小説目次


『〜幻獣辞典〜』
こあとる著
<MAIL>



■『天狗』の巻■



 

 かちかちと鳴る音を、止めようがない。
 八島郁夫は、自分が震えているのに気がついていた。
 もう陽も落ちようかという、夕暮れだった。冬の寒さが夜の訪れとともに忍び込んできて、八島がへたり込んでいる床の温度を見る見るうちに奪っていくのが感じられた。
 では、自分は寒くて震えているのだろうかと自問する。
 確かにここには空調機器のようなものもまったくなくて、ちょっとした山道の途中にあるため、冬の練習はいつだって憂鬱になる。つい一時間ほど前も、先輩たちとそのことを蒸し返して笑い混じりに話していた――「まったくウチの道場もこんだけデカくなったんだから、せめてストーブのひとつも入れたらいいのに」。
 ――違う。自分は寒くて震えているんじゃない。
 そんな当たり前の、いつも感じている理由で震えているんじゃない。八島は即座に否定した。
 八島は普通の大学生だった。県内にある、私立大学の三年生だ。
 所属は経済学部。スキー部に所属してはいるが、コンパの数合わせ要員程度にしか顔を出してはいない。現在一歳年上の女子大の生徒と交際中。関係はほどほどにうまくいっている。
 身体には自信がある。高校の頃から趣味の範疇で空手を続けていた。大学に入ってからも引き締まった体を保つために、週に二度はこの道場に顔を出している。本人にその気はまったくなかったが、そこそこ道場でも馴染み顔になった。試合に出てみないか、と師範になった高校時代の先輩から誘われた。「スポコンは性に合わないっスよ」と冗談めかして断った。ケンカの経験は中学が最後だった。両親は共働きのサラリーマンで、割と裕福な部類の中流家庭だった。
 つまり、まったく「普通」の大学生だった。だから今のような「異常」な事態には、生まれてこの方一度として遭遇したことはなかった。
 なのに、わかった。自覚できた。
 自分が震えている、その理由。
 自分は、「恐ろしくて」震えているのだ。歯をかちかちと鳴らし、べったりと冷や汗を全身に滲ませ、その汗にまみれた身体をがたがたと揺らし続けているのだ。
 目の前にいる男が、どうしようもないほど恐いのだ! 自分が所属している空手道場の練習生三十人と、師範代ふたりをことごとく素手で叩きのめした――平凡そうな中学生が!
「……ふうん。空手って言っても、こんなもんなんだ」
 道場の床に揃って悶絶している道場生たちを見下ろして、その少年は呟いた。その口調は無邪気と言ってもいいほど、幼くあっけらかんとしたものだった。
「大人だって楽勝じゃん。レスラーとかにも勝てるかも。……オレって最強? みたいな?」
 わざとらしい言い回しが自分で面白かったのか、少年はせき込んだような笑いを漏らした。笑うことそのものに慣れていないような、不自然な笑い方だった。
 八島も昔通った、市立中学の制服を着ている。背が低いにもかかわらず全体的にひょろりとした印象を与えるのは、それくらい肉の薄い体躯と言うことなのだろう。顔つきも子供っぽく、まだにきびすら出ていないつるりとした肌をしていた。
 だが八島は実際に、せいぜい十三、四歳程度にしか見えないこの少年が、たったの一撃で居並ぶ男たちを地に這わせたところを目撃している。
 それは正拳や蹴りと呼ぶには、あまりにお粗末な攻撃だった。
 いや、攻撃と呼ぶのもはばかられるくらいだ。見た目には無造作に、手や足を突きだしただけだった。
 それなのに、八島の倍も体重があった原は宙を飛び、板張りの壁に大穴を開けた。
 大学対抗のトーナメントで三位にまでなった及川が、胃の中身をまき散らしながら倒れて動かなくなった。
 柔道空手、合わせて五段という警察官の藤巻は、ガードした両腕をくの字にへし折られて絶叫した。
 あり得ないことだった。常識では考えられなかった。
 しかし何より八島を驚かせたのは、それではない。瞬く間に十人近くを叩きのめされて、さすがに異常だと感じた道場生の数人が逃げようとした時のことだ。
 出口に向かって走り出した人間たちが、端から順番に背を突っ張らせて吹き飛んだのである。背中を思い切り、目に見えないハンマーでぶっ叩かれたような不自然な体勢で。
 きっと他の連中には、少年は何もしていなかったように見えたに違いない。だが八島だけは見た。見えてしまった。
 面白そうに彼らに向けられた時の、少年の顔――その小さく薄い唇が、すっと細められたのを。
 考えられない。しかしあえてそれを曲げ、百歩譲った上でこう仮説を立てることはできまいか。
 少年は「吐息」で、彼らを倒したのだと。
 それ以降は、完全な「消化試合」になった。筋書きの決まった、ヘタな香港映画を見ているようだった。
 逃げる者にも、自暴自棄になって向かってくる者にも少年は容赦はせず、少年の手足がひょいひょいと突き出されるたびに男たちの数はどんどん減っていき、ついには五体満足でいるのは八島ひとりになってしまったのである。理由はと言えば何のことはない、逃げようとして注目を浴びるのも、立ち向かっていくのも恐ろしくてできなかったというただそれだけのことだった。
 八島は震えながら、道場の真ん中でへたりこんでいるのだった。気がつけば腰が抜けていて――それすら八島には、初めての経験だった――、もう逃げたくても不可能になってしまっている。
 そうだ。八島は逃げたいのだ。
 殴られるのが恐い。痛い思いをするのが恐い。だから逃げたい。
 でも何よりも、少年の異常な部分が恐かった。あり得ないことばかりを自分の目の前でやっておきながら、見た目にはきわめて「普通」に見えてしまう、その「異常」な部分がなにより恐ろしかった。
 常識が、通用しない。あるはずのルールが、今この場所に置いては存在しない。
「……おまえさぁ、」
 唐突に、少年の視線が自分に向けられているのに八島は気づいた。舌足らずな発音とくりくりした眼の動きに、八島の全身は瞬時に総毛だつ。
「座ったまま、ナニやってんの? ひょっとしてビビってる? オトナなんじゃないの、おまえ?」
 眉をしかめながらも口元は笑っている。小馬鹿にした笑みだ。子供が大人の思わぬ失態を目ざとく見つけた時に浮かぶ、わざとらしくもひどく小ずるそうな、勝ち誇った生意気な。
 「普通」の、どこにでもいるような。
 ――助けてくれ。殺さないでくれ。乱暴はやめて。殴らないで。痛くしないで。
 かちかちと合わない歯から、無理矢理に言葉を絞り出そうとする。震えて動かない身体を、無理矢理土下座させるために動かそうとする。
「……ダっせ。メチャカッコ悪いじゃん」
 人形のようにぎこちない動きの理由が判ったのか、少年はまた笑った。上唇を突きだして、上の前歯を隠すように覆いながら。
 もう八島は、それに耐えることができなかった。
 どんなことをしてでもここから、この突如として降って湧いた「異常」な状況から逃れたかった。
 笑われようが、かまうものか。そんなことはどうでもいい。
 ――助けて下さい。なんでもします――
 声に――出す。

「……言葉の意味はおおよそにしか理解できないが、君の態度は常態とは違うようだな」

 出した瞬間、八島はあまりの驚きに気絶しそうになった。
 自分が口にした言葉は、意図したものとはまるで違っていた。
 それどころかしゃべり方も抑揚も違った。あろうことか声に至っては、まったくの別人だった!
「君は今、ちょっとした興奮状態にある」よく通る低い声が、八島の意志とは無関係に言葉を続けた。「それを誤魔化すために饒舌になっている。つまり普段は使わない言葉や口調を使うことによって、自分の高揚感と動揺、及び罪悪感を消そうとしているのだな。
 分を過ぎた力だと、無知ながらも自分で理解している。そういうことだろう? 玉城豊くん」
 最後の名前は、少年のものらしかった。当然八島は知らなかった名前だ。
 少年――玉城も、怪訝そうな表情で首を傾げる。
「……ナニ? 何言ってんの、おまえ。恐くてイカレちゃった?」
 その方が、いっそ八島にとっては救いになったことだろう。しかし声はそっけなく現実を伝えた。
「残念ながら違う。この青年の正気はまだ失われてはいないし、今君と話しているのもこの青年ではない。この青年の情報伝達器官を一時的に操作して、君と会話している『儂』とだ。
 名乗っておこう。飯綱山の三郎という」
 三郎と名乗ったその声が一時途切れて、八島は慌てて両手で口を閉ざそうとする。もう嫌だ。これ以上、訳の分からないことはたくさんだ。おかしくなってしまう――。
 八島の身体が、遅滞なく床から起きあがった。やはり八島の意志ではなかった。
「確認したい。君がその『技術』を教わったのは、何処の誰か?
 ……いや、詳しく答える必要はない。この地と君の生活範囲から可能性はただひとつ――君が現在『軽井沢』と呼ばれる地に赴いたとき、と推測する。それ以外考えられない。応か否か?」
 ぱちり、と玉城少年はまばたきした。それからやおら得心したような表情になって、
「そうか。『貴方』も、あのひとの――『先生』のお仲間なんですね?」
 今までとはうってかわって、ひどく素直な表情で笑う。
「……すごい、ホントにすごいですよ! 『先生』に教わった、この――コイツは――」
 少年の憎らしげな部分は、いまやその一切がなりを潜めていた。純真とさえ形容できる笑みの中で、ただ瞳だけが不釣り合いなほどの興奮と熱狂にぎらぎらと輝いていた。
「これなら、もうボクは絶対に世界最強ですって! ものすごくタイクツな日々だって、もうおさらばですよ! ホントに、本当に感謝しています!」
 八島には、少年が何を言っているのか半分も解らなかった。目の前の自分を通して少年が垣間見ているのだろう「何者か」を、少年がどんな目で見ているのかも理解できない。
 何故なら、八島にとってそれは初めて見るものだったからだ。
 それは、「畏敬」と「狂信」だった。『先生』と呼ぶものに対して、そしてその同類であると少年が言うところの、自分の口と身体を操っている『なにか』に対する、盲目的な崇拝だった。
「考えたんです、ボクのこれからの将来設計ってヤツ!
 まずはプロレスにでもボクシングにでも、どこでもいいから乱入するんですよ! 相手を一秒でノックアウトしたら、きっとテレビやマスコミがボクのところにどっと押し寄せてくるんじゃないですか? 絶対そうですよね! 『謎の天才格闘家現る!』なんて具合に、でかでかと新聞やニュースに載ったりして、レポーターにインタビューされたりして!」
 少年は夢見る瞳で、八島に語りかける。それはおそろしくひたむきな顔。
「そしたら、もう引っ張りだこでしょう!? グレイシーとかにだって勝てますよ! ファイトマネーとかをとって、『もっと強いヤツはいないか』とかテレビで言って! アルティメットとかK1とか、とにかくバンバン勝ち進んでいって――」
 ――何なんだ。何バカみたいな夢語ってんだ、コイツは――
 八島の頭にふと、そんな疑問が浮かぶ。
 急に熱弁を振るいだした少年の態度に、にわかに八島の方が醒めてしまったのだ。今の状況も一瞬忘れて、八島は心中で玉城少年を嗤った。
 ――コイツの方がイっちまってるよ。そんなことできるわ『…いや可能だな』けないじゃないか――!?
 その声は、外には漏れなかった。
 ただはっきりと、八島の思考の途中に割り込んできた。
 ――何だい『君の質問に応えただけだ』まのは!? 一体だれ『つい先刻飯綱三郎と名乗ったが』がやめてくれオレの頭『正確には君の脳内の』の中『シナプスの伝達を故意に』で何や『組み替えることによって』ってやが『擬似的な言葉として脳に』るんだ『認識させているのだ』出ていってくれ『まだ用事はすんでいない』用事って何『すぐに済む』のことだオレに何の関『君しか五体満足な者が近くにいなかった』係があるんだダレか助け『落ち着け』て!!
 醒めた状態から一転、またも一瞬にして混乱の極みに陥った八島だったが、操られた身体は眉ひとつ動かしていない。何ら発散する方法がない八島の混乱はぐるぐると頭の中で回り続け、八島の意識をさらに追い込むことになった。
 少年は突っ立ったままの八島の両手を握って、ぶんぶんと振る。
「それでそれで、地球に誰も相手がいなくなったら――やっぱ道場ですよね! マイク・タイソンとかヒクソン・グレイシーなんかも、ボクの弟子になるんですよ!?
 ちゃんと名前も考えてありますよ! 前もってインタビューかなんかで言っておけばダレも笑ったりしませんよ!」
 少年は一呼吸おいて、
「『天狗流攻撃術』! いいでしょ!? 大丈夫、ちゃんと『先生』に教わったことも大々的に宣伝しま――」
「駄目だな」
 誇らしげに言おうとした言葉を、声が冷たくさえぎった。一片の躊躇もなく。
 少年はぽかんと口を開けたまま、続ける言葉を失っていた。代わりに八島の口から言葉が続いた。
「それは許されない。我々の『規律』に抵触する。平安時代や戦国時代のような頃ならともかく、正確な情報伝播技術を確立した現代で我々の存在を知られることはあってはならない」
 少年は突如、へし折れたようにうつむいた。目を反らすかのように。
「……じゃあ……いいですよ……べつに黙ってても……せっかくぼくが、ぼくがゆうめいにして……あげようって……」
 もぐもぐと呟いた声に、さっきまでの熱意はない。
 それは八島もよく聞くしゃべり方だ。相手を見ずにうつむき、まるで愚痴るようにぶつぶつと、言いたいことを言い訳がましく、はっきりとせず。
「それが問題だと言っている。きちんと問題を理解してほしい。そもそも我々の戦闘術を君たちの世界の格闘技において使用すること自体が間違っている。子供同士の喧嘩に戦車を持ち出すようなものだ。はなから勝利が絶対的に約束されている勝負に勝ったからと言って、なぜ君が称えられなければならないというのかね?」
 声はそんな少年の変化には頓着せず、言葉を投げかけていく。
 自信に満ちてゆっくりと、抑揚を抑えながらもはっきりと、おそらくは明確に事実だけを。
「じゃあ……」少年の声が、いよいよ低くなる。「じゃあ、『先生』は……ぼくに……どうして……」
 最後の方は、尻すぼみに消えた。しかし声はその意をくみ取り、容赦なく応えた。
「座興だろう。簡単に推測できる。
 せせこましい望みしか持てぬくせに、勝手に世を退屈だと思いこみ、己が成すべきことも成そうとせずに嘆くばかりの子供に少しばかり刺激を与えたらどうするか……今まで何度か『規律違反者』によって試されてきたことだが、みな君と同じ結果になっているはずだ。他人を傷つけ犠牲にして、当然のことなのに優越感に浸る。はっきり言ってくだらないと評せざるを得ないな」
 八島は、少年の身体がかすかに震えているのを見て取っていた。
 ――やめろ。それ以上言『何故かね?』うな――
 八島は必死になって、声の『操作』を逃れようとする。
 頭の中で声を振り絞り、凄まじい勢いで鬱積していくストレスを絶叫に代えてわめき散らそうとした。頭を振りたくって、床を転げ回ろうとした。
 ――わからないのか、コイツはもうキレ『その言葉は暗喩でわかりにくいが…』かかって『それは何の問題もない』るんだぞ! やめろ『駄目だ』! やめ『黙っていたまえ』ろ! や『どのみち儂の呪縛は君には破れない』めろ!! ――やめろおおおおおおっ!!
 もちろん、『操作』から逃れることはできなかった。
「戯れに、君に我々の戦闘術を教え込んだ今回の違反者――浅間山の『金平坊』は儂が処罰した。あとは君から我々の戦闘術を取り上げれば――」
「――ぃぃいいいゃゃあああああああだああああああっ!!」
 声を、少年のあげた絶叫が遮った。ため込んでいたものを爆発させるような金切り声だった。
 少年の両手が霞んだ。高速の残像が映像をぶれさせ、突き飛ばすように放たれた両手の平が八島に向かって伸びる。
 衝突した瞬間に起きた空気の爆発は、道場にあったあらゆるものを木っ端微塵に吹き飛ばした。
 衝撃は音よりも速く、振動が八島の全身に伝播した。人間の肉体の関節と強度では絶対に不可能なベクトルで回転を加えられた少年の掌が生んだ振動は、八島の全身を構成する分子を強制的に振動共鳴させ、瞬時に数千度の超高熱を内側から生じさせるはずだった。
 八島の身体は、微動だにしなかった。
 思い出したかのようにぱらぱらと、吹き飛んだ道場の破片が落ちてくる。信じられないと言った顔で見上げてくる少年に、
「……攻撃法手技、『は―九九二七〇〇六』番か。人間にしては筋がいい」
 声がゆっくりと、淡々と告げた。
「『は―九九二七〇〇六』には千五十六通りの返し方があるが、もっとも簡単な方法で対処させてもらった。防御『ほ―二四五○八一』番――分子結合強度を、瞬間的に五百倍ほどに強化した」
 こともなげな口調が、少年の顔を蒼白にした。
 八島は何をしたようにも見えなかった。呼吸のリズムを変えたり、筋肉を引き締めた様子すらわからなかった。少年の教えられた『防御技』は、すべて何らかの行動を必要とするというのに……。
「今のが、君が放てる最大の攻撃なのだな?」
 本能的に――わかった。目の前の存在に「勝てない」と。
「――ぅるせええええっ、死ねええええっ!!」
 頭は、それを拒否した。未熟で思考の止まった、少年の頭は。
 少年は、後方に飛びすさって逃げようとした。逃げながら、唇をとがらせ吐息を放つ。特殊な呼吸法によって超音速に加速された空気塊の破壊力は、戦車砲に匹敵した。
 三発放った吐息は命中する前に、周囲の大気に押しつぶされて消滅した。八島の周りの気圧だけが、惑星上ではあり得ないレベルにまで高密度化させられた結果だった。
「その技は、君たち向きの技ではない。君たちでは完全には、使いこなすことができないのだ」
 言いながら、八島の顔が真上を向く。
「本来は、こんな使い方のほうが多用される」
 八島の唇が尖った。ふっ、と息を吹き出したのが、少年にもはっきりと見え――。
 一拍遅れて、少年の顔は真っ赤になった。両手を上げて喉をかきむしる動作をするうちに、紅潮した顔は紫色へと変わっていった。
「先程見せた気圧操作の応用例だ。高密度の空気塊を作って、君の呼吸器官にまとわりつかせる」
 ふわりと八島の身体が前に出た。すでに床に膝をついた少年の襟をつかみ、そのままぐいと片手で引き起こす。
「……そして君たちでは、絶対に行使できない技がこれだ」
 言うなり、少年の身体は奇怪なひねりを描いて床に投げつけられた。腰投げに似ていた。
 少年の頭が後頭部から床に落ちる。不思議と音はほとんどしない。
 その表情が呆けたようになっているのを見て、声は八島の身体で満足そうにうなずく。
「今の投げ技で、行動の一切を封じた――正確に言うなら、選択的に特定のシナプスリンクと脊椎神経を破壊する技なのだが」
 大の字になっている少年は、その声にまばたきすらしなかった。
「今の君は、行動の一切が自力では不可能な状態だ。呼吸器や内臓などの自律器官を除いては、自分の意志では何ひとつすることはできない。
 思考能力は一切奪っていないが……せいぜい自愛した方がいいな。もはや君が意志を伝えることができるものは、この世になにひとつ――自分の身体さえ――ないのだから」
 それは、永遠の牢獄ではないのか。
「夢の続きを見て余生を過ごしたまえ。あのせせこましい夢の続きを、存分に」
 八島の指が動いて、少年の瞼を閉じさせた。死以外をもって終わることのない、終身刑の扉だった。
 八島の瞳が、ふと虚ろになる。
「さて、これで儂のやることも終わった。君に身体の操作を戻すとしよう。なかなか使い心地のよい身体だった……」
 返事ができる者が、誰もいない道場跡。声は八島本人に向けられたものだったろうか。
「儂自身が出てきてもよかったのだが、万が一玉城少年が予想以上に強かった場合、儂の反撃によってこの街が消滅してしまうかもしれなかった。事実計算上では絶対にあり得ない破壊力を、少年は初撃において放っているからな? 追いつめられた生物の力というのも侮れない」
 道場跡には、もう何もない。
 呻いていた三十余名の道場生たちも衝撃波に吹き飛ばされ、粉微塵になっているはずだった。至近距離で超音速の衝撃波を受けたのである。生き残った者などいるはずがない。
「死者も予想以上に出たが」声はそれを知っていながらも、平然としていた。「それも前もって計算しておいた。ここにいた君と玉城少年を含める三十四人がこの先余生を全うしたと仮定しても、この国の未来を大幅に変化させるほどの人物にはならない。『規律』では甲、もしくは乙クラス――牛若丸や真田幸村のような――の人間以外は、九十九人までの『隠し』が認められていることでもあるしな」
 どさりと八島は膝をついた。目は虚ろなままだった。
 いつのまにかその口元に、あるかなしかの笑みがへばりついていた。両端のつり上がった状態で固まったままの口から、最後の声が漏れる。
「では、さらばだ」
 そっけなく声が別れを告げるや否や、八島の口からけたたましい笑いが起きた。先刻の少年の絶叫にひどく似ていたが、もうそれを指摘する者はいなかった。
 どこか遠くから、消防車と救急車のサイレンが遠く聞こえてくる。
 何もかもが吹き飛んだ道場で唯一残った板張りの床に、玉城豊は転がったまま。ぴくりとも動かないその顔には、何の表情も浮かんでいない。
 静かで冷たい冬の夜気が、陽の落ちきった夜空を冴え冴えと澄み渡らせる。
 少年は、動かなかった。
 八島は、笑い続けていた。


 了

 ――天狗はもともと「アマキツネ」と読み、彗星をはじめとする不可思議な飛行物のことを指していたとされる。いわば日本版UFOである。

 羽扇を使って空を飛ぶ、森羅万象を知る、剣術や体術の達人である(牛若丸の剣の師「鬼一法眼」は、鞍馬山の天狗だったという説がある)などといった逸話の他にも、磁石や鉄砲、鍛鉄などの高度な技術を保有していた伝説も残っており、総じると天狗は不思議な霊力と科学技術の両方を操り、かつ武芸百般、という超人的な存在であったということになる。ゆえにかどうか寓話においての天狗は人間に吉凶を知らせたり知識や技を伝授したりする、いわゆる「教師」や「介添人」的な役目として登場することがあり、無学な人間が急に字を書けるようになったり意外な発明をしてしまうことを「天狗憑き」と呼ぶ例もある。

 一方で「天狗」は漫心や無法(破戒)の徒の蔑称としてもよく使われる。
 日本の仏教において仏敵のひとつである「夜叉」に天狗の名を当てたのがはじまりとされているが、これほどの超人的能力を持つ存在がいるとするならば、それらはむしろ「慢心」ではなく「正当な自己評価」であり、「無法」ではなく「秩序に縛られない超越存在」である、という風に言い換えてもいいのではないだろうか。

 民主公論社が昭和四十三年に発表した「日本大天狗番付」によれば、飯綱三郎、浅間金平坊なる天狗は東国信濃のそれぞれ大関、前頭とされている。

【幻獣辞典】より

FIN.


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