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『〜幻獣辞典〜』
こあとる著
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■『狐狗狸』の巻■



 その部屋には、奇妙な匂いが立ちこめていた。
 甘く、蠱惑的な匂いである。花の匂いに似ているがそれよりもっと濃く、かといって人工的な、鼻を直接刺激するような匂いでもない。
 やわらかく、それでいて一度嗅いだら二度と忘れられずに頭の芯にとどまるような、そんな芳香。
 生物が不快に感じる要素がすべて取り去られているといっても過言ではなかった。
 場所は新宿歌舞伎町にほど近い、靖国通りに面した高層マンションの一室。不景気とはいえ、住むには億どころの金ではすまない一等地だ。
 時は夜。外に面した窓から覗く夜景が、副都心ビルを中心として広がっている。
 外はもうコート無しではいられないくらいの気温だった。十一月のはじめ――季節はもう冬になろうとしていた。
 部屋の中は別天地だった。時間も季節も忘れるほどに。
 高級そうな家具がそこかしこに置かれた室内は完璧な空調がほどこされ、主が踏みしめる足下はくるぶしまで埋まる絨毯が敷かれている。壁に掛けられているいくつもの絵は一枚数億の名画。新宿の一等地にあるこの部屋で毎日を暮らしていけるのは、政治家やトップスターですら難しいかもしれない。
 そんな部屋の主はと言えば、やはり部屋にふさわしい人間しかいない。
 いや、会った誰もが思うだろう。この部屋ですらふさわしくない。
 この倍、いや十倍は豪奢でなければ。
 ぴしりと濃紺のスーツを着こなした長身は一九〇センチほどもあるだろうか。南方の血を引いているのか、日本人離れした足の長さを誇りつつも、がっちりとした見事な上半身がアンバランスさを感じさせない。ましてその上に乗っている褐色の顔ときたら美貌というもおこがましいほど整って、気品と男臭さを同時に漂わせているというはなれ技を演じている。
 この男に比べればハリウッドの大物俳優でも、地下鉄駅のホームで丸くなって眠るホームレスと五十歩百歩だった。まして中流家庭の一般人など、並んで立つだけで罪とされるかもしれない。
 だとしたら、同じ部屋にいるもうひとりの男、数分前にこの部屋にやってきたその男は死刑ですら生ぬるい。
 年の頃は四十代なかば。でっぷりと太った身体にたるんで突き出た腹、短い足――もちろん生粋の日本人だろう。明らかに部屋の主であろう青年が立っているというのに、男はソファに座ってふんぞり返っていた。
 脂ぎった顔に至っては二重顎、禿げあがった頭、団子鼻に無精髭と徹底的だ。今時の若い少女たちなら一目見ただけで露骨に顔をしかめるだろう。青年も分に漏れず顔をしかめているのにも頓着せずに、部屋に来たときから強い銘柄の紙巻きをくわえて離さない。もうもうとふかす煙は機関車さながらだ。
 ポイントをすべて押さえてある、嫌われる中年像の完璧な具現化だった。そのくせ身につけているものは男にまさるとも劣らず上等な三つ揃いというのが、よりいっそう中年のいけすかなさを増幅するのに一役買っていた。
 服にかかっている金額以外はことごとく対照的なふたりが、その部屋に居合わせる理由とは?
 最初に沈黙を破ったのは、青年の方だった。
「――それが用件だというのですか、貴方は? この街に来たからには……ええと――」
「とぼけるんじゃねえよ、毛頭のガキが」思わず聞き惚れてしまうような青年の声をさえぎるように、中年のダミ声が吐き出される。「ショバ代だっつってんだろ? あとは挨拶。基本だろうが、このトンマ」
 いらいらした様子で葉巻を灰皿に、と思ったら大理石のテーブルに押しつけて火を消した。間髪入れず二本目を取りだし、先端を噛みちぎる。
「ショバダイ、とは何ですか? あと、この部屋は禁煙で……」
「――るせえ!! 四の五のいわずに金を出せって言ってんだ、サンピン! 今度オレに指図したらぶっ殺すぞ!!」
 わずかに顔をしかめた青年に向かって怒鳴り散らす。大量の唾と共に葉を吐き出したのは、もちろん絨毯の上だった。
「どうして、僕が貴方にお金を支払わないといけないのですか?」
 問いかける青年の表情は真摯そのものだったが、中年は額に青筋を浮かべる。そんなこともわからないのか、と言わんばかりの表情だった。
 しかし、すぐに小馬鹿にしたようなそれに変わると、
「いいだろ。このオレ様が特別に教えてやるぜ、可愛い青びょうたんちゃん」
 盛大な煙を吐き出しそう言った。青年の顔がさらに曇ったが、おかまいなしだ。
「いいかい、まずぁオレ様の身分から教えてやる。オレ様はここら一帯――まあ新宿界隈だ――を仕切ってる、いわば頭よ。
 頭だ。わかるか? ボス。ドンでもいいぜ。一番強くて偉えヤツのコトさ」
 青年は曖昧にうなずいた。ただ単に興味がなかったのかもしれない。
「一番強えオレ様は、つまり何でも知ってなきゃなんねえ。どいつもこいつも言うことを聞かなきゃなんねえのよ。逆に言えば、オレ様は何もかも知ってるし、誰だろうと逆らうのは許さねえ」
「ほう」
「あと大事なことは、何でもかんでもオレのモノってコトだな。この新宿にあるものは何でもだ。ちょっとくれえは分けてやらんでもないと時々は思うんだが……まあ強くて偉えんだから仕方ねえ、オレ様のモンさ。金は道ばたに落ちてる十円玉から札ビラまで、土地は駅前の超一等地からションベンとゲロのまき散らされた裏路地の隅っこまで全部。そんでもって」
 呆れたように無言の青年を見て勢いづいたか、中年はより饒舌になる。
「言うまでもねえが、女も全部オレ様のモンなんだ。ドブ臭えツラのスベタからケツのむっちりしたコギャルちゃん、果ては生まれたばかりの」ここで何故か中年はごくんとつばを飲み込み、「生まれたばかりの赤ん坊まで、な。ずうっと昔からそういうことになってんのよ」
 ここで青年は、やんわりと口を開こうとした。だが中年はそれを許さず、ふたたび恫喝のこもった調子で話しだす。
「……ところがテメエはそれを守らなかった。新参だからって甘く見てりゃつけあがりやがって、金を持ってくるどころか挨拶ひとつしに来ねえ。こちとら舐められるのは我慢ならねえんだ。だから直接出向いてやったつうワケよ。金と、今まで好き勝手かました詫びをもらいにな。オメエはわざわざ来てやったオレ様の温かい親心に死ぬほど感謝して、涙を流しながら土下座してからこう言わなきゃならねえ。『ああ何てココロの広いお方だ。ボクの持っているものはすべて貴方様のモノです、どうぞ何なりと持っていってください。ついでにボクを貴方様の下僕の隅っこにくわえてください。さ、さ、お帰りはこちら。お金はこちら。最後にどうかひとつこの卑しい下僕めをお踏みになって』てな。
 ――わかったか!? この青びょうたん!!」
 なまじ脂ぎった中年顔だけに、最後の一喝はなかなかの迫力だった。そこらのチンピラ程度ならば萎縮したかもしれない。
 青年には。
「わかりません」
 かけらも、通じていないようだった。
 中年の顔が紫色に染まった。怒りのためだ。青筋の本数は倍に増えた。
「正直言って、まったくわかりません。何から何までです。今の一分五十六秒の」数えていたらしい。「長広舌は疑問だらけでした。というより支離滅裂もいいところです。ひょっとして妄想狂か、偏執症のきらいでもおありになるのではありませんか? もしよろしければ、僕の知っている医師を紹介いたしますが」
「……てめえ……」
 中年の顔色は、いまやどす黒く変わっていた。いつテーブルを飛び越えて青年に掴みかかってもおかしくない。
 青年は意に介さず、言葉を続ける。
「そもそも、貴方は何をもって自分を一番強いとおっしゃられるのですか? 失礼ながら貴方の何処を見ても、この街で一番であるという証拠が見つけられません。例えば『何もかも知っている』とは先刻の貴方の弁ですが、何をどういう具合にご存じだというのですか?」
 中年はぎりぎりと歯を軋らせていたが、やがて前にも増してむやみやたらと葉巻をふかせ始めた。数分も煙を吐き出し続け、青年の顔がいよいよ曇りだしたのに満足したのか、
「……上等だよ、青びょうたん。だったら教えてやろうじゃねえか、すぐにな」
 にたりと嫌らしい笑みを浮かべてそう言った。
「何なりと。ただしあと十分でお願いいたします。僕も約束がありますので」
 青年は腕時計の針をながめて応じる。スイス製の高級品だ。時計は午後十時を回ろうとしていた。
 それを聞いた中年の笑みが、不意に勝ち誇ったそれになった。
「『カスター』のユウコだったら、今日はこねえぜ」
 青年の表情に、初めてかすかな驚きが滲む。
「ナオミもレイコも、『花酔路』のミチルもな。オメエのとこに来る前に、みいんなオレがたっぷりと因果を含めといてやった。この先しばらくは客の呼べねえツラと身体になったが、あの色ボケどもにゃいいクスリだったろうぜ? オレにはたっぷり感謝してもらわねえと、な」
「彼女たちに手を出したのですか」
 青年の声は、妙に静かだった。中年は愉快そうにげたげた笑う。
「そうともよ。言ったろ? この街の女は全部オレのモノ、オレは何でも知ってる、ってな。
 けけ、あの淫売どもにゃ、オレの自慢の息子と――死なねえ程度にクスリをたっぷりと決めてやった。ありゃあもうガキこさえるのは無理、当分はセックスも無理か。まあ商売女どもなんざその方がいいんだろ? ちょうどいい休暇、骨休めさ。ガキにしたってピルをがぶ飲みする手間をオレがはぶいてやったってワケ……」
 中年はそこで、急に話すのを止めた。話すのを止めて、自分の右手をしげしげと見下ろした。
 さっきまで葉巻を持ってきちんと「ついていた」その部分が、なかった。
「手を出しましたね、『僕の』彼女たちに」
 静かな青年の声と同時に、勢いよく断面から血が噴き出した。
「――おぉおおおおおおっ!?」
 手首を押さえて絶叫する中年の首に、この時とてつもない速さでまきついたものがある。
 緑色の、いびつな紐だ。それは長く続いて、青年のスラックスの裾から伸びていた。
 それは――蔦ではあるまいか。
「日本に来てから今日までに四十二人」青年は奇怪な光景にも眉ひとつ動かさない。「一度たりとて欠かしたことのない僕の大事な――許せない」
 中年の首に巻き付いた蔦は、凄まじい力で中年を締め上げているらしかった。見る間に中年の顔が紙のように白くなり、開いた口から舌と唾液が飛び出した。見開いた目は血走っていた。
「お前のような汚らしい奴は、僕のものになるにはふさわしくない。ここでゆっくりとくびり殺してやる。いや、もっとむごく汚らしい死に様を、せめて僕の前にさらすがいい」
 びゅう、と空気を裂く音。反対側の裾から伸びるもうひとつの緑。
 中年の左手首と両の足首が、右手と同じように断たれて絨毯に落ちた。流れ出た血が絨毯を濡らし、床でくすぶっていた葉巻の火を消すのを見て、青年は満足そうにうなずく。
「汚らしい男の血の匂いはやはり不快だが、その匂いよりははるかにましだ。消えてよかった」
 今や中年の身体は痙攣し、先端を失った手足をじたばたと動かすしかできなくなっていた。ソファの上でかすかに身じろぎするが、さらに締まった首の緊縛にそれすらままならなくなる。
 一分あまりで、中年の動きは完全に止まった。高級そうなスラックスの股間から湯気が上がる。
 窒息により失禁したのを見届けても、青年はさらにきっかり五分、そのまま立っていた。部屋に小便と血の匂いが濃く立ちこめ、もとからあった甘い香りと混ざり合って強烈な匂いへと変化した。
 首の蔦がゆるみ、ほどけ、ふたたび青年のスラックスに吸い込まれる。
「……もうここは使えない。新しく『根を張る』場所を探して、『雄蕊』も別のものに変えるとするか」
 こともなげな青年の独白に、このとき割り込んだ者がいる。
「――そうはいかねえな」
 青年は愕然と後ろを振り向いた。声のした方へと。
 薄笑いを浮かべて入り口に立っているのは誰あろう、あの中年ではないか。
「どうした、小僧? ずいぶん慌てたツラぁしてるぜ」
 鼻を突く刺激臭に、青年はソファに目を戻す。
 その目が、さらに大きく見開かれた。中年の血で消えたはずの葉巻がいまだ燃えていて、絨毯を黒く焦がしていたからだ。
 絨毯に落ちた血の染みはない。もちろん手首と足首も落ちてはいない。
 そしてソファにぽつんと置かれているのは、中年の死体にあらず。どこから持ち込んだのか、いつからそこにあったのか――。
 大きな、石製の地蔵。
「……南米から来たんだってな。めでたくこの地で発芽ってワケか。貨物にでもひっついてきたのかよ、ええ?」
 中年は戸口に格好つけて――およそ似合ってはいなかったが――もたれかかり、ニタニタと嗤った。
「そのツラとあの匂いで女どもをまいらせて、それからどうするつもりだった。
 テメエのガキの苗床にでもしてるのか、それとも――『栄養にでもしちまった』か? どっちにしても感心できねえ。この街にゃこの街のルールってもんがあるんでなあ」
「……何者です、貴方は? 人間ではないのですか」
 青年はうつむき加減で、中年をねめつけている。口調も表情もほとんど変わっていないだけに、その様子はかえって人間離れした恐ろしさを感じた。
 だが、中年もまったく動じていない。むしろかえってリラックスしたかのようだ。
「オメエに言ってもわかんねえかもしれねえなあ。なんせ向こうにゃいねえかもしれねえし、いたとしてもこっちでのオレらほどはメジャーじゃねえかもしんねえし――」
 すべて言い終わる前に、青年のスラックスがざわりと波打った。青年の口はまったく動かず、それなのに部屋のどこかからぼそりと青年の声がした。
「……どうでもいい。死ね」
 膝から下の生地を引き裂いてほとばしる、緑の奔流!
 それはさきほど中年の首を締め付け、四肢を高速で断ち切った蔦だった。それがいまや二十を超える数となって、中年に向かいいっせいに伸びていく。
 青年にとり、その蔦は『補食用』だった。青年は自分の『補食蔦』に絶対の自信を持っていた。
 ワイヤーよりも頑丈で、数キロ先まで長く伸び、かつ飛ぶ鳥を捕らえるほどの速度。狙った獲物を縛るもよし、締めるもよし、その速度をもって断つも自由自在。
 あっさりと中年に巻き付くが速いか、蔦は中年の頭頂からつま先までを幾重にも取り巻き、緑色の柱へと変えてしまった。
「今度こそ逃がさん。体中の骨と肉をすりつぶしてやる」
 緑の柱が見る見る縮まっていく。蔦が締め付けを強め、中年を圧搾しているのだった。
 硬いものをへし折り、砕く音が連続して響いた。中年の身体が絞り上げられる音。柱の太さは半分以下になった。
「おうおう。もったいねえ」
 自分自身の宣言どおり、青年は今度こそ――呆気にとられた顔になった。なまじ整いすぎた顔だけに、ぽかんと口を開けた顔は間抜けそのものだ。
 今度の声は、真横から。
「テメエの金で買った彫刻だろ? いくら腹が立ったからって、八つ当たりはよくねえよ」
 慌てて蔦をほどいた。そこで原形をとどめぬまでに破壊されていたのは、扉の横に飾ってあったブロンズ像だった。
「わけがわかんねえ、ってツラだな」にたり、と笑うその顔の小面憎さはどう見ても中年本人だ。「いつまでも葉巻なんぞに気を取られてるからさ……って、まあ当たり前か? 人間だって目の前で同族のミイラ死体が燃やされてたら、そっちが気になってしかたなくなっちまうだろうしな! はあっはっはっ、即身仏の火葬ショーはお気に召しやがりましたですか、海外産ペンペン草様!!」
 壁にもたれかかっている様も、身体を揺すって哄笑する様も作り物には見えない。立体映像とも思えない。足元の絨毯は沈んでいるし、スーツの衣擦れの音さえ聞こえる。
「おのれえっ!」
 しかし唸り声と共に放った蔦が分断したのは、青々と枝を茂らせた観葉植物だった。
「いやあマズイぜそれは。仮にも仲間だろうが」
 はじけ飛んだ首と思ったそれは、一枚一千万の絵画がはめこまれた額縁だった。
「あーあ、ゴッホだかウホウホだか知らねえが、草葉の陰で泣いてるぜ」
 縦に引き裂いた瞬間、オーディオセットはその正体を現した。
「ペンペン草がジムノペティなんか聞いてんじゃねえよ。嗤っちまうだろうが」
 蔦は声に誘われるように、部屋を縦横に乱れ飛ぶ。そのたびに中年の身体は裂け、ちぎれ、貫かれて血しぶきとともに宙を舞う。
 だが新たな場所から声が聞こえるたび、それは部屋を飾りたてていたものへと姿を変えていった。
「……こりゃ掃除が大変だ」
 どこからともなく中年の声が響いたときには、部屋にあるすべてのものが破壊されていた。
 さながら嵐の通り過ぎた後だが、それをやった張本人は息ひとつ荒げず、それでいて凄まじい怒りの視線を油断無く四方に注いでいた。
「もう壊すものもなくなっちまったな、小僧……さ、ここで問題だ。
 さっきから身の程知らずの若造をからかって存分に楽しんでるこのオレ様は、一体どこにいるでしょう? 正解者にはオレ様の大事な秘密を教えてやろうじゃねえか。頑張れよ。フレーフレー」
 声は耳元で囁かれているようであり、また同時にひどく遠くから響いてくるようにも聞こえた。
 どこから話しているのかも判断できず、しかし気配だけは確実にそばにいることだけを伝えてくる。人間にこのようなことが出来るはずないのは、青年にも解っていたが――。
「なるほど――人を騙すのがお得意のようだ」
 中年にというよりは自分に言い聞かせるように呟くと、青年は部屋を見渡すのをやめた。
 同時に、うねうねとうごめく蔦の群れがすべて消える。青年の内に引き込まれたのだ。
「どうした、降参かい?」
「いいえ」
 青年の言葉と同時に、部屋全体が脈動した。
「探し方を、変えることにしましょう。……これならいかが?」
 部屋の壁に、床に、天井に。
 緑色であることを除けば、縦横に浮かび上がったそれは人間の血管を思わせた。部屋の壁という壁をくまなく覆った奇怪な紋様は脈動をつづけ、まるで部屋自体が生きているかのようだ。
「へえ、すげえ。ペンペン草かと思ったら」
「僕の蔦です。この部屋すべてに広げてある。いわば貴方はずっと僕の身体の中にいるというわけですが……」
 壁に浮かんだ『蔦』が、さらに枝分かれをはじめる。壁を離れ、重力を無視して部屋の空いた空間にするすると伸び出した。
 やがて『蔦』は、部屋すべてに行き渡った。
 青年ははじめて笑みを浮かべた。緑色の『蔦』に阻まれて見ることは出来なかったが、それは誰もが思うとおり魅力的な笑みだった。
 虫を誘う、美しい花のような。
「さあ、これでわかったことがあります」
 青年の声も、もはや青年からは聞こえてこなかった。口だけは声に合わせてぱくぱくと動いてはいたものの。
 声は、その『蔦』こそが発しているのだ。
「僕の蔦は部屋を覆ったのに、貴方はどこにもいなかった。――僕でもさすがに蔦を張ることができない、ただ一箇所を除いてね」
「ほう、どこだい」
 ぞわ、と緑がざわめく。
「……そこですよ」
 密集した蔦が、わっと左右に割れた。いつの間にそこに移動したのか、青年は部屋の真ん中に立ちつくしてある一点を凝視していた。
 すべてガラス張りの、外に面した窓を。
 「窓の外」を。
 見よ、それに応えるかのように、窓の外に中年の姿が現れたではないか。空中に何の支えもなく、あぐらをかいた姿勢で浮遊するその姿は、滑稽というよりは不気味ですらある。
 中年は分厚いガラス越しにもかかわらず、よく通るダミ声で言った。
「まあ……正解としとこうか。ご褒美に忠告しといてやるが、これでお遊戯の時間はおしめえだぜ」
「同感ですね」
 蔦が大量に押し寄せた。中年はよけるどころか、動こうともしない。
 うち寄せる緑の波と化した蔦の群れが、銃弾にも耐えうる強化ガラスを一瞬で砕いて――。
 見えない何かに、すべて跳ね返された!
「――!?」
 青年はそれを、蔦の感触で知った。だが驚きに絶句したのはそのせいではなかった。
 中年の姿が――歪んでいる。
 いや、その背後にある夜景すらも。蔦が跳ね返された場所を中心として、滴の落ちた水面に波紋の広がるがごとく。
「やめろよ。くすぐってえじゃねえか」
 中年の口が、どこか卑猥そうにつり上がった。
 像の歪んだ口が。歪む夜景を背に。
 それがあろうことか、消えていく! 中年も夜景も薄れてぼやけ、後に残ったのは窓の全面に張り付いた土色の壁。
 今まで青年が「窓の外の景色」だと思っていたものは、その壁に投影された虚像であった!
「正確に言うとな……オレ様は『ここ』にいるわけじゃねえ」中年の声が再び遠くなる。「本当の正解は『このビル全部』。オレ様は最初っから『ここ』にいて、テメエと話してたのは全部オレ様の作った幻術さ。テメエが見ているそこにしたって、オレの身体の一部分にすぎねえよ」
「何処です!? 姿を見せなさい!!」
 青年は叫びながら、すでに中年の気配を感知していた。
 それはいまや隠そうともせず、圧倒的な質量すらともなって青年を包み込んでいる。中年の言葉に偽り無く、上下四方のすべてから。
 ――僕よりも自分を広げられるものなんて、生まれた所にだって数えるほどしかいなかったのに。
 あの広い広い森と、大きな大きな河。
 その河のほとりで生まれ、永い永い時を経て力をつけた自分。青年はそこでは絶対者だった。虫も獣も同族も、人間たちでさえも自分を恐れ、敵うものなどいなかった。
 よもや、こんな狭い島国で出会おうとは。
「……テメエは部屋ひとつを自分で囲って悦に入ってたみたいだが、オレ様に言わせりゃセコくてチンケな妖力だねえ。そんな程度でこの国にやってくるたあ、命知らずもイイトコ――ま、オレ様に目を付けられたのが不運だったと諦めるこった」
 ――僕が弱いとでもいうのか。
 中年の声を聞きながら、青年は思う。
 ――この国にはもっと強いものがいるとでも? それともこいつが特別なのか? こいつが一番強いのか? たまたまこいつに会ったのが不運だったとでも?
 そんな思考を続ける青年の心の中に、じわじわと湧いてきたものがあった。それはひとつの心の動きだったのだが、ただ河のほとりで佇んでいた時には持つことのなかったものだった。
「そうそう、テメエはオレ様にこう言ったよな。『体中の骨と肉をすりつぶしてやる』って」中年の言葉は続く。「骨や肉なんてもんがテメエにあるかは知らねえが、弱っちいテメエの代わりにオレ様がやってやらあ。ありがたく思って、とっととおっ死ねや」
 瞬間、部屋が轟音とともに――縮んだ。
 べきべきという音は、壁材がつぶれていく音だった。それを圧して轟くのは鉄骨がひしゃげる音だった。とてつもない揺れは足元が崩れる振動だった。
 青年は部屋に張わせた蔦から、それらが意味するものを知る。
 自分が、押しつぶされる。自分が根を張ったこの部屋ごと。
 この部屋がある、ビルもろともに!
「安心しな、ちゃあんと他の連中はオレ様の手下どもが逃がしてある。音も一切外には漏れねえように細工しといた。何の遠慮もいらねえってコトだな」
 耳元で囁かれたと時、青年は絶叫していた。
 ――こんな奴に会うんじゃなかった。こんな街に来るんじゃなかった。こんな国に来るんじゃなかった――。
 生まれて初めて感じる心の動きに従っての、生まれて初めての無意識の絶叫。
 ――こんな力を、持つんじゃなかった――。
 それは恐怖による絶叫だった。
 『おしべ』である青年の身体と、その本体が圧縮された瓦礫とともに引き裂かれていく間中、青年は叫び続けていた。
 それが千年以上を生き続けて意志と力を得たひとつの存在の、終焉の瞬間だった。

★           ★


 ころころと太り、腹の突き出た男たちが、そのビルを見上げている。
 ビルは静かで、明かりもすっかり消えてしまった。翌日になればまた人々が戻ってくるだろうが、今は物音ひとつしない。
 そんな男たちの視線が、ふと階下の入り口に集まった。開いた入り口に立って、出るでもなくふんぞり返っているのはあの中年男だった。
 男たちは三々五々、中年のまわりに集まってくる。
「親方、どうでした?」
 その内のひとりが声をかけると、中年はぼりぼりと頭をかいて、
「あーあー、ちゃんとナシつけといたぜ。もう女どもの連続行方不明事件は終いだ」
 さも面倒くさそうに、そう言った。おお、と男たちから声があがる。
「さすが大将だ。そこらのウスラじゃこうはいかねえ」
「人間のポリ公どもじゃ、てんで役にも立ちゃしやせんからねえ」
「で、『経月』でしたか。それとも『変化』?」
「やっぱぶち殺したんですかい?」
「おいおい、そんなにいっぺんに言ってんじゃねえや――」
 口々に賞賛やら質問をぶつけてくる男たちに囲まれ、中年は億劫そうに、それでもどこか自慢げに応えていく。
「ありゃあやっぱり、この国のヤロウじゃなかったぜ。つい遊びが過ぎちまってぶち殺しちまったから、詳しいこたぁオレにもわからん。まあちとやりすぎだったかもしれんが……」
「そうそう、このビルどうするんで。『モノホン』は親方が包んでつぶしちまったんでしょう?」
「あー、どーせ新しいねぐらが欲しかったとこだ。住んでる人間どももいることだし、しばらくこのまま『化け』といてやるさ。
 これからはここがオレのねぐらだ。何かあったらここの最上階に来るんだぜ。女どももこれからはオレの部屋に来るように……何がおかしいんだ、テメエら?」
 ケッケッ、と男たちが笑っていた。途端に中年の表情が不機嫌そうに変わる。怒っているというよりは、どこかばつが悪そうな表情だった。
「ああ、いえいえ何でもありやせん。親方の言いつけどおり、ちゃんとユウコは無事ですぜ」
「ナオミもレイコも、『花酔路』のミチルも。今ごろ睡眠薬でぐっすり眠ってます。起きたころにゃヤツの術も解けて、色ボケも直ってることでしょうなあ」
「……言いたいことがあるなら聞いてやろうじゃねえか」
 からかい口調の男たちに、中年はそれでも虚勢を張っていたが、
「いやあ、本州に名を売った当代『太郎』が、まさか女どもをビンタ一発で許すとは――まったく親方も丸くなられたもんですなあ、と」
 この一言で青くなった。
「ててててめえ、五平!? 黙ってろと言ったのにしゃべりやがったなっ!!」
「おかしいと思ったんでさ。アタシらがらみのもめ事にはここ十年ばかり無頓着だった親方が、いきなり『仁義を通さねえヤツは許さん』とか言ってひとりで乗り込んでいったんですからねえ」
「やっぱ女に甘い。惚れましたね」
「嫉妬たあ情けねえ」
「人間の女にばっかり入れあげて、見境がなくなっちまうトコは百年前から変わりませんな」
「懲りもせず」
「るせえるせえ、うるせえっ! 女を寝取られそうになって、怒らねえヤツなんざ男じゃねえっ!! ましてあのヤロウは喰おうとしてやがったんだぞっ! 許せるかってんだっ!」
 にわかに上がったからかい半分の批判に、中年が顔中を口にして怒鳴る。
 男たちの笑い声がいっそう高くなる。やんやとはやし立てる声が、夜の街に響く。
 煌々と月の光る夜の街、男たち以外誰もいないビルの前。
 不思議な都会の空白に、ぽん、と――。
 腹堤がひとつ、こだました。



終幕

 ――狐狗狸の狸は犬科のタヌキを指すが、普通この場合、途方もない年月を経て不思議な力を身につけた獣であるところの『経月』、すなわち妖怪としての狸のことである。

 『たぬきのきんたま八畳敷き』といい、自分のふぐり(陰嚢をさす)を八畳にも広げ、それを小屋などに変化させて旅人を騙したなどの記述が残っている。また葉っぱを頭に乗せて人に化ける話は有名。古来より人を化かし悪さをする変化の代表として書かれている狸ではあるが、祭りを好み、よく人間たちと交わった。それゆえかおとぎ話では時に善玉――人間の味方として書かれることもある。

 ちなみに本州すべての狸を統べる頭領がいるとされており、『太郎狸』と呼ばれる。
 品性下劣にして性悪、気まぐれな慌て者であるが仁義に厚い一面もあり、しばしば人を助けることもあったと伝えられている。

【幻獣辞典】より

FIN.


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