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『〜幻獣辞典〜』
こあとる著
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 エビフライ定食は、その名に恥じなかった。三十センチ近いクルマエビを贅沢に三本使っていた。
 チキングリル定食も負けていなかった。三百グラムの照り焼きチキンと大ぶりのウィンナー三本、おまけに大人の握り拳くらいはあるジャガイモひとつを丸々使ったバター蒸しが添えられ、それぞれがなかなかの存在感を主張していた。
 メンチカツ定食ときたら、直径二十センチはあろうかというまん丸の巨大メンチがどんと皿の上に鎮座ましましている。デミグラス・ソースでいただくか、店自家製の濃厚なウスター・ソースにするかはお望み次第、付け合わせは小ぶりの杓子ですくい取ったかのようなマッシュポテト。こちらはウスター・ソースと相性がいいようだった。
 ステーキ定食ともなればさすがにやや値は張るが、標準サイズ指定の三百グラムから始まって、上はその倍まで注文することが出来る。実に三センチの厚みを誇る六百グラムの牛肉は壮観で、これを「定食」というのはどうよ、などという周囲のツッコミもなんのその。その横にピラミッドよろしく隆々と盛りつけられたソテード・コーンも霞んでしまうほどだ。
 この上、すべての定食にはライスが平皿にたっぷりと盛られて出されることになる。「たっぷり」とはもう言葉通りの意味で、うかつに一見の客が「ライスは並盛りで」などと頼もうものなら、まず給仕のバイトが普通の茶碗にこんもりとライスを盛っていく様子を見て満足げにうなずき――それをおもむろに逆さに振り、平皿の上にぶちまけるのを見て怪訝な顔になり、その行為が四回連続して起こるに至って呆然とする、という定型三面相をやらかす羽目になる。ちなみに小盛りは茶碗二杯、大盛りは六杯となっているが、事実上上限はないのと同義らしい。

 しかし、それらの料理群も霞むほどの一品がある。
 「特製カレー」というシンプルなそれは、油で薄汚れたメニューの隅にぽつんと並んでいる品書きのひとつなのだが、内容はと言えばその平凡さとはおよそ無縁のところにある。どのくらい無縁かということを抽象的に表現するなら、そのメニューを誰かが注文するや否や、その場に居合わせた常連客の連中がひそかに目配せを交わしあってしまうくらい、であり、婉曲的に表現するならば「一升=千五百グラム」という単位変換の中に潜む脅威、であり、当然のことであるが、その脅威と「直径四十センチの大皿の縁ぎりぎりに注がれたカレールー(※具が大きい)」、「スライスされたゆで卵五つ」、「カレーの海を雄々しく巡行するトンカツ二枚」、「唐揚げのアステロイドベルト」などといったいくつかの脅威は別だった。
 直裁的に表現するなら、「非人間的」。
 力士部屋やプロレスラーの事務所が近くにあるわけでもない、平凡な学生街の路地裏にひっそりと建っているその洋食店において、何のためにその品目がメニューの中に存在するのか理解できた者はいない(※ちなみにマスターは黙して語らない)。冗談というにはややエスプリが効きすぎた、取りようによってはタチの悪い嫌がらせとも思える品目であった。

 なお、念のために記述しておくに、その洋食店には上記のものの他にも多くのメニューがある。どれも上記のものに――「特製カレー」は規格外として――勝るとも劣らぬボリュームと、お手頃感漂うリーズナブルな値段の料理ばかりだ。
 では何故上記の品目を説明したかと言えば、その日、その洋食屋において、上記の定食四つ及び「特製カレー」には共通項が存在したからである。

 それは何かと言えば、――。



 ■『饕餮(トウテツ)』の巻■
(※この作品はしゅらさんの一次創作小説『縛糸 ――或いは、――』に基づいています)



 「もりもり」という形容がある。
 どんどん物事が進むさまを示すのに使われる言葉なのだが、一般にもっとも多く使われるのは、誰かが何かを勢いよくたくさん食べているさま、健啖を示す時であると思われる。――もりもりと食べる、という様に。
 一方、「がつがつ」という形容がある。
 こちらも同じように食べることに関した形容で、貪欲なまでに食べ物をむさぼるさまを指す。がつがつと喰う、がつがつと食べ物を詰め込む、そんな急いている印象とともに、健啖と言うよりは暴食というような雰囲気を与える言葉である。

 その男には、どちらも当てはまらないように見えた。

 その男の食べるさまは、どちらの形容にも当てはまらない。もりもり食べていると言うにも、がつがつ食べていると言うにも不適切だった。
 まず、もりもりと言う形容ではとても追いつかなかった。それは健啖というレベルを越えていた。その胃袋の中にどれだけの量の有機物が詰め込まれているのか、については、四人がけのテーブルの上に並べられた皿の枚数を見ればおおまかに見当は付くのだが、男が店に入ってきて小一時間ほどが経過したその頃になると、おおよその客たちは正視し想像することも辛くなってきていた。
 次にがつがつという形容も当てはまらなかった。男はがっつくでもなく、あくまで余裕の態度を崩さずに、ゆっくりゆっくりと食べ物を口に運び続けていたからである。
 食べるペースがまったく変わらない。がっつきもしなければ止まりもしない。最初の料理が運ばれてきて、最初に箸を付けたその時から今に至るまで、遅くも早くもなっていない。
 中肉中背、割合にがっちりとした体つきこそしているものの、見た目は極めて平凡な三十代ほどの男である。
 この身体の一体何処に、これほどの量の食事が入っているというのだろうか。給仕のバイトも居合わせた客も、不思議とか興味とかいう可愛げのある部分を通り過ぎて不気味にすら思えてくる。
 メンチカツが、マッシュポテトもろとも真っ先に消えた。グリルチキンがその後を追い、今や残るは一本のウィンナーのみ、それも時間の問題かと思われる。
 六百グラムのステーキは確実に残り三分の一ポンドを割り込んでおり、ソテード・コーンの友軍もとうの昔に壊走してしまっていた。エビフライは……大丈夫、まだ二本が健在だ、と思った瞬間ぼりんともの凄い音がして一本と後ろ半分十五センチにまで落ち込んだ。ぼりぼりとエビの頭が噛み砕かれる音。――心配はいらない、定食四つ分、茶碗に換算して十六杯分のライスだったら、もうとっくの昔に消え去っているのだからエビフライも安心して後を追える。
 そして男が今着目しているのは、特製カレーだ。
 スプーンでひとすくいひとすくい、ゆっくりと、だが確実に。トンカツを、唐揚げを、スライスされたゆで卵を、ルーをたっぷりからめたライスを、無作為に、端から、手当たり次第、ことごとく。
 しばらくするとコップの水を飲む。ごくりと一杯を一気に飲み干す。そしてテーブルの端に置く。右手と口は休まず動かしながら、ちらりと給仕のバイトに目をやる。給仕がぎくしゃくとポット片手にテーブルへと近寄り、いささか亀裂が入り始めた無表情――ちなみにとうの昔に崩れ去った第一層目の表情は「営業スマイル」だった――のままコップに水をつぎ足した。
 二百五十ミリリットルが入る何の変哲もないガラスのコップに、何度そのポットから水をつぎ足したか。
 給仕が覚えているのは二十二杯目までだ。そこからは理性が記憶を拒否した。何杯目になるのか、ということについて考えを巡らせてはいかんと自分に言い聞かせた。そう、自分はこのまま下がっていいのだ、またこの男が目配せしてくるまでは、――。

 ――と。

 くい、とエプロンの裾が引かれた。弱々しくもはっきりとしたその感触に、給仕ははっとして顔を上げた。今まで自分が無意識に視線を伏せていたことにもようやく気が付いた。
 気が付いたことがもう一つある。
 今ようやく気が付いた、というより思い出した。男の座っているテーブルの対面に、もうひとり相席している客がいた。
 見た目中学生か、ともすればもっと年下の少女だ。白いワンピースを身にまとい、何処か呆けたような――汚れのない無垢な、というよりは、痴呆症のようなあやうさが見え隠れする――表情で、給仕の方をじっと見上げている。男の注文した料理の皿に圧倒されてはいるものの、テーブルにはちゃんとラグビーボールくらいの大きさがあるオムライスが置かれ、難敵を相手に善戦したのが口の周りのケチャップからも見て取れた。

「――おみず」

 少女の口が動いて、その言葉が滑り出てくる。
 その唇の形の良さに、給仕は少し見とれてしまう。ついでに何で今までこの少女に気付かなかったのか(はて、このオムライスを運んだのも自分だったろうか?)不思議に思う。――やはり常軌を逸した連れ合いの印象が強すぎるのだろうか。

 それも多少あったかもしれないが、実際にはまるで違った。

 少女が給仕と視線を交わし合おうとした瞬間、テーブルの下でごきっ、という音がした。それは結構でかい音で、給仕が驚いてお冷やのポットを落としそうになったほどだった。
 男はカレーを食い続けていた。スプーンを口に運ぶ速度は相変わらず一定で、メトロノームのごとき正確さだ。
 少女はというと、こちらも変わらず給仕のエプロンを掴んでいた。ただ顔は少しばかりうつむいているようだった。
 給仕はほんの少しの間混乱し、しかる後に自分の職務を思い出すことに成功する。少女のコップに水をつぎ、それから少女の顔をもう一度見ようと背を屈めようとし、果たせぬと判るとことさら背筋を伸ばしてカウンターの奥に引っ込んでいった。
 給仕が行ってしまった後、テーブルには男と少女が残された。男は相変わらず食べており、少女は呆けた顔をややうつむけて注がれたコップの水を眺めていた。

 ように見えた。――傍目からは。

(――貴様)

 その声を、給仕や他の客が聞かなかった――聞くことができなかった――のは幸いだった。実際すぐ隣の席では、すぐ後ろの怪力乱食ぶりを強烈に意識しつつも、三人の学生が揃ってボリュームたっぷりのしょうが焼き定食を食べているところだったが、その声が三人の耳に届くことはなかった。
 抑揚と、感情と、何処か現実味すら欠いたような声だった。代わりに別のものがしたたるほどに詰め込まれていた。
 もしこの声を聞き、その「別のもの」を耳孔から脳内へと入れてしまっていたら、三人は揃ってその場で意識を失い、グリルプレートに積み重なるほどのしょうが焼きに揃って顔面ダイブを決めていただろうことは間違いなかった。万が一肉汁による窒息死を免れたとしても、生涯その声を忘れることは出来ず、それほど長い時間をかけずに自殺を図ることになる。もし遺書が残されていた場合は、必ずこんな一文があるはずだ――。

 「声が、耳から離れない」。

 そんな声を、その年端もいかない少女が放っていた。

(――邪魔を。するのか)

 三人の命を救ったのは、結論から言えば男だ。
 常人の心臓が止まってしまうような、怖ろしく異質な「何か」に満ちた声を封殺したのは、少女の対面に座ってカレーをもそもそと喰っている男だった。

(いやあのね。≪蠱惑≫を使うのはやめてください。
 たまたま入っただけだけれど、このお店は大当たりでした。明日から常連になろうと思います。
 そのお店の給仕をいきなり喰おうとするなんて、貴方どういう了見ですか。
 メンチ切っても駄目です。大人しくしててください。――ああそれと、もう喰わないならそのオムライスも私にください)

 カットされた長細いカツレツをスプーンで器用にすくい、カレーと一緒にくつくつと咀嚼しながら男が喋っている。どうやって喋っているかという時点で不思議なのだが、さらに不思議なことに、その声は少女以外の人間に聞こえない。

(……それは。指図か)
(指図なんてしてません。ご協力をお願いしているというか。
 ちなみに力ずくはかなり無駄ですよ。貴方も相当強力な存在みたいですが、私こう見えてもかなり年季が入った存在ですのでそうそう滅ぼすことはできません。ついでに貴方のその強烈な≪蠱惑≫も私には無意味で――ええ、何せ私は「愛情」も「性欲」も一切抱くことがありませんので)
(……無意味か)
(だって私はこの世界で唯一の存在なのです。増えないしつがいもいない。子供を作ることもない。
 それに私は他の欲望が無いんです。あるのはコレだけ。――「食べること」だけです)

 男が唐揚げを口一杯に頬張りつつ、にこにこと笑ってそう言った。
 少女は虚ろな目をしながらも、かすかに怪訝な表情を浮かべる。首をかしげて手元にあるオムライスを見つめ、それから再び男に目を戻して、

(貴様は、何だ)

 初めてその声に、わずかながら感情が混じった。

(ええとですね、色々な名前で呼ばれましたが……そうですね、この国の言葉に直すと「大食らい」ですか。
 我食べる、故に我有り。ただ食べ続ける存在とでも言うのか、食べることがすべてという存在ですね。
 だから何でも食べられます。有機物、無機物を問わず、およそこの世にある有形の存在で喰えないものは何一つありません。
 種明かしをするとですね。貴方の声が周りに届かないのは、私がこのテーブルの周りの空気の振動を「食べて」しまっているからなんですよ? ……正確に言えば、貴方と私の声だけを、他の人間たちの耳に伝わる前に「食べて」しまっているんですが。
 声は空気が振動して伝播するんですよ。振動は有形の事象です。
 だから喰えます。解りますか?)
(解らん)
(そりゃ困ったな。せっかく会えた御同類なのに)

 くわえたスプーンごともぐもぐ動かされる男の口の端が、少しだけ吊り上がった。
 スプーンを口から抜き出し、今や半分がなくなりかけているカレーのルーの中に遅滞なく突っ込む。同時に左手はフォークを掴んでおり、その切っ先が何の迷いも無く、グリルチキン定食の最後のウィンナーに突き刺さった。
 ウィンナーと言うよりは腸詰めという方がふさわしい、十五センチの湾曲した肉が男の口へ。
 ぼりっという小気味いい音が、三人の学生たちの耳に届いた。しかしそれと同時に出された声はやはり届かなかった。

(貴方を見つけたときにね。すぐにピンと来ましたよ。貴方人間じゃないでしょう。
 私は味覚が鋭いんです。空気中に混じっているあらゆるものを、この舌で感じ取ることが出来るんですが――)

 その瞬間、食べ物を含んだままの口の端から、男の舌が一瞬だけずるりと伸びた。
 平べったく赤黒い、人間の手の平ほどもある、先の尖った舌だった。それはおそろしく長かった。

 人間のものでは、無かった。

(貴方は人間を、あらゆる手段を使って≪蠱惑≫にかけてるご様子ですな。相手の好みの見た目でまず騙し、視線と声に魔性を乗せて惑わし、匂いで淫心を誘って常識外れの快楽で縛る……そんなところじゃないですか?
 で、その匂いがマズかったワケですよ。吐息……いや体臭そのものかな。人間はこんな味のする空気は出さないんです)

 言葉を一度区切り、同時にするすると舌が引っ込められていく。その途中、口元に運ばれてきたステーキ肉がくるりと包み込まれる。
 百五十グラムの肉塊が丸ごと呑み込まれるさまは異様だった。男の喉がそれとわかるほどぼこりと脹らみ、一定のスピードでゆっくりと胃の附へ流れ落ちていくのがはっきりと見て取れた。
 男は満足そうに微笑んで、それから再びカレースプーンを手に取りながら、言った。

(――貴方、人を食べますね?)

 何と言うこともない口調だった。少女の表情も変わらなかった。
 興味が無いというよりは、まるで反射行動のように、小さく頷いた。

(やっぱり。濃い血と臓物の匂い……あとは漿液と骨髄、精液ですか。昨日、まるまる一人を食べたばっかりでしょう?
 それを踏まえた上で本題……相談なのですが。この辺りから出ていってはくれませんかねえ?)

 カレーがひとすくいごとに、確実に消えていく。
 周囲が戦慄するような偉業を達成しつつも、男は何ということもなしにコップの水をごくりと飲み干し、給仕にちらりと視線を送った。
 コップに水が注がれていく。かちかちと震える水差しの先端を面白そうに見つめた男は、左手のフォークをエビフライに伸ばしながら少女に視線を戻し、相も変わらぬ無反応な様子に苦笑した。

(私も人を食べるには食べるのですが、そりゃあ気を使っているんですよ。半年に一度食べるかどうか、それにしたって浮浪者とか天涯孤独の老人とか、ある日ふっつり消えても誰も気に留めない人ばかりにしてるんです。
 幸いにして私は人を食べなくても滅びませんし、人を格別美味だとも思いません。まあ嗜好というか、たまにあの味も恋しくなるというか……その程度のものですので、場合によっては何年かは我慢しても差し支えがなく、だからこそこの国に棲んでもいられる……)

 でもねえ、と男は苦笑を深め、最後のエビフライを頭からぼりぼりとかじった。

(貴方はどうもその……そういう気遣いをしていただけないように見えます。何となく先程からの立ち居振る舞いを拝見させてもらうに、喰いたいときに喰う、なんて生き方をされてらっしゃるのでは?
 困るんですよね。私がせっかく節度を守ってこっそり喰っているというのに。
 人間に気付かれるのは本意じゃないんです。私は人間と共生しているだけでして、それを貴方に邪魔されるのは――)

(――たわけ)

 そのとき、男の咀嚼が初めて――わずかながら――止まった。

(共生だと。……くだらない。貴様のそれは共生などではない)

 男は少女の顔に浮かんだ、ひとつの表情を見ていた。
 それは劇的なほどの、少女の顔に初めて浮かんだ、極めて明瞭な表情だった。



 「嗤い」だ。



 吐き気を催すほどの不快と、息が止まるほどの恐怖を見るものに与える、それはそういう嗤いだった。
 あの呆けたような、あやうい表情とも呼べぬようなものを浮かべていた少女の面影は何処にもなかった。そこにはひどく生々しい、侮蔑と憤怒だけがあった。

(貴様など。人の街という生き物の腹中でせせこましく生きる虫のようなものだ。
 貴様は人間に何も与えていない。ただ人間を、人間の作ったものを喰っているだけではないか。
 それで共に生きているなどと。わらわと同じだなどと。どの口が抜かすのか)

(――貴方は違うとでも?)

 男は再びカレーを食い始めた。巨大なカレー皿の中身が、もう残りわずかになっていた。

(人間を喰らう貴方と、私がどう違うというのですか?
 まさか快楽を代わりに与えているなどとうそぶくのではありますまいね?)

 カレーが、無くなっていく。
 スプーンを持つ男の手は、もう休まない。ゆっくりと、にこやかな顔のまま、だが確実に、カレーは無くなっていく。

 少女が、嗤っている。
 毒々しい、腐り落ちて虫の湧く果実のような笑みに、さらに毒が満ちていく。うつむいたその顔に、奇跡のように誰も注意を払わないのをいいことに、濃いタールのような怒りが澱んでいく。

(貴様はいうたな。「有形のものは喰える」と。
 では問おう。――有形のもの「しか」貴様は喰えぬのか。形を成さぬものを喰うことは出来ぬと言うのか? 貴様には「無形のもの」は喰えぬのか?)

 かち、かちと規則的なリズムでスプーンが皿を叩く。もうカレーは数口を残すのみとなっている。
 男と少女は、今や互いの視線を外そうともしない。少女は禍々しい嗤いを浮かべたまま、男はまったく変わることのない、にこやかな笑顔で。

 ――いや――。

(「無形」を?
 喰える?
 貴方が?)

 ああ、その双眸。
 さして大きくもない男の両の目に、問いかけとともに凄まじい勢いで満ちていくもの――。

(人の「想い」を――血肉にすることもかなわぬか?
 わらわの胸の内で未だ熱く灼ける。彼の者との。――この蕩尽を。
 愉悦を。
 思慕を。
 凶喜を。
 悦びを。
 狂念を。
 合一を。
 味わい。慈しむも。叶わぬと。

 何とも粗末で。見苦しい喰いようだ)

(――へえ――)

 男が、

(それはすごい)

 変わらぬペースで、

(それはうらやましい)

 カレーの最後の一口を、

(それは、――)



 美  味  そ  う  だ  な  。



 男の顔が腐泥を被ったように、一瞬にして黒く染まった。
 同時に顔が肥大した。
 同時に鼻面が伸びた。
 同時に双眸が赤光を放った。
 同時に鋭い牙が五列に生えた。

 巨大な顎そのものと化した男の顔が、弧を描いて少女の上半身を呑み込んだ。










 給仕はふと、逸らしていた目をテーブルに戻した。
 そこに少女がひとり座っている。オムライスのケチャップで口の周りを染めて、ぼんやりと虚空を眺めている。
 特大のオムライスを半分食べたことに、給仕は感心する。頑張ったなぁ、と心の中で幼い健啖家を称えることにする。
 給仕はふと、曖昧な記憶を探った。
 確か、男がいたような気がする。少女の対面に座っていた気がする。何か少女と話していた気もする。
 テーブルを見る。ぽつんと少女はひとりで座っている。その顔が給仕の方を向く。

「……にげちゃった」

 少女が、かすかな笑みを浮かべる。釣られて自分も笑みを浮かべそうになる。

「…………おみず」

 少女が、コップを両手で差し出す――。



 給仕はふと、



 見ない方が、いいような気がした。



 了



 ――中国の怪物/博物誌として有名な『山海経』に、≪饕餮(トウテツ)≫と言う獣がいる。

 古代中国の神の一人として称えられる≪神農≫の血を引くこの獣は、その血筋とは正反対に「四凶」とまで呼ばれる半神の禍獣である。虎とも人とも竜ともつかぬ巨大な一頭に双つの胴、六肢という異様な外観にくわえ、狡猾にして歪んだ知性と不死の肉体を持ち、止むことなき欲深さと飢えを満たすため人に害をなすという。ただその姑息な本性ゆえか、相手が強者と解るや媚を売り、人を襲うときも相手が一人になったときだけとされ、ゆえに饕餮は≪凌弱≫、≪彊奪≫などという別名でも呼ばれることがある。

【幻獣辞典】より




FIN.


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