| 小説目次 |
| 『ONE SHOT DETECTIVES』 こあとる著 <MAIL> |
ゆらゆらと揺れるキャンドルの灯が、店内を照らしていた。
イギリス北部にある、それほど大きくはない町の酒場。
夜の九時を回った時点で、この店の電気の照明はすべて落とされてしまう。もっともそれは、この町が田舎であることとは関係はない。
これから本当に店が閉まるまでの三時間、馴染みの客たちはこの原始的な明かりの下で良質の自家製ビールを飲みながら静かに語らう。それはこの店が出来たときからのルールであり、一度も変えられたことのないルールだった。
パイプ党がくゆらせる上質の葉から立ちのぼる紫煙が、となりのテーブルのひそやかな談笑とともに届いてくる。キャンドルの灯がそれを、目と耳に届く前にかすかに揺らす。
――取るに足らないはずのキャンドルの灯ですけれど――
ひとりの男が、女にささやきかける。
――普段ならわずらわしく思えるものを、すべて暗がりの中に押し込めてしまう力をもっている……今は、そんな気さえしてきますよ――
「幻想的な光景だ」と女が評するのを聞いた、そのときに男――渓啓一が語った感想である。
「……ロマンチックなのね。東洋人はみんなそうなのかしら?」
ベリンダと名乗った女は、感心したように目を細めた。つい一時間前に出会ったときは、自分よりも背の低い見知らぬ東洋人を気味悪そうにすら見ていた瞳だった。
実際、渓は小柄だった。
身長は一六〇と少し。太っているわけではなかったが筋肉がついているわけでもなく、背が低いせいかやや貧弱な体つきに見える。
整っている部類に入るだろう顔は東洋人特有の童顔で、やや年齢が見えにくい。にこにこと人なつこそうな笑みを始終浮かべている様は、どこか小動物を想わせた。
そんな「見知らぬ東洋人」が完璧に近い発音の英語で話せることにベリンダは最初驚き、巧みな話術とユーモアセンスの持ち主だと知ったときには態度を軟化させ、たった今ロマンチックだという新たな評価を加えたところだった。わずか一時間では、劇的な変化といえる。
今渓を見るベリンダの表情は、すでに好もしそうなものに変わっていた。
「いやいや。東洋人といえば、貴方の考えている通りの連中が大半ですよ。国ではよく言われたものです――『とっととヨーロッパにでも消えうせて、二度と戻ってくるな』って、ね」
「じゃあ、ここを選んだのは正解よ――」
声色まで使った渓の引用にひとしきり笑ってから、ベリンダはそう言った。
「ここは静かだわ。時間がゆっくり流れるの。ロンドンよりも、ずっとゆるやかに」
『……ああ。キミを見てると、それがよくわかるよ』
不意に渓が話したのは、日本語だった。
「今のは中国語? 何て言ったの?」
「失礼、本音はつい国の言葉で話してしまう。僕の悪い癖ですね――」
内容を理解できないどころか、日本語かどうかも判別できないベリンダに、渓はにっこりと笑って応じる。
「『貴方の方がずっとロマンチックだ』と、そう言ったんです」
歯が浮くようなセリフだ。頬のひとつも張られるか、爆笑されるのがオチだと誰もが思うかもしれない。
そうはならなかった。
それは嘘やわざとらしさを微塵も感じさせない、真摯な口調だった。プラス柔和な笑顔――果たして「まあ」と微笑んだベリンダのまなざしは、さらに渓への好意を強めている。
「ですが……」唐突に渓が、眉をよせた。「……最近、変な事件が起きたとか? 新聞で読みましたよ」
ベリンダにも渓の表情が伝染する。しかし会話の中で自分を評して「噂好き」と言った彼女のこと、すぐに面白そうな表情を浮かべて、
「新聞で、ね。……じゃあ、あなたのまだ知らない話もあるってご存知?」
内緒話のように声をひそめて、そう言った。
「知らない話?」
「ええ。『吸血鬼、現代に帰る?』のことでしょう? 違って?」
ベリンダが口にしたタイトルは、一昨日に地方紙が一面に持ってきた記事の見出しだった。今から三日まえにこの町で起こった変死事件を取り扱った記事である。
三日前の未明、牛乳配達の青年が路地で死体を発見した。
大の字になって路地のまん中に倒れていたその死体に見覚えはなかったが、ひと目で自殺ではないとわかるくらい、奇妙な死に方をしていたらしい。
全身によく研いだ剃刀で切りつけられたような無数の――検死の結果百ヶ所以上に及んだという――裂傷があり、直接の死因は失血死。だというのに現場には一滴の血もなかったのである。それどころか、死体の体内にもほとんど血液が残っていなかったとすると、これはもう異常であった。
警察は他殺と断定したが、同時に殺害方法の見当がまったくと言っていいほどつかない状態だった。その上被害者の身もともまだ不明で、捜査は難航しており、今のところまだ有力な情報は見つかっていない――記事の内容は、おおまかに言えばそんなところだった。
「ああ……当たってはいますが……」
記事の内容からそのときの現場を想像してしまったのか、渓は渋面を深くしてうつむいた。
「そうですね……すこし――ほんのすこし興味があるのは否定できませんね」
そう言いながらちらりとベリンダを見た視線には、隠しようもない好奇心が顔をのぞかせている。
「ふふ、ひかえめなこと」
咎める言葉とは裏腹に、自分が望むとおりの表情を渓に浮かべさせたことにか、ベリンダは満足そうに笑う。
「でもいいわ――教えてあげる。あの死体を最初に発見した牛乳配達の男に、直接聞いた話なのよ」
「ほう」
ベリンダがテーブル越しに、ぐっと身を乗り出してきた。渓もつられて顔を近づける。あと少しで顔が触れあうくらいのところまできて、ようやくベリンダは話しはじめた。
「実はね、死体がその男によって発見されたとき、男は奇妙なものを目にしているの。犯人の手がかりかもしれない……ってわけだけれど」
「手がかり……ですか? しかし新聞には、なにも」
「載ってなかったでしょう? ないはずよ。警察が手がかりだって認めてないんだから」
「……は?」
間の抜けた声を出した渓を見て、ベリンダが吹き出した。しかしそれもすぐに真顔に戻して、
「『紅い風船』、よ」
ぼそりと呟くように、そう言った。
「『紅い』、『風船』?」
「そう。死体の真上に浮かんでいた、真っ赤で、大きくて――いびつな風船。その朝は風が出ていたし、紐がついているわけでもなかったのに、その風船は死体の上からぴくりとも動かなかったそうよ」
一気に話しおえて、ベリンダは渓の顔をのぞき込んだ。今度は期待通りの顔だったのかどうか、渓は狐につままれたような表情で考え込んでいる。
「でも……」ややあって、渓はふたたび顔を上げた。「それは、立派な証拠品じゃないですか? 警察だってちゃんと押収したんでしょう?」
おそらくそのセリフこそが、ベリンダの待っていたものに違いなかった。
「そこよ。警察はその風船のはなしを男から聞いたけど、押収はしていないわ。――『消えてしまった』んだから」
「消えた……?」
ベリンダはうなずいた。
「その場でゆっくりと、真っ赤な色があせるみたいに。……そうそう、あと消える瞬間に変な音を立てたそうよ。甲高い笛みたいな音を、ヒューッ、って」
「はあ……」
渓は釈然としない様子だったが、しばらくすると合点がいったのか、苦笑を浮かべて顔を離した。
「それは確かに面白い話ですが……ミス・ベリンダ、こうは仮定できませんか?
その男が死体を生まれて初めて見て、動転した。恐怖もあったでしょう。そういった精神状態の人間が幻覚を見たり幻聴を聞いたりする、という話なら、僕も聞いたことがありますよ」
「そうね。警察も、そう判断したみたい」
反論してくるかと思われたが、ベリンダはあっさりとうなずいた。
「でも」と付け加えたが。
「私は、その男の言っていることが幻覚とは思えなかったのよ」
「何故?」
渓は、何気なく水を向けただけだったのだろう。
ベリンダの変化は早かった。すこし気だるげながらも陽気に歓談していたその表情は、今まで話した一時間あまりのなかで、渓が一度も目にしたことのなかったものに一瞬で変わったのだ。
能面のような、無表情に。
「目よ。その男が話したときの、目――」
ささやいた声にも、感情はこもっていなかった。
「私、リッグスのあんな顔を見たのは初めてだったわ。警察の事情聴取から開放されて家に戻ってきてから、私に震えながら話してくれたときの、あの……」
ぶるっ、とベリンダは肩を震わせた。男――リッグスのそのときの様子を思い出し、それに同調するかのようだった。
『無表情』ではない。
それはなにか吹き出ようとする感情を必死で押し殺している顔だった。
「あの目、あの顔、あの声、あの震え。
死体を見ただけで、人はあんなに怯えるものかしら? いいえ、怯えているというよりは、あのときのリッグスは、まるで――」
ベリンダが見ていたのは、そのときのリッグスの顔だったのだろう。
だから、渓の表情もまた変化していたことに気づかなかった。
小動物を想わせる、にこやかな笑顔ではなく。
洒脱なユーモアを披露する、いたずらっぽい顔でもなく。
実験の結果を見極めようとするような、冷徹な。
モルモットに毒を打ち込み、悶死する様を観察する医者のごとく。
「――『狂気』、かい?」
さっとベリンダの顔が青ざめた。音を立ててテーブルから身を離す。
渓は、すでに立ち上がっているところだった。
キャンドルの灯は暗すぎて、その表情までははっきりとはわからない。
「役に立つ話をありがとう。お礼にひとつだけ、教えてあげる」
声だけが明瞭に、ベリンダの耳に届いた。声質はそのまま、しかしその冷淡さと嘲笑するような口調は、ベリンダに一瞬渓の声だと気づかせなかった。
「リッグス・ピーターセンは死んだよ。……今から二時間ほど前、自宅でね」
ベリンダの喉が、小さく音を立てた。
「ロマンチック」なはずのキャンドルの灯に浮かび上がるベリンダの顔から、どっと汗が吹き出てきた。
絶叫が酒場を揺るがしたとき、小柄な東洋人はもういなかった。
酒場の外に出た渓が乗りこんだモスグリーンのワーゲンには、ふたりの先客がいた。
ひとりは運転席で暇そうにハンドルをこつこつ叩き、もうひとりは後部座席で小さなイヤホンを外したところだった。渓が乗りこむのを確認すると、ワーゲンはゆっくりと発進する。
助手席に居座った渓が、後部座席の男に振り返った。
「……聞いてました? 大塚さん」
「ああ、これではっきりした。ナハドを殺したのはリッグス・ピーターセンを殺したのと『同じヤツ』だ」
大塚と呼ばれた男が、イヤホンを懐にしまってそう言った。
酒場での渓とベリンダの会話を、盗聴器で同時に聞いていたのである。それは本来リッグス本人から聞くべき情報だったのだが、渓たちがリッグスのアパートに向かったときにはすでにリッグスは殺されていた。「口を封じられた」と言ってもいいかもしれない。
リッグスが見つけた死体の男はナハドといい、渓たちとこの町で落ち合って協力者となるはずだった。一歩も二歩も先手を打たれていた渓たちだったが、ここにきてようやく追いつくことができた。
「リッグスの交際関係までは、あの『化け物』には理解できなかったようだ。恋人に話していたのは、我々にとっては幸運だった」
大塚は車内灯をつけて、地図を広げだした。
「やはり手を回したのは……『銀の黄昏』なんでしょうね?」
「思っていた以上に組織力がある。それに過激だ。オカルトかぶれの秘密結社と侮っていたのだが。
……さしあたっては、もうこの町には用はないな。ベルマ・シェファードの遺言をたよりにロンドンに行くか、エジンバラでハウプトマン卿の足取りを追うか――」
「……あの女はどうなるんだよ」
運転席の男が、面倒そうな口調でふたりの会話に割り込んだ。視線は前を向いたままで、ふと思いついたような口調だったが。
「オレたちがいなくなったとしても、連中は知ってる人間を消しにかかるんじゃねえのか? あの女も狙われるかもしれねえんだろ?」
「これは……びっくりです」
渓はおどけた口調で、運転席の男に向き直った。男は目だけを動かしてじろりと渓をにらみつけると、ふんと鼻を鳴らす。
「ここ数年、大きな仕事はしてなかったとはいえ……まさか相庭くんの口からそんなセリフが。いつから、そんな善人に?」
「……うるせえよ。時間がねえのはわかってる」
不満げな口調になって、男――相庭は吐き捨てるように言った。
「おそらくは大丈夫でしょうね。彼女を狙う余裕があったら、今ごろ僕たちが襲われてるはずですから」
「……それならいい」
渓は説明が終わっても、にやにやと何か含んだ笑みをまだ浮かべている。相庭も不承不承、という感じでうなずいたが、
「丸くなったものだな、相庭君。してみると渓君、やはりあれかね? 星川君のおかげとか――」
「螺美は関係ねえだろっ!」
ふと地図から顔を上げた大塚の生真面目なセリフに、間髪入れずに怒鳴った。吠え猛る肉食獣を連想させたが、怒鳴られたふたりは平然としたものだ。
「……向こうに残してきましたからねー。我々の中では一番身体の付き合いが長かった相庭君だけに、寂寥感もひとしおなのでは?」
「誤解をうむ言い方はよせ! オレが格闘技を教えたってだけだろうがっ!」
「ふむ、相庭君。前を向いて運転してくれんかね」
「大塚っ! てめえはまた、ひとり無関係なツラしやがってっ……」
くぐもったエンジン音とともにひた走るワーゲンは、三人の探偵を乗せ次の目的地へと向かう。
ひとりは楽しげに、ひとりは生真面目に、ひとりはいらいらと。
全員、命がけだったが。
そのころ日本では、
「……ううん……にゅ……おかえんなさいみんなぁ……えへへへへ……」
昼寝中。
ひたすら、平和であった。
| 小説目次 |