「なあわかってくれよ。――どうせわかりゃしないんだろうが」。
■『ジャカロープ』の巻■
◆六月二十七日
フーバーにも薄々判っていた。本当は薄々では無かったし前々から判っていた。ずっと前、子供の頃、まだシニアに通い、ラグビー部で牛の膀胱モドキにワックスをかけさせられていた頃からずっと。
だから正確に言えば、判っていたのではない。諦めかけていたという方が正しい。一時間も前から必死になって説明を続けている目の前の人物が、事の本質を何一つとして解っていない(解ろうとしない)事実になかば諦めかけ、それでも諦めるわけにはいかなかった。――絶対に。
どうせわかりゃしない。だがわからせる必要がある。そう、必要があるんだ。こいつはわかっていないだろうが。
「いいかい父さん。金が入るんだ」フーバーは繰り返した。何度繰り返したかは覚えていなかった。「かろうじてディブロのバーで一晩スコッチをなめることが出来る、しわのよった10ドル札の話をしてるんじゃない。ブッカー・ノオのバーボン工房を丸ごと買い占められるだけの金、アーリー・タイムスで≪オールド・フェイスフル・ゲイザー≫が造れるだけの金なんだ。いいかい、もちろんアンタはそんな金には今まで一度もお目にかかったこともないだろうから想像もつかないだろうが――」
具体的な話というものがあるとすれば、酒だろうと思った。ここ十五年ばかり、自分の父親――アンドレ・モーリスがディブロの店に入り浸っていることも知っている。
それでも口にした途端、それが「具体的な喩え」というにはほど遠いことが判った。そもそもが「具体的」な金額などではないのだから当たり前だ。「そんな金には今まで一度も」、フーバー自身が「お目にかかったこともない」。そういう額だった。
――それをほんの少しでも、理解させればいい。欠片ほどでいいんだ。理解できれば、いくらこいつが何も解ろうとしない(解ろうという努力をしない)脳味噌の芯まで酒とニスの臭いにただれたクソったれでも納得せざるを得ない。そうさ、バートの叔父貴みたいに、舌を垂らして尻尾を振るんだ。ハァハァ、ハァハァってな。
自分たちのいる部屋を眺め回してそう考える。禿山の一角にぽつんと建っている廃屋さながらの汚らしい小屋、すっかり仕事をしなくなった父親の仕事場、ニスと燻した樹の臭いが我慢できないほどに立ちこめ、傾きかけた棚といわず床と言わず、いっかな売れていかない薄気味の悪い剥製たちがずらりと並べられている――裕福という言葉からはワイオミングとバージニア諸島くらいかけ離れた掘っ建て小屋だ。少しでもまともな精神を持つ人間が、死ぬまで此処に留まり続けていたいなどと考えることがあっていいはずがないのだ。
「なあ、」フーバーは口調をさらに柔らかくする。もはや懇願と言っていい調子で両手を広げる。芝居がかった仕草を見せるべき相手のひとりはずっと背中を向けていたが、フーバーにとってそれは自分に見せてやる意味もあったので構わなかった――狂人ギリギリの頑固さを誇る分からず屋の父親を説得しようと奮闘する自分、ああなんて涙ぐましいのだろう。なんて親思いなのだろう。
「なあ、もうずっと仕事だって注文がないんだろ。余裕がない生活なんてするもんじゃない。そうだろ?
それに仕事をやめろって言ってるんじゃないさ。なにもこの小屋に籠もってやらなきゃダメだってことじゃ無い……そうだよ、もっといい場所にスタジオを借りたっていい。どうせ道楽みたいな剥製作りだ、もっと――」
「――帰れ」
フーバーの言葉も思惑も、何もかもをちぎって捨てるようなそれが「返事」だと気付いたとき、およそ一時間以上に渡って独り延々と喋り続けてきた疲労がどっとフーバーを襲い直した。同時に怒りも。散々にひっかぶったどす黒いタール状の重油に、一斉に火がついたようなものだった。
『帰れ』。――帰れだって? 俺に言ったのか。ああそうだろうな。俺に言ったんだな。やっと返事がもらえたってわけだ。
オイルランプと大差ない明度の電球がつつましやかに照らす狭い部屋の中で、アンドレの背中を睨みつける。厚手のシャツと所々染みの付いたオーバーオールを着込んだ背中はフーバーにとって見慣れたものだった――この忌々しい卑劣漢、自分の息子の目を見て話すことすら出来ない臆病者、この小屋に籠もり、うつむいて背を向けることが最良の防御法だと四十年近くに渡って勘違いし続けている年老いたドブ鼠。こっちを向け。路地裏の反吐みたいに汚らしいアンタを取り囲んでいるありとあらゆるものを、この俺がまとめて蹴り払ってやる。
「――こんなチャンスは二度と来ねえんだ! 糞、わかってんのかアンタは!?
六十万ドルだ! このシケたチンケな禿山ひとつに六十万! うらぶれて飲んだくれたアル中の皺袋にゃ理解できねえってのか! 六十万! 六十万六十万六十万六十万!! おい聞いてんのか!?」
声を限りに怒鳴った。身振り手振りを添えて、唾を飛ばして、片足が折れかかった粗末な虫食いのサイドテーブルがひっくり返るくらいに床を踏みならして。
そしてもちろん聞いていないのだ。いや聞いているかもしれない、しかしわかっていない。
今自分が立っているこの山が、途方もない金になるというのがわかっていない。
アンドレの曾祖父、ウォーカー・モーリスは山師だった。
カリフォルニアに端を発し、フォーティ・ナイナーズたちが熱狂した黄金色の十九世紀後半――国家がそれを様々な形で歓迎し、後押ししていた頃、ウォーカーは此処ワイオミングに流れ着いた宿無しのひとりに過ぎなかった。
その頃制定された法律のひとつに、『ハードロック・マイニング法』というものがある。国が保有する場所のいかなるところへも個人の立ち入りを許可し、調査の結果金脈ありと判断された場合、鉱脈だけでなく付近一帯の森林などすべてが自由に処分することができるというこの奇天烈な法は、つまり国有地への進入、利用を個人の財産権として正統に保護していたということになる。
ウォーカーもこの法律を利用したひとりだったが、彼が目を付けたのは別のところだった。誰も彼もが金を探して血眼になっていた頃、この法律が金だけでなく、他の鉱物なども対象としていたことに早くから気が付いていたのだ。
ワイオミングにも金鉱はあり、ナイナーズたちがロリポップ・キャンディにたかる蟻の群のごとく押し寄せる一方、ウォーカーは既に調査が入り、金鉱がないと判断されたこの山を、国から二束三文で買い取った。そして他の鉱脈を探して掘り返し始めた。
当時の地質調査と言えば、ゴールドラッシュのフィーバー(熱病)も伴い、金鉱が「あるか」「ないか」を調べる程度の、簡単というのもはばかられる雑なものでしかなかった。国の正式な調査機関など当然存在せず、ちょっとした試掘で出た原石を山師や鉱夫が経験を頼りに判断する、という具合に。
ウォーカーは華やかな黄金色の夢を見ようとはしなかった。替わりに薄汚れた鉛色の夢を見た。そして夢は現実になった。
山は錫と銅、そして鉄の豊富な鉱窟だった。
十九世紀も終わりに近付いた頃には、ウォーカーはひとかどの鉱山主として成功を収めていた。それから鉱窟が閉鎖されるまでの四半世紀、ウォーカーの一族は近隣の町を見渡しても程の良い――それこそがウォーカーの求めていたものだった――栄華を味わえていたと言っていい。
ただ、アンドレが生まれる頃には鉱山は掘り尽くされていた。山は一族のものだったが、既にその内臓の何もかもを掻き出されたみすぼらしい禿山の剥製に過ぎなかった。
剥製の山――うまい喩えだ。古臭い剥製作りの掘っ建て小屋がある禿山には相応しいではないか。
アンドレの父親がどういう転落を経て、土産物屋専用のおかしな剥製職人になってしまったのかをフーバーは知らないし、興味もない。アンドレがどういう考えでその職を継ごうと思ったのかも、このご時世で当然のように職が先細り、週の五日は安酒に耽るクズになってしまって、それでもなおこの仕事を続けている理由も、もうこの際どうでもいい。
今一番重要なのは、もう四十年も前から一族の間で持てあまし気味のこの山が売れるかもしれない、ということだ。
正確には山の南側にある一部斜面の調査・採掘権利を六十万ドルで。ロサンゼルスのとある大学と企業が提携し、交渉人を通して連絡をとってきたのが一週間ほど前のことだった。
『バージェス頁岩』、と呼ばれている岩がある。もともと深い海があった古い地層で希に発見される、比較的軟質の岩だ。
海底の崖がくずれたときに生じる泥流が固まって出来るものなのだが、ゆえにこの岩の中には高い確率で中に埋まってしまった生物の化石が見つかる。しかも泥という材料ゆえか、その化石が非常に良質な状態で――普通の化石なら残らないような生物の軟質部分まで保存されている――残されているという特徴を持つのである。
この岩から発見された生物の化石は『バージェス頁岩動物』と呼ばれ、現在注目を集めているのだ――交渉人はそう言った。切り崩された山の斜面にそれが見つかった、見立てでは山の中にも大量に埋まっている可能性が高い、と。
廃鉱であるという状況もむしろ望ましい。山の内部にまで簡単に調査の手を伸ばせるのだから。
学術チームのパトロンも大乗り気で、山を買い取ってしまうという発想はそちら側から出た話のようだった。大学側は長期に渡る調査と発掘作業を可能にする専門のチームを此処へ送る準備がすっかり出来ており、あとは現在山を相続している人間が契約書にサインするだけですべてうまく行くはずだった。
山を相続しているのはふたり。アンドレと、その弟のバートだ。
バートは、三日ぶりに餌にありつけた野良犬のような勢いだった。興奮のあまりギグを踊り出しそうだったバートの様子は馬鹿丸出しと言ってもよかったが、フーバーにとっては理解できた。むしろ共にギグでもゴーゴーでも踊ってやろうと思えたものだ。
そう、バートの叔父貴はちゃんとわかっている。――「この世に六十万ドルの小切手より大事なものなどなにひとつない」ことがちゃんとわかっている。目の前の馬鹿とは違って。
そりゃあ自分が知らないだけで、ひとつかふたつくらいはあるかもしれない(例えばキャプテン・クックの財宝とか、七十万ドルのキャッシュとか)。だが少なくとも「先祖代々の土地」やら「誇りある仕事」やら、まして「職人魂」やらが大事なものであろうはずがない。
「ああそうかい。アンタにゃもっと大切なものがあるってわけだ」フーバーは苛立ちに震えながら言葉を絞り出した。ただしもう遠慮する気は毛頭なかった。「そりゃ何だ? 出来の悪い息子に教えてくれよ。つるつるした黒いガラス玉を、そこらへんの鼠の死骸にはめ込むことか? てめえが明日の食事も喰うや喰わずやだってのに、有り難い先祖伝来の土地に有り難くもねえ税金を毎年毎年払い続けてるってことか? ――ハ!」
一歩踏み込んで、左手で思い切りサイドテーブルを払った。上に乗っていた空っぽの酒瓶と小さな剥製たちがすっ飛び、派手な音を立てて床に転がる。それでも頑なな背中はびくりともしない。
「こだわりで腹がふくれるというなら、まともな家に住めていい車に乗れて、挙げ句それが無税だってんなら理解してやる。この世の何処かに『こだわり換金所』みたいなものがあって、ドルでも円でもユーロでも、その炎天下のなか吐きかけられて染みになった痰みたいにアンタの頭にへばりついている『何か』を金に換えてくれるというのなら――いいだろう、アンタはそこで一生へばりついているがいいさ、吐き捨てられた痰みたいにな!」
いっそアンドレが激昂して掴みかかってきたなら、フーバーは喜んで殴られもしただろう。
アンドレのいらえは、短かった。逡巡もためらいも、怒りも後悔も哀れみも無かった。
「帰れ」。
もっともわかりやすい拒否がそこにこもっていた。アンドレは目線を向けることさえしなかった。
その瞬間フーバーが感じたのは、怒りでも疲労感でもなかった。首筋の毛がそそけ立つほどの孤独感だった。
とうに馬鹿になりかけた鼻孔に、一層強いニスと焦げた木の臭いが突き刺さった。部屋の中にぎっしりと詰め込まれたありとあらゆる種類の剥製たちの目――真っ黒なガラス玉のそれが、じっと自分を見つめているような錯覚を覚えた。何もこもらない目、何処も見ていない黒い瞳が、アンドレの何ひとつ感情をこめない返事と符合しフーバーを一斉に責め立てているようだった。壁に掛かったヘラジカの首が、作業台の上のまだ小さな熊が、棚に置かれたフクロウが、キツネが、リスが、山猫が、――フーバーが払いのけて床に転がったままの、――。
(知ってるぞ)フーバーはぶるっと震えて「それ」を睨みつける。
ぱんぱんにウレタンを詰め込まれて丸々と太った、大きなウサギの剥製だった。ただ普通のウサギでは無かった。
(知ってる。俺はわかってる。父さんとは違う)
針金を入れてぴんと立たされた耳のすぐ横に、不釣り合いなほど立派な角が生えているのである。牡鹿の角であるらしいそれは中途から三本に枝分かれしており、胴体よりも長いくらいだった。
(お前が何処でホコリを被っているかも、もう誰もお前を見向きもしないことも――)
尻尾は刈り取られ、やはり長い尾羽のようなものに付け替えられていた。目はウサギのように赤くはなく、黒いガラス玉だった。
(どれだけお前らが、もう必要ないものかも。俺にはちゃんとわかってるんだ)
しかし決定的にそれの造作をアンバランスに見せているのは、上顎の中程から下顎に伸びた一対の牙だった。まるで絶滅したサーベルタイガーよろしく口蓋をはみ出して生えているそれは、齧歯類の前歯のようなユーモラスさは一切無く、かと言って作り物めいた滑稽な馬鹿馬鹿しさも無く、ただひたすらにアンバランスで、ひたすらにその剥製全体の造作を歪めることしかしていなかった。
添え物の角と、尾羽と牙。バランスをいびつに歪められた、空想上の生き物。
アンドレがただ『ジャック』と呼ぶそれを、フーバーは幼い頃から知っている。ワイオミングのお偉いさんの誰のケツの穴に潜り込んでいるのか、州獣指定まで――現実にはいもしないというのに――受けている。センターストリートには正気を疑うようなでかさの像まで建っていて、イエローストーンにやってくるよそ者たちにしょっちゅういぶかしげな視線を投げつけられている。
(いらないんだ)気が付けばフーバーは、息さえ止めてそのガラス玉の瞳を凝視していた。視線を外そうとして果たせず、代わりにより憎しみを込めて睨みつけた。
(お前たちは、俺たちにとってはもう必要ないんだ)
目を外せば、喩えようもない孤独感が舞い戻ってくる気がした。父の背中に目を戻したが最後、何もかもが馬鹿馬鹿しくなって(馬鹿馬鹿しいと思いこんで)そのままへたりこんでしまいそうだった。
「……また、来るからな」
ともすればかすれそうになる声を精一杯張り上げて、フーバーは踵を返した。何もかもから視線を引き剥がすのは容易ではなかったが何とかやり遂げ、錆びた真鍮のドアノブに手をかける。
背中から声がかかってくるのを期待した。何か。何でもいい。「もう来るな」でもいい。
声はなかった。物音すら一切なかった。
寒々しい沈黙の中で、(いいか、必要ないんだ)フーバーはドアノブをひねった。
剥製を憎むことは、父を憎むより難しかった。
☆
アパートに戻ってくると、留守番電話が入っていた。一件は叔父のバートから、もう一件はくだんの交渉人からだった。
内容はほぼ同じだった。父親との折衝はうまくいったのかの確認――バートは目の前に吊り下げられたままおあずけを喰わされているニンジンにもう我慢が出来ないといった様子で、交渉人はあくまで穏やかに、フーバーを同じだけ煮詰まらせた。
前日も電話で話をした(というよりはさせられた)叔父はともかく、交渉人の方もフーバーが今日アンドレのところに行くということは知っていた――これもまず間違いなく叔父から知らされたのだろうが――らしい。電話はどちらとも戻り次第連絡を待つ、という言葉で締めくくられていた。再生テープが自動的に巻き戻る中、テレビの上に置かれているフクロウの時計で時刻を確認する。夜の九時を回ろうとしているところだった。
時間的にも心情的にも早くすませた方が良いとはわかっていた。それでもフーバーはニスの臭いが染みついたシャツとスラックスを洗濯籠の中に乱暴に放り込み、ボクサーパンツ一枚の姿になってから、冷蔵庫から取りだしたサンキストのグレープフルーツジュースを半リットルほど胃の中に収める分だけの時間をおいた。電気はつけないままだ。テラスの窓から差し込んでくる月明かりは充分に明るかったし、今は白色光の灯の下より薄暗闇の中の方が落ち着くような気がした。
コチコチと秒針に併せて目を左右に動かすフクロウを見るともなしに見やったまま、フーバーはいっそ深呼吸のひとつもすべきかとさえ思う。
もともと今回の話は主にバートを通して進んでいて、交渉人とは一度、電話で短い時間話しただけ。それも六十万ドルという数字にすっかり舞い上がってしまっていて、最初に告げられた(に違いない)彼の名前すら覚えていないというざまだ。この上説得が失敗したと電話することに、フーバーはひどく気後れした。
バートを通しているからこそ進んでいるとも言える――普通に考えれば奇妙な話かもしれず、しかし今回ばかりは運が良かったとしか言いようがない――「六十万ドルの受け渡し作業」だが、最初から叔父は自分の兄貴が半端なことでは首を縦に振らないだろうと理解していた(そう、ちゃんとわかっていた)。賢明な叔父は差し出された数字に月まで跳び上がり、それでも浮かれきった挙げ句に「なにもわかっていない」兄にすぐさま電話するなどという愚は犯さず、射んと欲する将の馬、六十万ドルという数字の価値にきちんと月まで跳び上がるに違いない、兄の息子のフーバーにまず話を通し、血の近しい親子だけに可能な慎重かつ能弁な説得を期待した――ここまではいい。
問題はフーバーですら無理だった、どころか、話がこじれた可能性すらあるということだ。確かにアンドレのあの調子では誰が言っても結果は同じだったかもしれないが、そんなことはどうでもいい……一番の問題は、一本五十セントもしないようなボールペンを二秒ほどのたくらせるだけで手に入ることが決まっていたはずの大金がふいになる、そのことを交渉人からあっさりと告げられる可能性があるということに他ならない。他の誰でもない、フーバー・モーリスその人が。
父の説得は無理でした。ああそうですか、それじゃミスター・モーリス、一族揃ってみじめったらしいよい晩年を――もうお会いすることも無いと思いますが! ガチャリ。ツー・ツー・ツー。
そんな紋切り型の挨拶を鼻の穴に突っ込まれたとして、自分はどんな阿呆面をさらして受話器を握りしめたまま突っ立っていればいいと言うのか? 明日の朝一番に電話をかけてくるに違いない叔父にどんな間抜けた声でそのことを伝えればいいのか? 一生に一度、千載一遇のチャンスに見送り三振をやらかしたとんまな甥のケツを大西洋まで蹴り飛ばしにやってくる叔父に、どんな無様な負け犬として這いつくばればいいのだろうか?
――それもこれも、みんな奴のせいだ。
あのわからず屋の。そうとも、言い得て妙ではないか。わからず屋。売れない剥製に埋もれた小屋の中で酒浸りになることが「何よりも」大切だと思いこんでいる、その実何もわかっていない男。
父親に怒りの矛先を向けることは、フーバーにとってもはや何の後ろめたさも感じなかった。それどころか説得役を見事にしくじった自分への自己嫌悪と、これからそれを話さなければならないというばつの悪さ、気後れ――そういったものを多少なりと頭の隅に追いやってくれる魔法の言葉だった。
ホウ、ホウ、とフクロウが慎ましやかな声で鳴き始めた。九回鳴いて静かになる。夜の九時。
飲み干したグレープフルーツジュースの紙パックをぐしゃりと潰してから、フーバーは幾分かましな面もちで受話器を取った。ロスへの長距離通話は幾らくらいになるのかといらぬ心配をしながら――そうやって一番の問題に関する心配事を脇に押しのけながら――留守電の最後に告げられていた局番へとダイヤルする。交換機の繋がる音。低いコール音。こんな夜更けじゃどうせ誰も、
「もしもし?」
驚いたことに、ワンコールで出た。フーバーはあっさりと戻ってきた緊張と気後れを痛いほど感じながら、自分の名前を告げなければならなかったが――。
「ミスター・モーリス・ジュニア? これはこれは、お待ちした甲斐がありました!」
喜色さえ感じる返答がかえってきたことに戸惑う。まるで自分の連絡をずっと心待ちにして、受話器の前で舌なめずりしつつ座っていたかのような勢いではないか。
「遅くなって申し訳ありません、……その、ご迷惑かとも思ったのですが」
へどもどと受け答えするフーバーに、受話器から笑い声が聞こえた。タフで快活を絵に描いたような、何も問題はありませんと雄弁に伝える笑い方だった。
「ロスで今回のような取引の窓口をする人間に求められるのはふたつしかないんですよ、モーリス・ジュニア。ひとつは勤勉であること、もうひとつは最低でもデヴィッド・レターマンの『ナイトライン』が終わるまでは起きていられること、これだけでね。私のようなそれだけが取り柄の人間にとって、なんとも有り難いことじゃありませんか」
いささか空々しくも、友好的で陽気な口調には違いない。何より返事があると言うだけで、――そうとも、それが何よりじゃないか?
フーバーは幾分か救われた心持ちになって、受話器を握り直す。
「助かります。……実は今日父親のところに行ってきまして、その件について少し時間をいただければと……」
「もちろんですとも。叔父上から色々と伺わせてもらっていますし、どんな悪い報せでもどんと来いと言ったところですよ。はっきり言わせていただけるなら、そういう事例は一億回は見てきましたし、対処してきたつもりです……おっと、ただし、もし私の予想がまったくの当てはずれなら謝罪の時間を三十秒ください。もし予想通りなら、そうですね、やはり三十秒いただきましょう。ちょっとばかり伸びる作戦会議のために、十フィート先のコーヒーメーカーまで兵站物資を調達に行かなくてはならないのでね!
まずは、率直にこれだけお伺いしておきましょうか。お父様は何と返事を? イエス? ノー?」
(――返事だって? YもNも無い、『GO HOME』しか口にしなかったんだからな!)
癇癪にまかせて怒鳴り散らす代わりに、フーバーは舌で唇を湿した。ここは慎重に答えなければならないところだった。
ひとまずこの男は、返事がどちらでも構わない(今のところはだ)と言っている。しかしどんな様子で「ノー」だったのかによっては、その態度も変わってしまうかもしれない。
とりつくしまもありません、金にもまったく興味を持ってないみたいです……そんな答えはそれこそ「ノー」だ。そんな状況からどうやって話を進めるって言うんだ?
「ええ……それなりにいい感触だとは思いました」捏造の状況を考えるために、ゆっくりと話す。「ただ、その、やはり先祖代々の土地を手放すことにはやや抵抗がある様子で」
そう、今のは良かった――フーバーはこっそりと自分にささやかな合格点を与える。イエスではないが渋っている。そう、もう少し譲歩の余地を与えればきっと、そんな風にこの気障ったらしいロス公が早合点してくれれば……。
果たして相手は「解ります」と同意した。受話器の向こうで重々しく頷くのが想像できるほどだった。
「今回のような取引で一番の問題となるのはまさに其処でしょう。貴方のお父様も叔父上も、ずっと勤めを果たしてきたのです……あの山を守るという」
『PROTECT』という言葉を、ことさらに強調する。敬意を半分、嫌味に聞こえない程度の揶揄を四分の一……あとの四分の一は? はっきりとわからない。
「何十年もかたくなに守り続けてきたその場所を、他の人間にゆだねるのです。難色を示すお父様の考えも充分にわかります。
ですが我々もあの山を切り崩して、一泊二十ドルの安っぽいモーテルを建てようというのではありません。あくまで学術的な方面からのアプローチであり、おおいに意義のあることだとお父様にもご理解をいただきたいのです、ミスター……フーバーとお呼びしても?」
「もちろん。ええと、そちらは――」
「ビル・クラークです。ビルと呼んでください」同じ相手に二度名乗らねばならない不快感をこれ以上ないほど綺麗に押し隠し、交渉人――ビルは先を続けた。「実を言えば、フーバー、我々にはひとつだけ問題があるのです。たったひとつだけ、それ以外はどうということもないことなのですが」
「問題、ですか?」
「今回のパトロンとなっている方が、一刻も早く成果を欲しがっているということです。具体的に言えば、今回の交渉には制限時間が切られている――申し上げにくいのですが、フーバー、今月中にイエスかノーか、最低でもその答えをいただかなければならないのですよ」
「今月ですって!?」
思わず声が裏返った。反射的にサイドボードの上の卓上カレンダーを見る。六月二十七日。実質あと三日しかないじゃないか。
「私も努力はしているのですが」ビルの声のトーンが初めて落ちる。「諸々の契約事情から、これだけはどうしても守らねばなりません。このリミットを過ぎると、遺憾ながら今回のプロジェクトは白紙に戻ってしまう」
フーバーは抑えきれずにうめき声を上げた。それは文字通りに一巻の終わりを意味した。
目の前でちらついていたはずの六十万ドルが白紙に! モーリス一族もはいそれまでよ、ソロモン・グランディと言うわけだ。
だが、頼もしくもビルの声は再び意気を取り戻した。
「もちろん、このプロジェクトをふいにするつもりは大学側にも私にもありませんが。
フーバー、貴方にもないと信じてよろしいですね?」
つり込まれるようだった。フーバーは無言で何度も頷いてから、正気に返ったように「ええ、もちろん」と声に出した。「もちろんですよ、ビル」
「その意気です! そこで我々の新たな作戦としてですが――貴方はお父様から譲歩を取り付けるために今一度粘っていただく。そして私も、こちら側の譲歩を取り付けるために明日の朝一番にミスター・パトロンに電話をかける。やってみる価値はあると思いませんか?」
「それは、つまり――」
話が願ってもない方向に進みつつあるのをフーバーは察し、唾を飲み込む。状況はマザーグースの詩のように極めて救いようが無く、無慈悲ではあったが、それはまるで土砂降りの雲間から差し込む天使の梯子のごとき申し出に違いなかった。
「先程も申しましたように、私たちにある問題は時間だけです。
フーバー、私は今回のミスター・パトロンの乗り気について、充分な手応えを感じているのですよ。まだまだ引き出せる余地がある。そう、おそらく八十万ドルまでは間違いなく、うまく行けば……おわかりですね?」
普段ならば虫酸が走るに違いない、ビルのもったいぶった言い回しに、フーバーはそれまでの何もかもを忘れて恍惚に浸った。ほとんど上の空でその後数分のやり取りを交わし、念を入れて明後日までにもう一度連絡する旨を確認しあい、受話器を戻すまでその恍惚は続いていた。
フクロウに目を向ける。二十分ほど話し込んでいたようだ。ふと二十分の遠距離通話代が頭をよぎり、しかしフーバーがその数字に怯むことはなかった。二十分? 丸二日でも構うものか。
「そうとも。八十万。それも底値でだ」
明日もあのニス臭い小屋に行かなくてはならない。そして理解していようがしているまいが、首ねっこを掴んででも頷かせてやる。
家に戻った時の沈んだ気持ちは跡形もなく消し飛び、フーバーは薄暗い部屋の中、ひとり快哉を上げた。
◆六月二十八日
夢を見た。まだジュニア・ハイにも通っていないような小さな子供が、暗闇の中で楽しそうに笑っているのを観ている――そんな夢だった。
「観ている」というのはそのままの言葉で、フーバー自身はその風景の中に存在していなかった。まるで固定されたビデオカメラから送られてくる映像を真っ暗闇の部屋の中で観ているかのように、視点を動かすことも出来なければ、自分の肉体を意識することも(意識しなければ動かせるはずもない)出来なかった。
その「カメラ」はマイクを搭載しておらず、しかもどうやら常に子供を追い続けている。
逆に言えば子供を映すことしかしていない。声を拾うこともない。一緒に映るはずの背景も、時折話しかけているように喋っている様子を見れば判る「すぐ側にいる誰か」も、まるでブルーバック合成で切り取られたかのように映っていない。
誰だ、とフーバーは思った。あの子は誰だ。これは何の夢だ。
そもそも夢であるのか。それさえもはっきりと判断がつかない。目の前で展開されている、そのおそろしくクリアな映像とは対照的に、フーバー自身の思考はひどく混濁し、ともすれば霧散してしまいそうなほどに希薄だった。
子供はそんなフーバーの視線にも思惑にも気付くことなく、ひとりで笑い、はしゃいでいる。
あちらこちらを眺め回し、そうしてからまたひとしきり楽しそうに笑う。時におっかなびっくり何処かに手を伸ばし、あれは何だ、じゃあこれは? と舌足らずな声で「誰か」に尋ねる――その繰り返しを、飽きることもなく続けている。
茫漠とした意識の中で、フーバーは強い疎外感を感じていた。しかし同時にその子に魅せられてもいた。
子供の笑みは曇りがなかった。遊園地か博物館か、物珍しく興味をそそる光景が山ほどある場所に連れてこられた時に子供たちがまれに見せることがある笑み、空っぽだった脳に大量の知識を注ぎ込まれ、真に知的好奇心を満たされた――今なお満たされ続けている者が見せる、それは輝くような笑顔だった。
いや、ひょっとしたら、それは何処にでもある何ということもない表情であるのかもしれない。しかし曖昧で断続的な思考しかできない今のフーバーには、客観的にものを見るということが不可能に近く、ただその子供の笑顔や仕草に自分が強く惹かれているということしか判らない。そしてただ、食い入るようにその光景を見続けるということしかできない。
疎外感と、もどかしさを感じる。動こうとして動けない。見ることしかできない。話しかけることさえも、――そう、話しかけることが出来さえすれば、――。
できれば、何だというのか?
小さな泡がぷくりと浮くように、かすかな疑問が湧いた。
思考が繋がらない。泡はたちまちのうちに撹拌され、ゆったりとした波の中に紛れていく。
それでも消えることがない。小さな泡は何故か潰れず、ゆらゆらとフーバーの意識に留まり続け……しかし掻き回される意識は混沌として、その泡がどのあたりに浮かんでいたかを(それほど何を強く望んでいたかということを)もう判らなくさせていた。
そうしているうち目が覚めた。ベッドから上半身を起こすと、真っ先に電話の留守電ランプが点滅していることに気が付き驚いた。
電話の主は、案の定叔父からだった。六時過ぎに一度、そのすぐ後にもう一度。それから六時半に一度。七時に一度。七時半に一度。
今は八時前だった。フーバーはそそくさと着替えを始める。もちろん八時の電話がかかってくる前に家を出るためだ。フーバーだって打ち気は満々だが、前回の打席の空振り三振について口うるさく言われるのは御免だし、バッターボックスに入る前から必要以上にやる気満々の監督に必要以上の檄を飛ばされるのはもっと御免だ。
(それにしても)糊の利いていないワイシャツにしぶしぶ袖を通しながら、フーバーは思った――電話にも気付かないほど、自分は深く眠っていたのだろうかと。
(しかも、その後オンフックでがなり立てていただろう叔父貴の声まで気付かなかったときた)
では、何故夢など見たのだろう? 夢を見ているような状態で、五回も長々と鳴っていたに違いない電話のベルに気付かなかったのか? ぼんやりとではあるが、夢の内容を覚えているような浅い眠りについていたというのに?
まるで応じるように、唐突に電話のベルが鳴り響いた。シャツのボタンをはめかけた姿勢で飛び上がる。鼓膜から脳にホームランボールが通り抜けていったようなものだった。
(こんなものに気付かないほど、ぐっすり寝てたって?)
疑問の泡が浮かんだ。しかしがなり立てる電話のベルには勝てなかった。
フーバーは肩をすくめて、そっとボタンをかける作業を再開した。もちろん電話には出ないまま。
☆
フーバーが勤めているのは、センターストリートから少し離れたところにあるディスカウントストアだ。
規模としてはそれほど大きくはない――ウォルマートやターゲットなどに比べればけし粒以下だ――ものの、ダグラスの街では一番大きな店だった。地元流通の割に品揃えもよく、家具に家庭用品、園芸用品、衣料、おもちゃ、それに食料品まで扱う総合ディスカウントストアとなっている。
倉庫整理と搬入、あとはフロアのモップがけで月に1500ドルほどがフーバーの手元に入ってくる。勤務時間は一回のシフトで七時間……というのはもちろん建前で、実際には店が開店する九時前から入って閉店の十時までぶっ続けということもざらだった。
何か重大な、どうしても外せない用時があるとき、早く帰れるようマネージャーに頼み込むことは不可能ではない。しかしたとえその用時が地球の危機に関わることであってもマネージャーのスウェインは決していい顔をしないし、そんな顔ばかりを繰り返させられようものなら、床磨きのひとりやふたりは簡単に放逐されるのが目に見えていた。「おめでとうフーバー、明日からお前も当方のお客様だ!」などという具合に。
――となると、少なくとも、何か特別な理由は必要だぞ。
在庫の少なくなった化学肥料をカートで棚へと運びながら、フーバーはそんなことを考えていた。
昨日、フーバーはアンドレを説得するために早退けした。そのためスウェインへの言い訳を十五分近く続けねばならず、最後には犬でも追い払うように手を振られて部屋を出て行かされる羽目になった。
今日も同じ時間に帰らせてくれとスウェインに訴える、そのためには昨日と違う理由を用意しなくては駄目だ。父親と話し合わなくてはならないなんて馬鹿正直なのは言語道断、いっそダグラスをめったに訪れることがない叔父貴に脳梗塞にでもなってもらうしかないかもしれない――。
と、不意に肩を叩かれた。
「もしもし。ハロー。聞こえてるか」
気が付くと、自分のすぐ隣にひとりの男性が立ち、こちらを覗き込んでいた。比較的小柄で、その代わり真っ黒に日焼けしている、七十は越えようかという皺の深い老人だった。
「お若いの。聞こえないのか? その歳でわしらより耳が遠いわけでも無いというなら、ひょっとしてワイオミングに新しい州法でも出来たかね? 『七十歳以上の人間と親しげに口をきいたら罰金200ドル』とか? ――いやはや、ちょっと来ないうちに住みづらくなったものだな」
どうやらいつの間にか立ち止まり、声をかけられてもぼんやりと突っ立ったままだったらしい。歳を取った人間だけが獲得できる皮肉っぽい饒舌さにフーバーは目をしばたたき、それからやっと自分の今の役割に思い当たった。確かに八十万ドルはもうじきこの手に落ちてくる……しかし、今は月1500ドルのみじめな従業員だ。
「ああ、……いらっしゃい。何かお探しで?」
老人は鷹揚にうなずき、にやりと笑みを浮かべてから尋ねてくる。今度は簡潔だった。
「12ゲージのバックショットを探してるんだがね」
鹿撃ち用の散弾だ。たしかにこの店でも扱っている。
「それだったら右奥に専門ブースがありますよ。こっちへ」
さすがにばつが悪く、フーバーはそそくさと先に立って歩き出した。こんな時期に狩猟か? と言い訳じみた思考が頭をよぎる。
老人はタータン・チェックのシャツにサファリ・ズボンというラフなスタイルだったが、何より目立つのは首に巻いた大きなスカーフで、一キロ先からでも判るような鮮やかなオレンジ色をしていた。そのスカーフだけが服装にも老人にも似合わないことおびただしく、つまりはハンターたちが付けることを義務づけられている「上半身に纏うオレンジ色の印」に該当するものであるのは間違いない。
しかし、この時期に狩りはできないのだ。北米では何処でも――フーバーとしては他の例など知らないのだが――狩猟解禁日は冬の二ヶ月だけ。モンタナだろうがコロラドだろうがそれは同じのはずで、つまりはどういうつもりで老人がそんなものを首に巻いているのか、フーバーはまったく理解が出来なかった。
当の老人はと言うと、聞いてもいない話を歩き出してから延々と続けている。
「カードで負けたんだ。負けたヤツが買い出しを引き受けるって約束だった。だが儂は自身があった……最終ゲームでカードの最後の一枚をめくるその瞬間までな。惜しかったよ。もう少しでストレート・フラッシュだった。あの最後の一枚、あれがクローバーでさえなかったら……!
判っとったんだ。わしにはちゃんと判っておった…………そうとも、ジミーのヤツが一番最初にノーチェンジでクソったれなフラッシュを決めよった時、あのクローバーの奴ばらめが、真っ黒なその横っ面をわしの愛しいシュガーの前に投げ出して、――」
どうやらこの店に来るまでのいきさつらしく、まったくもってフーバーにはどうでもよかった。適当に相づちを打っているうちに店の一番奥まったコーナーに辿り着く。
何丁かの銃と弾、あとはグリスやクリーニングキットなどの細々としたものまで一緒くたに収められているガラスケースを、フーバーは店員用のキーを使って開いた。目当ての弾は、五十発入りの赤い紙箱に入ってすぐに見つかった。
「これですね。一個でよろしい? それとも、」
「とんでもない。全部もらおう」
背後からケースの中を覗き込んでいた老人はそう答えた。
一瞬、フーバーは誤解した。自分の身体が邪魔なのだと思った。
自分の身体に隠れて、この老人は箱がよく見えなかったんだ――そう思った。みっつほどしか無いようにでも見えたのだろうか。実際にはこんなにあるというのに。
だから老人がマーケット籠の中に、ケースから掻き出すようにして五十発入りの紙箱をごっそり――十五個はあった――落とし込んだとき、フーバーは信じられずに目を見張るしかなかった。これでは狩猟どころか、銀行に押し入るつもりだったとしても多すぎる。
フーバーの驚いた顔を見て、老人は真面目くさった顔で頷いた。
「もちろん、お若いの、儂だけでこれをすべてばらまくわけではないよ。
と言うより、儂はバックショットは好きじゃない。確かに連中には一番有効かもしれんが、狩りの本質というものは伸るか反るか、獣どもとの駆け引きだ。そうは思わんか?
儂は別の確実性を重んじることにしておる。儂がレミントンのモデル700を使っていることについて、ジミーやコンラッドは儂を偏執狂扱いすらしおる……だがなお若いの、エンフィールドの水平二連なんぞを優雅に使っていたとして、もしも二発で仕留められなかったら……NO.4バックのハナクソみたいな0.24インチが五発六発かすめたところで、連中にとっちゃ屁でも無いことを、儂はあんたが生まれるよりもっと前からようく知っとる。むしろ狂ったように跳ね回って、場合によっちゃあのご立派な角で突きかかってくるって事だって……。
そうなればどうなるか判るだろ、キモ・サベ(友よ)? 儂がM700を愛用しとるのも、そういう目も当てられない羽目に陥る可能性を減らすためだ。もちろんマッチグレードなんぞ使っておらん。308のマグナム弾――あれなら連中は木っ端微塵だ。万が一にも油断した隙を突かれることはないということさ」
もはや老人は、フーバーをすっかり出来の悪い生徒と決めつけ長広舌を振るっている。それもおそろしく偏執的な、異常と言っても良いほどの内容を平然と話している。
この老人は鹿を水牛か、そうでなければベトコン兵士とでも勘違いしているのではないだろうか? 鹿撃ちに際して獲物の反撃を想定し、精密射撃が可能な競技用弾丸よりも破壊力のある大口径マグナム弾を選ぶ――そんなことをする者が偏執狂以外の何だというのだ?
そもそも、この老人は何を狩ろうとしているのか。どう考えても鹿だ。じゃあいつ? この調子では明日にもイエローストーン公園にジープで突っ込み、警備員の制止も振り切ってレミントンを乱射、その場でトロフィーを造り出そうと首を落としてもおかしくはない勢いだった。
「待ち遠しいとはこのことだな」老人は両手をこすり合わせ、唇をすぼませる。「じきに解禁日が来るぞ、キモ・サベ。ワイオミングで狩りをするのは初めてだが、何せ本場だ。満足させてくれるに違いないて。――じゃあな、あまり夜更かしをするんじゃないぞ」
言うべきことを言ったと思ったのか、老人はフーバーにすっかり興味を無くした様子でレジへと向かっていった。意気揚々という言葉がぴったり当てはまるような歩き方で、オレンジ色の大きなスカーフをなびかせながら。
フーバーは老人が見えなくなるまで呆然とその背中を見送っていたが、やがてひとつ首を振り、肥料の棚に戻ることにした。あの老人はマリファナでもやっているか、そうでなければ……ベトナムで頭蓋骨に食い込んだ鉛玉がまだ抜けていないとか、ゴム長と防塵マスクという出で立ちでコロラドにあるロッキーフラッツ核工場の床清掃係でもやらされてたとか、そういう理由に違いないと見当を付けた。
頭のおかしな老人のことなどどうでもいい。今はスウェインから今日の早退けをもぎ取る方法を考えなければ。
――あまり夜更かしをするんじゃないぞ。
不意に最後のセリフが思い出されて、フーバーは舌打ちした。
☆
真夜中にようやく来てみると、小屋は閉められていた。
シャワーのコックをもぎ取ったような土砂降りの雨の中、フーバーは一瞬呆然として古めかしい南京錠を見下ろした。なかば無意識にドアノブをひねってみる。開きかけたドアは三インチほどのところで、真鍮製の南京錠によってつながれた頑丈なリングに引っかかって止まった。
隙間から灯りが漏れてくることもない。アンドレがいないことは間違いなかった。
たっぷり十秒ほど、フーバーは馬鹿のように突っ立っていた。
「――クソったれめ」ぽつりと呟いた後で大声になった。「あああああクソッタレめ!! 何処に行ったんだお前は! 何処に! 何処に! 何処に何処に何処に!!!」
ドアを思い切り蹴りつけ、そのせいで泥水がたっぷりと靴の中に入ってくる。その感触に更に腹が立ち、フーバーは何度も喚きながらドアを蹴りつけた。
クルマに戻ったときには、濡れていないところを探す方が難しいほどだった。髪を垂れ落ち流れてくる雨水に悪態をつき、乱暴に後ろに撫でつける。ごつん。狭い車内で手が天上をかすめ、その程度のことにすら信じられないほどの苛立ちが募り、ハンドルに掌を思い切り叩きつけた。
しばらく荒い息をつき、ヘッドライトの向こうに浮かぶ施錠された小屋を睨みつける。てんかんの発作のような感情の爆発が過ぎ去った後でも、徒労感が生み出す粘着質な怒りは消える気配を見せなかった。何もかもどうでもよくなる脱力感と、何処にどう向けたらよいのかも解らなくなるようなぐつぐつと煮える怒りだ。
「何処にいるんだ畜生。俺がどれだけ苦労して来てやってると思ってるんだ」
此処に来るまでのことが思い出される。午後から馬車馬のように働いたことや、マネージャーの鉄網の上で焙るようなねちねちとした追求と嫌味をくぐり抜けたこと、数日前に洗車したばかりの(ワックスもだ!)フォードの愛車を泥まみれにする苦渋に耐えなければならなかったことも。
雲行きが怪しくなったのは午後だったが、実際に降り出したのは夜中になってからだった。
夕方頃にどんよりとした鈍色の雨雲が厚くたれ込めているのを見たとき、憂鬱な気分になりながらもしめたと思った。雨足が強くなれば客はそうそう来なくなり、在庫管理やタグ打ちなどといった仕事量は必然的に少なくなる。もちろんそれで店が早く閉められるわけではないのだが――。
『急用。――急用ね。昨日もそんなことを言っていたな。
つまりこういうことか、モーリス。今のお前にはうちの仕事よりも重要な用事があると。まともな勤めを持ったいい大人が、二日も――そう、二日間も続けてだ――その大事な勤めをほったらかしてまで優先させにゃならんことがあると。そう言うことなのか?
一体何だそれは。ディブロの店にたむろしているヤリマンどもの掃除機に、ハシシを効かせたアレでも突っ込みに行こうってのか? それともお前の親父さんに、剥製ファックのやり方を習いに行く決心がようやくついたってのか? そりゃめでたいな。俺からも祝福させてくれよ、モーリス』
マネージャーのスウェインはオフィスの机にどっかりと陣取り、贅肉でたるみきった顎のすぐ上にある不細工な切れ込みから、そんなセリフを吐きだしたものだ。フーバーはぶるりと震えて喉まで出かかった『スワイン(豚)め』という単語を押し込めなければならなかった。
午後になってからしゃにむに働いたおかげで、オフィスの略式法廷に立つ前には、弁護側の資料は揃っていると言ってもよかった――今日の分の棚卸しと在庫管理はすべて終了、明日の開店前の品揃えもチェック済み、バナナの皮がなくてもバスター・キートンがすっ転びたくなるくらい、フロアをぴかぴかに磨き上げもした。検察側への反証は完璧と言ってよかった。
もっともそれにしてみたところで、スウェインにしてみれば「取るに足らない」当たり前のことに過ぎない。たとえばフーバーが店の仕事を何もかもすべて一人でやってのけたとしても、スウェインは仏頂面を崩すことなく「お前にしちゃあまあまあだ、明日はもっとうまくやれ」と言うだけだろう。中年も終わりに近付いた、離婚経験があるでぶのアメリカ男性の99%を占める特徴なんてものがあるとするなら、根の深い陰湿さと若い者への憎悪くらいのものなのだから。
『昨日、父の様子がおかしかったんです』フーバーは理解を求めるに足る理由を言わなければならなかった。『どうも身体の調子がよくないみたいだ。御存知の通り、すっかり変人めいてる父親ですから今更おかしな言動のひとつやふたつは私も気にしませんが――』
『ふん。剥製ファックのほうだったか』
たっぷりと頭をひねったにしてはお粗末な理由と言えたが、それなりの説得力はあったようだった。ぽってりとした唇をねじ曲げて仏頂面を濃くしたものの、スウェインがそれ以上の追求をしてくることはなかったからだ。
アンドレの変人ぶりは、ディブロの店に出入りしている人間ならば誰だって知っている。ついでにそのタチの悪い痛飲も有名だ。見るも哀れで不愉快な酔いどれが、とうとうツケを払わされることになったらしい――何とも説得力のある理由ではないか?
スウェインのようなタイプにとっては、親の身を案じる孝行息子など反吐と一緒にうらさびれたバーの便所に流してしまいたくなる類のものには違いないかもしれないが、仕事の後のビールと「ヤリマンの掃除機」のことばかり考え、童貞の高校生よろしくタイムカードに突っ込みたくてうずうずしている輩に比べればまだましと言う理屈が立つはずだった。少なくとも無下に断るというわけにもいくまいとフーバーは考えたのだが正解だったわけだ。
替わりにスウェインは、悪意のたっぷりこもった同意を投げてよこした。
『お前のオヤジを、前にディブロの店で見たぞ。1セント貨幣みたいな蒼白い顔を見るまでもなく、俺にはあの男の内臓がとっくに耐久年数を十年も過ぎていることが看て取れたがね。
しっかり説得してくるんだぞ、フーバー。もう二度とディブロの店には行くなってな。
もちろんお前のイカレたオヤジのためじゃない。俺が気持ちよくビールを呑んでいるときに、あの1セント面はもう二度と見たくないってことさ。わかってるな?』
自分でも卑屈だと解る、ぎこちない愛想笑いとともにフーバーは言った。「わかってますよ」と。
不思議なことに、一瞬何もかもどうでもよくなりかけたものだ。「わかってますよ、豚軍曹殿」と切り返して、飼い犬に噛みつかれたことにも理解できず呆然となっているスウェインの口に机の上で広げられたままになっている半年前の『プレイメイト』をねじ込んでから、「アンタが俺のオヤジよりどれだけ上等な屑だってんだ、この汚えアイダホ豚が? ――ファック・ユー・サー」とかその辺りの捨て台詞とともにオフィスを出ていくことが、どういうわけかあの一瞬だけはひどく魅力的なことに感じたものだった。
今は違った。スウェインは人物を正確に表現できる世界一の賢者だった。しけた1セント面の廃棄物。剥製ファックの名人。
もう一度ハンドルをぶっ叩いた。一緒に叩いてしまったらしく、でかいクラクションが響き渡ったが、誰もいない深夜の山の中とあっては無意味だった。
(何処へ行った。ディブロのバーか。それとも、――)
まったく治まる気配を見せない苛立ちにせわしなく息を継ぎながら、フーバーはアンドレの行き先を考え――たった一手で行き詰まった。ディブロの店とこの小屋以外に、フーバーは父親が足を運びそうな場所を知らなかった。
じゃあディブロの店か? 違う。此処に来る途中で見た光景を思い出す。
町外れの国道沿いに建っているディブロご自慢の電飾看板――「ビールと軽食。ワイオミングいちの陽気なバーへようこそ!」――が、今日に限って灯っていなかった。店は休みなのだ。
他にはまったく思いつかない。自宅は母親との離婚の際、彼女が根拠もなく請求してきた「慰謝料」の低頭として差し出され、結局十年近く前にそのまま売家になってしまった。近所づきあいも皆無と言ってよかったし、おそろしく排他的なその態度は酒場でも同じだったので呑み友達のような関係の人間すらいなかったはずだ。あと繋がりのある人間といえばせいぜい剥製を仕入れているイエローストーン公園の土産物屋だが、何度か見かけた時の両者の雰囲気からして、商売以外の私的な繋がりがあるとはお世辞にも言えなかった。
雨足が強くなった。車の天井に当たる大粒の雨がばちばちと音を立てる。
機械的に動くワイパーを無意識に睨みつけ、フーバーは考える。もし自分があのクソッタレだったならまずこれだけは間違いなく言えるだろうことは、何処にいようとも、こんな雨の中をここまで歩いて帰ってこようという気は起こさないだろうということだ。
苦労してもぎとった定時退社は、あっさりと徒労に終わった!
――哀れな四番バッターのフーバー・モーリス、一打席目は見事な空振り三振に終わりましたが、二打席目はなんと敬遠。スタンドからはブーイングの嵐です――。
カーラジオから、今にもそんな実況中継が流れてきそうだった。
フーバーはずぶ濡れになった頭をかきむしった。もはや怒りも薄れ、途方もない落胆だけが秒刻みで濃くなっていくようだった。
(何処に行ったんだ。あと二日しかないってのに)
もちろんどれだけ呻いても、出るはずのない答えだった。
父親のことを、何ひとつ知らないフーバーには。
◆六月二十九日
目が覚めると、まだ雨は続いていた。
カーテンで覆われた窓から、何処か遠く雨の音が聞こえてくるのをフーバーはぼんやりと聞いていた。時刻を確かめようとして、ちょうど鳴き出したフクロウの声に耳を澄ます。――ホウ、ホウと七回、七時ちょうど。出社まではだいぶ余裕がある。
夢も見ないほどの深い眠りは久しぶりだった。体は充分な休息で落ち着きを取り戻しているのが感じられた。
しかし、思考は暗澹としたままだった。
糞、と呟いたのは意識しない行為で、昨日の夜から数えれば五十回は唱えていることだろう。フーバーの二十五年の生涯の中でもその単語は度々――「Amen」よりも多いのは間違いない――頻繁に使われてきたものだが、昨日で使用最多記録を塗り替えたことだけは間違いがなさそうだ。
あれからどうしようもなくなり、アパートに帰ってきたフーバーは鬱々とした気分で電話をかけた。
もちろんフーバーをなじるだけに違いない叔父などお呼びではなく、交渉人のビル・クラークにだ。あのへこたれないロス公なら何かアドバイスをくれるかもしれないし、金額の交渉における成果を聞けるかもしれなかったし、何よりフーバーを無能とそしることもないだろうと思った。
ところがまたも、フーバーの当ては外れた。電話は繋がらなかったのである。
アンドレの小屋から戻ってきた時、確かに九時を大幅に過ぎてはいた。だが先日の口振りでは、九時が十時になろうが十一時になろうが、デスクの電話機の前でやる気満々のドーベルマンよろしく待っているようなことを言ってはいなかったか。
その後二度ほど時間を空けてかけてみても同じで、虚しくコール音が響くばかり。留守番電話すらもセットしていないらしく、二十回ほどコールを繰り返したが応答はなかった。
明日の昼にでもまたかけてみる他ない、という結論が出たときには、フーバーは完全に進退窮まっていた。散々駆け回った挙げ句、何もかも明日に持ち越しになったのかと思うと気が遠くなった。
「今月中に」――そうあのロス公は言っていたのではなかったか?
イエスかノーか、その答えだけでも。決まっている、答えはイエスだ。そうでなければならない。自明の理だ。
だがアンドレにとっては明らかではないかもしれない。
イエスに決まっている。しかしあの山の権利、ロスのクラシックがお好きな放蕩学生共がお望みの場所の権利を持っているのはアンドレで、ロス公がイエスかノーかを聞きたがっているのはフーバーではないのだ。もしアンドレが首を縦に振らなかったとしたら? ロスの放蕩学生どもはバートの所有する敷地だけしかほじくり返せないということになっても金を払ってくれるだろうか? 万が一払ってくれるとして、バートはその金のいくばくかでもフーバーたちに恵んでくれるだろうか? たった一度のチャンスをふいにした無知な兄と、たった一度のチャンスを活かせなかった無能な甥に、気前よく自分の土地を手放して出た金を?
くれるかもしれない。ひょっとしたら豪気に、町外れのドライブインで8ドルのランチを奢るくらいは。
「――糞」
口を開けば、同じ言葉しか出なかった。横になったまま手を伸ばし、ベッドのすぐ横にある窓にかかったカーテンを引き開ける。
見慣れた街路は、雨の紗幕で覆われていた。
空は厚い雲に閉ざされていた。晴れ間も見えない。昨日ほどではないにせよ、今日一日中降り続くかもしれない。
そして今日明日で何とかしなければ、ずっと土砂降りが続くことになるのだ。この先のフーバーの人生すべてに、悔恨と言う名の凄まじい大雨が、ひっきりなしに。
ぶるりとフーバーは震えた。朝の空気の冷たさのせいではなかった。
フクロウが一度鳴く。七時半。八時半にはストアに着いていなければならない。
もし、とフーバーは考えた。もし仮に、これから山へ――アンドレの小屋へ向かったとしたら。
山のふもとまで片道で三十分以上、それからちょっとした山道を難儀して十分ばかり。もっとも難儀なアンドレをもっとも効率よく頷かせるとして、それでも何もかもが終わるのは午後を過ぎることになるだろう。
そんなことになればフーバーは職を失うことになる。――しかしかまうものか、数少ないチャンスなのだ。試合もあっという間に後半戦、打順はもう何度も廻っては来ないのだ。
――しかし――。
フーバーは時計を見つめていた。フクロウの両の黒目が秒針に併せてかちかちと左右に揺れるのを、息を詰めたままで、じっと。
それから十分ほど経って、のろのろとベッドから降りた。
「糞」
ひとつ呟いて、フーバーは比較的まともなワイシャツを探しはじめた。
☆
「ねえフーバー。七月一日って何かの記念日だったかしら?」
午後になって倉庫整理をしているとき、そんなことを聞かれた。
聞いてきたのはレジ係のブレンダだった。普段女っ気のないフーバーが気楽に話せる数少ない女性で、ストアに勤める前からの顔なじみでもある――もっともフーバーより十は年上で、左手の薬指に今にも落っこちそうな風情で引っかかってる指輪はふたつ目という、およそ気楽に話せない理由など無いような女ではあるのだが。
「七月一日。――四日じゃなくてかい」
「独立記念日を忘れるアメリカ人なんて、エルビス・プレスリーを知らないメンフィス生まれと同じくらい希少な存在なんじゃないの? と言うより国籍を変えるべきね。この国向きじゃないわ、その人」
ローテーションで遅めの昼休みなのだろう、倉庫の傍らに申し訳程度に置いてあるロッカーに制服の上着を放り込み、ブレンダはからかうような笑い声を上げる。タンクトップ一枚の上から私服のサマージャンパーをはおりつつ、ロッカーの扉から首だけをフーバーに向けて覗かせ、
「四日じゃなくて一日。明後日ね。何かあったかしら――記念日とか、催しとか。この街だけのものかもしれないけれど」
「無かったと思うけどね。スクールの夏休みはとっくに始まってるし、今まで何かを祝ったような覚えもないよ。
……確かカナダの建国記念日じゃなかったっけ? それくらいしか思いつかないな」
「カナダ?」
ブレンダは眉をひそめて一瞬考え込み、「違うわね」と呟いた。
興味もなかったし、いつもならそこで話を終える程度のつき合いでしかなかったが、昨日からずっと憂鬱で苛ついている上、いつものように仕事にうんざりしていた。もう少し話してもブレンダは嫌がるどころか乗ってくるだろうと思い、フーバーは仕事の手を止める。
「どうしたんだい、ブレンダ。何か気になることでも?」
「たわいないことなんだけどね」二件隣のバーガーショップで済ませるつもりなのか、ブレンダは傘すら持たないままロッカーを閉める。「今朝、家を出るときカービーさんに会ったの。――前に話してなかったかしらね。ジャクソンの方の別荘地の管理人をしてる人なんだけど」
「聞いたことがあるよ。ハリソン・フォードをイリノイの成金呼ばわりしてた豪快な爺さんのことだろ」
「ええ。私たちはいつものように挨拶を済ませて、昨日からの雨にちょっとだけ文句を言い合ってから別れたんだけど、別れ際にカービーさんがこんなことを言ったのよ。『明後日はきっと晴れるよ、ブレンダ。そうなればちょっとしたお祭りさ』ってね。
その時は、カービーさんのようなご年輩にとっては洒落てるつもりの――そのことについてはどうとは言わないけどね!――言い回しなんだと思ったわ。だから私も、ええそうねカービーさん、シャンペンのひとつでも開けようかしらって返事をして別れたの。だけど――」
ブレンダが再び眉をひそめた。さっきよりも眉間のしわは深かった。
「さっき、此処にディブロさんが来てたのよ。ハロゲンランプの玉と、ブライトスターの懐中電灯をいくつか買い込んでたわ。
レジに来たとき、ディブロさんも同じことを言ったの。『雨で嫌になるね、でも明後日は晴れて欲しいよ、せっかくみんなで騒ぐんだから』って。……何かあったかしらね?」
「いや、…………」
首を横に振りかけて、フーバーは一瞬躊躇した。不意に思い出された台詞があった。
――じきに解禁日が来るぞ、キモ・サベ――。
鮮やかで場違いな、オレンジ色のスカーフとともに。
「……いや。わからないね」しかしフーバーは首を振った。「ディブロの店の親父が、馴染みの客を呼んでパーティでも開こうってのかな。この町でいい歳の男たちは、最低でも一度はあの店に行ったことがあるだろうしね……どっちにしても、俺たちには関係ない話だと思うけど」
「あら、そうでもないわよ。もしそうなら、マネージャーも呼ばれるかもしれないわ。
せいぜい早めにパーティを開いてもらえば、あなたは助かるんじゃないの、フーバー?」
「とんでもない。うちの軍曹殿が何時に帰ろうと、俺のタイムカードの時間は変わらないよ――なにせ翌日、軍曹殿ご自身が直々に拝見なさるんだから。
それに、確かにうちのマネージャーはディブロの店の常連かもしれないけれど、ブレンダ、仮にもし君がストアの連中を呼んでパーティを開くってことにしたとして……」
ブレンダは弾けたようにげらげらと笑った。それからやおら目だけで天井を見上げ、にやにや笑いを残したままの口にボタンをかけるジェスチャーをした。
「いいえフーバー、私ならきっとお呼びするわよ、マネージャーもね。この先私が墓にはいるまで、そんなパーティを開くことがあったとしての話だけれど!」
それで話は一区切りということになったらしく、ブレンダは裏口の方に向かって歩いていった。
取り残されたフーバーが再び仕事に注意を向けるのはなかなかに難しかった。所在なげに立ち尽くした後、ふと手にした在庫表つきのクリップボードを忌々しげに見下ろす。――今日は夜中までかかりそうだった。
たとえ早く終わったとしても、さすがに三日連続で定時に帰るというのは無理がある。誰が許してもスウェインが許さないだろうし、スウェインが許さなければ聖母マリアやCIA長官が許しても駄目だった。何かめざとく他の雑務を見つけられ、それを代わりに命じられるのがおちで、そうなればなおのこと帰るのが遅くなるという悪循環に陥るのは目に見えている。
となれば、もうフーバーには「いつものように」仕事を終わらせるしか無かった。終わるのは十時を回ることだろう。それからアンドレのところに向かうとなれば十一時すぎ、帰ってくるのは日付が変わった頃になってしまうに違いない。
かまうものか、とアンドレは思った。今日こそ捕まえてものにしてやる。そうすれば、こんなクソったれなクリップボードともおさらばだ。
まるで世界が自分の邪魔をしているようにすら感じられて、フーバーは抱えたボードをばしんと叩いた。
エントランスの陰から、その一部始終をじっと見ていた人影には気付かないままだった。
☆
昼間にフーバーが思ったことがある。世界がまるで自分の邪魔をしているようだ、と。
今や、それは確信だった。世界は自分の邪魔をしている。
控えめに言っても、スウェインが自分の邪魔をしているのは間違いない。明確な悪意が込められているのはもちろんのこと、運命的な部分でもってまで、あの太りきったアイダホ製加湿器が自分の行く手を妨害するために生まれてきたのだということを、フーバーは認めないわけにはいかなかった。
目の前には、夕方になって届いた入荷物が山のように積み上げられている。搬入用のゲートは収納しきれなかった荷物のために開け放たれており、三分の一ほどの量がビニールシートをかけられたまま、まだ降り続いている細い雨に晒されていた。
いつもは半月ごとに届くはずの注文品が、月末だからという理由で早く来てしまったのである。加えて週ごと入荷する予定の品物まで同様の理由で届いており、もともと大きくもないストアの倉庫はたちまち溢れかえったというわけだ。
こういう場合、普通ならばスウェインが問屋に直接連絡し、月が変わるまで入荷を差し止めさせてしまう。支払いをすべて手形で済ませているからで、スウェインの口癖のひとつを借りるならば「全部問屋におっかぶせる」ことで支出を先延ばしにしようとする。
今回は連絡が間に合わなかったのか、それともスウェイン自身忘れてしまっていたのか。どちらにせよスウェインにとってもこれは予想外だったらしく、厄介ものを見るような苦々しげな表情でエントランスからはみ出した荷物を一瞥してからいささかバツの悪い顔でフーバーに言った――「明日までに仕分けをして台帳に付けておけよ、最低でも俺が出社する前までにやっておけ」。
さぞかし自分は、その時呆然としていたに違いないと思う。
そうでなければ、その場で思う様スウェインを罵らなかったことへの説明が付かない。確かに月末締めの入荷が変則的になることについて忘れていたのは不覚としか言いようがないし、この二日間早めに帰ったフーバーをスウェインが快く思っていないことも明らかだったが、だからといって何故この大切なときに――。
時計を見た。九時十五分。閉店まではあと四十五分だが、この大荷物をすべて整理区分けして台帳につけ終わるには三倍の時間でも足りないくらいだった。
ブレンダを始めとして何人かの人間はフーバーに同情的だったが、手伝おうという人間はひとりもいなかった。同僚の身に突如降り掛かった災難には謹んでお悔やみを申し上げます、でも私たちだって帰ってシャワーを浴び、缶ビール片手にペイパー・ビューのレイトショーを観るくらいはしないとやってられないんだから許してね――そんなことを感じているのがフーバーにも判った。
ちなみに組合からギロチンにかけられてしかるべきマネージャーは、過酷な命令を伝えるだけ伝えてからさっさとお帰りあそばされた。今頃はディブロの店で一杯引っかけている頃かもしれない。
かくして、フーバーはひとりで膨大な荷物の前に立っている。閉店まであと四十五分。今日が終わるまで、あと二時間四十五分。
この仕事が片づくまでは、
「……っ!!」
かっと頭に血がのぼった。父の無言の後ろ姿を見たとき、施錠された小屋のドアを見たときと同じ種類の怒りが脳内で荒れ狂った。
声にならない唸り声とともに、フーバーは手近な段ボールを持ち上げ、倉庫の片隅に投げつけた。
まったく反射的な行為であり、その瞬間だけは普段の臆病さは微塵もなかった。だがコンクリートの上から薄いリノリウムを張っただけの床に、投げ落とされた段ボールがぐしゃりと音を立ててぶつかった瞬間――その音が中身にまで及んでいるであろうことがはっきりと判った瞬間、後悔という名の増援を引き連れ一個連隊で引き返してきた。
フーバーの脆弱な怒りなど、ひとたまりもなかったかに見えた。事実フーバーは息を呑み、体を強ばらせてなかば潰れた段ボールを凝視していた。
フーバーを押し潰そうとしたのは、生来の臆病さと、何もかもを「こんなものさ」と斜に見るような強い諦念、そしてそれらが生み出すどうしようもない自己憐憫だった。ろくでなしの父親の元で育つほか無かった自分、月1500ドルという安月給で夜中の十時過ぎまでこき使われている自分、ガールフレンドの一人も作れず三十路も終わりの女と世間話をするのがせいぜいな自分、叔父の剣幕におそれをなして電話もできない自分、アーリー・タイムスの間欠泉も夢想できない貧相な自分。
不意に耳元で誰かが囁いた。――嗚呼可哀想なフーバー・モーリス、お前は其処で一生へばりついてるしか無いんだ、「吐き捨てられた痰みたいに」――。
誰が言ったのかは判らない。だがその言葉が火を付けた。何もかもに。
誰もいない倉庫の真ん中で、フーバーは目を血走らせて段ボールに躍りかかった。「臆病なフーバー」半分潰れている段ボールの上に容赦なく足を踏み降ろし、「度胸のないフーバー」その中身が無惨な音を立てて砕けていくのに快感さえ感じながら、「段ボールにしか飛びかかれないフーバー」何度も何度も踵を落としていった。
不意に足に激痛が走り、踏みつけるのをやめた。その時初めてフーバーの目に、扁平に叩き伸ばされた段ボールが飛び込んできた。
我を忘れるほどの激情が過ぎ去った後、フーバーはその場に崩れてすすり泣いた。
開け放たれた搬入ゲートから、雲間に隠れた月が時折見え隠れしていた。
◆六月三十日
フーバーは朦朧とした意識のまま、周囲を見渡した。
そこは自分のアパートに間違いなかったが、昨日の朝出ていったときとはおよそ様相が変わっていた。サイドボードやテーブルの上にあったものはひとつ残らず床に叩き落とされ、服どころか泥まみれの靴までがペルシャ様式を模したカーペットの上に脱ぎ散らかされ、八年ほど前ガレージセールで買った大型スピーカー(高さがフーバーの胸までもある)の片方は驚くべきことに横倒しにされ、中央のコーン紙が引き裂けている。スティーブン・キングかウィリアム・ガードラー辺りなら、ちょっとした「怒れるインディアンの悪霊」で片を付けそうな荒れようだった。
当然ながらそんなはずもない。記憶には残っていなかったが、鈍痛をひっきりなしに与えてくる頭を巡らせるまでもなく自分自身の仕業だと知れる。怒れるインディアンの悪霊の代役を務めたのがベッドの周りをちょっと見るだけでも五本は転がっているハイネケンのビール缶であるのは想像に難くなく、横倒しになった一本から盛大にシーツに広がった染みが、苦悶に歪む中年男性の顔の形を取っているようなことも無かった。
「…………っ、」
呆けたように部屋の様子を見ていたフーバーの口から、しゃっくりがひとつ出た。カーテンの隙間から差し込んでくる陽光はかなり高く、それから習慣化した動作でぼんやりと部屋の隅に視線を向ける。
奇跡的に叩き落とされて無かった――ベッドからも入り口からも遠かったというだけの理由ではあったろうが――テレビの上の時計は、十時をとっくに廻っていた。
「……っ、」
もう一度しゃっくりが出た。間抜けな音だなと思った。それだけだった。
昨日までのフーバーなら、この時刻にまだベッドの上にいるなどという事実は、世界の終わりとほぼ同義だった。
実際今でも、わずかずつちりちりと背筋を登ってくる焦燥があるにはある――だがそれすらも、昨晩からフーバーの体内でとぐろを巻き続けているアルコールが生み出す倦怠感にあっさりと溶けていく。
昨日、激情が荒れ狂ったあとたったひとりで仕事をした。
自分でも何故それを放り出さなかったのかは解らない。ただ淡々と、何も考えずにひたすら仕事を片づけていった。
何もかもを終えてから、やはり何も考えずにドリンクコーナーに行った。電源を落とされてはいたものの、ガラスケースの中の売り物はまだどれもひんやりと冷たかった。
何も考えずにハイネケンを取りだした。一番好きな銘柄だった。何も考えずに持ってきたマーケット籠へ、一本放り込んだ。
それから何も考えずに、一ダース以上を手でかき落とした。何も考えずにもう一本を取りだし、プルタブを開けて中身を喉に流し込んだ。
そして何も考えずに、ひたすらビールを喉に流し込みながら車を走らせた。アンドレの山へだった。
アンドレは、やはり不在だった。ビールはひたすら喉に流し込まれていた。
その頃になるとフーバーの口からは、乾いた笑いと湿ったげっぷ以外のものは出なくなっていた。そのまま何も考えずに家まで戻った。事故を起こさなかったのは奇跡のようなものだったが、もうその時のフーバーの頭の中には脳味噌の替わりに犬のクソが詰まっているような状態で、奇跡を感謝することは出来なくなっていた。
ぼんやりと覚えているのは夜の三時までだ。ひょっとしたら交渉人か、さもなくばバートと電話で何か話したかもしれないが、その内容までは覚えていない。
電話機に目をやると、何処にもなかった。コードが力任せに引きちぎられていた。
フーバーはのろのろと、もう一度部屋を見渡した。手を付けていないビールを無意識に探していた。
薄暗く蒸し暑い部屋の奥に、ぼおっと光っているものを見つける。ドアを開けられたままの室内冷蔵庫の中に、ぽつんと一本だけハイネケンが残っていた。
フーバーはそこまで這い進んだ。十フィートも離れていないそこまで行き着くのに五分もかかったような気がした。プルタブを引き開け、緩慢な動作で一口飲んだ。
どれくらい開いたままになっていたのか、冷蔵庫の中身はすっかり室温に戻っており、ビールもひどくぬるかった。それでも胃に流れ込んでいく液体の感覚が、かすかに意識を醒ましてくれた。
そこで初めて、足に水が触れているのを感じた。冷蔵庫の製氷室から垂れ落ちた水だった。
フーバーは何も考えずに、冷蔵庫のドアを思い切り蹴りつけた。
凄まじい痛みが脛に生じて、それが更に意識を呼び戻した。唸り声を上げた。自分のものとは思えないほどしわがれ、怨嗟すら感じさせる声だった。
蹴って閉められた冷蔵庫のドアに、今度は正面から蹴りを入れる。ものすごい音がして冷蔵庫が揺れる。そのまま力任せに引き倒すと、更に大きな音を立てて冷蔵庫はカーペットの上に転がった。
ハイネケンの缶は、握りつぶされていた。残ったかすかな量を一気に飲み干した。
そこでやっと、自分が仕事着のまま寝ていたことに気が付く。発作的に笑いが漏れた。一度漏れだしたら止まらなかった――好都合じゃないか。すぐに出かけられるってわけだ。
薄馬鹿よろしく笑い続けて、首にかろうじて引っかかっていたネクタイをもぎ取る。
「あばよ、最愛のファッカーマネージャー。あばよ、うるわしの薄汚ねえ我が家」
ネクタイをカーペットに落として踏みつけると、フーバーはアパートを出た。
駐車場のフォードは雨と泥で汚れていた。タイヤをひとつ乱暴に蹴ってから乗り込む。先程冷蔵庫を蹴ったとき傷めた脛は耐え難いほどの痛みを疼きとともに伝えてきたが、構わずにハンドルを掌で叩き、思い切りアクセルを踏み込んだ。
免許を取ってから、制限速度表示を5マイルオーバーしたことすら無かった。構うものかとすら思わなかった。法律のことなど何も考えられなかったからだ。
何もかもがどうでもよくなっていた。何を考えるのも億劫だった。――たったひとつを除いて。
「あばよ、ぴかぴかの染みったれたフォード。あばよ、そこそこマシだと思ってた貧乏な暮らし」
ただその「たったひとつ」が八十万ドルなのか、アンドレへの憎悪なのか、もうフーバーには判断がつかなくなっていた。あるいはそのふたつがまったく同じものになってしまっていた。
アンドレの首根っこを掴んで叩きのめすことが、幸福に繋がっているのだと思った。何もかもが巧く行くとすら思えた。
アルコールと躁状態が生み出す狂ったような笑いとともに、フーバーは運転をしながらダッシュボードを掻き回す。目当ての品物はすぐに見つかった。頑丈なパンタグラフジャッキのハンドル。
「あばよ、俺の大事な大事なダディ。何も解ってねえクソバカ野郎」
国道から外れて、禿げ山になった廃鉱の測道を登っていく。満足に舗装もされていない山道を進んでいくと、やがて見慣れた小屋が見えてきた。
一瞬、このままフォードで突っ込んだらどれだけ爽快だろうという考えが頭をよぎった。代わりにジャッキハンドルを思い切り握りしめ、フーバーは車を降りる。かすかなニスと燻した木の臭いが、フーバーの中で煮えたぎる憎悪のシチューをゆっくりと掻き回す。
ドアノブを見ると、案の定施錠されていた。望むところだった。どれだけでも待ってやる。
錠前にジャッキハンドルを力一杯振り下ろした。一度目で南京錠を固定していたリングがあっさりとひしゃげ、二度目で根本からへし折れた。ドアを蹴り開ける。フーバーを待っていたのは見慣れた手狭な室内と、嗅ぎ慣れた胸のむかつく臭い、いくつもの剥製、そして、――。
「……よう、≪ジャック≫。剥製ファックの大将」
作業台の上に、それはちょこんと乗せられていた。ちょうどフーバーを出迎えるように。
ぱんぱんに膨らんだ、角と牙を生やしたウサギの剥製が。黒いガラス玉の目をじっとフーバーに向けて。
フーバーは暗い室内に踏み入り、早足で一直線にそこへ歩み寄ると、ジャッキハンドルを横殴りに払う。奇妙なウサギの剥製はあっさりと吹っ飛び、小動物の剥製が並べられている棚にぶち当たってから、棚の剥製たちをも道連れにして床に転がった。
「あばよ、お前はもう必要ねえんだ」
言葉にすると、素晴らしい爽快感が胸を打った。
「ずっとこうしてやりたかったんだ!」誰もいない小屋の中、フーバーは唾を飛ばして叫んだ。「不必要なガラクタどもが! どいつもこいつももう必要ねえ! お前らのクソ主人ともども、俺が区別無くケツを吹っ飛ばしてやる!!」
それから目に付くものは何でも、手当たり次第に叩き壊していった。帰ってきたアンドレが見たらどんな顔をするか、想像しただけで笑いがこぼれた。
どんな顔をするだろう。まずは痴呆みたいな間抜け面か。それから青くなって――いや、真っ赤になって怒鳴り出すだろうか。
(かまいやしない。どんな顔をしようが最後は這いつくばるんだ。俺が悪かったってな)
小一時間ほどのコーディネートで、アンドレの小屋はフーバーのアパートにも劣らないほど好みのスタイルにリフォームされた。作業台もテーブルもひっくり返され、薬剤の瓶はひとつ残らず砕け、棚はひとつ残らず破壊され、剥製たちは叩き伸ばされて中身のウレタンをぶちまけていた。
フーバーは精も根も尽き果て、しかし愉快な気持ちを抑えきれずに笑い続けていた。引き裂いた簡易ベッドに腰を下ろし、大きく息をついて部屋を見回す。朝起きた時とは比べものにならないほど気分は高揚し、満ち足りた気持ちだと思えた。
(もっと早くこうすれば良かったんだ。あばよ、可哀想ないじけ虫、人の顔色ばかり伺って何も出来ないチキン野郎のフーバー・モーリス。
そしてこんにちわ、無敵のスーパーマン、フーバー・モーリス)
ふと足元に視線を落とすと、あの奇妙なウサギの剥製があった。「大改装」の最中に転がってきたのだろうか、ジャッキハンドルで吹っ飛ばしたにもかかわらず傷ひとつなく、じっとフーバーを見上げている。
フーバーはそれを踏みつけた。スニーカーの底でぐしゃりと変形する感触を愉しみ、思う様靴底をねじりつけた。
竜を殺した聖ジョージになった気分だった。フーバーはげらげらと声を出して嗤った。
「お前を造ったご主人様も、すぐにこうしてやるよ」
呟いたとき、外でエンジン音が聞こえた。フーバーは顔を上げた。
その目は、狂的な光すら宿していた。アンドレが帰ってきたのだ。一昨日の夜から待ちに待った瞬間だった。
フーバーは息をひそめ、ドアの横に身を隠す。ジャッキハンドルを強く握りしめる。
まずは一撃くれてやるつもりだった。二十五年分無視し続け、下らない剥製作りに没頭し、結果マーケットの従業員くらいにしかなれない下らない人間に育ててくれた礼をしてやらなければ――そう、たっぷりと利子を付けて。
ベッドの方を振り返ると、ウサギの剥製がじっとこちらを見ていた。フーバーはそこへサムズ・アップを送り、それから親指を180度下に向けて見せた。
何人かの声と談笑が聞こえても、フーバーは怯まない。おそらく破壊されたドアを見たのだろう、話し声がぴたりと止まった時には忍び笑いすら漏らした。
人影がドアをくぐったとき、フーバーは奇声を上げてジャッキハンドルを振り落とした。
あっさりと、それは受け止められていた。
拍子抜けするほどの手際だった。人影は両手で掲げ持っていたライフルの銃身でジャッキハンドルを受け止め、反対にぐいとフーバーを押し返してきた。ものすごい力だった。
たたらを踏んだところに、腹に銃尻が叩き込まれた。容赦のない力がこもっていて、フーバーはたまらず身を折って吐いた。
下がった後頭部に一撃を喰らい、フーバーの意識はあっさりと何処かへ飛んでいってしまった。
☆
夢を見た。前に見た夢と同じものだった。
楽しげに笑う少年を、じっと観ている夢だ。他のものは何ひとつとして映さず、観ている自分自身をも感覚することすらできない映像のような夢。
他の光景は一切無い。音もない。臭いもない。触れるものもない。時間の感覚すら存在しない。
ただ、少年の笑顔だけが鮮明な夢。
(いや――)
朦朧とした意識の中、フーバーはかすかに感じていた。あるいは二度目であるということが、それを感じさせたのかもしれなかった。
感覚は――ある。おそろしく希薄だが、確かに存在する。
ふと気を抜けば、たちまちのうちに忘れ去ってしまうほど微細なものではあった。まして夢を見ている今、それを感じ続けるのはまったくの不可能だった。
だが水の中を漂うような、空間的酩酊をともなう意識の中で、時折ほんのかすかに感覚されるものがある。ごくごく小さな気泡が肌の表面を撫でていくように、ちくり、ちくりと意識の断片に触れているものがあることを感じることが出来る。
たとえば、自分の意識は決して何処か定かならぬところに浮かんでいたりするわけではない。
ふと思い出しかけて、また忘れ去ってしまう、そんな危うさではあるが、フーバーは時折自分が「立っている」感覚を思い出すことができるようになっていた。
地面か何か、固いものの上に自分は立っているか、もしくは立たされている。それがわかる。
無音ではない。音もちゃんとある。何の音かも定かではない、チューニングがろくに合わないラジオから聞こえてくるカナダ局のかすかなざわめきのように遠く、無音というノイズの中に聞こえたか聞こえないかという程度のものでしかなかったが、確かに時折耳に届いてくる音がある。
ただ、何もかもが遠い。浮かんでは消え、消えてはかすかに浮かぶ。
二度と感覚できないような気がして、それに茫とした危機感を覚え、ふと感覚したそれに何処とはなしに安堵のようなものを覚える。
死ぬ間際の人間の意識というものはこんなものかもしれないと、意識の片隅で思った。今まさに死のうとしている、次々と身体の何処かが死んでいく人間はこんな感じなのではないかと。
視界がぼやけ、物音も医師の声もはっきりとは聞こえず、明晰な意識を保つことも出来ない。死というものが緩慢にもたらす忘却に何処かしら怯え、何処かしらその忘却から逃れようと緩慢に足掻いている――。
それは直感だった。希薄な意識の中で稲妻のように閃いた連想だった。
少年を見ている「誰か」は、死に瀕している。もしくはそれに極めて近い状態にある。
(だとすれば、……「これ」は、俺じゃない?)
そしてフーバーの直感は、ついにその答えに行き着いた。
自分を客観的に見る夢はある。何か(この場合は感覚だ)を求めているのに、それが与えられない夢というのも見たことがある。しかし決定的に不自然なのは、少年の映像を自分が観ているというより観せられているという感覚の方が強いことだった。前は「カメラの映像を暗い部屋で見ている」と感じたものだが、今では控えめに言っても「カメラの映像を目以外すべてコンクリートで固められて見せられている」ような閉塞感と、第三者的な強制を感じずにはいられなかった。
(「これ」は誰だ。誰が見ているんだ。――『誰の夢』なんだ)
誰かが、この少年を見ていたのだ。今フーバーが見せられているように。ひょっとすれば今フーバーが感じている閉塞感や強制的な拘束も、まったく同じように感じながら。ずっと。
そもそもこの少年の笑顔がひたすらに鮮明であるのは――他の感覚が無いに等しいほど霞んでしまっているのは、この夢を見ている本来の「誰か」の意識がそうさせているのではないのか。だとすれば、この少年に今感じているまばゆいばかりの魅力や憧憬も、その「誰か」が感じているものなのではないのか。
(離してくれ)
思うように思考が働かない。泥の中で手探りする。釘付けになっている(されている)目と意識を切り離し、抑え付けられている他の感覚を取り戻そうともがく。
(俺を縛り付けてどうするつもりなんだ。――誰なんだ。誰がこんなことを、――)
『――こいつはな』
突如として、応えがあった。それはおそろしく唐突で、突然だった。
それまで無音だったその夢に、飛び上がるほどのボリュームと存在感を備えた男の声が加わったのである。まるでヘッドホンのスイッチを突然入れたかのように、声はフーバーの頭の中――というよりはフーバーの意識の中――に響き渡った。
もっとも、それがフーバーの問いに応えたものではないというのはすぐにわかった。少年が反応するように、やや上を見上げて微笑み――初めてこちらを向いたからだ。
瞬間、おそろしく複雑な感情がフーバーの中で荒れ狂った。
男の声が聞こえた瞬間、相変わらず好奇心に輝き、興味津々といった様子の少年と「目があった」瞬間、形容するのも難しい、ありとあらゆるものが浮かび、渦巻いた。それは喩えようもない歓喜であったり、泣き喚きたくなるような孤独感であったり、途方もない怒りであったりして、飢えや渇き、敵意といった原初的な感覚も混じっていた。それらは奔流となって瞬く間にフーバーの意識を埋め尽くし、洗濯機のように掻き回し、めちゃくちゃに翻弄した。
やめてくれと絶叫したつもりが、やはり声など出るはずもなかった。頭を抱えてうずくまりたかったが、それも不可能だった。
(やめてくれ。やめてくれ。もうやめてくれ。もう離してくれ。もう離して。モウ離シテ。モウ殺シテ。コロシテ――)
誰のものかも判らない、感情という名の爆風に吹き散らされるフーバーの耳元で、その声はこう言った。
『こいつは、≪ジャック≫って言うんだよ。フーバー』
――コロシテヤル。
其処で目が醒めた。ニスと燻した木の臭いが鼻を突いた。
いつの間にか、自分は簡易ベッドまで運ばれ、仰向けに寝かされていた。裸電球の灯りが部屋をつつましげに照らしており、陽が暮れていることが判る。ずいぶん長く気を失っていたらしい。
後頭部と脛が猛烈に痛み、吐き気もまだ残っていた。思わず呻き声が出る。それを聞きとがめたのか、
「目が醒めたかい、お若いの」
声をかけられた方へ視線を移すと、何人かの男たちがいた。全員知った顔というわけではなかったが、何人かは見覚えがあり、そのことがフーバーをひどく驚かせた。
「まあ、よく寝ていたもんだ。多少うなされておったがね。
あまり夜更かしをするなと忠告したはずだが……愚痴るようでいささかこっ恥ずかしいがね、若いの、まあまったく忌憚のないところを言わせてもらうに、今の若い連中はもう少し儂らの忠告を真摯に受け止めるべきだと思うぞ。そう、もうほんのちょっぴりだけな」
声をかけてきたのは、浅黒く日焼けした老人だった。タータン・チェックのシャツにサファリ・ズボンという出で立ちを見るまでもなく、二日前に店にやってきた「M700の」老人だと判った。
「……それができたら、もう『若い連中』じゃなくなるよ、ミスター・コープランド。それにアンタがコイツくらいの若い時分、聞き分けがよかったって証拠でもあるのかい?」
やんわりと口を挟んだのは、五十を過ぎようかという禿頭の中年だった。フーバーはあまり出向いたことはなかったが、人当たりのよさそうな笑みとエプロン姿――この小屋におよそそぐわない格好ではあった――の長身はジョン・ディブロに間違いなかった。ディブロの店のオーナーである。
「それでもな、ディブロ、コイツはとびきりの札付きだね。大人しそうなツラしやがって、店のビールをしこたまかっさらい、それですっかり出来上がっちまった挙げ句に、テリー・サバラスみたいな無頼を気取って大立ち回りをやらかしたってんだからな!」
そして何より驚いたのは、悪意たっぷりに嘲笑を投げて寄越した男がスウェインだったことだ。最後のひとりがアンドレで、四人は床に直に腰を下ろし、どうやら今までカードに興じていたようだった。
全員が全員、アンドレと繋がりようがない顔ぶれだった。ディブロはまだともかくとして、他の州から来た皺深い老人に、ましてスウェインと来ては、最低でもこの小屋にいることが何かの間違いとしか言いようが無く、フーバーはすっかり毒気を抜かれて絶句していた。
しかし、本当に驚くのは更に頭がはっきりしてきた時だった。
床に四丁置かれた狩猟用ライフルと、全員の服装――と言うよりは、全員がどこかしらに身につけているオレンジ色を見たときだ。老人は前に見たときと同じく大きな幅広のスカーフ、ディブロは頭にバンダナとして巻き付けており、スウェインとアンドレに至っては袖無しのハンティング・ジャケット。
全員が首から紐で吊りさげているカードのようなものは、許可証だろうか? 四人が四人とも、完全なハンティング・スタイルをしているのである。
「まあ、ホントにコイツには困ったもんだ」呆けているフーバーを面白そうに見つめ、スウェインがからかうような声を出す。「人がせっかく気を利かして此処から遠ざけてやってたってのに、その礼がビール一ダースのちょろまかしと来た日にゃ、俺も報われねえよ――ああ、別にくさしてるワケじゃねえんだ、アンドレ。何から何まで、俺が勝手にやったことだからな」
「遠ざける……?」
「必要なことだったんだよ、フーバー君。きみはすっかり連中の口車に乗せられていたし、そのことでずいぶん思い詰めていたようだったからね?
残念なことだが、六十万ドルの化石発掘とやら言うあれは――」
「……! そうだ、六十万ドル!!」
スウェインに替わって応じたディブロの台詞で、フーバーは此処に来た目的を思い出して身体を起こす。途端に頭の痛みは耐え難いほどになったが、先刻からずっと黙りこくっているアンドレを睨みつけることだけはどうにかやり遂げることが出来た。
瞬間、憎悪と怒りが甦った気がした。しかしそれはふっと揺らいで、あやふやな混乱の中に紛れてしまった。
アンドレが、じっとこちらを見つめていたからだった。背中を向けることも、目を逸らすこともせずに。
そのことにいくらか怯みつつ、口を開こうとするフーバーを遮ったのも、やはりアンドレだった。小さく首を振って、ポケットから携帯電話(アンドレがそんなものを持っていることは驚きだった)を取りだし、
「……バートは、間に合わなかった」
それだけを言った。
その瞬間、四人の間に気まずい雰囲気が流れた。ディブロは哀しげに首を振り、スウェインは忌々しげに嘆息し、老人は真剣な顔つきになってアンドレに頷いていた。
「かけてみろよ、その交渉人とやらに。番号知ってるんだろうが?」
差し出された携帯電話の意味を測りかね困惑するフーバーに、スウェインがぼそりと告げる。いつものきつい目つきでフーバーを睨みつけているように見えたが、実はどうやら携帯電話に視線を向けているのだと知り、フーバーはいよいよ困惑を深めた。
気付けば、残りの三人もフーバーと――電話をじっと見つめている。まったくどうしていいのか解らなくなったフーバーは、渋々うろ覚えの番号をプッシュしようとして――。
突如、携帯が鳴りだした。びくりとしたフーバーは、携帯を取り落としかけた。
視界の隅で「やっぱりかよ」と吐き捨てるスウェインと、驚いているディブロが映っていた。目を携帯電話に戻すと、やや旧式のディスプレイ上に見覚えのある電話番号が点滅していた。ロサンゼルスの事務所に繋がる番号だった。
通話ボタンを押して耳に当てると、やはり聞き覚えのある声がはっきりと響いた。
「ハロー。やあフーバー、私です。ご機嫌は如何ですか?」
タフで快活を絵に描いたような明朗な声は、交渉人のビル・クラークに間違いなかった。
反射的に「どうも」と返事をしかけ、その奇異な状況に戸惑う。アンドレとビルは連絡を取り合っていたのか? それにしてもこのタイミングの良さは何だ?
「……いえ、ビル? ……その、どうして、」
何を聞いて良いのかわからず言葉を詰まらせるフーバーに、ビルはおおらかに笑って答えてくれた。
「残念でした、フーバー! 貴方がここまで使えないボンクラだとは思っても見なかった!
せめて御父上に一発くれてやるくらいはしてくれると思ってたのに! うじうじロクでもない御託を並べる貴方をあんなにも励ましてあげたのに! 我々の『捕虜』を虐待なさるのも目をつぶってあげたのに!」
フーバーは、理解できずに硬直するだけだった。自分が何を言われているのかも判らなかった。
夢から覚めたつもりが、まだ夢にいるようだった。だとしたらとびきりの悪夢だった。
何も言葉がでてこなかった。体が震えだした。ビルはまだ陽気な口調で喋り続けていた。
「ああもう、こうなったらどうにもなりません! 其処の殺し屋どもにすっかりばれていたなんて! 土壇場で我々も見事に出し抜かれました!
仕方ないので、普通に皆殺しにして差し上げます! 全員突き殺して、そのあと綺麗に喰ってあげます!
貴方も例外ではありません! と言うかとっとと死んじまってください、この吐き捨てられた痰野郎!」
ただ震えて聞き入っているフーバーの手から、そっと電話が取り上げられた。
顔を上げると、いつの間にかアンドレが横に立っていた。アンドレとフーバーの目が合う。寡黙で無愛想な父親は相変わらずで、しかし決して自分から目を逸らすことはしなかった。
たったそれだけのことで、フーバーはあれほど荒れ狂っていた憎しみを忘れてしまっていた。
アンドレは陽気に喋り続けているらしい受話器に向かって口を開く。たった一言、
「あと一時間だ」
それだけで、さえずりつづけていた声が止まったのだ。
「一匹残らず狩り出す。覚悟しているがいい」
通話ボタンを切る瞬間、通話口から何かが聞こえてきた。それはフーバーの耳にもはっきりと届いた。
背筋の凍るような、なにか獣の咆哮だった。
ただの獣ではない。ただの獣の叫びが、あれほどまでに悪意に満ちているはずがない。
そしてフーバーは悟った。理屈ではなく直感で分かった。
あの夢をフーバーに見せていたのは、――あいつだ。今咆哮を上げた何かだ。
あの瞬間感じた悪意と憎悪は、あの夢の最後に感じたものと同じだ。あれはあいつの意識だったのだ。
だとしたら、あいつの正体は。
他の感覚を全て遮断され、指一本動かせないどころか、体の感覚さえもほとんど存在しない、何処かに無理矢理立たされている、「我々の『捕虜』を虐待なさった」、――。
『こいつは、≪ジャック≫って言うんだよ。フーバー』。
フーバーは慌てて小屋の中を見渡した。そしてそれを見つけた。
床に転がされて、今やその腹にハンティングナイフを突き立てられたもの。
黒いガラス玉の目。体よりも長い角。そぐわない尾羽。いびつに映る牙。
「連中、とうとう携帯電話まで持ちやがったかな」
「誰かを誘い込んで奪ったということかい?」
「わからんよ。連中のことだ、電話線に直接割り込むくらいのことはやりかねん。何せ月の出ている晩は連中の天下だ――」
議論し合っている三人へ、アンドレが「他の連中の用意は?」と静かに尋ねた。老人がそれに頷き、不敵な笑みを浮かべる。
「仲間たちはもう斜面の反対側に廻っとるはずだ。アンタの弟さんの土地は連中の手に落ちたが、なあに、すぐに取り返してみせる」
「カービー爺さんたちは正面から行くらしいぜ。俺とディブロはハンクスたちのグループに付く。せいぜい追い立ててやるさ」
スウェインが猟銃を取り、中折れ式の薬室を覗き込んで装弾を確かめた。再び銃身を戻すときの「がちゃり」という音がものものしく響く。
四人の顔に、今までとは違った表情が見え隠れしはじめているのにフーバーは気付いた。何処か決意のようなもの、覚悟に近いものを漲らせた顔だった。
不意に、アンドレが膝をついてかがみ込んだ。フーバーの肩に手が置かれ、目線が同じ所に来た。
数秒ほどの沈黙の後、アンドレはまったく唐突に口を開いた。
「……連中が必要としていたのは『承諾』だ。連中は不滅に近い肉体を持つが、どういうわけかその一方で言葉による約束を重視する習性がある――」
アンドレは、噛んで含めるようにゆっくりと話し出す。
「曾祖父さんは、連中とみっつの約束を取り付けた。
ひとつは連中と人間の領土をはっきりと定めること。自分たちの領土でならどれだけ好きなことをし、力を振るってもいいが、移譲を『承諾』させていない土地――人間の領土では、その魔性を以て我々に危害を加えてはならない」
老人も、ディブロも、スウェインも口を挟まない。
ただ真剣な――何処か敬虔とも言える――表情で、訥々と話すアンドレを見守っている。
「第二に」アンドレは其処でちらりと床にナイフで縫い止められている剥製を見た。「連中の『捕虜』が置かれてある場所に近付いてはならない。『捕虜』を取り返そうと思ったらその土地を移譲させるか、その土地の持ち主に『捕虜』の返還を『承諾』させるしかない」
そしてフーバーは、理解できない。と言うよりは思考が現実に追いついてこない。
何もかもが荒唐無稽で、信じられるようなものではない。今でも全員が揃って自分を騙しているのではないかと、頭の隅で思っていた。
しかし。
「そして三番目。六月三十一日に限り、人間は連中の土地に侵入しても構わない。その際、連中のすべては人間の武器で『傷つかなくてはならない』。
……曾祖父さんはこの三つの約束を利用して、この地に住みついていた連中を狩り出し、あるいは捕らえていった。やがて残った連中もすべてこの山――廃窟のひとつに封じ込めることに成功した。それからこの山を廃鉱にして、誰も此処に近付かないようにしたんだ。連中に、誰ひとりとしてうかつに『承諾』を与えないように……」
アンドレの話は信じられなかった。というより理解できなかった。
しかし、だからこそ思った。今から思えば奇妙とも言えるここ数日の自分を思いだして、アンドレやディブロたちを見ていて、あのおかしな六十万ドルの交渉人と話して、あの凄まじい咆哮を耳にして――。
アンドレの、じっと自分を見つめる視線を感じて。
ひょっとしたら――と思ったのだ。
――ひょっとしたら、「何もわかっていなかった」のは――。
そこで初めて、老人が口添えした。レミントンのM700をスリングで吊り下げ、ゆっくりと腰に手を当てて立ち上がりながら。
「連中はおそろしく利口で、巧みな話術で人間を陥れるのさ、お若いの。連中の手に乗らない一番の方法は、連中に人間と口をきけなくさせることだ。ウォーカー・モーリスはそれを解っておった」
「俺なんかはいつも思うんだがね。――よく『承諾』させたよな、そんな不利な内容」
「ミスター・モーリスが、それだけ偉大な山師だったということかな?」
スウェインとディブロが、同じように立ち上がった。二人ともストアで買った懐中電灯を胸ポケットに突っ込んでいた。
最後に、アンドレが立ち上がった。
「いや。おそらく連中が人間を侮ったんだ。だからこそ自らが不利になる約束にも敢えて『承諾』した。あるいはちょっとしたゲームのつもりだったのかもしれない。
……そうはさせん。連中を狩り出し、バートの土地すべてを『捕虜』で囲い込む。一匹も逃がすわけにはいかん」
同意する三人に頷き返し、それからアンドレは腕時計を眺めた。そろそろ時間だ、と呟く。
それからフーバーに向き直り、そっけなくただ一言、
「お前は、此処を動くな」
それだけを言った。そして外へ出ていった。たちまち夜の闇がアンドレを見えなくさせた。
「さて、では儂らも行くか。――じゃあな、キモ・サベ。運が良ければまた会えるだろうて」
老人がそれに続いた。ディブロは老人の古臭い見栄に苦笑して、フーバーに軽く手を振ってから消えていった。
最後に、スウェインが残った。
でっぷりと太った陰険そうなマネージャーは、にやりと笑ってフーバーに指を突きつけた。
「生きて戻れたら、お前の叩き潰した段ボールとハイネケンについてじっくり絞ってやるぞ、フーバー? 泣きたくなるような減給くらいは覚悟しておけ」
そして、『ガンズ・アンド・ローゼス』の歌を口ずさみつつ出ていった。ジャングルへようこそ。俺たちは日々を生きていく。気を緩めたら代償を払うことになるぜ――。
あとにはぽつんと、フーバーだけが残された。
寂しさや恐怖は感じなかった。まだアンドレの話を理解できていなかったからだったのだが。
ただ簡易ベッドに腰掛け、呆けたままの顔で四人が出ていったドアを見つめていた。
床に縫い止められたままの剥製を見た。別段動いたり吠えたりするわけでもなかった。もうその顔はこちらを向いてもおらず、ガラス玉の目でじっと天井を見上げているだけだった。
どれだけの時間が経った頃か、遠くから銃声のような響きがいくつも聞こえてきた。フーバーは一度だけその方向を見やり、それからぼんやりと腕時計を眺めた。
時計は、いつの間にか止まっていた。壊れたのかと思って振ってみた。文字盤は動かなかった。
針は、ジャスト零時を差したままだった。
「六月三十一日」が来たのか、とふと思った。
◆六月二十七日
店にその男が来店したのは、夕方近くだったと思う。
ブレンダはそのことをよく覚えている。顔はまったく見覚えがなかったが、男の格好が奇妙だったから印象に残っていたのだ。
男はレザーの上下(このクソ熱い最中にだ!)とサングラスをかけ、店に入ってヘルメットを脱いだところだった。四十代ほどの中年だったが髪はぼさぼさのまま伸び放題で、まるでヒッピーが『ボーン・トゥ・ビイ・ワイルド』のDVDを観てフラワー族に宗旨替えしたかのような奇天烈な見た目だった。
しかし何より、黒のレザーの上から腕と言わず胸と言わず、至る所に巻きつけたりピンで留めたりしてあるオレンジ色の端切れはいただけなかった。せっかくの黒いレザージャケットは所々オレンジ色のパッチワークに浸食されて台無しになっており、およそいい服装センスとはお世辞にすら言いがたかった。
男はポケットに両手を入れて、入り口から店内をぐるりと見渡した。勝手が掴めずにいるようなのは一目でわかった。
さすがのブレンダも、あまり親しくなりたいとは思わない手合いだった。今日に限って入り口に一番近いレジについてしまった自分の不幸を嘆くことも許されず、仕方なさそうに首を振った男がこちらに歩いてくるのをちょっとした絶望とともに眺めていると、
「いらっしゃいませ。何をお求めですか?」
救い主は意外なところから現れた。ちょうど在庫を運んできて棚に並べていたフーバーだった。
男は突然声をかけられ驚いたようだったが、しばらくフーバーと話していたようだった。やがてフーバーはひとつ頷いた。
「――12ゲージのバックショットを? 右奥に専門コーナーがありますよ。こちらへ」
全てわかってるからお任せを――。
そんな表情で、にこやかにこう言った。
「ようこそワイオミングへ。解禁日はもうすぐです」
了
――「Jack a lope(四足の動物がゆっくり走る/大股の走り方/跳ねるような走り方を示す。『跳ね回るジャック』の意)」と書いてジャカロープと読む。外見は角を生やした齧歯類(※鹿の角を持つウサギと言われるのが一般的)。アメリカのワイオミング州で「州獣」として認定されている幻獣で、ダグラスでは捕獲許可証(※暦の上で存在しない「六月三十一日」に限定されているが)が実在するほど。センターストリートではその彫像を見ることができる。
ジャカロープのような「角の生えたウサギ」の伝承はヨーロッパが起源であり、ドイツでは『ヴォルパーティンガー』と呼ばれる同類が存在している。こちらについてはジャカロープよりももっと古くから伝わっていて、十六世紀を代表する博物学者のひとりゲスナーが自著で触れているところによると「鹿のような角と狼のような牙を持ち、月夜の晩に人語を話す」とある。
【幻獣辞典】より
FIN.