかえられる時間でございます。
 そろそろ途切れだした木漏れ日のなか、細く寂しい山道を、その青年は歩いておりました。
 つばなしの帽子、ポケットのいくつもついた、ゆったりとしたコート。町を訪れたときにかついでいたバックは今は見ることができませんでしたが、それはあの薬草売りの青年でありました。
「このあたり、だったかな……」
 ぽつりとつぶやき、青年が歩みを止めました。もうあと数十分でまったき夜の闇がやってくるのは間違いないことでしたのに、青年はランタンも、松明も手にしてはおりませんでした。その代わりかすかに緊張した表情が、山道を昇りだしてから今までずっと青年の顔にはりついたままになっております。
 青年は踏み慣らされた山道を、慎重に歩いてきたのです。他に通る人もいない、細く寂しいその道は、山の木立のなかにえんえん続いているように見えて青年をすこしぞっとさせました。
 やがてほどなく、陽が落ちました。まだかすかに明るい空には、いつのまにか月が昇っておりました。
 青年はすうと一息深呼吸すると月を見上げて、手を入れていたポケットから出しました。
 黄色の、ちいさな五枚の花弁。
プリムローズ──別名サクラソウと呼ばれる野草の花が、その指につままれておりました。
 青年はしばらくのあいだ、小首をかしげてその花をじっと見ておりましたが。
 おや。
 やにわに、その花弁を一枚ちぎり、ひょいと口に放りこんだではありませんか。そのまま咀嚼することもなく、ごくんと呑み込んでしまいます。
 それから青年はやにわに顔をあげ、もうすっかり闇に閉ざされた前方の風景に目をやりました。
すると──なんと不思議なことでしょう。山林の木々が序々にぼやけ、かすみ、夢と現の狭間のごとく揺らぎだしました。それどころか、夜の闇のなかでもはっきりと周囲の光景が見えるようになったのでございます。
「ああ、ええ……っと」
 青年はきょろきよろと辺りを見渡しだしました。木々や下生え、藪のなかを透かし見、再び慎重に歩をすすめます。
──と。
「……!」
 青年の表情が、緊張に染まりました。
 延々と続く細い山道のなか、青年から数ヤードも離れていない道端の岩に、長い髪の人影が座っていたためでありました。

☆        ☆


 私は、新しい来訪者が近づきつつあるのを悟っていた。
 遠い遠い向こうから、足音が近づいてくる。それはつぶやく石と、ささやく風と、そしてざわめく木々たちによって、とうに私の知るところとなっていた。
 数は、ひとつ。
 人である。
 旅人か、それともこの山をはさむ村のものたちか。どちらにしても、いずれこの道にさしかかることには違いなかった。
 私は、そう考えると喉の奥で嗤った。それはわずかに外に漏れ、けさけさという葉ずれの音となった。楽しくて仕方がない。
 考えてもみるがいい。
 これで人間たちは、またひとり、同胞を失うことになってしまうのだ。
同胞を失う──この表現は、まったくもって間違いようがない。何故なら人間たちは、この私がかけるまじないに対してまったく身を守る手段を持ち合わせていなかったし、そのまじないを破る方法も知らなかったのだから。走ることを忘れてしまった山羊が、どうやって狼たちから逃れられるというのだろうか?
 そこまで考えて、私は顔をあげた。我が哀れなる人間どのは、もう数十歩で私のところまでやってくる。もう、姿が見えてもよいころだ……。
 来た。
 その人間は、どちらかと言えば若い方だった。くすんだ白の長いコートにつばなしの帽子をかぶり、驚いたことには──明かりを持たずに、こちらへやってこようとしているではないか。
 この星あかりもよく届かぬ闇のなか、並の人間では数歩もまともには動けないはずだというのに、その人間はまっすぐ、私の方を向いて歩いてくるのである。
 ──私の方を向いて?
 その事実が、私を再び驚かせることになった。
 この人間は、私が見えているのだ! ふたつの世界の揺らめきのなかにいるはずの、この私の姿が!
「僕は」
 人間は驚愕している私をよそに立ち止まると、緊張した様子で話しだした。
「あなたを見ることができます。ですからあなたは、僕と対等に会話する義務があるはずです」
 この人間には、まったく驚かされることばかりだった。今のは我々の間だけで取り決められたはずの約束ごとのひとつだというのに、それを知っているとは。
「……止むを得んな」
 私は薄い笑みをうかべて応じた。取るに足らん人間ごときと話すのは業腹だったが、取り決めは守らなくてはならない。
 人間は安心したように、肩の力を抜いた。それからおずおずと、
「あの老人にまじないをかけたのは、あなたですね」
 質問ではなく、確認だ。私はうなずいた。笑みが深くなるのが自分でもわかった。次の質問もわかっている。「なぜ、あんなことをしたのか」だ。
「なぜ、あんなことを?」
 当たりだ。私は笑いだした。ただの人間であれば、梢のざわめきに聞こえるのであろうが。
「やはり、解らぬかね?」
「……はい。残念ですが」
 では、と私は言った。月がもう真上に昇ろうとしていた。
「それこそが、君たちにとっての答えだ。君たちにはとても理解することはできないだろうがね」
 私が行なった行為に、私は理由などつけない。その行為がもたらした結果は私をいつも楽しませるが、その楽しみのためにしているかと言われれば、それは否である。
 『我々』の行動原理は、人間には、とても理解などできない。すなわち、相容れることなど永劫にできない。はるかな昔からの、それが宿命なのだ。
 私は目の前の人間が理不尽さに眉をしかめ、声高に抗議する様を想像してほくそ笑んだ。
 ところが──。
「……そうですね。……そう、なんだろうね……」
 人間もまた微笑をうかべ、そう言ったのだ。その口調はいつわりも、負け惜しみも含まれてはいなかった。
「もしかしたらと思って、聞いてみたんだけど……。やっぱり僕たちと貴方たちは、理解なんてできないのかなあ……?」
 私はささやかな侮蔑をこめて、その言葉を聞いていた。
 ずいぶんと、愚かなことをいうものである。そしてまたそれはまったく無意味で、不可能に近いことだ。
「他のものたちはどうあれ、私は君たちを理解などできない。正直なところ、したくもないがね」
 人間の顔が、わずかに歪んだ。
怒りではなく。畏れでもなく。
「……父さんも」
 哀しみに。
「……父さんも、そう嘆いてたよ……」
 人間はそうつぶやいて、一歩近づいた。
「それ以上、寄っては危ないな」
 私は目の前の人間の真意を測りかねつつも、そう忠告しておいた。
 私は、『視線』でまじないをかけることができる。この人間が近づいて何をするつもりだろうと、私の『視線』よりも速く動くことなどできるわけがない。
 にもかわらず、人間は歩みをとめようとはしなかった。無知のまねいた愚妹な行動だ。そして、取り返しなどつかない。
「忠告したぞ」
 もっともこの人間を、このまま返すつもりもなかったのだが。
 私は、『視線』を放ち、そこに『痛み』を乗せた。骨をきしませ、はらわたをえぐる『痛み』だ。餓えた狼ですら、これには耐えられない。ましてや、人間ごとき。
 私の与える『痛み』のまじないに身をよじらせる人間の姿を想像し、私はいっそう、笑みを深くした。
 ところが。
「……何だと?」
歩いてくる! 人間はまるで何もなかったかのように、こちらへとやってくるではないか!
 再び、『視線』を飛ばした。次は、手加減などしない。
 『癩の病』を乗せた。私のもつ中で、もっとも強きまじないだった。
 結果は同じだった。人間は顔色ひとつ変えることなく、両手をコートのポケットに入れたまま、見る間に私との距離を詰めてくる。
 どういうことか──私は混乱した思考の中で、必死になって答えをさがした。
 私がまじないを、失敗するはずがない。この人間が痛みや業病に平然と耐えるほど頑健なわけでもない。だとすれば、理由はただひとつしかなかった。
 この人間が、私のまじないを破ったのだ!
「まじないは、効かないよ……」
 まるで私の心を読んだかのごとく、人間はそう言うと、いままでポケットに入れていた右手を出した。
 淡い黄色の花が数本、その手に握られていた。
 私は目を大きく見開いた。三度目の驚きが私をつつみ、動揺させた。
 オトギリソウだ!! 野草の中でもっとも力強き、まじない破りの花!
 ならば、老人のまじないを破ったのも、私の姿を見ることができたのも納得がゆく──まず間違いなく、魔力を持った花をもちいたのだ。
「父さんが、言ってたよ。……この花の力に打ち勝てるのは、あなた方の中でも『騎士』たちだけ、なんでしょう?」
 人間が近づいてくる。それにも気付かないほど、私は動転していた。
 何故、この人間はこうも魔力を持つ花の知識に長けているのか? 誰に教わったというのか? 我々の仲間か? それならば合点がゆく……。
 いや、そんなはずはない。人間にそれを教えることは、我々の『女王』によって禁じられているはずだ。人間に我々の知識を与えることは、絶対の禁忌とされているはず。
 ではいったい、誰が? 誰かが取り決めを破ったというのか? だが『女王』が、それを知らないはずなどない!
 その時、暗夜の雷鳴のごとく、私はひとつの事実に思い当った。
 いた。
 たったひとり、『女王』の取り決めを破れるものが。
 はるかな昔、人間の女を愛したがゆえに、『女王』のもとを去った、強力なる騎士が。
「まさか」
 私の声は、暗い夜の風のごとくかすれていた。
「お前の、お前の父親とは、まさか……」
 私はそれ以上、言葉を続けることはできなった。
 人間の左手に握られた一本の杭が、私の心臓にむかって振りおろされたのだ。
 それは何の変哲もない、木の杭であった。本来であれば、我々を傷つけることなどできるはずもなかった。
 だが、それは違った。トネリコの枝だった。我々を束縛することのできる、強力なまじないをもった樹木。その若枝。
「──ごめん──」
 人間の声が、聞こえた。
 何故謝る? 何故人間が、妖精に謝る? やはりお前は、………。
 私の思考は、そこで止まった。

☆        ☆


 それから──。
 その山は、いつも通りの山に戻ったそうです。
 キタ爺さんは、いままで通りに働けるようになりました。
 不思議な青年は感謝されつつ、どこかへと旅立っていってしまいました。
 でも、ほんの少し、不思議なことがあったのです。
山の中腹の、道端にあるひとつの岩──ちょうど人ひとりが座れるくらいの小さな岩から、一本のトネリコの木が生えていたのです。枯れもせず、冬になっても葉を青々と茂らせるその木をみな不思議に思いましたが、いつしかこんな迷信が伝わるようになりました。
 夜にその山道を通るものは、その岩を見てはいけない。邪な森の精が、まじないをかけるから。
 その森の精は、『グウィリオーン』と呼ばれたそうでございます。



 ──その時妖精の女王は、鋭い悲嘆の声をあげたのです。「私の部隊の中の一番美しい騎士が、人間の世界に失われてしまった! ああ、タム・リンよ、人間の女があなたに恋すると知っていたなら、その女の心臓を石のそれにかえてやったものを!!」彼女がそう言ったと同時に、あたりは明るくなり始め、妖精たちはたちまちのうちに消え去ってしまったのでした。

 スコットランド民話集より

FIN.


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