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『〜幻獣辞典〜』
こあとる著
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 昼食を誘ったのは槙村からだった。

 スタジオを出てから数分のところにスパゲティ専門店がある。カウンターのみ、十人も入ると満席になってしまう狭い店なのだが、趣味の良さと味の方は申し分ないと思った。
 神田と店に入るとき、圧倒的に重要なのは前者だ。
 今まで仕事の関係と私的な付き合いをあわせ、もう数え切れないほどこういう機会があった。しかし店を出た後、スタジオに戻ったり事務所に移動する途中に、神田がその店の味について愚痴をこぼしたことは数えるほどしか無い。
 味は二の次――というほどのものではないかもしれない(槙村は逆に、味にはうるさいつもりだった)。しかし神田がときに食事もままならなくなるほど気にするのは、決まってそれ以外のある一点だった。
 連れてこられた神田の第一声は案の定、

「……悪くないね。スパゲティにジャズとはすこし意外な取り合わせだけど、ジミー・スコットを選んでるのは気に入ったよ。スピーカーを七つ使ってるな。ボリュームの大きさも音質もいい。
 唯一の難点は『オール・ザ・ウェイ』だってことだ。選曲はベストだけど――」
「CDですか?」
「ご名答。君なんかはいい加減耳にタコが出来てるんだろうが――やっぱり好きになれないな」

 そんなことを言いつつも、神田がこの店を気に入ったのは一目でわかった。
 カウンタースツールに腰掛けて、形式上神田にメニューを示す。「まかせるよ」といつもの返事。すこし思案してからペペロンチーノとコーヒーを注文した。出てくるまでの間話を続ける。

「神田さんのCD嫌いも相当なものですね。ここ十五年の業界は踏んだり蹴ったりってとこですか」
「こんなもの絶対流行らないって思ったね。初めの頃と比べれば随分マシになったけど」

 おおげさにため息をつく神田にとりあえず「ご愁傷様です」と返しておく。同じようなやり取りは今までにも何度かあった。最初大真面目に頷かれたときは笑ってしまったものだ。
 神田は見た目三十半ばほど、槙村とあまり変わりないように見える。外見を一言で顕すなら、「魅力的な男性」ということになるのだろうか。
 どこか日本人離れした、アジア系の整った顔立ち。滑舌のきれいな淀みのないテノール。いつもゆったりとして落ち着いた所作。
 派手目の特徴が、きっちりと調和して納まっている。業界屈指の音楽プロデューサーにして評論家などという肩書きよりも、現役の二枚目男優とでも名乗った方が納得する人間も多いかもしれない。
 もっとも、槙村でさえ彼が歌を歌っているところなど見たことがない。
 神田は常に聴く専門だった。――文字通りに。「聴く」ことにかけて神田は超一流だった。
 音楽でありさえすれば、それはたちどころに神田の耳に入った。クラシック、ジャズ、ロック、ポップス、フォーク、演歌、民謡、レゲエ、ラップ、ありとあらゆる種類の音楽を好み、愛して止まない。甘いマスクだけが売り物のアイドル歌手や話題性だけで収録された即席ユニットの新譜など一刀のもとに斬り捨てるが、歌唱力のある、それでいて芽のでない新人は筆の限りを尽くして擁護し、ときにみずからプロデュースし、ときに熱弁を振るって他のプロデューサーを説得する。
 音楽に対して、神田は偏執的なまでのこだわりを見せるときがしばしばあった。
 そしてそのひとつが、デジタルメディアに対する嫌悪だった。

「そんなに味わいがないですか」
「無いね。みんなどうして平気なのかな……僕は正直我慢しきれないよ」
「それは同情しますけど、だからと言って仕事もほっぽり出してこっそりコンサートに行くってのは行きすぎだと――」
「仕方ないだろう? F・クリステラの久しぶりの来日だよ? しかも≪SEENA≫とのジョイント・コンサートときた日には、僕がどれほど楽しみにしていたか君は理解できないのかい?
 僕は飢えていたんだよ、槙村君。後でCD発売されるから? MP3でブート? 冗談じゃない――『搾り立て』がいいんだ」

 CDに代表されるデジタル録音は一般的に、人間の耳に聞こえない音域を意図的にカットしている。
 これがレコード派などのいわゆる「通」な人間には気に入らないらしく、レコードにおける中音域の強調とあわせてしばしばCD攻撃の際の材料にされる。
 槙村にはさっぱり解らないが「音に深みがない」というわけだ。そして神田もそう主張するひとりであった。
 ひとつだけ他の人間と違うところがあるとすれば、

「君に解りやすく表現するならば、だ」神田は出てきたスパゲティをフォークに巻き付けながら、「君が頼んだペペロンチーノに、唐辛子とニンニクが利いていなかったらどうする? そういう調理方法の店だとしても、もうその店にはとりたてて行きたいと思わないのではないかね?」
「唐辛子とニンニクは、入っていなければすぐわかると思いますけどね。CDの音域と違って」
「そこだ。まさにそこさ、槙村君。
 僕にはすぐわかる。いいかい、すぐだ。君がペペロンチーノにニンニクが入っているかどうか判断するのと同じくらいたやすく、一発でだ」

 人間の可聴音域は、本来20ヘルツから20キロヘルツと存外に幅広い。ただその範囲内で「音程として感じられる」音域となると、ピアノの八十八鍵内程度であると言われている。
 神田は違う。
 一度だけ槙村はその場に立ち会ったことがある。特殊な九十七鍵ピアノの最低音C――人間の可聴音域を下回る16ヘルツのそれを、神田はあっさりと聞き分けることが出来たのだ。
 絶対音感、などという生易しいレベルの耳ではなかった。

「僕にとってCDと言うのは、ニンニクと唐辛子の入っていない――控えめに言っても少ないペペロンチーノなのさ。食べられないことはない、まあ調理法によっては不味くもないかもしれない……でも美味しいとは思えない。少なくとも僕にとってはね」

 寂しそうに神田が呟き終えたとき、『シカモア・トリーズ』が終わった。アルバムの最後の曲。一瞬店内が静かになる。槙村がかちゃりとフォークを置く音がやけに大きく聞こえた。
 不意に、神田が槙村を見た。槙村はその神田の変化に驚いた。

「君には、…………わからないかい?」

 寂しそう、ではなかった。その顔はどうしようもないほどの寂寥と哀しみに崩れかけていた。
 何故理解が出来ないのか。どうして自分のこの想いを共感してくれないのか――神田は今にも泣きそうなほどに表情を歪め、槙村を見つめていた。
 槙村には、そんな神田の突然の変化が理解できなかった。他に数人いた客も、何事かといった調子で神田たちを見ている。
 ただ目を白黒させる槙村に、ずいとスツールから身を乗り出して、

「わかるだろう? 君ならわかってくれるだろう? だって君は、こんなに――」

 トーンの上がりかけた神田の声が、そこで唐突に止まった。
 再度の変化もまた劇的だった。目を見開いて、ぱっと正面に向き直る。一番手近なスピーカーを凝視していると気付いたとき、槙村にもその音が聞こえた。

 ぶつり、ぶつりと言う籠もったような音。
 やがてすぐに、古めかしくもやわらかなイントロが流れ出す――。

「――『They say It’s Wonderful』だ!」神田にはすぐに判ったらしい。「それもLP盤! 『Falling in Love is Wonderful』だね? そうだろう?」

 槙村はそのやり取りをきいてようやく思い出す。
 あの最初の音、――あれはレコードだ。
 子供の頃に聞いて以来、ずっとCDばかりだから忘れていた。針が盤面を読むとき、いの一番にほぼ必ず出る音だ。
 先刻とは一転、子供のようにはしゃいでいる神田に、店のマスターはほんの少し得意げな顔で付け加える。

「オリジナルのステレオ盤です。ちょっとした宝物ですよ」
「ちょっとした、だって!? ハーマン・ルヴィンスキの糞ったれが販売直前にくだらない横槍を入れたおかげで、四十年お預けを喰らった幻の名盤だ!」そこまで叫んでからようやく――周りを気にしたのでは絶対にないのだろうが――声を潜め、恍惚とした顔で音に聞き入る。「僕だって散々探し回ったんだよ。でも……ああ、フィラデルフィアで聞いて以来だ、この声――この音!」

 マスターと槙村は目を見合わせた。マスターが不思議そうに首をかしげるところに、槙村が面白そうに笑って見せた。
 何度か行きつけた気安さもあって、小声でマスターが聞いてくる。

「……このお客さん、いくつなんですか? このLPが流れたのは60年代初頭で――」
「……不思議だろ?」

 「俺に聞くな」と言う意味を含めて、スパゲティをフォークに巻き付ける。ただこうなった神田が食事も手に付かなくなることは、今までのつき合いからわかっていた。
 神田はとても幸せそうだった。
 ペペロンチーノは、絶品だった。


 ☆


「いい店を紹介してくれてありがとう、槙村君。毎日だって来たいな。
 ……ああ、そうそう、スパゲッティも美味しかったしね」

 店を出るときにまでそんなことを言う神田に、マスターは終始苦笑していた。
 スタジオの入っているビルへと上機嫌で戻る神田に並び、槙村も歩き出す。
 途中ふと思い出して、聞いてみた。

「そう言えば神田さん。――さっき言いかけたことがあったでしょう」
「言いかけた? ……ああ、あの店の中でかい」

 照れたように神田は背を丸め、「済まなかったねえ」と笑った。

「ちょっと興奮してしまってね……。悪かったよ」
「いえ、それは気にしてませんよ。でも何か言いかけてたじゃないですか。
 ええと? 『君はこんなに』……とか何とか」
「ああ、ついね。勘弁してくれよ、これでも恥ずかしいんだ」
「気になりますね」言いながら、ちょっとした意地悪心が湧いてきた。「教えてくださいよ。お詫びって線はノーカンにしちゃったから、あの店を教えたお礼に、ってのはどうです?」
「…………敵わないな、君には」

 食い下がると、あっさり神田は負けを認める。
 ばつが悪そうに口元だけで笑ったあとで、悪戯を告白する子供のように目を逸らしながら、

「君は、……美食家で健啖家だからね」

 そんなことを、言った。

「は?」
「君は料理の味にはけっこううるさいだろう? 今まで連れていってもらったところで、僕自身が不味かったと感じたところはひとつもなかったよ。
 和食、洋食、中華、イタリアン、フレンチ、インド料理なんてのもあったっけな。いろいろ教えてもらったけど、何処もおいしい店ばかりだった」
「それは、……どうも」
「その一方で君は、きちんと音楽も理解できる。……嗜好というものを、理解しているのだと思う」
「はあ――」

 生返事を返す槙村に、だからね、と神田は笑う。

「だから、つまり……僕と似ているって言いたかったんだよ」

 曖昧に言葉を選んでいるのを感じたが、槙村にはよくわからなかった。
 とりあえず、おぼろげに感じたことを口にしてみた。

「まあ、言ってみれば逆なんですかね。俺と神田さんは」
「逆?」
「俺は、音楽――嗜好よりメシ。神田さんはメシより嗜好ってね」

 槙村も、音楽は好きだ。この業界に携わったのも、もとはと言えば好きだったからだ。
 食事中に、ムードにあった音楽がかかっているのも好きだ。談話室も名曲喫茶をよく使う。酒を呑むときも音楽をかける。
 無くてもかまわない。でもあった方がいい。
 何より音楽を優先する神田には敵わないにしても、槙村にとって音楽はそのくらいの価値があった。
 なるほどね、と神田は微笑む。ビルの正面玄関に着く。
 自動ドアが開く瞬間、神田がかすかに呟いた。

「…………ほら。やっぱり同じじゃないか」

 それは、本当に小さな声だった。自動ドアの音に消されてしまうほどの。
 聞きとがめた槙村が視線を向けると、愉快そうな、けれど少しだけ寂しそうな神田の横顔が見えた。それきり話はお終いになった。
 ビルの中は、スタジオ関係者たちで慌ただしかった。何人かのスタッフが槙村たちに頭を下げていく。それに応じながら、槙村は懐からシステム手帳を取りだしてめくった。

「さて、もうひと仕事です。くだんのクリスマスコンサートの件で緒方さんと打ち合わせ、それから先日の新人くんのアルバム収録――神田さんも出られるんでしょう?」
「ああ、そうか……そっちもあったんだった。ちょっと不安だな」
「大丈夫でしょう? 神田さんが拾ってきた子だ」
「いや、そのことじゃなくてね」
「他に何か?」

 神田は苦笑して、――何故か腹を押さえた。





 今、満腹なんだよ。





■『異食』の巻■



 了


 ――プリニウスの『博物誌』には、ガンジス川の流域に棲息するアストミ(※「口無し」の意)という亜人に関する記述がある。
 生まれつき口が無く、代わりに大きな鼻を備え、林檎の花の「匂い」だけで生きるという奇妙な生物だが、『アレクサンドロス大王物語』に登場するイクテュオパゴイ、インド神話のガンダルヴァなどもこれと同様に「芳香」のみをもって食料とするという共通点を持つ。

 彼らの生態が考え出された要因が、「豊かな芳香がもたらす幸福感」にあるのだとしたら。
 火の中に火蜥蜴が棲むが如く、それとは異なる「幸福」を糧に生きるものもいるはずである。

【幻獣辞典】



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