| 小説目次 |
| 『昏い夜明けの街で』 こあとる著 <MAIL> |
ベイヤーの店はいい店だ。
まず酒がうまい。雰囲気がいい。気取ったところもなければ野暮ったいわけでもない。ベイヤー本人は少々偏屈なところがあるが、バーテンなどというものは無口なほうがいいと常々思っている私にしてみればむしろ好ましいくらいである。
落ち着いた空気がある。この街にいつも漂っている、沈んだ空気とは別物の。
私はそれを気に入っている。まだ駆け出しの青二才だった頃――今から十年以上昔の話だ――に初めてこの店を訪れて以来、私はここの常連だ。
だというのに、ベイヤーの店が流行っているとはお世辞にも言い難い。
私はいつもそのことを疑問に思うのだが、そのことを口にすると――。
「そうだな……俺が思うに」
ベイヤーに次いで古いつきあいの旧友どのは、決まってそっけなく応じてくれる。今日もそのセリフは代わり映えしていない。
こうだ。
「――落ち着きすぎなんじゃねえかと思うけどな? 人生の終着駅だ。ここでひとり水割りのグラスを傾けるほどには、俺は人生に煮詰まってねえと思いたい――他の連中だってそう思うことだろうよ」
よれたシャツの上から古ぼけたジャケットを羽織った旧友どのが、片眉をつり上げて意地の悪い同意を求めてきた。崩れかけたオールバックと薄く浮いた無精髭、皮肉気に細められた瞳を持つエイジアン・モンゴロイド――私の友人にして、ビジネスの相手。
この街でファミリーを持つ私の最強にして最後の切り札。
ムネミツ・ヤトウ。
馴染みの薄い東洋系の名前ではあるが、私はいい響きだと思っている。
「マッシュやセルゲイも似たようなことを言っていたらしいぞ、ヤトウ? 『こんな枯れた店で飲んでたら、首を吊りたくなっちまう』とか何とか。意外な共通項を見つけたな」
「……たった今、俺も首を吊りたくなった」
最近仕入れた反撃方法は効果的だったようだ。部下の陰口にいちいち目くじらを立てていても仕方ないが、荒事専門のあのふたりと比べられるのは旧友どのにとってはなかなかに堪えるらしい。
私とヤトウは、こうして一緒に飲むことが多かった。
ファミリーに近い位置にある人間の中では私とただひとり対等な立場で接してくるヤトウだが、私もその立場にずっと甘えさせてもらっているので異論はない。けして決定的なところまで踏み込んではこない、しかし適度にゆるやかな時間を共有できる関係――私のような人間にとって、それはなかなか得難いものなのだ。
グラスを満たした琥珀色の液体を、胃の中に流し込む時の灼熱感。
精神弛緩剤を配合したドラッグ――『スティック』に火をつけ、肺一杯に吸い込んだあとに来る酩酊。
ゆるやかなピアノの音色が耳をかすめていく、穏やかな時間。
友との何ということもない語らいに浮かぶ、何ということもない笑み。
長い時間をかけた末に築き上げた、それはほんのささやかな幸福だ。
ファミリーと同じだけの時間をかけて、だがファミリーとはまったく関わりのないものであって。
だからこそ、私にとっては同じだけの価値がある。ヤトウは笑うかもしれないが。
「……まだ、『サザール』なんか吸ってるのか」
ヤトウは私がくゆらせているスティックの銘柄を見ることもなく、うんざりした口調でそう言った。トリップ感もそこそこ高いが、なによりクセのある強い匂いが私の好みだった。
問題は、『上』でしか手に入らない銘柄だということくらいだろう。
「お前の『コウリッジ』とどう違うのか、教えてほしいんだがね」
「あいにくこいつはこの街のヤクだ。イェンキンスのラボで巻かれている」
ジャケットの胸ポケットからちらりとプラスチックケースを取り出し、ヤトウは斜目で視線を向けてくる。
「銘柄の産地を取りざたしているわけじゃないんだろう?」
「俺が言いたいのは、こいつはカートンあたり百も払って、ハロードにわざわざ『リフト』を動かす手間をくれてやってるわけじゃねえ、ということだ。
その金は何処から出ているんですか、マフィアの大将? 俺が出ていくなり、エプロンをつけてこの店の厨房に立つことに――日給一五〇くらいでな――なってるんだって言うなら、明日からお前を心から尊敬のまなざしで見つめてやることにするけどな」
私はとりあえず苦笑して、的確な反撃を試みてきた友人への賛辞とした。
見事な「ひと刺し」だ。私の不思議な友人殿は、ことあるごとに私の「職権乱用」について触れ、否定的な嫌味を与えてくれる。
この街で当たり前になっているはずのことを、ことあるごとに、だ。
もっとも私はそれを興味深く感じることこそあれ、鬱陶しくは思わない。
当たり前であるということは、誰も口にすることはないということだ。普通なら私はそれを耳にすることもなく、すなわち私自身も生涯そのことに気付くことはないということだ。
「当たり前」なことは、自覚できない。
私――バックス・ゲイラードがファミリーのボスという権力を得ていること、その権力を望むままに私有化できるということ、そしてその私有化があまりにも過ぎた場合、ファミリーにとって――あるいはファミリーが管理しているすべてのストリートに住む者にとって――大きな不利益をもたらすことになる可能性がある、ということ。
この街に住む誰もが、最初のふたつは知っている。それこそ「当たり前」のことだ。
しかし最後のひとつを知っている者は少ない。その危険は常に表裏一体であるというのに。
最悪の可能性を導いてしまうほどの私有化が、いったいどれほどのものなのか。
権力者の横暴は、どこまで通してよいのか。どこまで通すべきなのか。
誰も答えることはできまい。ファミリーに牛耳られることによって営々と秩序を保ってきた、保つことが「当たり前」になってしまっている、この街の誰も。
そう。ヤトウを除いては。
ひょっとしたら、ヤトウ自身にも答えられないかもしれない。
しかしヤトウは間違いなく、この街の「当たり前」に疑問を持ち続けている。私が『第四層』から密輸したスティックをくゆらせている、まさにこの瞬間も。
彼は控えめに言ったとしても、ファミリーで唯一、私にそれを知らせてくれる。常に私に、それを考えさせるきっかけを与えてくれるのだ。
私はトレイでスティックの火をもみ消した。カウンターの奥で黙々とグラスを磨いているベイヤーにちらりと視線を向け、グラスの中身をあおる。
「……そうだな。私もたまにはカップのひとつも磨くべきかもしれん」
「やめといてくれ。俺の嫌味をお前が真に受けてそんなことを始めたなんて噂が広まったら、セルゲイがすぐさま俺を折り畳みに飛んでくる。――喜色満面でだ」
「折り畳まれる前に、お前もカップを磨いておいたらどうだ?」
「お前はどうあっても、俺の人生をお終いにしたいわけか」
適度に叩かれる軽口は良質の肴だ。喉の奥を焼け付かせるアルコールによく合う。
そんなやりとりの最中、ふと耳慣れた音にノイズが混じった。
正確には、空白だ。店の隅で稼働している自動ピアノの演奏が、一瞬だけ止まったのだった。
すぐに音は元に戻ったが、一度中断されたせいでなめらかなメロディには決定的な穴が開いてしまった。台無しというやつだ。ヤトウも露骨に眉をひそめて、
「だから言ったんだ、ベイヤー。あんたより年寄りのピアノをあんたより働かせるってのは問題がある、ってな」
ベイヤーに矛先を向ける。もっともベイヤーは何処吹く風といった様子で、「他にいねえんでね」と応じただけだったが。
「あんたに弾けと言ってるわけじゃねえんだ。弾ける奴を捜せと言ってる。いくらこの街が芸術に疎い屑の吹き溜まりだって言っても、どこかにひとりくらいはましな奴がいるだろう?」
「面倒だ。あんたが捜してきてくれ。明日から雇う」
ベイヤーのあまりのそっけなさに、私は笑ってしまった。我が友人は世にも情けなさそうに顔をしかめ、カウンターに突っ伏している。
「この際だから捜してやったらどうだ、ヤトウ。カップを磨かなくて済むぞ」
「……どいつもこいつも」
からりとグラスの氷を跳ねさせ、ヤトウはやおらがば、と上体を起こした。
私とベイヤーに交互に指を突きつけ、憤然とまくしたてる。
「前から言おう言おうと思っていたが、今度こそ言わせてもらうぞ。
いいか、俺はこのストリートの便利屋じゃないんだ。お前のところから仕事を受けているかもしれんが、お前の部下ってことじゃあない。ここのツケがたまっているのは知っているが、エプロンをつけて朝から晩までカップ磨きをさせられるくらいなら今すぐジャンセン・ファミリーの幹部の首をまとめてねじ切ってくる方を選んでやる。わかるな? よしんば糞ったれなことにお前らがそう思っていたとしても、ピアノの弾き語りを捜せなんて依頼は間違っても――」
結局その続きは、言われないまま終わった。
古めかしいローテクであっても、使わなければいけない時がある。まして今時ピアノなんて楽器をBGMにしているアナクロなバーならば、それはきれいに当てはまる。
ドアベルがかん高い音を立て続けに上げたのは、取り付けられたスイングドアが乱暴に開けられたということを意味していた。
入ってきたのは、女性だった。
わずかばかり息を切らして駆け込んできたその女性は、店内をさっと見渡してからドアを後ろ手に戻す――ゆっくりと。浅い呼吸をひとつ。
私の第一印象は、「悪くない」だった。
白いワンピースにブラウンのストールを羽織った、若い女性である。ブロンドのストレートヘアに灰色がかったブルーの瞳、コーカソイド特有の白い肌。やや痩せた印象を与えたが、それはこの街に住む人間のほとんどが共通して持っている特徴のようなものだったし、すらりとした長身の女性ではなおさら目立つことだろう。
切れ長の瞳と薄くルージュを引いた唇は、ひかえめに言っても魅力的だった。まして、
「ゲイラード・ファミリーの人間でしょう? あなた達は。……それも幹部クラスの」
我々を見るなり、その唇からそんな台詞を吐いたとなるとインパクトとしては十分だろう。
確かにここら一体が我々の縄張りであることは皆知っていることだろうし、ベイヤーの店が決して安酒場に分類されるものではないことぐらいは見て判るかもしれないが、そのふたつから我々の身分をある程度推測するのはなかなか出来ることではない。ベイヤーもヤトウも声をかけなかったところを見ると、女性はこの界隈の人間ではないだろうに。
ヤトウに目をやると、憤懣やるかたないといった体だった。私は苦笑するしかない。
「……私は、ファミリーの人間だよ。彼は違うがね。
そうだとして、貴方は何の用事があるのかな? ファミリーに」
女性は私に視線を向けた。
入ってきたときの慌ただしさはなりを潜め、落ち着いた動作になっている。それだけならまだしも、向けられた視線に値踏みするような色がなかったことには正直恐れ入った。最初の逼迫した様子からして、一刻も早くうちの連中の誰かにつなぎをつけたがっていることは明らかだというのに。
躊躇はしなかった、ように見えた。
「ロシーネイ・ジャンセンに命を狙われてる。保護して欲しいのよ」
前置きなく、ずばりと核心に触れる。私を含めた全員の眉根が寄ったことだろう。
ロシーネイ・ジャンセン。
この街をとりまとめているよっつのファミリーのひとつ、ジャンセン・ファミリーの幹部だった。ファミリーの頭であるエンリオ・ジャンセンの長男に当たる。
何故、という問いに関しては、ヤトウが代弁した。
「あのサディスト坊やがオシャカにするまで女をいたぶる、ってのは聞く話だが。
生き残って逃げて来れたのは、俺が聞いた中じゃあんたくらいのもんだな」
「……それで命を狙う? ずいぶんと念の入ったことじゃないか」
「エンリオの爺いも、しつこさと根の暗さは変わらないだろうが。――跡継ぎの資格は充分、才能もあふれんばかり、ってとこだろ。結構なことさ」
「助けてくれる? それとも?」
焦れた風はなかったが、女は私に数歩近寄って聞いてきた。
――ジャンセン・ファミリーと今悶着を起こすのは、まずいのだろうが……。
ましてロシーネイの女を保護したとなると、あの男の顔をつぶすことになる。
わずかな時間悩んだとき、ヤトウが女に尋ねた。
「で、あんたを助けて何の利益がある」
「ロシーネイの生活パターンすべて。ロシーネイの住処のすべて。ジャンセン・ファミリーの幹部たちが秘密裏に会合する場所と、その場所のおおよその間取りと、兵隊の配置」
女は即答した。用意した答えだったのだろう。ヤトウが口笛を吹いた。
「ハナから、こいつらに戦争させるつもりか? それ以外じゃ役に立たないネタだ」
「十二番ストリートを奪い合っているわよね? 今でも抗争の真っ最中。水面下が穏やかなだけで、双方がきっかけを捜してる状態のはずよ」
大した女だ。
「問題は、その情報の真偽ってところか。あんたを信用するに足る根拠は?」
私も聞きたいのはそこだ。そして、もっとも証明しにくいことでもある。
女は私とヤトウを交互に見やり、
「いいわ。証明してあげる」
言うが早いか、私たちのもとに寄ってきた。手はそのまま、武器を隠している様子もない。
私とヤトウの間に立った女が、スツールに腰掛ける。その時になってようやく、私は彼女が裸足だったことに気がついた。
「それで?」
意地の悪そうなヤトウの問いに、女は目もくれず、言った。
「今――すぐに」
入り口に顎をしゃくって見せる。
一拍遅れて、店のドアが再び開いた。今度はさらに荒っぽかった。
乱暴にスイングさせて入ってきたのは、いずれも暴力沙汰に慣れていそうな三人の男たちだった。ぎらつく目で店内を見渡した三対の目が女を見つけるのとほぼ同じくして、三人の後ろからもうひとり。合計四人。
最後の男と目があった。
神経質そうな細面に、特徴的な丸眼鏡。その顔には覚えがある。
「ギャラル。――ギャラル・ハッターか」
「バックス・ゲイラード!?」
向こうも、私の顔を覚えていたようだ。
ロシーネイの雑事を一手に引き受けている腰巾着だったと記憶しているが、逃げた女を連れ戻す陣頭指揮までこなすとは恐れ入った。ロシーネイがそこまでご執心だということだろうか。
どちらにしても、ロシーネイが絡んでいることだけは間違いなくなった。
あとは、この賑やかしい一幕が狂言だという可能性だけだが――。
「このアマ、ゲイラードのシマに逃げ込んだだけじゃ飽きたらず……そのスカしたガキにまで色目を使ってたのか。どうやって取り入った?」
「取り入ろうとしているところよ、ミスター・ハッター」
「二代目にゃ、死体にしても連れ戻せと言われたぜ。『どんなことをしてでも』ってな。
そいつらと戦争おっ始めることになっても、それは変わらねえ。スカした坊やはビビってるから、相手にしちゃくんねえだろうよ」
「さあ? それをこれから聞くところ。
どっちにしても、あのサディストの子守はもう御免。たとえ死体になってもね。そう伝えてくれないかしら? ミスター・ハッター?」
今にも脳溢血を起こしそうな顔色で――もちろん怒りのためだ――喋るギャラルに対し、女は淡々と、かつ歯切れよく応じている。
狂言としてもなかなか痛快な眺めだった。もっともギャラルがよほどの役者だというのでなければ、あの顔色は演技では出せないに違いない。
「……どっちにしろ、後戻りできねえ、ってことだろう?」
隣でヤトウがぼそりと呟く。うんざりした様子なのは相変わらずだった。
「確かにな」ヤトウにだけ聞こえるように返した後、私はギャラルたちにスツールごと向き直る。「古風な考え方で申し訳ないとは思うがね、ギャラル。私のシマでもめ事は困る」
ヤトウが「お人好しめ」とこぼした。誉め言葉だと思っておくとしよう。
ギャラルはかすかに舌打ちした。無視し続けられると思っていたわけでもないのだろうが。
「こりゃ失礼。そういやいたんでしたな、ミスター・ゲイラード。すぐにこの売女を連れて失せますんで、安心して酒の続きでも、そこのイエローとベッドインのご相談でも」
軽口に乗ってやってもよかったが、あまり楽しくなさそうだったのでやめておく。
代わりに、真摯な口調で対応することにした。
「私のシマに来たからには、私の流儀に従いたまえ。
勝手にシマに踏み込んできたことは不問に付そう。だが一度シマに来て、保護を求めたこちらを連れて出ていくのには、私の許可が必要だな」
「それはそれは。それじゃあミスター、オレたちはこれで。まさか引き留めはしないでしょうな? こっちは四人、あんたには黄色臭えお仲間がひとりだけ。
それにあんただって、ウチと戦争したくないからこそ今まで――」
「許さん」
にわかに饒舌になりかけたギャラルを遮って告げた。
ぎり、と歯を鳴らす音が聞こえる。
同時に三人の男たちが、これ見よがしに懐に右手を突っ込んだ。
「……へえ。んじゃあどうするってんだい、ミスター?」
せいいっぱいの敬語も、消え失せたようだ。
あちらは四人。
こちらに兵隊はひとりもいない。しかし私は慌てなかった。
兵隊はいない。だが。
視線はギャラルたちに向けたまま、私はヤトウに尋ねる。ただ一言。
「――ここの払いでは?」
「まあ、いいだろう。マッシュもセルゲイもいねえんじゃな」
「切り札」が、了承してくれた。
「手ぶらで帰るか、死体で還るか? どちらでも好きにしたまえ」
「上等だ!!」
無慈悲な私の言葉に、ギャラルが吠える――。
男たちのひとりが、突如顔を押さえて悶絶したのは次の瞬間だった。
両手で押さえた隙間から血を流す男に、残る三人の注意が逸れる。
銃を懐から抜きかけたひとりの喉笛に、魔法のようにナイフの柄が生えた。もうひとりの男はホルスターから銃身を抜ききる前に、首を真横にへし折られていた――いつの間にか正面に移動した、ヤトウによって。
「て」
ギャラルは「てめえ」と言いたかったに違いない。
言いきる前に、首をなかばまで断たれた。残りの台詞は吹き出す血とともに、店の床にどくどくと流れ落ちていった。
ギャラルが最初に声を上げてから、五秒と経っていなかった。さらに数秒経ってから口を開いたのは、ベイヤーだった。
「……ここの掃除代も払ってくれねえか、ドン」
「喜んで」
まったく、これ以上ないほどにベイヤーが優秀なバーテンだと再認識した。店で起きたすべてのことに関心を抱かず、ただ客がくつろぐ最適な場所の保全に勤める。これがプロフェッショナルとしての条件というものだ。
当の女性はと言えば、呆けた顔で床に倒れた四人を見ていた。
死体に驚いているわけではないことは、無意識に出たのだろう呟きでわかった。
「……すご、い……」
ヤトウの技のことだ。何度も見ている私ですら、頷かずにはいられない。
「何が……起こったの……? ギャラルたちが――ギャラルたちは、死んでるの?」
「残念だがね」
私も見えたのは、結果だけ。
隠し持っていたニードルガンをひとり目に発射した、というのは予想がつく。
反対側の手でやはり隠し持っていたナイフを投擲し、それと同時に三人目へ移動。ここも予想できる。
だが、それ以降はどうだ?
どうやって三人目の首を、目にも見えない速さで正面からへし折った? 三人から離れた戸口にいたギャラルの首を、一体何で切り飛ばしたのだ?
ヤトウは一度だけ、軽く息を吐いて戻ってきた。たった今殺された四人が見たら、不服を言うかもしれなかった。
「俺たち四人を殺しておいて、その程度なのか」と。
ふたり目以降の男たちは、自分が死んだことを自覚することさえできなかったかもしれない。軍用サイボーグでもなければ、こんな真似は不可能だった。
それゆえに、「切り札」。
「……『稲妻のように早くて、悪魔のように強くて、死神のように容赦のないエイジアン・モンゴロイド』……」
女が口にした言葉は、他のシマで囁かれているヤトウの噂だ。
「ゲイラードファミリーが持ってる、『最後の切り札』? ……彼が」
「ムネミツ・ヤトウだね。私の方は、自己紹介は省略させてもらうが」
先達のギャラルとのやり取りの中で、彼女は私が何者か知っているはずだった。
いや、最初から知っていたことがわかった、と言うべきか。
「……ごめんなさい。最初から判ってはいたのだけれど」
私の名前が出たときに、彼女は冷静な態度を崩さなかったのだから。
「警戒心を起こさせると思ったわけか? 逆効果だな」ヤトウは死体に一瞥もくれることなく戻ってきて、彼女の前に立つ。「最初からバックスの命と戦争のきっかけ作りを狙った狂言だと思ったぜ。実は今も思ってる。立て板に水の説明が必要だな」
四人を一瞬で殺したヤトウを目の前にしても、彼女はひるまなかった。
「暴力による支配に慣れきった、愚鈍なマフィアの幹部。――あなた達をそう評価していたのは、わたしの失敗だったわ。そして失礼でもあった。
半端な駆け引きや追従のふりが通じる相手ではなかったわね。改めて謝罪するわ」
ただそこで、はじめて自身なさげに視線を落とした。
それがかいま見せた彼女の素顔だったとしたら――冷静に張りつめられていた時と同じくらいに魅力的だと感じてしまったのは、不謹慎だろうか?
「それに狂言だったとしても、もうどうしようもないわね。ギャラルたちは死んだ。あなた達に殺されなくても、不手際のままのこのこと帰ればエンリオ・ジャンセンに殺されるでしょう。
……これで本当に、行き場はないわ。あなた達に救いを求める以外には」
あるいは、最初から彼女の本意ではなかったのかもしれない。
ひとつのファミリーを抜け出し、別のファミリーに保護される、などという選択は。
ただひとりの力で生きていきたいという、ただそれだけを願っているのかもしれないと、その時私は感じていた。視線を上げないままに呟く彼女を見ていたら。
どうしたものか? いや実のところ、そう悩むことでもなかったのだが。
ヤトウに目を向ける。彼もうつむいた彼女を見ていたが、その視線は疑わしそうなものではなくなっていた。
どこか値踏みするような眼で女を見て、私の視線に気付いた。
眼で問う前に、にやりと笑われる。困惑した私が言葉を出す前に――。
「それとは関係なく、ひとつ聞きたいことがあるんだがね」
ヤトウが、彼女にそう切り出した。
つと顔を上げて、怪訝そうにヤトウを見上げる彼女には頓着せず、続ける。
「……あんた、ピアノは弾けるかい?」
かくして。
ベイヤーの店のピアノは、まだ働き続けることになった。
私はそれからしばらくの間、ジャンセン・ファミリーとのごたごたで忙しくなった。しかし快適でくつろげる空間がきちんと確保されていれば、どんなに忙しくてもまずまずは働けるものだ。
だから私は今日も、ベイヤーの店に行く。
おそらくヤトウもいるはずだ。
今日も、彼女と皮肉を競い合っているのだろうか?
私は古めかしいドアを開ける。ピアノの音が迎えてくれた。
スティックとアルコールがもたらす酩酊と、おだやかなピアノの旋律と、友との語らいを味わうために。銃弾と悪意と、部下達のしぶい表情をかいくぐり。
「……いらっしゃい、バックス。ちょうどヤトウも来たところよ」
「それはちょうどよかったな。君とヤトウの口論は、聞き逃すには惜しいほど面白い」
「あら。口論なんてとんでもないわ。――ねえ、ヤトウ?」
「うるせえ。黙ってピアノを弾きやがれ、日雇い歌姫が」
キーニャ・エヴァン。
それが、彼女の名前。私とヤトウと、ベイヤーと。
幸福な時間を共有できる女性の、名前だった。