小説目次


『〜幻獣辞典〜』
こあとる著
<MAIL>





 

 makkeiさん、そしてmakkeiさんの奥さん。
 sudoくん、そしてsudoくんの奥さん。
 らいかくん、そしてらいかくんの奥さん。
 ヒョンヒョロさん、そしてヒョンヒョロさんの奥さん。
 九尾さん、そして九尾さんの奥さん。

 そしてすべての、しあわせなるお二人に捧ぐ。


〜幻獣辞典〜


 庚がそれに出会ったのは、深く険しい山中だった。

「――そこな方」
 そう声をかけられたのは、陽もすっかり落ちた頃だ。
 道無き道を半日も休みなく歩き続け、さすがに疲労が溜まっているのを感じた。わずかなりと足を休めようと思い、少し開けた場所で見つけた切り株に腰を下ろして水を飲んでいたところだった。
 「うわうッ!?」と素っ頓狂な声が出た。そんな庚とは対照的に、女のものとおぼしき声音は穏やかに続ける。
「驚かせて済みません。この山の猟師とお見受けいたします。少し頼みがあるのですが――」
 声の主の指摘通り、庚は猟師だった。
 その山に住まい、その山すべてを狩り場とする猟師の一族がいる。山を知り尽くし、弓を巧みに使い、闇夜であっても夜目を効かせ、猿のように枝を渡る。庚もその一族のひとりだ。
 一族の中でもっとも若く、昨年ようやく一人前と認められた庚であったが、物心もろくにつかぬうちから狩りに出され、駆け回った山野である。月のない夜に狩りをした経験も何度かあった。
 しかしそんな庚であっても、その声にはひどく肝をつぶした。
 声をかけられるまで、物音も匂いも、気配すら感じることが出来なかったからである。突然声だけがそこに降って湧いたかのようであった。
 慌てて弓に矢をつがえ、木々の立ち並ぶ四方を見渡した。庚のいるこの山は普段登ろうとする者もいないほどに険しく、まして夜半も過ぎた頃となれば、女の声とはいかにも怪しく感じられる。
 畏れを感じはしたもののそこは山を知り尽くした猟師の庚、幼さゆえの恐いもの知らずも手伝い、
「――だ、誰だっ。姿を見せろっ」
 弓弦を引き絞り、四方に油断なく注意を向ける――と同時にちょうど庚の正面、太い楡の樹の影から、するりと赤いなにかがすべり出た。
 とっさに庚は一矢を放つ。風切り音とともに矢が、夜目にも赤いそれに向かって飛ぶ。
 その矢が、ひたりと止まった。
 正確に言えば、止められた。
 樹の影から出た赤いものは、絹織りの布だった。
 そしてその赤布にくるまり、たった今庚の放った矢を「挟み止めた」のは、たおやかな白い手。その人差し指と中指、ただ二本。
 女の手に見えるその繊手には、しかし場違いなほど無骨な錬鉄の戟(げき)が握られている。
 庚は信じられない思いでそれを見た。長さ六尺近く、重さにして八十斤はあろうかという長柄武器を握ったまま、手の主は放たれた矢を二本の指だけでもって、それも月明かりがあるばかりの夜の闇の中、挟み止めてのけたということだった。
 尋常な腕ではない。それどころか人間技ですらない。
 呆気にとられる庚の前で、手に続いて肩が、それから顔が覗いて――半ばで止まる。丁度半身をさらす格好になる。
 赤布を全身に巻き付けた、女だった。鋭い目と短く切りそろえた髪がどこか中性的な、そして凛とした印象を与えていた。
「重ねて申し訳も御座いません。驚くのも無理はないでしょうけれど……」
 その顔が一転、申し訳なさそうに愁いを帯びる。
「あなたの水を戴きたいのです。一口でかまいません。必要なら礼もいたします」
 樹から半身しか出さず、それでも目礼してみせる。庚は声もない。
 ようようつがえた矢を降ろし、それでも緊張を解けずに恐る恐る尋ねる。
「こんな夜の山深くにいるなんて、あんた誰だ。迷い者か山霊様か、……そうじゃなきゃ化生か」
「山霊と言うほどよいものでもなく、化生と言うほど禍つものでもありません。
 ゆえあってこの山にまで来たのですが、気付いてみれば喉が渇いて仕方がなく、そこへあなたが通りがかったのです」
 口調は丁寧で、柔らかな声をしていた。じっと庚を見る目は曇りなく、怯えさせぬ配慮のようなものまで伺える。
「丸三日ほど、何も口にしていないのです。…………お願い、します」
 直感的に悪いものではないと――正体が何であるにせよ――思った庚は、ひとつ息をついて動悸を沈めた。この先の道行きと目的を想うと腹も据わった。
 「ん」と頷く。女の表情がふっと幼げに緩んだ。
「感謝します。それと、その」庚が持っている竹の水筒を指して、「それを、こちらに放ってください。奇妙と思われるかもしれませんが、そちらに参るわけにはいかないので」
 庚は遠慮がちに竹筒を放った。くるりくるりと弧を描いて飛んだ筒が、女の手に収まる。
 女は戟を樹に立てかけて、そのまま片手で器用に木杭の栓を外し、言葉通り一度だけ喉を鳴らした。
 ふう、と息を吐いて数拍。
「本当に助かりました。私の名前は叉怜(されい)と申します」
 にこりと笑いかけられ、庚はそのあでやかさに見惚れてしまう。
 女傑のように鋭い表情、童女のように幼い表情、傾城のように艶のある――。
 表情が変わるごとに、その女のまとう雰囲気がくるくると変わっていくのに驚き、戸惑う。いっかな樹の陰から半身を出さないことと併せて、女――叉怜はひどく不可思議な存在として庚には映ったが、もう恐ろしいとは感じなくなっていた。
 庚も名乗った。ついでに筒を返そうとした叉怜に、やんわりと首を振ってみせる。
「いいよ。……あんたにやる」
 叉怜はもう一度、「感謝します」と微笑んだ。



 ■『ニスナス』の巻■



 廉がそれに出会ったのは、山裾を流れる河のほとりだった。

 陽が落ちて、村の人間がすべて寝静まったのを見計らい、河に沿って歩いた。いつにも増して誰かに見とがめられはしないかとそればかりが気になったものの、朝の早い村のこと、月を中天に迎える深夜となれば男も女もまず起きてはいないはずで、小走りに駆け通してきたことが滑稽に思えるほどあっさりと村を出ることができた。
 歩調をゆるめ、息を整える。まだ幼い少女である廉だが、もともと山歩きも慣れた身であったから、河原の涼気と夜気を数度吸い込むと余裕が生まれた。
 ――自分の立場とこれからのことを考えれば、それは所詮かりそめの余裕なのだろうけれど――。
 振り返って、自分が歩いてきた夜の河原を見透かしてみた。後にした村はもう灯りも見えず、ふと廉の顔に子供らしい寂寥が湧く。
 ほんの一瞬だけ。もう一度だけ夜気を吸い込むと、それは微塵に溶けて消えた。
 再び歩き出そうとしてふと視線を移したとき、
 ――あ。
 大きな岩の影に、うずくまる人を見た。
 廉は声も出ないほどに驚いた。ふたりの距離は思った以上に近く、数間ほどしか離れていない。にわかに混乱した頭で逃げようとする。
 その足が、止まった。
 影に隠れてよく見えなかったが、身を包む蒼い織布と、じわりとそれに染み付いた血の色――まだ流れてそれほど経っていないのだろう鮮明な色が、廉の歩みを止めさせた。
 岩から覗くのは半身のみ、残りの部分はもたれかかっている岩の影になって見えない。すらりとしなやかな身体に蒼い布。何処かの武人なのだろうか、すぐ手が届くところに立てかけられた、差し渡し五尺を超える戟。
 錬鉄で造られた真っ黒なそれが、月の光を受けて濡れたように輝いている。
 尋常ではないと、いまだ混乱した頭で考えた。
 こんな山奥、まして夜に、尋常ではない武器を持った尋常ではない格好の男。生きているのかこと切れているのか、それさえも判断できない。
 逡巡した挙げ句、勝ったのは好奇心だった。さすがに恐る恐る、それでも様子を伺おうと近付いていく――。
「……あの、こっちに来ない方がいいですよ」
 その人影が、いきなり口をきいた。
 廉はびくりとすくみ、しかしその影が屍ではないと知ると、好奇心が気遣いに変わった。
「あ、あの。……怪我を」
 見たこともないほど鮮やかに染め上げられた蒼布と赤い血のまだらは痛ましく、耳をすませばかすかに荒い息も聞き取れる。
 わずかな間のあと、いらえがあった。
「いや、ええと。気にかけてもらえたのはありがたいんですけど、」言葉を切り、息を吸う音。「こんなくらい、何を隠そう私に取ってはかすり傷なんです。すごく平気。どうってことありません」
 低いとも高いともつかない中性的なその声は、終始穏やかな調子だった。
 それでも言葉の合間に聞こえる喘鳴は、痛みを堪えているのだろうことがわかった。声に従い立ち止まりはしたものの、廉にはどうしてもそれが気にかかり、立ち去ることができない。
「ほんとに済みません、血なんか見せちゃって、――あ、少し休んだらとっとと消えますんでもう全然お気になさらずに」
 どこか不相応な幼さのようなものまで感じられる口調に、得体の知れないものに対する廉の恐怖心はゆっくりと溶けていく。しばらく思案したあと、懐から小さな陶製の丹入れを取りだし、
「血止めの膏薬です。わたしの村に伝わるものですから、よく効くと思います……」
 数歩の距離まで近付いて、足元に置く。
 動かない人影が、ため息のような長い息をつくのが聞こえた。それは実際ため息だったのかもしれないが。
「……ああ、もう。つくづく情けないけどもらっときます」声からすっかり緊張がとれ、優しいような、呆れたような響きが混じる。「実はここだけのハナシものすごく痛くて泣きそうだったんで、ヒトのナサケがほんと身に染みるというか、……あ、すみません名乗るの遅れちゃって。私は胡斤(うきん)と呼ばれてますけどぶっちゃけなんて呼ばれてもいいです。『おい、そこの馬の骨』とかでも、ええもう全然」
「廉、……と申します」
 ぎこちなくではあったが、廉はようやく表情をゆるめた。
「そうですか。廉さん。いいお名前ですねー。
 重ね重ね失礼ですみませんけど、ちょっと、この、――うんしょ」
 岩影から伸ばされた逞しい手が戟を取り、張り出した刃の部分を使って器用に膏薬を引き寄せる。わずかに上体が起きて、半分だけ顔が覗いた。
 口振りから想像していたよりもずっと年上の青年の顔は、穏やかな表情を浮かべていた。凛々しくも何処か女性的な柔らかさを感じさせる、整った顔だちである。
「……どこから、来られたのですか? その、どうして、」
 ほんの数拍の沈黙が気詰まりで尋ねた後、廉は無礼であっただろうかと後悔した。さいわいいらえはすぐにあったのだが、
「ずーっと西の方から来たんです。知り合いを追いかけてきたんですけど……その、まぁ、ちょっといろいろありまして……」
「い、いいですいいです! 言わなくていいです!」
 説明しずらい様子で、心底ばつが悪そうに廉を見上げるものだから、廉はぶんぶんと首を左右に振ってそれを自分から遮った。そうしたら今度は胡斤が慌てて、うわあすみませんすみませんとぺこぺこ頭を下げはじめた。
 少なくとも、廉から怯えはなくなっていた。



 庚と叉怜のふたりは、山の中を歩いている。
「そうでしたか。あの中裾に居を構える猟師たちの」
 闇夜の中で、叉怜の声がする。声の方向に視線を向けると、ちらりと緋の布が樹の陰からすべり出ているのがかろうじて見えた。
 「じゃあ俺は急ぐから」と歩き出してからも、ずっと叉怜は庚についてきている。
 どうやら水の礼がしたいらしく、庚がいくら断ってもついてくる。そのうち庚も諦めてしまい、ぽつぽつと気を紛らわせるために話をするようになった。
 道とも言えない獣の踏み分け道を歩きながら、庚は叉怜の言葉にうなずく。
「――あ、えと、そうなんだ。こないだやっと一人前だって認められたばっかなんだけど」
 うなずいてからさすがに見えなかったかと思い、少しあわてて言葉にした。途端にくすくすと見透かしたように叉怜の笑い声が聞こえて、
「平気ですよ、庚氏。ちゃんと見えていますから」
「ほ、ホントかよ?」
 どうやらこの暗闇のなかでも、自分がうなずくのが見えたらしい。
 月光もほとんどさえぎってしまう深い山の中でも、庚はつまづくことすらなく、一定のペースで歩き続けることができる。もっともそれは庚が生まれたときからこの山で暮らしているからであって、すべての獣道、樹一本の生え方にいたるまで身体が覚えているからだ。
 ところが叉怜は見えるという。
「……叉怜はすげえな。俺だってほとんど見えねえんだぞ」
「別段凄くはありません。『そういうもの』だというだけのことですから」
 数歩先で、ひらりひらりと緋布がひるがえるのを目で追う。庚が追いつく手前で、布はするりと樹の陰に消え、また数歩先にあらわれる。
 不思議だと思う。ほとんど学のない庚でも、叉怜と名乗るものがもう常人ではないということは解っている。
 よくはわからない。でもきっと叉怜の言うとおりなのだろうと思う。
 闇夜の中でも昼間のようにものを見れる、山の中でも猿のように身軽に木々を渡れる、己に向かって放たれた矢を指であっさりと挟み止めることができる――叉怜は「そういうもの」なのだ、と。
 恐ろしくはない。だってこうして話していても、叉怜はぜんぜん怖くない。
「でも、いくら猟師とは言え、このような夜にこの辺りを行くのは危ないのではありませんか」
「危ないって……この先にある幽谷のことか?」
「はい。あの谷はいささかよくない卦(気)がいたします。それこそ化生か禍霊でも潜んでいるやもしれません」
 庚はぎゅっと眉根を寄せてそっぽを向いた。言いたくなさそうにぽそりと呟く。
「村のおじいたちは、――『キョウリョウ』が出るって言ってた」
「なんと。彊良が?」
 『彊良』とは深山幽谷に住まう、幻獣にして凶獣である。
 はるか古の神の血を引くがゆえにその強さと凶暴さは無双。常に飢える定めを持ち、どのような生き物でも喰らうとされる。
 獰猛な獣も、火を掲げる人も、毒を持つ生き物も、ときに精怪や仙人すらも。
「だとすれば、危ないなどという言葉では済みませぬ。あれは人の身では太刀打ちできない、まさに禍神のようなもの。
 差し出がましいのは承知していますが、これ以上は近付かないほうがよいのではないでしょうか」
 庚は目を逸らしたままだった。拗ねたような口振りで、
「近付くも何も、そこに行くんだから」
「は?」
「だからさ……俺は、その谷に行くとこなんだ。谷の入り口に用事があるんだよ」
 叉怜は、あっさりと言った庚に驚いたようだった。
「俺の村ではさ」庚は下生えをかきわけながら、「みんなガキの頃に、なんども村のおじいたちに言われるんだ。『あの谷には絶対に踏み込んではいけない。万が一ひとしずくでも血を流してしまっていたら、近付くことすらしてはいけない』って。
 だから誰も近付かねえ。俺の村の猟師たちも、――」
 そこまで言いかけて、口をつぐむ。
 村の誰にも告げず、独りで出た。
 皆は知らない。ただ猟に出たと思っているのだろう。あの幽谷を目指しているとは知らない。そこで庚が何をしようとしているのかも知らない。
 知られればお終いだ。――いや、ひょっとしたらもう知られているのかもしれない。
 だとしても、今さら戻れない。戻らない。
「……平気だよ。彊良なんておとぎ話だ。あの谷は切り立った岩肌が多くて、遠目にしょっちゅう崖崩れが起きてるのも見た。危ないから近付くなってことさ。
 出たにしても、せいぜいが大きな狼くらいのもんだろ」
 言ったあとで不安になり、さすがに狼はやばいけどな、と付け加える。
 ちらりと顔を戻すと、いつの間にか樹の陰から顔を――やはり半分だけだったが――出している叉怜と目があった。にっこりと優しそうに笑いかけられ、思わず足が止まった。
「な、なんで笑うんだ」
 今の台詞はちょっと情けなかっただろうか? ばつが悪くなってまた目を逸らす。
「なれば幸い。水の恩返しが出来そうです」
「へっ?」
「あなたさえよろしければ、わたしがこのまま谷まで同道しましょう。
 危険な獣が出てもわたしが守りますし、もしあなたに不都合なことがあったならそれを取り除きます。もちろんあなたにご迷惑はお掛けしません」
「そ、そこまでしてくれなくたっていいって」
「過分でしょうか?」
 叉怜が一転、申し訳なさそうにうつむくのを見て庚は慌てた。うら若い女のそんな表情はあまり見慣れておらず、どんな対応をしていいのかわからない。
「あ、いやそのちがう……あれ、でも違わないのか? ええと、その、――そうだよ、水のいっぱいや二杯でそんな大袈裟に考えることないってことで、迷惑なんかじゃないぞ。嬉しいぞ」
 しどろもどろになって思いつくまま喋る。
「はい、そう言っていただけると。それにわたしにとっては、狼や山野の獣などはさして恐ろしいものでもありませんし……」
 道行きの話し相手くらいにお考えくださいな、と叉怜は微笑む。庚もぎこちなくうなずいて、「それならいいや」と笑う。



 川べりを歩く廉は、居心地が悪そうに後ろを振り返り、「あの…」と声をかけた。
 再び歩きだしてから、何度か同じように振り向いて声をかけた。返ってきた答えもやっぱり同じものだった。
「はいはい何でしょう廉さん。ひょっとして足とか痛いですか。ひと休みしましょうか」
「い、いえ、そうではなくて……」
「あ、お腹が空きましたか。魚とかでよければ今すぐぱっと捕ってきますけど」
 気遣わしげな声がしている方を見ると、少し離れた岩の陰から青色の布がひらひらと揺れている。それでそこに声の主――胡斤がいると知れるのだが、
「そうでもなくて……あの、わたしひとりでも平気ですから……その……」
「いやまずいでしょー。月が出ているとはいえ、なにしろこんな真夜中ですよ。獣とか出るかもしれないじゃないですか。危ないです。
 私がついてれば安心ですよー。何しろ私はこう見えてもけっこう強いんですから」
「あ、ありがとうございます……でも、あの……」
「いやいやそんな気を使わずに、薬のお礼ですよ。……って、あ! ひょっとして私が不気味だったりしますか!? うわすみません、もっとすっごく離れましょうか!?」
「そそそそんなことないです! 大丈夫ですから!」
 結局、また同じやりとりになった。再び歩き始めてから半刻ほどになるが、もう何度もこんな会話を続けてしまっている。
 あの河原で出会って薬を渡してから、胡斤は廉に勝手についてきていた。
 理由は先程の会話の通り、ちょうど薬のお礼もしたいし、貴女が行こうとしている場所までお供しましょう――ということらしい。夜道はともかく獣は怖いからその申し出自体は有り難いのだが、常に一定の距離を保ちながらついてきて、でもそれ以上近寄ってくることもなく、ときおり岩陰や木立のうしろから顔を半分見せたりするだけ、という胡斤の行動は、正直なところけっこう気味が悪くもある。にこやかに手など振られてもそれはそれで気味が悪く、どうしてよいものか解らない。
 しかしひたすら呑気な上やたら腰が低い胡斤の声を聞いていると、そのことをずばりと告げるのは何やら申し訳なくさえ思えてきてしまい、生来押しが強い方では無かったこともあって、今の今までそんなやりとりを繰り返す羽目に陥っていたのだった。
 別段困ることは無いし、話し相手がいてくれるという、それはそれでとても嬉しい。けれども彼はいったい何者なのだろう。
 ほとんど姿を見せないのは何故だろう。見られては困るのだろうか。
 有名な罪人? だからおそろしげな武器を持っている?
 こんなに腰が低くて、何かというと謝ってばかりいる人が罪人とは廉にはどうしても考えられない。だいたいこんなところに住んでいる人間に顔を見られたからといって何が危険だというのか。
 山のすそ野に集落がある、木こりたちの村に廉は生まれた。
 木こりたちは木を切り出し、河を使って材木を運ぶ。だから下流の村には顔が利く。
 しかしその妻や娘たちは、滅多なことでは里の方には降りていかない。薪や山菜などを採りに山へ、洗濯や水瓶を満たすために河へ行くのは日課でも、人里に行くのはせいぜいひと季節に一度か二度がいいところで、それにしたってまとめ役の古女房たちの役目と決まっている。
 年若い廉に至っては、一度も里へ降りたことがない。刑吏の手配書が貼ってある街どころか、村から離れることすら滅多にないくらいなのだ。
 姿をよく見せない、何か別の理由があるのではないか。そんなことを廉がぼんやりと考えたとき、
「――あ、すみません廉さん。ちょっと」
 胡斤の声がした。反射的にはいと返事をして、廉がもう一度振り返ろうとする。
 その足元で、ばちん! と高い音がした。
 一瞬闇の中に火花が浮かび、廉は小さく悲鳴を上げてしまう。途端に胡斤がこの世の終わりみたいな口調で謝ってきた。
「ぎゃあ! すすすすみません廉さん! おおお驚いちゃいましたか!?」
「は、はい……す、すこしだけ……」
「すみませんすみません。いやもうホントすみません」
 声の方角からごすごすと鈍い音が連続して届いてくる。隠れている場所のどこかに(あの音はたぶん木だ)、叩頭のつもりか猛烈に頭をぶつけているらしい。
「へ、へいきですから、もう頭をぶつけるのは……あの、今のは」
 実を言えばまだどきどきしていたのだが、それを告げたら胡斤は本当に死にそうな勢いだったので黙っておく。実際話を向けられてさすがに叩くのを止めたらしいが、胡斤の声はしょんぼりしていた。
「……その……虫がですね?」
 悪さの言い訳をする子供のような口調で、へどもどとそれだけ言う。木陰からすっと腕を伸ばし、廉の足元を指さして。
 廉は自分の足元を見渡した。月明かりの中でもぼんやりとしか見えず、先程の火花ですこし目がくらんでしまっていたので、それを見つけるのにはずいぶん時間がかかった。
 廉の足元からさほど離れてない場所に、四寸ほどの大きさの百足が一匹死んでいた。百足は頭を潰され――というよりは、頭部だけが吹き飛ばされたようになくなっていた。
「それ、噛まれるとけっこう痛いんですよ」
「これ……を? 胡斤さま、が?」
「あ、はい。その辺の小石を投げて。ぷちっと」
 とんでもないことを、さらりと胡斤が言った。廉はしばらくそのことを理解できなかったほどだ。
 つまり、さっきの火花は胡斤の投げた「小石」が起こしたものか。地面に敷き詰められている他の石に投げた小石が当たって、火花が出るほど爆ぜたのか。
 この暗闇の中で、小さな百足が近付いているのが見えたのか。その百足の頭部を目がけ、正確無比に小石を、爆ぜるほどの勢いで投擲したということか。
 廉でも判る。――そんなことが、普通の人間にできるわけがない。
「すみませんでした……あの、どっか怪我してないですか。ちょっと強く投げすぎたかな……」
「いえ、だいじょうぶ……だと思います。ありがとう、ございました……」
 数間離れた場所でお互いに頭を下げ合い、廉はまた歩き出す。一度振り返って胡斤がやっぱりついてくるのを確かめながら、今の考えを反芻してみた。
 廉には武功、武術のことはまったく解らない。だが今胡斤が見せた芸当は、まるで男の子の寝物語に出てくる英雄がするような、常人離れしたところがあった。
 挙げ句、本人は「ちょっと強く」投げた程度であるらしい。本気で投げたらどうなるのだろう。人間どころか、牛や虎でも打ち殺せるかもしれない。
 ひょっとして、胡斤は人ではないのだろうか。そういえばずっと自分についてきていて、すなわち砂利や小石ばかりの川べりを歩いているというのに、彼はまったく音を立てないではないか。
 大昔にこの辺りで死んだ武人の魂魄であろうか、などと思ってもみる。そうでなければ物の怪か何か。自分を騙して取り憑こうとでもしているのだろうか。
 ひどく緊張感なくそんな想像をしている時点で、とりとめもない妄想だと自分でも判る。それなら出会ったときに取り憑かれているのが至極妥当だし、今の自分が取り憑かれているようにも思えず、何よりも、
「いやー、よかったよかった。恩人の廉さんに怪我でもさせてたら、私はもうどうしようかと」
 そんな胡斤の声を聞いていると、いたずらにでもそんなことを妄想した自分が恥ずかしくなるくらいだ。取り憑くどころか、胡斤は毒虫から自分を守ってくれたのだから。
 何者か、人間であるかどうかも定かではない。でも悪いものであるとはとても思えない。
 ――そもそも、そんな噂誰も言ってなかったもの。とと様もかか様もじじさまも、それに、――。
 ふと、廉は山の方を見上げる。黒く墨絵のように、蒼い夜空を背景にしてぽっかりと浮かび上がる山は、夜の闇という闇がそのまま凝って固まったかのようで、その中に数え切れない生き物が棲んでいるとはとても思えないくらい静かだった。
 山が、まるごと眠ってるみたい。
 そんな廉の想像は、あながち間違っていないかもしれない。何しろ村の者がすべて眠っているのだから、獣たちだってみな眠っているに違いない。
 山の中の獣たちも眠っていて、草も木も眠っていて、山の中に住んでいるひとたちも同じように眠っている。起きているのは自分だけ。

 ――そんなことない。

 廉はちいさく唇を噛んで、そんな想像を振り払うように視線を戻す。蛇行しながら続いている河のさらに向こう、ふたつの山の間にある深い谷へ。
 どのくらいあるのだろう。少なくとも自分が今まで行ったどの場所よりも遠くて、きっと危ないところなんだろう。
 だけど、そこへ行けば、今夜中に誰にも見つからずに、そこに辿り着きさえすれば、きっと。
 しばらく黙々と廉は歩いた。山歩きは慣れてはいるものの、急いでおくに越したことはなく、――そうだ。急がないと。
 歩みをさらに早めかけて、また胡斤から声がかかった。ただしさっきのように呼び止めるわけではなかった。道行きの雑談ということなのだろう。
「……そういえば廉さん? さっき私が頭をぶつけてるって、よく音だけでわかりましたね」
「え……?」
「もう頭をぶつけるのはいいって言ってくれたじゃないですか。私、内省の意など込めまして木の陰でがすがすやってたんですが、言い当てられたので驚きましたよー」
 そういえば、そんなことも言った気がする。そうだ。あの音は頭を気にぶつける音だ。
 ――あの人は木にもたれかかるようにして、真っ赤になるまで額をそこに何度もぶつけて、何度も何度もごめんと謝っていた。ひどいことした。ごめん。俺なんでもする。なんでもするから。
 唐突に、廉は笑いがこみ上げてくるのを感じた。堪えきれずにくすくすと笑う。常人離れしているくせに、そんなところは心底不思議そうに話す胡斤の調子がすこしだけおかしくて、謝られたふたつの記憶があまりにも似すぎていて、それがもっとおかしかった。
 不思議と気持ちが軽くなる。早まりかけていた心が落ち着いていく。
 それはですね、と少しもったいぶってから、以前あったことを思いだして説明した。
「同じ音を……最近、聞いたことがあったんです」
「同じ音ですか? ということはですよ……」
 はい、と呟いた自分の声が思った以上に弾んでいて、廉は少し赤くなった。胡斤が後ろをついてきていてよかったと思う。
「胡斤さまのように、その人も頭を何度もぶつけて、謝ってくれたんです」
 そう言いながら、廉はまた山を見上げる。今度は嫌な想像は浮かばなかった。
 眠ってなんかいないと、今もあの真っ暗な山の中を歩いていると――自分の目指す、同じ場所に一生懸命向かってくれていると、そう信じることができた。
「うひゃー、そうですか。そんなご経験がおありだったのですか」
「はい、あったんです」笑って、歩みを止めないまま、くるりと廉は身体ごと振り返る。「……ありがとうございます胡斤さま、お陰で思い出すことができました」
「はっ、いえまったくその、お役に立てまして私もまことに」

 不意に、そのことを告げてもいいような気がした。
 誰かに話すことはもちろん、独りで口に出すことすら躊躇っていたというのに。
 声にした途端に、何もかもが駄目になってしまうようにすら思えていたのに――。

 廉は微笑みながら、胡斤に言った。
「――わたし、今からそのひとに会いに行くんですよ」



 月が中天からやや傾いた頃、庚はようやく立ち止まって一息ついた。
 小さな沢のある、開けた場所だった。狩りの途中に庚が見つけた場所だ。
 付け加えるなら、庚が来たことがあるのはここまでだった。ちょうど山をぐるりと廻った場所で、隣の山との境目に近く、あとは坂道を一刻半ほども下れば目的の谷に出るはずだった。予定よりもだいぶ早くたどり着けたことで余裕が出てくる。
 ほとりの岩に腰掛け、沢から直接水を飲む。考えていた以上に自分の喉は渇いていたらしく、やや肌寒い夜気の下で飲む冷たい沢の水が、じんわりと身体を中から冷ましていくようで心地よかった。
 そういや一口も水を飲んでなかったんだっけ、と思い出す。水筒は叉怜にあげてしまったのだ。
 その叉怜は何処にいるのかと視線を上げれば、すぐ近くの木陰から戟をにぎったたおやかな手と、そこに巻き付いた赤布が見える。にわかに道行きの連れになってしまった不思議な女性だったが、数刻の間にすっかり見慣れてしまった感がある。
「叉怜は飲まないのか?」
 声をかけてみると、振り返るように木陰から横顔が覗いた。木に背をあずけているらしい。
「私は大丈夫です、庚氏。水なら先程貴方からいただきましたので」
「さっきって……すごい前だろ? 遠慮しないでいいから飲めって。
 あ、見られたくないってんなら後ろ向いてるぞ」
 くすりと叉怜が微笑み、小さく左右に首を振る。十分です、と告げる声も優しかった。
 ほんのわずかな沈黙だったが、庚は所在なげに背を伸ばしたりしてみる。女と話すことにまったく慣れていない庚にとっては、実に間が保たず居心地が悪い。
「――それにしてもさ。なんでずっと隠れてるんだ?」話を変えるつもりで、とりあえず聞いてみた。ずっと気になっていたことだ。「怪我でもしてるのか? それとも見せちゃいけない……その、何か決まりでもあるのか?」
「決まり……ですか。そういったものはありませんが」
 そりゃそうだよな、と庚は笑いかける。
「だったら平気だぞ。出てきて水を飲めよ。そりゃ出会ったときは思わず射っちまったけど……」すこし照れた顔で、「今更、叉怜を見て恐がったりしないぞ」
 それは、何ということもなく出た言葉だった。庚としては、初対面で矢を射かけてしまったことをもう一度謝りたかったという、ただそれだけでしかなかったのだが――。
「恐ろしい……かもしれませんよ?」
「――え?」
 叉怜はいつの間にか立ち上がり、木立から半身だけを出してじっとこちらを見つめていた。
 その表情はひどく優しげに見えたが、同時に何処か哀しげにも見えた。自分を気遣っているようにも。
 庚は、その表情に呑まれた。どう言ってよいのか判らない。
「庚氏が見ているものは私の半分でしかなく……ひょっとしたら、陰に隠れている、こちらの――」木立の陰に、つと顔を向ける。「もう半分は、見た者が例外なくすくんでしまうような姿をしているのかもしれません。誓って私は禍霊や化生のたぐいではありませんが、そんなおそろしい見た目をしている可能性だってあるでしょう?」
「あ……ぅ、」
 言葉に詰まった庚から、叉怜は視線を外し、自嘲するように呟く。
「……正直なところを言えば……もう、矢を射かけられたくは……ありませんから」
 その口調に、庚は一瞬で打ちのめされた。
 本当にそうなのか。恐ろしい姿をしているのか。
 だとしたら、叉怜は何故姿を見せないのかも理解できる。――庚を驚かせないためだ。出会ったときのように、矢で射たれることが無いように。
 叉怜は人間ではないのではないか、とは、庚も漠然と感じてはいた。「そういうものである」と本人も言い、庚もその言葉を受け容れていたつもりだった。
 しかしそれは、人とまったく違わない叉怜の半身しか見ていないからだと、庚は初めて気が付いた。自分は叉怜の「見えている部分」だけを見て、「見えない部分」のことまでは考えなかったと。
 叉怜が「どういうもの」であるのか、考えなかった。叉怜がどのような心を持っているかも深く考えなかった。
 もし叉怜が言ったとおりの姿をしていたら、自分はどう反応する?
 やはりすくみ上がってしまうだろうか。出会ったときのように、矢を射かけてしまうだろうか?
 そうして、もし叉怜が――「そういうものである」にも関わらず、人と変わらぬ心を持っているのなら。

 「恐ろしい」と思われて、気持ちのいい者がいるはずがないではないか。

 ――あいつらは性悪のろくでなしだ。あいつらが木を倒すから、獲物が減っていくんだ。

 ふと庚の脳裏に、唐突に村の人間たちの言葉がよみがえった。
 酒を呑んだ男たちの口癖だった、あの言葉。

 ――こっちの縄張りは荒らす、しかけた罠も勝手に外す。単なる疫病神じゃねえか。

 庚が生まれた年に山にやってきた、新参者たちへの罵倒だ。
 ほんの少し前まで、悪びれることも疑うこともなく、自分も言っていた言葉だ。

 ――俺たちより後からやってきて、我が物顔で木を切っていく。あいつらさえ来なければ。
 ――あいつらさえ、いなくなっちまえば。

 ある女の子に、会うまでは。

 ――わたしもずっと、猟師のひとたちは恐いとおもってた。
 ――村のみんななんて嫌い。庚はこんなにやさしいのに――。

「…………!」

 庚の頭に、かっと血がのぼった。庚は思いきり背を反らし、歯を食いしばって頭をのけぞらせ、
「――な、」
 叉怜が止める間もなく、庚は地面に向かって思い切り頭突きを敢行していた。ばかん! ともの凄い音がして、目の奥で盛大に火花が散った。
 遅れて音以上にもの凄い痛みが脳天に突き上げた。沢の大石にぶつけてしまったらしい。
 五、六回はぶつけるつもりだったが、一撃で腰が砕けた。そのままどさりと仰向けに倒れる。運の悪いことにそこにも石があった。今度はごきんという音。散った火花が目の玉ごと外に出そうな衝撃だった。
「ちょ、こ、庚氏! な、なにをしているのですっ!!」
「い……っ痛ェ……ッ」
 ぎゅっと目をつぶって涙と痛みをこらえていると、不意に自分の顔に、ふわりと何かが被さる。
 布だ、と感じるよりも早く、後頭部を優しく抱えられた。短く刈り込んだ髪の毛ごしに、柔らかくて冷たい手の感触が伝わってきた。
「……ああ、もう……なにを、しているのです……っ」
 心配そうな声とともに、じんじんと響く後頭部をそっとさすられる。うっすらと目を開けたが、赤い布が視界を遮っていて何も見えなかった。
 反射的に布を取ろうとして、自制した。それがわざとかけられたものだということは、痛みでぐらぐらと揺れる思考の中でも察することが出来たからだ。
「……ごめんな」
 だから、代わりに謝った。叉怜が息を止めたのがわかった。
「勝手なこと言って、悪かった。ごめん……」
 暗闇の中で、しばらくの間、ふたりは無言だった。不思議と気詰まりな感じはしない。
 どれほど経ったか、ふたたび叉怜は庚の頭を撫ではじめた。そして穏やかな口調で、
「庚氏は」少しおかしそうに、「――私が知っている者に、よく似ています」
 そんなことを、言った。
「そうなのか……?」
「はい。どことなくですが」
「どんな奴なんだ、そいつ」
「そうですね……子供っぽく慌て者で、相手に自分の意志を伝えることがあまり巧くありません。そのくせ変なところに気が回り、多少お節介ですらあります」
 うぐ、と庚が呻く。叉怜がくすりと笑うのが聞こえた。
「優しい者なのですけれどね……」
 そう付け足す声は、その本人を思いだしているかのようで、何処か遠かった。
「叉怜の、友達か?」
「そんなようなものです。同郷の、ずっと昔からの馴染みでした」
「……そっか」
 ぼんやりとした頭の中で、庚は今の会話にふと違和感を覚える。聞いて良いのかためらったが、もやもやしたものが頭の中に渦巻いて、結局聞いてしまった。
「……なんで、昔のことみたいに言うんだ。もう死んじゃったのか?」
「いえ、生きています。けれど、」ほんのわずか逡巡する気配。「もう、昔のようにはなれません。私が、傷付けてしまったから」
 遠い声。どこか冷めたような、すでに割り切ったような声。
 どのくらい昔のことなのだろう、と庚は思った。こんな風に友達のことを話せるようになるには、どれくらい時間が経てばできるようになるのだろう。
「傷付けた……って?」
「言葉通りです。ずっと私を追ってくる彼を――斬りました。
 もう追いかけてくるな、と……」
 あまりにその口調がこともなげであったから、庚は一瞬内容を理解できなかった。
「き、斬った? ――そいつが嫌いなのか?」
 尋ねてから、自分は何を聞いているのかと思った。
 あの戟でやったのだとすれば、どう考えても手加減ができるようなものではない。確かに生きていると叉怜は言ったが、あんなものを喰らった(しかも叉怜が振るうのだ)相手が、はたして無事でいられるものだろうか。
 庚にとっては、それはもはや好きとか嫌いとかいう次元の問題ではない。嫌いかなんて、嫌いに決まっている。
 いや、嫌いなんてものではない。憎悪だ。よほど強くその相手を憎んでいなければ、とてもそこまで出来るものではないだろうと思う。
 そもそも庚は物心ついてからこの方、武器を使って誰かを傷付けようとまで願うような憎悪を抱いたことがない。ただ一度、みずからの得物で犯してしまった失敗を、未だに悔やんでいるくらいなのだから。
 それをこともなげに、あれほど冷めた口調で語る叉怜が、その相手をどれほど憎んでいるのか想像もできない――庚がそう思った矢先に、
「嫌い……では、ありません。多分」
「う、ぇっ?」
 まったく予想とは逆の答えが返ってきて、庚はほとんどわけがわからなくなる。
 それでも何故かどこかでほっとしながら、二の句を継げずに唸っていると、ややあって叉怜が別なことを尋ねてきた。
「庚氏は、ずっと一緒にいたいと思う人は、おられますか」
「ん、……? あ、うん。いるぞ。うん……」
 意図は分からなかったが、咄嗟に庚は頷いてみせる。顔にはまだ布がかかっていたから、ほとんど反射のように紅潮した頬を見られずに済んだのは幸運だったかもしれない。
 ずっと一緒にいたい人。いる、確かにいる。数刻前まで、ずっとそいつのことばかり考えていたくらいだ。
 叉怜はそうですか、と呟いて、それから一度だけ、ちいさく吐息した。
 そして淡々とした口調で、まるで庚ではない誰かに言い含めるように、喋りはじめた。
「誰かとともに過ごすのは……確かに、楽しくもあります。救われることも多いかもしれません。何かを与えられる悦びや、与える悦びというものも、たくさんあることだろうと思います」
 けれど、と言葉を切る。いつの間にか、後ろ頭を撫ぜる手が止まっていることに気付く。
 ふたたび出てきた言葉はひどく遠く、どこかか細さすら感じられた。
「けれど、それによって……独りでいられなくなるのは、嫌なのです。
 ずっと独りで生きてこれましたから……自由でなくなる、気がするのです」
 沢の水音が、やけに響いて聞こえるほどに。
 庚は、目をつぶってみた。ゆっくりと身体の力を抜いて、叉怜の手に頭を完全にゆだねてみる。
 夜の、森の音がする。沢の水音、微風に揺らぐ葉ずれの音、何処か遠くで鳴く梟の、獣の声。
 そうしてから、叉怜の言葉を、もう一度思いだした。今までの叉怜の言動と、ここに来てからの叉怜の言葉を反芻した。

 叉怜は優しい。けれど叉怜を追いかけてきた友達には、武器で斬りつけた。
 その友達が嫌いなのか。そんなことはないらしい。自由でなくなることが嫌だと言った。独りで生きて来れたと。
 だけど「矢を射かけられるのは嫌だ」と言った――。

 ――じゃあ、

「叉怜は、強いからかな」
 そんな理由が浮かんだ。そのまま口に出した。
「……え?」
「叉怜は、ひとりでなんでも出来たのか? 今までずっとか?」
 とまどいがちに、それでも「はい」と同意する叉怜の声に、身体を起こす。
 目は閉じたままだ。顔を覆っていた布がするすると流れ、胸元に落ちていくのを漠然と感じながら、自分を支えてくれていた叉怜に背を向けるようにして座り込み、空を見上げた。
 四半刻ほど経ってしまっただろうか。月の位置を見てそんなことを思う。かまわない。まだ時間はあるのだから。
 ここまで来たら、もう誰も追いかけては来ないだろうから。そう思えるようになった。
「俺は、……駄目だ。独りだと頭も悪いし、大したことも出来ない。狩りにはそれなりに自身があるけど、親父はもちろん、村ではこないだ認められたばっかりの……ようは一番のヘタっぴだ。
 この山の中ならいろいろなことを知ってるつもりでも、この山を出れば、たぶん……まともに狩りも出来ない。親父には我慢が足りないっていつも言われてるし、獲物をよく確かめもせずに射って、牛くらいある狂水病のイノシシに追っかけ廻されたり……一度なんて、」出すまいとしたが、ため息が出た。「あぶなく人を射殺しそうになったりもしたし……さ。叉怜にも矢を射った――」
「――っ、あれは、私が――」
 口を挟もうとする叉怜に、首を振る。
「ホント言うとさ。夜の森も、まだちょっと恐いんだ。恐くてびびってるとこに、叉怜の声がして……だから、咄嗟に射った。ほんとにごめん」
 背中に、そっと叉怜の手が触れる。叉怜の穏やかな気配を、背中に感じる。

 ああ、――もう恐くない。驚くこともない。体がすくむこともない。

 そればかりか、こんなにも、

「でも、今は恐くないぞ。……叉怜がいるからな」

 ――こんなにも。自分は落ち着いているじゃないか。
 さっきまでは、あんなに急いでいたのに。あんなに畏れていたのに。
 誰かが追ってくるのではないかと、不安だった。自分はたどり着けないのではないかと。
 自分を待ってくれているはずの、あの子がいないのではないかと。
「独りじゃまだぜんぜん駄目なんだよ、俺。だって独りは寂しいし、不安だし……頭だってよくないから、きっとよくないことばかり考えちまってたと、思う……」
 何もかも初めての、押し潰されそうなほどの不安と緊張があったのだ。あの時までは。
「けれど、叉怜がいてくれたから平気だった。不安にもならずに、寂しくもならずに、ここまで来れたんだ。
 助かったよ。楽しかった。俺、叉怜と会えてよかったよ」
 だからさ、と勢いをつけ、立ち上がる。
「多分、叉怜が不安に思うほど……『ふたりでいること』は悪いことじゃないんだよ」
「あ……」
 叉怜が、呆けたように呟くのが聞こえる。
 「恐ろしい」と思われて、気持ちのいい者がいるはずがない。同じように、人に忌み嫌われることを避けようとする者が、孤独を好むわけがない。
 孤独を求めていないのに、孤独を望むというのならば、それは不安だからだ。
「……でも」叉怜がそう言ったのは、ずいぶん長い間経ってからだった。「でも、……私は、もう、拒んでしまったのに……」
 ならせめて。自分を助けてくれた、そのお返しに。
「あ、それならたぶん平気だぞ」
「どうして……ですか?」
 叉怜にこんな哀しそうな声を出させる、その不安を少しでも取り除こう――庚はそう思ったのだ。
「だって俺に似てるんだろ、そいつ? 俺は一回や二回あっち行けとか言われても諦めないぞ」
「……あ、それは、……なんとなく……」
 確かに、とか何やらぶつぶつ呟く叉怜の、すっかり毒気を抜かれた調子に、庚は何とはなしに気分が良くなる。いかにも得意そうな声で、あっはっはーなどと笑ってもみる。
 背中からくすりと笑い声が返ってきたから、庚はふたたび歩き出した。足取りが軽かったことが心地よかった。
 幽谷の入り口まで、あと少し。



 河原が途切れると、山の中に入っていかなければならなくなった。もっとも廉が教えてもらった記憶によれば、ここから下り勾配に半刻も歩けば谷へ着くことになるはずだった。
「わたしの村から、山の麓を川沿いに半周するかたちになります。川の流れとは逆向きに進んでますから、村のみんなは船を出して探すこともできません。
 そのまま谷を渡って隣の山にまで行けば、……ほぼ誰も追いかけて来れないはずなんです」
 急な勾配をそろそろと進みながら、廉は胡斤に説明する。
「ええと……なんと言ってよいものやら、よく思いつかれましたねというか、その、……よく思い切りましたねというか……」
 廉は袖で流れてきた汗をぬぐい、小さく笑った。つい先刻、自分が今やろうとしていることを話したときの、胡斤の驚きようを思いだしたからだった。
 ――わたし、これから会いに行く男の人といっしょに山を出ます。もう村には戻りません。
 すぐに返事があるとは思わなかった。それが意味するところを知って絶句したか、呆れたのだろうと予想した。
 だからその後ばたんと倒れ込む音がした時、何が起こったのかと思った。
 振り返ってみると、木陰から胡斤の片足が見えていた。地面と並行に突き出ていた。どうやら驚きのあまりすっ転んでしまったらしかった。
 それからばね仕掛けのように跳ね起きて、「れ、れ、廉さん!? そそそそそれはつまりですよ、かかかかかけかけ、かけおち……ッ」と猛烈にあわてた挙げ句どもり出す胡斤の声に、ああ、やっぱりそういうことになるのかなと他人事のように感じたものだ。村を出た直後であれば、その言葉を聞いた途端にひっくり返るのが自分だったかもしれないことを思い出すと、余計におかしい。
 胡斤はすっかりかしこまって、廉の言葉を聞くようになった。いや会ったときから腰は低かったのだけれど、一目どころか十二目くらい置くようになった。
「その若さで村を出る気になられたというのは、何度聞いても大したものですねー」
「胡斤様もお若く見えますけど……? それに木こりの村の女は、もっと年端もいかない頃から家事や作業を教え込まれますから、村の外へ出ても一通りのことはできる、つもり……です」
 もちろん、本当に外へ出て試したことはないのだが。
「ええと。ご飯の支度とか」「はい。縫い物とか籐編みとか」「お洗濯とか」「野草摘みとか調薬とか」「こ……子守とか……」「獣をさばいたり木皮をなめしたりも」「そ、掃除?」「むしろ薪割りとか水汲みのほうが大変です」
 胡斤が土下座しそうになったので慌てて止めた――そんなやりとりがあったのである。
「もちろん、わたし一人で考えたわけではないです。猟師さんたちの狩り場と木こりの伐採場の両方から迂回するように道を決めたのはその人ですし、わたしは山に深く入ったことがありませんから、その人がいなければ谷についてもどうすることもできません」
「一緒に行かれる、猟師の方ですね? ……そういえば山の反対側くらいに人の住まいがあったなぁ」
「もともとは、あの人たちが暮らしているところにわたしたちが――」小さく足がすべって、転ぶ手前でどうにか踏みとどまる。「――っと、木こりが山に入ってきたんです。わたしたちは何年かひとつの山に籠もって、裾野の木をある程度伐採したら隣の山に移って……というようなことを繰り返しますから、猟師の方たちとはどうしても仲良くなれないんです、けど……」
 猟師にすれば、木こりは山を荒らす邪魔物でしかない。山に集落を作り、冬もその中で過ごすような、山中に根を張る猟師の一族ともなればなおさらである。
 木こりもそれを承知してはいるものの、だからといって別の山に移ることはできない。こちらも大きな集団で移動しているし暮らしもあるのだから、猟師の邪魔になったからといってはいそうですかと移る道理も義理もない。
 木こりが移ってきた時期も場所もまずかった。秋の終わり頃、山の反対側に居を構えたので、猟師たちがそれに気付いたのは伐採が始まりだしてからだった。
 一度切り出しを始めれば、周辺の伐採が終わるまでは移動できない。一族を移動させるにも金と労力が必要になる。
 それでも年寄りたちはさほど気にしていなかった。所詮木こりたちは数年もすればいなくなるし、住む場所からして両者が出会うこともそうそうないと思っていた。
 これが甘かった。猟師たちは山のほぼ全域を狩り場としていたからだった。
「春になった頃、村のひとりが猟師たちの張った罠にかかってしまったのです。獣を捕らえるための挟み罠で、そのひとは足にひどい怪我を負ってしまいました」
 このことで、木こりたちに誤解が生まれてしまったのだと廉は説明した。
「誤解ですか?」
「わざわざ反対側の麓近くまで罠を張りに来るのは奇妙だと誰かが言ったのです。自分たちを狙ったのではないかと勘ぐって」
「ああ、なるほど……」
「わたしが後で聞いたところでは……春に冬眠から冷めて動き出す狼や狐を捕るための罠を、山のあちこちに仕掛けるのだそうです。当然麓近くにも。沢の近くや獣道に仕掛けるから、すこし山道を外れて深いところへ入ると引っかかっちゃうかもしれない、って」
「人を害するために、意図的に仕掛けたわけでは無かったということですか」
「少なくとも、猟師たちの言い分はそうでした。わたしたちは麓に仕掛けた罠を外してもらうよう頼みに行ったのですが、それも断られまして――」
 猟師たちにとっては、新参者である木こりのために狩り場を狭めるような譲歩は呑めないの一点張りだった。それまで経験したことのない事態だったとはいえ、にべもない態度だった。
 結局、木こりたちは慎重にならざるを得なかった。斧を入れるのに手頃な樹を捜すため山歩きをせねばならないが、その山を歩くことにすら注意を払わねばならず、その分の鬱憤が猟師たちへの不満に変わるのにそう時間はかからなかった。
 また注意しても、猟師たちが仕掛けた巧妙な罠を木こりがそう簡単に見つけられるわけもなく、続けて二人が罠にかかった。
 不満が怒りへと変わるのはさらに早かった。
「一年も経たないうちに、わたしたちの村では誰もかれもが猟師たちを憎むようになっていました。罠を見つければ壊し、まれに猟師たちに会おうものなら、手斧を投げて追い払ったりもしたそうです。幸い人数はいつもこちらが多かったらしいので」
 なにひとつ「幸い」とは感じていないだろう口調で廉が呟く。わずかに足を止め、一度だけため息をついたその横顔には、かすかな嫌悪感すら見て取れた。
「……わたしも正直に言えば、猟師たちのことはあまりよく思っていませんでした。融通がきかず、自分たちのことばかり考える人たちばかりなのだと……」
「実際は、違いましたか?」
 ちらりと廉は後ろを振り返った。それから不意に左の二の腕を掴み、小さく微笑んだ。
「――去年の、今頃だったと思います。わたしが薬になる野草を摘みに、山にいったときのことです。
 その頃わたしは村の人からあまり山の奥へは入るなと言われてたんですけど、気が付いたらずいぶん上の方まで昇ってきていました。そこで草を摘んでいたところを……矢で射られました」
 胡斤が「ええッ!?」とでかい声を張り上げる。廉は何となく予想できていたのでくすくすと笑う。
「射ったのは、若い猟師さんでした。茂みで姿が隠れていたから、獣と間違えたんです。
 私が痛みで声を上げた瞬間、すごい顔をして茂みに飛び込んできたのを覚えてます」
 ちょうど今の、胡斤さまみたいな声を上げて。そう言ってまた笑う。
「そうして……わたしの姿を認めたら、真っ青な顔になって」二の腕をぎゅっと押さえ、「その場でずるずると木にもたれかかるようにして……がんがん頭をぶつけ出したんです。弓と矢を思い切り投げ捨てて、ぼろぼろ涙をこぼして、何度も何度も、ごめん、ごめんって繰り返しながら」
「……ということは、」
 胡斤は先刻の会話を思いだした。胡斤さまのように、その人も頭を何度もぶつけて――。
「それが、今から会いに行く方との馴れ初め……ですか?」
 そりゃひどい、と顔をしかめて呟く胡斤に、廉は首を振る。
「矢はかすめた程度でしたから……」
 実を言えば、矢は腕の肉をこそげ落としてしまっていた。廉の二の腕には今でも傷痕が残っている。
 しかしそのとき、痛みはほとんど感じなかった。
 まだ幼さの残るその少年――はじめてひとりで狩りに出ることを認められた猟師の卵が、あまりに自分を気遣ってくれたものだから。赤く腫らした目で、何度も何度も謝ってくれたものだから。
 村の人々が口にする「猟師たち」の像と、実際に会ったその少年があまりにも違っていたものだから。
 驚きと安堵で、痛みも怒りも感じることはなかったのだ。怯えすら忘れていたくらいだった。
 少年はひとしきり謝ったあと、廉をおぶって沢に連れて行き、傷口を洗ってくれた。そこでいろいろな話をした。お互いのこと、お互いの村のこと、お互いが相手に抱いていた感情のこと――そして、お互いをある程度知った時点でふたりとも気が付いた。
 自分たちは、相手をことさらに悪く捉えすぎていることを。少なくとも、目の前にいる少年(少女)だけは違うということを。
 けれど、村に帰った廉は矢傷を見咎められた。追求されて、ことの次第を話さないわけにはいかなかった。
 村人たちは激昂した。その後にあわてて続けた廉の弁護など誰も聞かなかった。
 奴らめ、今度山で会ったら殺してやる。必死に訴えようとする廉を叱りつけ、そう吼えたのは父親だった。
 たまらなく、哀しかった。その時初めて廉は、村の大人たちの言いつけを破ろうと決めたのだった。
「……それからというもの、わたしたちは隠れて……ちょっとずつ、お話ししました。
 仲良くなれて、楽しくて、なんでかその人といるとほっとしたりもして」
 でも、と言葉を切って、一瞬だけ廉は切なそうに顔を歪めた。
「でも、わたしたちの言うことは、誰も聞いてくれませんでした」
 お互いへの愛おしさがつのるうち、ふたりは幼いなりに、自分たちが極めて不安定な綱渡りをしているということを理解しはじめていた。木こりと猟師たちは、廉と少年の関係に対して、まるで釣り合いをとるかのようにお互いへの憎しみを増していったのである。
 あのガキには会うな、あのガキの話など信じるなと、頭ごなしに叱られた。それでも訴えようとした廉は、そのたび炭置き小屋に閉じ込められた。少年は顔や身体に大きな痣をいくつも作った。
 年端もいかぬふたりでは、どうにもならなかった。それが現実だった。
 廉と少年は、そのことを何度も話し合った。そしてとうとう結論を出した――。

 お互い以外の、何もかもを捨てようと、決めたのだ。

 そうして廉は、今山道を歩き続けている。少年と示し合わせた場所、誰も寄りつかない、深い渓谷の入り口を目指して。
「……今でも思います。あの時、どう言えばわかってもらえたんだろう、って」
 答えを求めたわけではなかったが、長い沈黙があった。廉はとぼとぼと坂道を歩き続けた。
 ややあってふと視線を上げると、木陰から蒼い布がひらりと覗いていた。
 後ろにいたはずの胡斤が、いつの間にか前に来ている。布に続いて半身が覗き、廉と目が合う。
「……さぞや、お辛かったことでしょうが」
 胡斤の顔は、今までに見たことがないくらい神妙で、同時に不満そうだった。
「私が思うに、木こりさんたちは――いえ、猟師さんたちもですが」胡斤はううむ、と考え込むように視線を落とし、もどかしそうに言った。「諦めが良すぎると思います」
「諦め……ですか?」
 はい、と胡斤は頷き、ひょいと木陰に半身を隠した。廉が追いつく手前で一拍もおかず、少し離れた木陰からふたたび半身を現す。
「たった一度話し合って、そこでつれない返事をもらったからと言って、そこで話が通じないと諦めてしまったのは失敗だったのではないでしょうか。どうせ自分たちは数年でいなくなる、そしたらその憎い猟師たちともサヨナラできるんだから……なんて具合に、ですね」
 図星だった。廉は羞恥で顔が赤くなるのを感じた。
「二年ですよ。廉さんのお話を伺うに、およそ二年あったわけです。それだけの時間があったのに、たったの一回だなんて少なすぎます。言語道断です。せめて十回くらい話し合って全部断られた、とかだったら私もちょっとは同情できますけれど、たったの一回じゃ、木こりさんたちだって譲歩する気がなかったと取られても仕方ないんじゃないでしょうか?」
「そう……ですね」
 そのことは、廉自身が思っていたことでもあった。同時にそれが嫌でたまらなかった。
 何故もっと言葉を重ねないのだろうと疑問だった。それについてずっと考えを巡らせ辿り着いた結論は、先程胡斤が指摘したこととまったく同じだった。
 自分たちは、ここに永住するわけではない。だから多少のことは我慢して、せいぜい猟師たちにも睨みを利かせておけば、下山のときまでこれ以上事態が悪くなることもない。
 所詮相手は偏屈な山籠もりの猟師たちだ。そもそも話が通じるわけがない――。
 そんな傲慢な考えを納得するには、廉はいささか幼すぎたのだ。
 うつむきがちになる廉に、胡斤はふと嘆息した。そして優しげな顔に戻って、こう尋ねた。
「廉さんは、違いますよ」
「そうでしょうか?」
「ぜんぜん違います。ちゃんと精一杯言葉を重ねたのでしょう? それで相手が聞く耳を持たなかったのなら、こうなったのも仕方ないことです。……もっとも」
 そこまで話して、胡斤の顔が一度引っ込んだ。また出てきたときには、冗談めかしたような笑顔に変わっていた。
「よく幼なじみに言われました。私は性根がしつこいんです。私なら何度でも、なにをされても懲りずに頼みに行きますけどねー」
 それはちくりと廉の胸を刺したが、それでも廉は笑い返すことが出来た。
 解っている。廉にも自分たちがしていることの愚かさは解っている。
 要するに、自分たちは逃げるのだ。離ればなれになりたくないから、自分たちを縛るあらゆるものから、背を向けて逃げようとしているに過ぎない。
 父や母は悲しむだろう。猟師たちも。ひょっとしたらこれがきっかけで、さらに二者の溝はどうしようもなく深まるかもしれないのだ。
 そのことを胡斤は、この上なく優しく叱ってくれた。
 それで廉たちが赦されるわけもなかったが、少しだけ救われた気がした――。
「……胡斤さまに、会えてよかったです」
 そんな言葉が、自然と出た。
 胡斤はかすかに目を見張ってから、とても嬉しそうに微笑んだ。そしてすぐ照れて視線を外し、
「あー、ええと、だいたいですね、会ったばかりの人に一度で頼みを聞いてもらおうなんてムシが良すぎますよ? 良すぎるったら良すぎます。びっくりするほど良すぎます。
 私なんて、もうずーっと昔から頼み続けてるのに聞いてもらえません。それでも諦めきれなくて、今でもずーっと頼み続けてるくらいなんですから」
「何を……ですか? だれに?」
 廉にそう聞かれて、胡斤はぱちりとまぱたきした。無意識の愚痴であるらしかった。夜目にもそれと解るほど、ぼっと胡斤の顔が(半分だけ)紅潮した。
 ああいえそのあの、と口ごもったあと、胡斤は頬をかきながらそっぽを向いて、
「幼なじみに……ですね。まあその、いわゆる……結婚、みたいなものを……。
 いやちょっと違うかな……ええと、どう言えばいいのか……」
「ふわ……」
 今度は廉が目を見張った。もはや胡斤からは超越的な――妖怪だの霊魂だのといった恐ろしげな印象は薄れて久しかったが、今の告白でさらにそれが限りなく薄まった。
 というよりも、悩みが身近すぎて驚いた。まるきり人並みの悩みだった。
「……想いが、届くといいですね」
 胡斤はこれ以上ないほど真っ赤になって、するりと半身を木陰に隠した。たははは、という笑い声とともに、蒼い布がひらひらとたなびいていた。
 その少し先が開けて、月の光が降り注いでいるのが見える。かすかに出ている靄の向こうに、ふたたび川の流れる音が聞こえ始めている。
「――あ、」
 目指す谷に、着いたのだと解った。どきりと廉の胸が高まった。
「ああ、ここですかね? その谷っていうのは」
「は、はい。ここのはずですっ……」
 勢い込んで残りの山道を駆け、谷の入り口に出た。ふたつの山が重なってできた大きく深い谷で、流れはゆるやかだが幅が広く、かなり深そうな川がくねくねと蛇行しながら靄の中をどこまでも続いていた。
 急いで辺りを見渡してみる。まだ自分たちの他には誰も――そう思ったとき、意外なほど近くから自分を呼ぶ声がした。
「廉!」
「――っ、庚!」
 ほんの十数歩ほどしか離れていない木立の中から、少年――庚の姿が見えた。

 やっと逢えた。
 もう離れずに済むんだ。
 ずっと一緒にいられるんだ。

 転がるようにして駆け寄ってくる庚の姿に、自分も駆け出そうとしたとき、



 喜色に溢れた庚の表情が、すとんと消えた。



 一瞬、廉は誤解した。胡斤の姿を見て驚いたのだろうと思った。
 違うの。このひとは、わたしを守ってくれた――。
 口を開こうとして、廉は庚の表情に浮かんだものの正体を見て取った。
 それは驚きなどではなかった。少なくともあの胡斤を見て浮かべるようなものではあり得なかった。

 それは、総毛立つような恐怖の表情だった。

 庚の視線を追って振り向き、廉もそれを見た。はるかに上まで見上げなければならなかった。

 その生き物は、其処にいた。ただ誰も気付かなかっただけだった。

 廉はもちろん猟師である庚も、胡斤や叉怜ですらも、近くにいた獣たちも、虫さえも気付けない。それはその生き物が持っている穏行の技が、ただの生き物が行うそれとはまったく異なるものだったからだ。
 臭いも、音も、姿も――気配すらも完全に消し去れる。第六感や「野生の本能」と呼ばれるようなものまでも含め、どんな生き物のどんな感覚器も欺き、感知を許さず、たやすく接近を可能とさせる、とてつもない穏行である。
 それはもう技と呼べるものではなく、術に近いものだった。だからその場に居合わせた四人も、その生き物がみずから穏行を解くまで何ひとつ感じることが出来なかった。
 気が付いたら、其処にいた。廉の背後に。取り返しがつかないほど近くに。
 その生き物は、異様だった。
 獣というには、バランスが崩れすぎていた。奇形というには、整いすぎていた。
 猫科の大型肉食獣を思わせる大きな頭部、人間の背丈ほども長く伸びている頸、鮮やかな黄色の体毛越しにすら筋肉の隆起が見て取れるほど逞しい胴体。大地を踏みしめる蹄はどちらかというと「蹴爪」に近く、扁平な岩を三枚並べたように足の先から突き出て、白磁のような輝きを放っていた。
 脚自体が、首と同様おそろしく長かった。一本の長さは一丈を超えるほどもあり、途中ふたつある間接を器用に曲げながら重そうな胴体をやや不安定に支えていた。キリンか何かのようにも見えたが、そのそれぞれのパーツは比べものにならないほど太く、こちらはごわごわした褐色の獣毛によって包まれていた。
 即ち、自然に住むいかなる生物とも違っており、廉はもとより猟師の一族である庚ですらも見たことがなかった。
 ただ異様だった。
 木立ほどもある高みから、輝く双眸がその場にいる全員を睨みつけている。
 きるるるる、と高い音が降ってくる。それが唸り声だと理解できなかった庚も廉も、それが何という生き物であるのかは瞬時に理解した。
 ――あの谷には絶対に踏み込んではいけない。万が一ひとしずくでも血を流してしまっていたら、近付くことすら――。
 驚きと、恐れと、不運を呪う声音が、庚が上げた声に混ざっていた。

 それは、おとぎ話などではなかったのだ。

「『彊良』――」

 即ち。
 彊良とは、幻獣にして凶獣である。



 耳をつんざくような高い咆哮とともに、蛇のような動きで彊良の顎が落ちてくる。
 庚と廉の視線は、数瞬その絶対的な死に釘付けとなった。
「――廉ッ!」
 最初に我に返ったのは庚だった。びくりと廉の身体が反応し、庚の方を向く。
 庚が廉の名を呼んで駆け出す。廉も進もうとするが、とたんにかくりと膝が砕けてつんのめる。
 駄目、と廉の口が開く。しかし恐ろしさのあまり声が出ない。意に反して手を伸ばす。庚も駆けながら手を伸ばす。
 その間、胡斤と叉怜は――彊良を一顧だにしなかった。
 叉怜は胡斤のそばにいる廉を、胡斤は廉のもとへ必死に走り寄ってくる庚を見ていた。声もなく、それでも互いを呼び合うのを見た。
 胡斤と叉怜は、すべてを理解した。
 庚と廉がどんな関係なのかも、何故この谷に来たのかも、自分たちの血の匂いに誘われ彊良が姿をあらわしたことも、彊良の狙いがたった今廉に駆け寄ろうとする庚に定められたことも、すべて。
 彊良があぎとを開いた。庚の頭上に影が落ちた。廉の双眸に絶望が宿った。

 (いいよ。……あんたにやる)
 (あ、あの。……怪我を)

 お互いの姿が見えた。

 (迷惑なんかじゃないぞ。嬉しいぞ)
 (……ありがとうございます胡斤さま、)

 お互いの目があった。

 (叉怜と、出会えてよかったよ)
 (胡斤さまに、出会えてよかったです)

 胡斤と叉怜が、ただ一度だけ頷き合った――。

 彊良の牙が庚を捉えようとしたまさにそのとき、ふたりが飛んだ。疾風をまとわせ、彊良の鼻先をかすめるように交差する。

 交差したその一瞬で、彊良の顔半分が弾けるように四散した!

 ふたりの放った戟が、彊良の頭を叩きつぶしていたのである。寸分の狂いもない呼吸で上下から振るわれた途方もない怪力が、突き刺し引き斬る武器であるはずの戟をして、噛み合う巨大な破壊鎚へと変えたのだ。
 金属をこすり合わせるような絶叫を放ちつつ、彊良はなかば潰れた頭を振りたくる。顔を半ば吹き飛ばされて黒血をまき散らしながらも、さすがは禍神の末裔、まったく怯む様子はない。
 四肢をたわめ、血まみれの獣毛を逆立て吠え猛る様は悪夢のよう。
 庚と廉は震え上がった。手が触れあう一歩手前で、金縛りのように身体がすくんだ。
 その前に、立ちはだかったものがいた。
 彊良の巨体とふたりの間をさえぎるように、ひとりの人間が立っていた。
 両手にそれぞれ戟を構え、両の足でしっかりと大地を踏みしめ、彊良の行く手を遮っている。飢えと痛みに狂うまがまがしい巨躯に畏れることもなく、ただ雄々しく決然と、身体ひとつをもって対等に。
 その身に赤と蒼の布が、からみあうようにまきついているのをふたりは見て取った。

 「今のうちです」。

 厳しくも優しいその声は、低くもなく高くもなく。恐怖のただ中にあった二人の耳に滑り込み、心を縛り上げていた怯えと言う名の鎖をあっさりと引きちぎる。
 なんて勇ましく、なんて穏やかに、なんて猛々しく、なんてたおやかに。
 促す声がただ一言、その一言がふたりを動かした。
 庚の瞳が廉を映した。廉の瞳もまた。庚が一歩を踏み出した。廉が手を伸ばした。
 二人の手と手が、固く結ばれた。
 彊良の振るう前肢が、木々をなぎはらいつつ迫る。双戟が迎え撃つ。岩をも打ち砕く蹄と鋼とが互角の力で噛み合い、とてつもない轟音を谷中に響かせる。

 どこまでも(どうか)、ふたりで(お仕合わせに)。

 ふたりは走り出した。暗い森の中を、振り向かずに走った。
 互いの手を、固く結びあったまま。

 おふたりなら(ぜったいに)、――。

 走るふたりの目蓋に、最後まで灼きついた、




 ――それは絡み合う、ふたつの布の色。




 了




 ――ニスナスは『聖アントワーヌの誘惑』に登場する幻獣である。
 記述によれば「片目、片頬、片手、片足、胴体も胸も片方しかない」生き物であり、イェメンやシナ海の島にて見ることが出来るという。

 面白いことに中国の博物書『山海経』にも、『一臂国』と呼ばれる「西の果てに住む」異種族の国の記述がある。彼らの国の人間はすべて身体が「左右半分」のどちらかしかなく、文字通りの「半身」である。彼らの国には右半身と左半身の人間がそれぞれ必ず同数存在し、ふたりが肩を並べ合うと一体の人間ができあがる。この時合一化して生まれた「完全な」人間は文字通りに完全無欠の存在であるが、一臂人たちは半身づつであっても優れた民族であるがゆえに、普段はまったく合一することが無いのだという。

 「比翼の鳥」の伝承(※同じく二羽で一匹の鳥となる幻獣)や「アンドロギヌスの孤独(※両性具有者の意。ただひとりで子を成すことができるが、それゆえ生涯孤独に苛まれる)」を考えれば、彼らもまた現実にある「男と女」の関係の暗喩であることは間違いない。
 その暗喩が示しているものは真に結びついた男女のすばらしさであろうか、それとも心を開かない二者の孤独の姿だろうか?


【幻獣辞典】より









FIN.


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