小説目次


『昏い夜明けの街で』
こあとる著
<MAIL>


中編

 正直なところ、俺はメインリフトが好きじゃない。
 何が嫌といって――まず浮遊感だ。下に落ちていくときの。
 だがそれ以上に、昇るときの圧迫感は耐え難い。『最下層』から『第一層』までを一直線にぶちぬいて作られた五〇〇メートル近いシャフトを昇るため、大型の電磁モーター十六基を搭載した巨大な箱は、プラットホームを離れるや否や蹴飛ばされるように上昇する。たとえ貨物室を満杯にした状態であっても、ひとつ上の階層までなら五秒足らずで到着することができるよう設計されていた。
 無論乗っている人間の安全性も考慮されているのだろう。ふつうのエレベーターの倍近いGがのしかかってはくるが、もちろん身体には何の影響ももたらさない。
 身体には。
 五秒足らずのささやかな重圧は、しかし今回も十二分に俺を憂鬱な気分にしてくれた。ひとつ上の階層に昇るたびに感じるその圧迫感は、上と下との間に張り巡らされた分厚い壁を無理矢理突き破るような錯覚を俺に抱かせる。それが俺の被害妄想だというのなら、むしろ喜んで受け入れたいとすら思うのだが。
 ――『第四層』に到着いたしました。二十分停止致します――。
 合成音のアナウンスを聞いて客席から立ち上がる。がらんとした客室には俺以外の人間は数えるほどしか乗っておらず、しかもそのうち俺と同じく席を立ったのはたったひとりだけだった。
 残りの連中の、俺たちを見る目つきはどうだ。同じ車両に乗っていたことを後悔して舌打ちせんばかりの、その侮蔑に満ちた表情は。
「『第四層』の田舎者が」そいつらの目はそう言っていた。「俺たちと同じ車両に乗ってたなんて。ただでさえ糞溜めみたいな場所からようやく上がってきたというのに便所臭い連中と相席だったとは。今日はまったくついてない」と――。
 おそらくは『第三層』あたりの業者なんだろうが、俺たちに向けられるにやけた差別意識には吐き気がする。そしてそいつらと終始視線を合わせず、逃げるように客室を出ていった男にも。
 ひとつ層の違うIDを持っているというそれだけのことが、ここまで人間を傲慢に、そして卑屈にさせるのだ。これが「分厚い壁」でなくて、何だというのだろう。
 しまいには顔を近づけ、こちらを指して陰口をたたき始めた連中の顔を、俺はゆっくりとひとりづつ見つめていった。睨みつけたわけではなく、ただ見つめただけだ。
 連中のひそひそ声は、すぐに止んだ。
 しかしそれに対して優越感など抱けるわけもない。自分でも嫌になるほど、それは子供じみた腹いせだと自覚できた。
 やや遅れて、俺も客室を後にする。
 ――せいぜい陰口をたたくがいいさ、俺がいなくなってからな――。
 そんなつまらない負け惜しみを、口には出さずに呟きながら。


 【昏い夜明けの街で】


 二、

 ステーションを抜けた俺を、『第四層』の街並みが迎えた。
 ひとつの層の高さには限界が――おおよそ八〇メートルほどか――あるが、建築材の支給頻度や回される再利用建材のクラスによっては高層建築に耐えられないため、それほど高いビルは建てられない。ことに最低ランクの建材しか回ってこない『第五層』には、リフト以外で五階建て以上の高さのビルは存在しない……いや、強度上存在「できない」と言うべきか。
 俺の目の前に広がる街の光景は、だから、久しぶりに見たということを差し引いても圧巻だった。
 ステーションから続くメインストリートには薄汚れた雑居ビルなどなく、強化カーボン製のイミテーションではあるが街路樹なんてシャレたものまで見て取れる。アスファルトの路上はきれいに清掃されていて、そこを歩く人々は楽しげな、もしくは生真面目な表情のどちらかだ。少なくとも目に見えるところには浮浪者やストリートギャングといった連中も見あたらない。
 清潔感――そういう類の空気がある。
 そして極めつけは光量だった。正式な昼夜システムの運行に従って、午後を幾分か回ったころの強い光が天井から街に降り注いでいた。
 蛍光灯の光とは質の違う、誰も知らない「太陽光」にスペクトル調整された投光器の光が俺を不快にさせてくれる。わずかの間目を閉じて、指で瞼を軽く押さえつけた。
 数年前にここを訪れたときと、何も変わらない。せいぜいが自分の意志で来ているか、他人から頼まれてきているかの違いくらいだった。
「……わかってるさ、仕事はきちんとやるとも……」
 ここにはいないバックスの苦笑に言い訳がましく呟いて、俺はメインストリートを歩き出した。両手をポケットに突っ込んで背を丸めて歩いていると、まわりから浮き上がっているようにも感じられる。強迫観念のような疎外感を忘れるために、俺はポケットから紙巻きの弛緩剤――一般に『スティック』と呼ばれているもの――を一本取り出し、火をつけた。
 深く肺まで吸い込むと、ほどよい酩酊感が頭の芯に灯るのがわかる。いくぶんかクリアになった思考の中で、俺は失踪したフレスノ・マッジというバイヤーと、今回の仕事の内容について考えてみることにした。
 ハロードをそそのかした挙げ句に殺害して、密輸品ともどもこの『第四層』に逃げ込んだフレスノ――俺の仕事は、そいつを見つけだしてバックスの前に連れて行くことだ。
 ――もし生きたまま連れて行くことができたとしたら、あとの始末はすべてバックスが引き受けてくれることだろう、が……。
 おそらくそう簡単には行くまいと思っている。
 『第五層』とは勝手の違う場所で人ひとりを捜さなければいけないということもあるが、もっと根本的な問題がある。ひょっとしたら、フレスノを捕まえること自体がひどく困難なものになるかもしれないからだった。
 もともと自警組織が存在しない『第五層』では、バックスたちファミリーがその代役を務めている。少なくともバックスの縄張りで厳然と存在するファミリーのルールが、犯罪のコントロールに一役買っているのは紛れもない事実だ。
 しかしそれだけに、今回は捜査が完全に後手に回ってしまったのだろう。ドラッグの出所がハロードだとつきとめたバックスたちは泡を喰ってハロードの事務所へ押し掛けたが、その時にはハロードはとうに殺され、フレスノは逃走した後だった。
 バックスたちは事務所を家捜しし、ハロードのリフトが『上』に上がったままになっているという事実の他にたったひとつだけ手がかりの品を見つけた。ハロードが経理に使っていた端末の隠しファイルの中に、二重のロックをかけられて保管されていたちっぽけなデータとして。
 ふたりが『上』から持ち込んだ、密造ドラッグのリストである。ダウン系の幻覚剤にアップ系の昂精神剤、キーニャに使われた感覚神経に強く作用する興奮剤……几帳面なハロードらしく、およそ二〇種類にもわたる種類のひとつひとつにわかる限りのデータが書き込まれていた。そのリストのお陰でバックスたちは危険なドラッグの大部分を回収することができている。これから残りをすべて回収して、購入した連中にファミリーのルールを「再教育」するまでにも、それほどの時間はかからないだろう。
 しかし、俺に言わせれば問題はさばかれたドラッグじゃない。むしろ逆だ。
 バックスから渡されたリストにひとつのドラッグの名前を見つけたとき、俺は腰を抜かしかけた。それが誰の手にも渡っておらず、ハロードの事務所からも見つかっていないと聞いたときには、絶望のあまり目が回ったものだ。
 ふたりはとんでもないものを持ち込んでいた。どういうルートで仕入れてきたのか知らないが、ハロードがその詳しい効果を知らなかったのは間違いない。
 タイプB707、通称『スワップ』。
 数年前に『第三層』の常駐治安軍がラボで開発したが、その弊害のあまりのひどさに半月で製造中止に追い込まれたコンバット・ドラッグだった。効果は筋力と反射速度の強化、痛覚の完全遮断と攻撃性の増加――強い拒否反応が個人差で現れ、千分の一ミリグラムでも投与量を誤ると中枢神経とシナプスを根こそぎ破壊されてしまうという欠陥品だが、それでも薬が効いている間は活性作用で無理矢理活動しつづけるから、投与者は増幅された攻撃衝動だけで暴れまわることになる。銃弾くらいではびくともせず、常人の数倍のスピードと数十倍のパワーを誇る野獣の完成だ。
 ――昨日一日かかって調べたが、ただひとつ『スワップ』だけが入ったケースごと見つかっていない……。
 バックスの言葉を思い出す。入荷数は五倍濃度のアンプルで一〇本、それがすべて消えている。
 降りてこないリフトと、フレスノとともに何処に消えたかわからない『スワップ』。五才のジャンキーにだって、このふたつを関連づけることは簡単だろう。
 しかし何のために『スワップ』を持ち出したのかとなると、正直わからない。非合法ドラッグの中でも『スワップ』は希少で、しかもとびきり強力ではあるが、強力すぎて買い手などそうそう見つけられるものじゃない。もっと楽に金に換えられそうな品物だってリストにはあった。
 わざわざ『スワップ』だけを持ち出したということは、最初からそのつもりだったということだ。
 ハロードと組んで密輸したことも、最終的にリフトを手に入れることが目的だったのだろう。他のドラッグを大量に持ち込んだのも撹乱のためだと推測することができる。現にフレスノは逃走するまでの一日の間に、ほとんど二束三文と言っていい値で、わざわざ危ない橋を渡って手に入れたドラッグをばらまいているのだから。
 回収騒ぎにファミリーが時間をとられることを計算に入れてのことだと、俺は踏んでいた。実際ただでさえ『上』には手を回しにくいバックスたちの状況下では、俺というイレギュラー以外にフレスノを追うことのできる人間はいない。
 フレスノがそこまで計算に入れて行動しているとなると、ひどく厄介だった。事件の背後にどんないきさつがあるにせよ、注意深く動く必要がある。
「まずは、足取りか……」
 ハロードのリフトステーションの位置はおおよそわかっている。俺は道路沿いに設置してある公衆端末を見つけ、いくつかの項目に検索をかけた。『第四層』の全体地図と下につながっているリフトステーションの位置、そしてある人物の現住所――。
 プリントアウトされてきたプラスチックペーパーを引きちぎり、俺は目的の場所へと向かうことにした。

◇           ◇


 『第五層』は、いわば特別である。
 一日の死者の数が他の層に比べて一桁ちがう。犯罪率に至っては、大小あわせれば一桁どころの話ではないのではあるまいか。
 本当にどうしようもないくらいつまらないいざこざから銃やナイフを抜く人間など、『上』にはそうそういないだろう。昨日まで仲間だった人間を紙幣一枚のために有機再生パケットに生きながら放り込むような奴も、抵抗力が極端に落ちて空気中の雑菌ですら感染症にかかってしまう奴なんてのも同様だ。
 医療施設を完備し、「やっかいごと」もそう多くもない他の層となると、減っていく人間の数などたかが知れている。その一方で下の層には出産規制がないから、人口は増える一方になる。
 人間は増え続けるのに、俺たちが持っている空間は限られている。
 いや、どちらかといえば逆かもしれない。空間が限られているという事実は動かしようがないのに、人間の数は増え続ける。
 「生物には、すべからく適応力がある」。
 そんなことをいった古い学者は、一度でいいからここに来てみるといい。『第四層』の街外れに無機質にそびえ立っている集合住宅地――『C・A』の中に。
 飾り気のまったくない白い大きな高層建築がずらりとならぶ、これが『C・A』の特徴だ。ひとつのビル内にいくつもの部屋があり、それらがマンションアパートのように個別に借与されている。たしか一棟あたり、一万人が収容可能なはずだった。
 最初は誰でも、そのデータに首をひねるものだ。確かに目の前の建物は大きいが、一万人を詰め込むにはどう考えても小さすぎる。
 実際に棟の中に入ってみれば、今度は目をむくことだろう。俺と同じく。
 白亜の廊下の両側にずらりと並ぶ、扉、扉、扉。
 ふたつの扉の間隔は三十センチもあるかどうか。それが廊下に沿って延々と続き、昇降機のある突き当たりまで終わることはない。
 扉を開けてみれば、扉と同じだけの幅しかない奥行き五メートルほどの個室――というのもおこがましいが――がひとつあるきり。窓も収納スペースも皆無、バス、トイレは各階にいくつか設置されているものを共用する。こんな蜂の巣のような状態なら、確かに一万人も押し込めることだろうが。
「……相も変わらず、人間性ってもんを欠如した造りだな。ここは」
 そんな独り言が漏れるほど、その光景は異常だ。閉所恐怖症の人間は、この廊下を見ただけで失神してしまうかもしれない。
 個人集合住宅、すなわち「コンパート・アパートメント」が正式な名前だが、そう呼ぶやつなど何人いることか。ここにはそう何度も足を伸ばしたわけではない俺ですら、この層の知人が言っていた蔑称がぴたりと当てはまると思うくらいである。
 そいつは略称をある単語の綴りの頭に置き換え、「カタコンベ」と銘打っていた。地下墓地というわけだ。皮肉たっぷりなその呼称はまさに、笑えないくらい正鵠を射ている。
 もっともそんなあだ名をつけた本人はここに住み、気に入っているとさえ言っていた。
 第八棟の一階、七六番扉。前に訪れたときと番号は変わっていない。『イシャム・ソルスベリー』と書かれた扉のプレートを確認して、それに触れる。
 数秒開けずに、扉のロックが外れる音がした。扉を開けた俺を待っていたのは――。
「――ようこそ『第四層』へ、ヤトウ! 一万二千六百六十と飛んで四十五分ぶりの再会だ!」
 狭い部屋の中にぽつりと置かれたモニターつきの端末がたったひとつだけ。内装などなにもない白い部屋のなかで、グレーの端末が染みのように浮いて見える。
 そのモニターに映されたひとりのネグロイドの女が、俺に挨拶をしたのだった。
「ステーション前の第六公衆端末から、ボクの名前をサーチしたね? すぐにキミだと判った! キミはいつだって、ボクの名前の綴りを間違えるんだ――『I・S・H・A・M・M』――Mはふたつだって、一万二千六百六十と飛んで四十六分前の別れ際にも言っただろう!? ボクは情熱と友情をもって、キミの名前の発音を覚えたっていうのに!」
「一年半にしては、この部屋も……お前の奇癖も様変わりしないな、イシャム」
 こいつがこの部屋の主、イシャム・ソルスベリー。『第四層』でほぼ唯一の俺の知り合いにして、違法の情報屋だ。
 こいつの「本体」がどこに住んでいるのか、普段は何をしているのか、そもそも女なのか男なのか、そういったことはまったくわからないし、ついでに言うと興味がない。あるのはこの層についてならばおそらく他の誰より情報の精度が高いということと、その情報と引き替えにしなければならない料金が法外ではないということ、そのふたつだけ。
 十分だ。それ以外のことはどうでもいい。
「対人恐怖症なのさ。まだ直っていないんだ……ああ、キミは大丈夫! 大丈夫なんだけど……ああ、その何と言っていいか――そう、でもボクのいる場所はすこしばかり説明が面倒なんだ! 『時は金なり』! キミが教えてくれた言葉だ! そうだろ、ヤトウ?」
 ――聞きたくなくても、勝手に喋ってくれることだしな。
 長い髪をいくつもの小さな三つ編みにして頭から垂らした二十代の女が、舌足らずな男言葉でひたすらにかまびすしく喋るのはいつ見てもシュールな光景だった。俺は苦笑を浮かべ、端末の前にあぐらをかいて座りこむ。
「そうとも。それじゃあ早速『頼みがある』と切り出そうか……この男を捜してる」
 俺はフレスノの写真を、端末についているセンサーカメラの前に差し出した。
「フレスノ・マッジという名前以外は、この写真くらいのもんだ。今『第四層』にいるはずなんだが……」
 イシャムはにこにこと済ました顔で聞いてから、即答した。
「……過去、現在ともに直接該当する人物はゼロ。現存情報から類推はできるけど、情報量が足りないからおそろしい数になるよ」
 そんなとこだろう。IDを持ってないフレスノが、そうそうおおっぴらに『第四層』の街中をうろつけるはずもない。イシャムはオンラインディスペンサーにある防犯カメラの画像ファイルすら閲覧できるほどのケーブルクラッカーだが、それだけフレスノが慎重にやっているという証拠だ。
「数年前にゲイラード・ファミリーのシマに現れた。『上』に逃げたことからして、こっちの人間だと思ったんだが」
 それにバックスたちが身元を調べて、何も出てこなかった。
 もとから『第五層』の人間だったとしたら、それはあり得ない。結局は狭いひとつの層の中の話なのだ。よしんば他のファミリーの人間だとしても、上に逃げる必要がどこにある?
「だとしたら、たぶん骨格レベルから整形してるんだろうね。立ち入ったことは話せるのかい、ヤトウ?」
 見つからないのなら是非もない。
 俺は他に知ってるだけの事件のあらましを、イシャムに話して聞かせた。と言っても知っていることなどもうほとんどない。フレスノとハロードが組んで密売をやらかしたこと、リフトを使用してここに逃走していること、そしてその際一緒に持ち逃げした――。
「――B707、だって!?」イシャムにとっても、それだけは驚きだったらしい。「それも十本! 『第四層』の常駐治安軍ともやりあえる量の怪物たちが作れるよ! そいつが多層規模のテロリストじゃないってんなら、悪の秘密結社くらいしか思いつかない……待てよ!?」
 モニターにアップになってわめくイシャムの顔が、ふと何かをひらめいたものに変わった。どうやらスロットはリーチがかかったらしい。ジャック・ポットを期待する賭け屋よろしく、俺もぐっと顔を近づけた。
「そうか! それで……わかったよ、ヤトウ!!」
「話してくれ、イシャム。いくらでも払う」
 イシャムを映す端末から、ペーパーが一枚プリントアウトされてきた。今日のケーブルニュースのコピー画像らしい。ふたつの記事は大きなものと小さなもので、
「殺人事件?」
「ひとりは企業勤めの四〇歳、もうひとりは定年間近で保護区域に行くことが決定していた四九歳のジイ様。どっちもものすごい怪力でバラバラに引きちぎられてたって話で、治安軍捜査班は非合法サイボーグの仕業じゃないかって思ってるみたいだけど――」
 イシャムが言いたいことは、俺にもすぐに理解できた。
「タイミングがよすぎる。『スワップ』を使った人間なら、相手がサイボーグだとしても同じことをやってのけるだろうな」
 だとすると、これはフレスノかその関係者の仕業ということになる。
「ふたりの被害者に共通点はあるのか?」
「……ちょっと待って」
 イシャムも同じ疑問にとらわれていたのか、待たされた時間は短かった。
 二度目にプリントアウトされたプラスチック・ペーパーにびっしりと書かれていたのは、ふたりとその勤め先の履歴だった。被害者はふたりとも『パーキンス・バイオテック』という企業の人間だったらしい。
「パーキンス・バイオテックって言えば、ちょっと前まで一部上場でずいぶん羽振りがよかったはずだけど……今はそれほどじゃないみたいだね」
 イシャムの説明を聞きながら、俺は履歴を注意深く読み進める。
 ひとりは人事、もうひとりは経理部。ただしふたりとも揃って二年前、『渉外部』という部署から現在の部署に異動となっていた。それに従って年棒も下降している。
「……イシャム、この企業の羽振りが悪くなったのはいつごろからだ?」
 試しに聞いてみると、思った通りの答えが返ってきた。
「おおよそ二年前、一昨年の二月からだよ。それまで安定して伸びていた年間利益が一転して急落、取引先も激減してる」
 奇妙なまでに一致した符号だった。
 ひとつの企業が落ち目になり始めた。そこに勤めていたふたりが異動になっている、すなわち『渉外部』という部署がなくなったのが、その一ヶ月前。
 そしてフレスノが『第五層』に現れたのも、数年前。それはひょっとしたら、二年前ではなかったのか?
 治安軍はまだ、このつながりには気づいているまい。フレスノが上手く立ち回ってくれさえすれば、まだまだ時間は稼げるはずだった。
「イシャム、この会社を調べてくれ。他に『渉外部』から異動になった人間は? その時のこの部署のボスは? 打ち切られた取引先の名前は? その中で一番大きなものは?」
「オーケー、ヤトウ。スティック一本分の時間をいただくよ」
 イシャムが映るモニタの下部に砂時計がインポーズされる。さらさらと実際に落ちていく画像を見るとはなしに見ながら、イシャムの言葉に甘えてスティックを取りだした。
 ――まずはこの企業とフレスノの関係だ。そうすればおのずと奴の目的も見えてくる……。
 パーキンス・バイオテックを徹底的に調べあげる。二年前に何が起こったのか掘り下げ、フレスノとの接点を見つけるのだ。
 ありがちなところで過去の清算か、それとも他企業の手の込んだ工作か――どちらにしてもそれがわかれば、治安軍とフレスノ両者の先手を取れる。
 後はその時次第だが、ともかくも見通しが立った。俺はゆっくりとスティックの煙を吸い込みながら、端末の画面に再び注意を向けて――。
「――ヤトウ!」
 悲鳴のようなイシャムの声よりも、端末の画面に映し出されたものに仰天した。
 今まさに落ちきろうとしていた砂時計の砂はフィルムの逆回転のように上に戻りだし、実際の映像と寸分変わらなかったイシャムの顔が見る間に多面化してバラバラの三角ピースに分解される。一秒とかからず再構成されたのは陽気なネグロイドの女ではなく、虚ろな眼窩に緑色の蛇を住まわせた髑髏だった。
「……馬鹿な! そんな馬鹿な! たかが『第四層』のセキュリティが、こんな緻密な……!」
 イシャムの声は、野太い男のそれになっていた。もしかしたらそれがイシャムの本当の声なのかもしれなかったが、自分の顔を両手で押さえてモニタの中で悶えているのは灰色の髑髏だ。頸骨には眼窩から這い出た蛇が幾重にもまきつき、実際に首を締め上げてるようにも見える。
「……にクラッキングされた! 恐ろしく緻密な……あり得ない……トウ、そこから逃げ……」
 その緑色の鎌首が、ひょいと持ち上がった。
 俺は確かに、その瞬間感じた――今この蛇は、「俺を見た」のだ!
 その光景とイシャムの悲鳴が導き出すものにぞっとして、俺は急いで立ち上がる。
「……が間に合わない! 突破され……ファイアパスを突っ込まれた……ヒーズビル三階……番端末……」
 最後のメッセージに俺が振り返った瞬間、突如モニタに拳大の穴があいた。
 その穴から高速で侵入した「何か」はモニタの背面を根こそぎ吹っ飛ばしながら貫通し、白地の壁に食い込んだ。続けて数発、この狭い部屋ですべて当たらなかったのは奇跡みたいなものだった。
 壁の破壊孔と轟くような独特の発射音が、その凶器の正体を知らせてくれる――十番ゲージ、対サイボーグ用スラッグ弾。装甲目標にも有効な重比重弾頭を使用した特殊兵器で、装甲されたサイボーグにも高い効果を発揮する数少ない携行武器のひとつだった。
 動転しなかった自分を誉めてやりたい。絶対だと思っていた情報屋が逆クラッキングを喰らい、一分も経たずに問答無用で銃撃された。
 しかもここで、使われるはずのない武器で!
 反射的に壁に張り付き、俺は「トリガーを引いて」いた。
 どっと視界が広がる。両脇に広がる。際限なく広がる。
 脳の枷がはずれる。感覚が肥大する。五つすべての感覚がぐしゃぐしゃと混ざり合い、瞬時にひとつにまとまり、ふたたび拡散する。
 思考が加速する。どんどん加速していく思考は脳の命令を追い越し、神経伝達の速度を追い越し、反射反応の速度をも追い越そうとする。
 感覚が無限に近く拡散していくのを感じる。
 思考が無限に近く加速していくのを感じる。
 肉体の変性が完全に終わると同時に――。

 感覚の拡大と思考の速度が、固定される。

 リミッター解除第三レベル/聴覚視覚情報統合/感覚野直結/索敵。
 身体損傷度確認/損傷度微弱/痛覚七〇%選択遮断/設定後触覚情報再統合。

 ――「見え」た。扉の両脇に張り付いたふたり。さらに耳をすませる――

 間接部収縮駆動音確認/超音波によるバイパス通信傍受。

 ――戦闘サイボーグ。思考ダイレクトリンク式の軍用だ――

 全筋組織活性化/心肺機能活性化/骨格強度増大/活動準備完了。
 ポンプアクション音確認/予測/敵第二射/発射まで〇・三秒。

 ――撃たれる前に飛び出す――

 跳躍。打撃/正面扉。
 破壊完了/着地成功/各部バランス異常なし/視覚索敵/予測情報確認/確定。

 ――『レギオンK6』型。神経加速できないはず。一撃加えてそのまま逃げきれる――

 右目標頭部/脚部攻撃/頭部防御/脚部命中。目標中破。
 側面移動/目標腹部攻撃/腹部命中。

 ――吹っ飛んで壁にめり込んだ。出口は――

 出口視覚確認/障害なし/敵銃撃の回避行動/同時に移動。

 ――当てるな!――

 跳躍/跳躍/跳躍/跳躍/跳躍。

☆           ☆


 入り組んだ路地の壁に背をあずけて、俺は止めていた息を吐き出した。
「……がっ、……っ、がは、くぁあっ……!」
 むさぼるように酸素を呼吸する。肉体が過負荷に悲鳴を上げ、凄まじい勢いで加速していた思考は瞬く間に鈍化していくのが感じられる。
 呼吸がひとまず整ってから俺がしたことは、身を折って嘔吐することだった。
 朝から何も胃に入れてはいなかったが、どろりとした胃液がぼたぼたとアスファルトにこぼれ落ちていく。全身の筋肉を痙攣させつつ、胃がひっくり返るような苦痛を数分近く味わって、ようやく俺は地面にへたり込むことを許可された。
「……っ、……は、っ……く、そ……」
 ぼんやりとした頭でも、悪態だけは出た。ミスをしたイシャムと、訳の分からない襲撃者と、あとは自分自身にだった。
 そうだ。わけがわからない。
 イシャムがミスをしたことが、まず信じられない。あいつはこの『第四層』ではトップクラスのケーブルクラッカーで、おまけにあんな言動とは裏腹におそろしく慎重派だ。そんなやつが落ち目の中小企業のデータ閲覧程度で、なぜ失敗したのか? 逆に攻性プログラムを突っ込まれるほどの経験は、奴自身初めてだったかもしれない。
 それにあのふたりの襲撃者――見た目は普通の人間だったが、偽装型の軍用フルボーグだった。五年前に実用化された思考統一システムを組み込んだ最新型『レギオンK6』。治安軍の切り札的存在を二機も導入してきただけにとどまらず、屋内戦では使用を禁止されている対サイボーグ兵装まで持ち出してきていた。クラッカーひとりを逮捕するのに過剰装備どころじゃすまない。連中が異常に手際がよすぎたのも気にかかる。
 最後に、自分の身体だ。
 バックファイアが強烈になっている。以前にやったときよりもずっとだ。消化器系統の拒否反応は、去年までは確実になかったというのに。
 右手首と肘、あとは足の付け根の部分に鈍痛があった。とてつもない倦怠感の中、何とか右手を持ち上げて確認する――折れてはいない。まだ骨格と皮膚の強度賦活はうまくいっているようだが、これも以前は痛みなどなかった。あってもすぐになくなった。
 指を動かしてみる。動く。ひどく震えてはいるが。
 当然、前は震えなかった。
 鈍磨した思考が、ふと――。

 ――調整を受けなければ――。

 そんなことを考えた。

「……っ!」
 がつん、と後頭部を壁に打ち付けた。もう一度ぶつけた。もう一度。もう一度。痛みが重なっていくにつれ思考は鮮明になり、下らない強迫観念はなりをひそめていった。
 だが強い睡魔が襲ってきて、俺は否が応にも立ち上がらなければならなくなる。ここもいつ連中に見つけられるかわからない。もっと安全なところに移動しなければ。
 それに今、眠ったら。
「くそっ……」
 ぶつけた後頭部が熱を持ちはじめる。首筋をぬるりとしたものが滑り落ちていく感覚は、まだリアルに感じられる。
「……くそっ……! くそっ……畜生っ……!」
 睡魔と戦い、がんがんと頭を苛む痛みにすがるようにして、俺はよろよろと歩き出す。
 眠ってしまったら、二度と目覚めない気がしたからだった。


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中編   了


前編 後編をお楽しみに