| 小説目次 |
| 『昏い夜明けの街で』 こあとる著 <MAIL> |
序、
まぶたの上から差し込む光で、目が覚めた。
目覚めはいつものように、あまりよくはない。思考にざらざらするノイズが混じって、それがシナプスをやすりがけていくのが異常なまでにリアルに伝わってくる。
頭をひとつ振って、無理矢理に上体を起こした。
窓の外は『昼』であるらしかった。ぼんやりとした薄明があたりを包み、街路を歩くいくつかの人影をおぼろに照らしだしている。
時計を探して、俺は手探りで枕元のキャビネットの上をひっかきまわした。液晶の半分割れた端末カードを探し当てるまで、一分弱。床に落ちたグラスの中身は昨日のうちに干しておいたらしく、乾いた破砕音が響いただけだった。
今日は運がいい。
複合情報表示画面のついた端末カード――五年前はそれなりに新しいモデルだった――に随時表示させている時計は、正午を差していた。
日付を確認してすこしばかり憂鬱になる。丸二日間も眠っていたようだ。
このごろ、とみに長くなる。
ひょっとしたらこのままずっと目が覚めないのではないかと思ったことも一度や二度ではないが、最近は憂鬱にこそなれ恐ろしくはなくなっていた。当然達観などというものではなく、ただの慣れだ。
端末カードを、キャビネットから振り落とされずに済んだ情報端末のスリットにすべり落とす。使用者確認を終えてディスプレイに電源が入った端末に、俺はぼんやりとしたまま命令した。
「命令……口座残高チェック。新規振り込み確認」
「残高チェック。新規振り込みありません」
低い合成音で即答された。
これは効いた。少なくとも省電政策のあおりをくらって半分以下にまで光量を落とされている『太陽』の光よりは、ずっとだ。
「……くそったれめ」
毒づいた時には目はすっかり覚めていたが、声には我ながら情けないほど覇気がない。結局のところ仕事を終えた後に味わうはずだった安息日は、二日の惰眠をはさんで先延べになったということがわかっただけだった。
「指示が不明です。再入力を――」
職務に熱心な端末に無視を決め込んで、俺はベッドから降りた。よれたシャツとスラックスの上からジャケットを羽織る。頭を振って倦怠感を追い払うと、扉を開けて部屋を出た。
薄明の外。
「天」から降り注ぐ薄暗い昼の日差しは、「まがいもの」で――。
だが、誰も「本物」なんて見たことはない。
もちろん、この俺も。
他の街がどうなったかは、もう誰も覚えていない。
あるいは、もう思い出そうとはしないだけかもしれない。たとえ知っている人間がいたとしても俺はそいつに会ったこともないし、好んで話したがるやつにも会った覚えはない。
ただひとつ確実なのは、他はさておき、この街は今も機能しているということだ。
地下二〇〇メートルに大規模人数収容施設を造る、などというふざけた発想をしたやつは、最初さぞかし馬鹿にされたことだろう。当所計画の詳細までは知るよしもないが、見つかった資料によるとそれは外装だけで二十年の月日を必要とした。
穴。とにかく大きな穴だ。
ジオフロントというのも当てはまらないような、小さな街がひとつすっぽりと入るような数十平方キロの地下空間、それを六層配置した、多層構造世界。
ジオ・シタデル『ドーン』――何から何を守る砦だったのか。
最初の「入植」は、今から半世紀以上も前のことらしい。何のことは無い、あるよんどころない事情によって地上にはもう人が住めなくなったと誰かが判断したからだ。今の人間の判断も同じらしく、二十回以上にわたって派遣された地上への調査団が戻ってきたためしはない。
そうこうしている間に、すでに世代は四つ目に入りつつある。人口は一千万近くにまで膨れあがり、「街」の外へ出る算段はいまだつかない。
太陽の光がなくても人間は生きられる。ただ同然の安価で配布されるビタミン・タブレットによって。
地上が放射能と局所電磁嵐渦巻く地獄でも人間は生きられる。地下二〇〇メートルの大地の壁と完全循環システムによって。
完全に閉鎖された空間内でも人間は生きられる。タブレットに混入されている精神安定成分と人工遺伝子撹乱技術によって。
どんな状況下であったとしても、人間は生きられる。
少しづつ、歪んでいくにせよ。
一、
『第五層』でもっとも大きなファミリーと言えば?
子供でもこう答える。バックス・ゲイラードのそれさ、と。
そんなバックスが抱えるビルのひとつで俺を待っていたのは、しかしながらバックス自身ではなくセルゲイだった。
奴の片腕を名乗っているファミリーの幹部といえば聞こえはいいだろうが、いかんせんこいつの取り柄は頭脳ではなく、そのずっと下に続いているクローム製の骨格と人工筋肉の方だ。バックスの代わりにバックスが気に入らない奴の腕をずっとへし折りつづけてきたが、それこそが幹部の資質だといまだに信じて疑っていないらしい。
「何度も言わせんなよ、ヤトー。――オレが聞いてねえということは、つまり、ボスは払うつもりはねえということだろうさ」
応接室のソファにふんぞり返ってオレを睨みつけるその顔は、すでに大半が作り物に置き変わっているにもかかわらず、傲慢さと優越感を浮き出させていた。人間の品性ってやつはクロームの頭蓋骨で隠しとおせるものではないということの証明だが、ありがたくもない。
俺は先刻からのうんざりした口調を変えることなく、言った。
「……それはこっちのセリフなんだよ、セルゲイ。何度もいうようだが、俺はきちんと言われたとおりの仕事をこなした。それに対して代価が支払われるのは当然だ、と言ってるんだ」
「――ハ! 冗談はよせよ、ヤトー?」穏やかに筋道を説いては見たが、セルゲイは一蹴した。「オマエが連れ戻したのはボスの女じゃねえ。ボスの女『だったもの』じゃねえか。ヤク漬けにされて腰を振ることしかできなくなった肉のカタマリに、二千もの金をどうして払う必要があるってんだ、え?」
びた一文、というわけだ。
紋きり調にもほどがある。おまけに名前の発音がなっていないときた。
「依頼内容は『五体満足で連れ戻せ』だ。違反はしてない。
ヤク漬けの件だったら、あの女は俺が依頼を受けた時にはすでにあの状態だった。誘拐されてから俺のところに依頼が来るまで一週間近く間が空いたのは、お前さんがあの女をさらったジャンキーどもを見つけだせなかったってことだろう? どちらかって言えば責任の所在は――」
「利いた風な理屈をこねるな、薄汚え黄色の分際で!」
セルゲイが怒りに目をぎらつかせ、ソファから半立ちになって俺の説明をさえぎる。声帯はまだ生身だったはずだが、まるで耳障りな金属音だ。
「……俺の肌の色が――エイジアン・モンゴロイドだってことがお気に召さないっていうのなら謝るから、お前さんも急いでそのツラに白ペンキでも塗ったくってきたらどうだ、セルゲイ?」
進展どころか後退気味の交渉にいらついていたのは事実だったにせよ、この皮肉はまずかった。セルゲイの『擬顔』をおおっていたスキンコートは、荒事の連続で何年も前にはがれてしまっている。
それでも、奴のちっぽけな理性に限界がきたのは表情でわかった。
セルゲイは言葉にならないうめきをあげて、テーブルを蹴り飛ばして突進してきた。両手をのばして俺につかみかかろうとする。最下層の鉱窟囚になったとき人工骨格に全身を置き換えられたセルゲイの握力は、公称データで最高五〇〇キロ以上だ。俺のカルシウム不足の骨などクラッカーのように握りつぶしてしまえるだろう。
つかまえることができれば、の話だが。
ひょい、とソファーから腰を上げ、のしかかってくるセルゲイの脇をすり抜けた。たたらをふんでソファーに突っ込み、派手に転倒したセルゲイのこめかみに、ポケットから取り出した銃を押し付ける。
銃といっても、普通のそれとは少し違う。銃身も遊底もシリンダーも、グリップすらついていない長方形形状の『銃』だ。ハンディレコーダーか使い捨てカメラだと思われても文句の言えない形と大きさしかないが、威力は並みの銃の比ではない。
『短針銃』――俗にいうニードルガン。長さ数センチ、太さは髪の毛以下のタングステン針を、圧搾ガスの力で一度に千本以上射出する。たかが針と思うなかれ、肉はおろか金属さえも、当たった箇所はボロくずのように粉砕されてしまう。
「人の話はおだやかに聞くべきだと思うがね。その頭を吹っ飛ばしたら、代わりの脳味噌は誰につけてもらうんだ? 動くな」
「こっ、このくそイエロー……殺し――殺して――」
セルゲイは俺が自分を殺せる対サイボーグ用の特殊兵装を持っていることをすっかり忘れていたのだろう。今思い出させてやったわけだ。恐怖に身を震わせるサイボーグなんてものは、そうそう見られる代物じゃない。
しかし事態は好転どころか、今だれかが部屋に入ってきたらなんて釈明すればいいのか? まったくこの度し難い馬鹿ときたら、若い者のひとりすら部屋につれてきていないのだ。
こんな状態が長々つづいてたら間抜けなだけだったが、幸いすぐに救いの手がさしのべられた。
「やめろ、ヤトウ。そいつを殺しても誰の得にもならん」
扉をあけて入ってきたのは、このビルにいる人間の中でもっとも話の分かる人間だった。
すなわちファミリーのボスであり、俺とはちょっとした取り引き相手兼腐れ縁であるところのバックス――バックス・ゲイラード本人だ。
「なるさ、バックス。俺に感謝してくれそうな人間の顔が、すくなくとも二桁は思い出せる……もちろんあんたを筆頭にしてな」
「そのくらいにしといてくれ、ヤトウ。
セルゲイは貴重な人材だ――たとえ敵うはずもない相手にすら、見境なく突っ込んでいこうとする脳味噌しかなくてもだ」
俺より上背のあるすらりとした長身にコートをひっかけ、バックスは驚きもせずに薄く笑ってみせる。どうやら今し方来たところらしい。
「そう思うなら、出費をけちるのも考え物さ」
俺はセルゲイの頭に当てた短針銃をポケットにしまい、ついでに奴の頭をこんこんとノックしてみせた。セルゲイは怒りに歯をきしらせながらも、さすがに手を出そうとはしない。よく飼い馴らされている証拠だ。
この街の厄介者たちをまとめている連中のなかでは、バックスはもっとも優秀でそつがなく――ついでに若いといえるだろう。どのみち平均寿命が六〇を割り込んだ今となっては、バックスも立派な中年といえるかもしれないが。
バックスは如才ない笑みを浮かべるとセルゲイを退出させ、「それに関しては、こっちの手落ちだった」と認めた。
部下の前では、弱みを見せてはいけない。
バックスの世界では基本ルールなのは理解できるにしても、今のセリフは確かに部下には聞かせられないだろう。一方で俺の顔もきちんと立てる。俺の虫の居所は、正直なところだいぶ納まってきていた。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、わずかにバックスの口調が言い訳がましくなる。
「……別なごたごたに忙殺されていた。私もここ数日はほとんど寝ていない」
そりゃご愁傷さまだ。さっきまでセルゲイが座っていたソファに深々と身を沈めたバックスの顔は、確かにひどく疲れているように見える。
――情状酌量の余地あり、ってとこか。
苦笑しながらそう考えた。
だが、それと払いの件は別だ。
「そちらの事情は――」
「金は、すぐにでも振り込もう……それと、改めて依頼をしたい」
俺の言葉をさえぎったバックスのセリフには、いつの間にか俺に勝るとも劣らない渋面と憂鬱がこびりついていた。
直感的に理解する。
厄介ごとだ。それもとびきりのやつだ。
バックスを忙殺させた件と関連があり、バックスやその部下たち、とりわけセルゲイあたりには絶対につとまらない仕事……そんなところだろう。
「済まないが、断る。金は今日中に振り込んでくれるとありがたい――達者でな」
俺は即答して踵を返そうとした。こんな暴力の巣からは逃げるに限る。
「特殊な仕事だが、引き受けてほしい。お前にしかできん」
背中からバックスの声が追ってきた。相変わらず疲れた声で淡々と、引き止めようという意図もなさそうに思えた。
「……前金で五千払おう。成功報酬は倍だ」
不意に自分の足がその場に張り付いてしまったのを、俺は不思議に思った。応接室のドアの正面だ。
なにか忘れ物でもしただろうか。
自問しているうちにくるりと振り返り、俺は自分の意志に反してこう言っていた。
「経費は別だ」
「もちろん」
バックスは振り向いた俺にやんわりと笑ってみせた。得たりと言わんばかりの表情で。
ときおり自分がどうしようもなく嫌になるときがある。自己嫌悪というやつだ。今日のは特にひどかった。
「……話を聞かせてくれ」
所詮こんなものだと自分に言い聞かせて、俺は開きかけたドアをまた閉じた。
俺にとっての仕事とは、おおよそふたつに分類される。
ひとつは「守る」ことだ。用心棒に護衛、あとは依頼主のメンツやらこの街のルールやら――そういったものを守るか、守らせるための仕事。
もうひとつは「奪う」こと。殺しに強奪、奪還――相手からなにかを、時には命そのものさえ奪う、屑みたいな役割。
気の滅入ることには、俺の住む『第五層』で俺に来る依頼は大抵そのふたつが両立しているということだ。ここに限ったことではないのかもしれないが、残念ながら他のケースを見たことがない。
もちろんバックスの持ち掛けてくる依頼も例外じゃなかった。
「そもそも今回の厄介ごとは――お前もかかわっている件だ」
俺が勝手にいれた二人分のコーヒーを飲みながら、バックスはやおらそんなことを口にする。
「……何だって?」
「キーニャがキめられていたヤクの出所を調べていた」
バックスのヒモであるキーニャが俺に見つけられたのが、今から二日前。バックスの依頼で、俺が探し出した。
キーニャはストリートのガキども――バックスの報復も恐れないくらい脳味噌にヤクをつめこんだ――に拉致され、そいつらの「とっておき」をたっぷり喰らった状態で見つかった。
理性と思考能力を根こそぎ奪い取られ、快楽だけを追求するようにされたキーニャの顔は、白痴めいた笑みを浮かべるだけのものに作り替えられてしまった。バックスが惚れ込んだユーモアと皮肉にあふれた笑みは、もう戻ってはこないということだ。
「あのヤクは」俺もコーヒーを一口すすって応じる。「ケンカとメシの種を探して終始うろついているようなガキどもに入手できるほど安っぽいヤクじゃないはずだ。忠告してやったはずだぞ」
キーニャに使われたヤクが最下層の鉱窟囚ですら使わないような強烈な代物だということは、俺にはすぐにわかった。
まず間違いなく、上の層の専門のラボで造られたものだった。ストリートの調合屋に造れるものじゃない。
背後にそれを密輸しさばいた奴がいる、と俺は見ていた。バックスの許可を得ずに、この界隈にヤクを運びこんだ奴だ。キーニャを手渡すときに、そのことはバックスに告げてある。
バックスはうなずいて、
「お前の言葉を信用したからこそ、私自身が出張ったんだ。私の仕切る界隈にそんな物騒なものを流して欲しくはないからだ」
「ボスみずから陣頭指揮とは、誉められたことじゃないかもしれんがね」
規模の大きなファミリーをかかえるバックスにはきつい皮肉だが、俺は本気で言っているわけではなかった。
結構なことだ。人間の屑どもを仕切らねばならない奴が、救いようのない屑の中の屑である必要性はどこにもない。
バックスからの仕事を断りにくい理由は、案外そのへんかもしれない――。
「――それで、出所は分かったのか」
「ハロードだ。あいつが手に入れていた……『第四層』からな」
バックスと取り引きのあった『リフト』業者の名前が出てきたのは、意外じゃなかった。
意外だったのはハロードだった、ということだ。
「あの臆病なデブのハロードがか?」
「あの臆病なデブのハロードがだ」
不機嫌そうにバックスが繰り返す。
バックスにとっても意外だったのだろう。俺にもにわかには信じ難い。
ハロードは俺の知る限り――信じがたいことではあるが――十年以上も、密輸には手を染めてこなかった。おかげでリフトを個人でもっているにもかかわらず、ハロードはいまだに貧乏なままだった。
だからこそ、と言うべきなのか。バックスが信用していたリフト業者は何人かいたが、信頼をよせていたのはハロードひとりだった。
ハロードが自分の意志で非合法品を密輸するとは考えにくかった。
つまり――。
「……つるんでた奴がいるか」
「話が早くて助かる」
バックスが一葉の写真を、テーブル越しに放ってよこす。
どこかのビデオ映像から無理矢理落として解像度を上げたものなのだろう写真には、見たことのない男の全身像が写っていた。
四〇過ぎほどの、あまり冴えない禿げあがった中年男だ。陰気な目でこちらを睨んでいる。『第五層』にいる人間の浮かべる表情としては珍しくないが、俺が記憶している『第五層』のヤミ業者とは結びつかなかった。
首をひねった俺に、バックスが説明してくれる。
「フレスノ・マッジ。名前以外は、数年前にふらりとこの界隈に現れたらしいことしかわからなかった。
……ただ最近、ハロードと頻繁に会っていたのをウィルバーが見ている」
ハロードのところで下働きをしていたガキだ。
「今は――」
「一昨日から姿を消している」
「ハロードは何と言ってるんだ」
口にしてから、バックスの表情に気づく。
「……何も」バックスの口調は淡々としていた。「もう聞く口もない」
俺にとっても顔なじみだった愛敬のある膨れツラの死は、さしたる感慨をもたらしてはくれなかった。
これでウィルバー坊やも失業か、と思う。この街では珍しくもない。
知らずにため息が出た。せめてもだ。
「……その後の、フレスノとかいうヤツの足取りは?」
「ハロードの『リフト』が、一昨日上に行ったまま戻ってきていないそうだ。搬入リストにあったいくつかのコンテナも紛失している」
「――ちょっと待てバックス」
なるほどハロードを殺したのはフレスノに間違いないだろう。密輸したドラッグをストリートの連中にばらまいたのも、ハロードの『リフト』を使っていくつかのブツもろとも逃亡したのも、フレスノに違いない。
だが、問題はそんなことじゃない。
「『上に』と言ったか、バックス? 『戻ってきていない』と言ったか?」
ひどく不機嫌になっているのが自分でもわかった。
「言ったはずだ、ヤトウ。お前にしかできん」
「残念だったな。一万五千はあきらめることにする――お前もあきらめろ」
俺は切り口上でそれだけ告げると、ソファから立ち上がった。
バックスの声は切実だったが、知ったことか。
「待ってくれ、ヤトウ」
バックスがソファから腰を浮かせ、手を伸ばす。空を切った。
「ヤトウ、頼む。キーニャが死んだ。ハロードもだ」
「そして俺はくそったれな『上』に人殺しに出発、か。真っ平だ」
ドアノブを掴もうとした手を、バックスが押さえた。
「殺せとは言わん。だが制裁は――」
「真っ平だと言ったぞ、バックス!」
視線がぶつかった。
バックスの目が怒りに燃えていたら、俺はこいつの手を砕いてでもここから出て行こうとしただろう。ギャングの仁義だろうがここのルールだろうが、俺が従う必要などない。
ただその時のバックスの目は、悲嘆に沈んでいた。
悪戯っぽく微笑むキーニャはもういない。ハロードが汗を拭いつつ照れ笑いを浮かべることももうない。身寄りのないウィルバー坊やに残された道は、ギャングか浮浪者くらいのものだろう。
ハロードが保有していた『リフト』は取りつぶされるだろう。まっとうな値で取り引きされていた食品加工用蛋白質や各種薬品、生活必需品――すべてハロードが『上』から仕入れていたものだ――の値段は高沸せざるを得まい。バックスの支持は下がり、ストリートの感染症患者と餓死者の数がほんの少しだけ増えるだろう。
それだけのことだ。俺には関係ない。
なのに視線をそらしたのは、結局俺だった。
「IDが抹消されている可能性だってあるんだ。――期待はしないでもらおう」
言い訳じみた台詞だった。
「済まん」
バックスの手がそっと離れるのを感じる。ため息をつきそうになるのをこらえるのは一苦労だった。
これからの苦労を考えると、可愛いものかもしれないが。
俺は無言で部屋から出た。
――ビジネスだ。割り切るに限る。
バックスの視線がずっと俺に向けられているのを感じながら、俺はその言葉を繰り返し頭の中で反芻しつづけた。
効果がいまいちだったことに、心底うんざりした。
バックスのビルを出た俺は、そのまま通りを抜けて街中に向かった。商業区を抜けたさらにその先、エリアの中心にあたる部分に『リフト』のステーションが配置されている。
『リフト』はこの『ドーン』における交通・運送機関のひとつだ。街には主要な移動手段として車があるが、車ではひとつの層の中を移動することしかできない。多層構造である『ドーン』においては層と層を結ぶ縦方向の移動手段が不可欠であり、それがこの『リフト』というわけだ。
俺が向かったここは『メインリフト』と呼ばれる。
巨大な中央シャフトに沿って上下する列車のようなものだと思えばいい。運行は公営のステーションによって完全管理されている。もっとも一部特別に許可を得た業者は自分専用の『リフト』を――すなわち上層と下層を結ぶ小型シャフトそのものを持つことが許されていた。この第五層にも九つの私有シャフトが存在し、公的機関が取り扱っている品物以外の大部分はそこを使って運ばれてくる。
――もっとも、これで八つに減ったわけだ――。
とても上機嫌とはいかない気分で、俺は街に目を戻した。
いたるところに煙突よろしく細いシャフトが伸びているのが見て取れた。やや西寄りに立っている古ぼけたシャフトがハロードのものだ。シャフトの権利はこの『第五層』では一代限りなので、やがて取り壊されることになるのだろう。
ステーションに入ると、そこそこ人の出入りが見て取れた。おそらく全員が業者なのだろう。わざわざ『第五層』にまでメインリフトを使って降りてくるような物好きは卸業者か治安軍くらいのものだし、それ以外に昇っていく人間がいるはずもない。
『第五層』で生まれた人間は、生涯『上』に上がることはない。
一層から四層までの人間には、IDが発行される。ここのIDはパスポート兼保険証のようなもので、その人間が『ドーン』の人間であることを証明する絶対的な手段となる。行政エリアである『第一層』に行くのは面倒な手続きが必要だが、それ以外の場所は比較的自由に――下層の人間には、いくらか不利な条件がついてまわるが――『リフト』で行き来できる。
そう。IDがあれば。
『第五層』の人間は、IDを持たない。というより持てない。
はじめから五層に生まれた人間はもちろん、「何らかの理由」でIDを剥奪された人間などもこれにあたる。一度剥奪されたIDは特例がない限りほぼ戻ってくることはなく、IDがなければメインリフトを使うこともできない。IDを持たないことが治安軍の憲兵にでも知れようものなら、問答無用で殺されたって文句は言えない。
IDを失った者は、『第五層』に留まらざるを得なくなる。死ぬまで。
いわば掃きだめのようなものだ。
タブレットの支給さえ滞りがちな『第五層』では、犯罪に巻き込まれて死亡する前に感染症にかかって死ぬことだってある。ビタミン不足でクル病になっておっ死ぬガキはまだいい方で、一日の食料を確保するために生まれて五歳にならないうちに母親に心臓をえぐりだされた――新鮮な臓器なら立派に金になる――ガキだっている。ただでさえ不足気味の電力供給はここ数年でさらに減り、『太陽』の代替品である高架照明と循環フィルターは稼働率が五割を切りかけている。
薄明と澱んだ空気が日常になっている、掃きだめの街。
そこにわだかまってるゴミどもに、『上』は人権なんて必要ないと思っているらしい。それでも食料や物資を運ぶ『リフト』を毎日降ろしてきてくださるのは、寛大な慈悲に感謝せよ、というところだろうか。
くそ食らえだ。
「IDの提示をお願いします。携帯端末による情報送信か、もしくは――」
入口に陣取っている識別ゲートのセンサーアイに、端末カードを向ける。仕事のことも一瞬忘れて、抹消されていてくれればと願った。
「確認いたしました、ムネミツ・ヤトウ様。
ゲート正面の案内板に従って乗車ホームへお進みください」
返ってきた合成音は、無情だった。
「……ご丁寧に」
プラットホームに入ると、途端にまぶしい光が差しこんでくる。
いままで薄明の街中にいた人間にとっては、ホームを照らすライトの光量は痛いほどだ。メインリフトにまで省電政策を実施できるはずがないのは分かりきったことだったが、俺にはそれが俺個人へのあてつけのように思えてならなかった。
『第五層』生まれの人間が、ここまで来ることは不可能。
しかし、俺はここにいる。メインリフトに客ヅラして乗り、『上』に逃げた密売人を殺すために。
『上』の人間が、普通の光量の照明にまぶしさを感じることなどない。
しかし、俺は目を押さえる。この街の薄明に慣れた俺の目には、『上』の基準となっている「昼の光」は強すぎる。
上の街の人間のように振る舞うのはもう無理だ。上の街に戻る気もない。
だが、この街の人間にはできないことで金を稼いでもいる。
俺は――。
――お前は、掃きだめの屑どもとは違うのだ、『夜刀』。
不意にフラッシュバックした言葉に、俺は強く眉を寄せた。
「………黙れ」
返事をしてみた。陳腐な返事だと自分でも思った。
プラットホームに、『リフト』が降りてきた。
続く
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