| 小説目次 |
| 『夜飛ぶホタルに』 こあとる著 <MAIL> |
……誰やアンタ。
刑事さん? 刑事さんが、なんの用なんか。
『後藤尚一』?
………ああ。
ああ、覚えとるわ。うん。『ショーイチ』やろ? うん。
小矢部のタコ部屋で、一緒やった。
……おう。あんとき、ショーイチ消えてまったんや。ポリが来て、……おっ、こりゃスマンのう……みんなすごい騒いどった。
……そうや? いなくなってまってん。あら、びっくりしてしもたわいや。
……カントクや互平のとっつぁんにも聞いたんか。そいで、ワシんトコ来たんか。ま、話せゆうんなら話すけども。
ああ、ああ、覚えとる。あんときのコトぁ、ようくな。
ワシぁあんとき、しょんべんしに外出たんや。タコ部屋やったし、便所外にしかなかって、ほいでな。
ほしたら、ショーイチが立っとってんて。何か空見上げてかって、ぼーっとしとってん。……そうそう、ちょうど雑木林切り開いた空き地があってんけど、そのど真ん中で、こう、ぼーっとなぁ。
……だぁれも、あの時のこたぁ信じてくれんのや。ワシぁ確かに、この目で見てんて。今でもきぱっと思い出せるわ。んなのに、みーんな「呑みすぎた」言うげん。呑んでないゆーとるのになあ、……っだらが。
……ああ、わかっとるて。ショーイチのハナシやろ?
ワシぁ、声かけてんや。おおいショーイチ、いうてな。そんときゃめちゃめちゃ寒かったから、何しとれんや、てな。
ショーイチ、ぜんぜん聞こえてなかってんかなあ。そのまま、ぼーっと空見上げとるままでおったわ。ワシも寝ぼけとらんや思って、帰ろうとしてん。
そんとき、ショーイチがこっち見てんや。
……ああ、ちがうわ。ちがう。あんときショーイチが見たんは、ワシじゃない。ワシ、ショーイチとはよう呑んだんや。よう話したんや。あんな目で、ショーイチがワシのこと見るなん、あるはずないがいや。
ワシが思うに、ショーイチはあんとき、ワシの後ろ見とってん。
……そうや。ワシの後ろにある、タコ部屋見たんや。
まだそんな遅くもなかったから、みんな寝とらんかった。部屋の窓にはいっぱい電気ついとった。その明かりが、ショーイチの方まで伸びとった。
その窓、その窓についとる明かりを、ショーイチは睨んどったんや。
もう何ちゅうのか、ワシ、ぞっとしたわ。あわてて木の陰にかくれた。
殺されるんじゃねえか、て思った。
どんだけそうやっとんたんか、気が付くと、ショーイチはもうそこにはおらんかった。ワシはぶるぶる震えて、ひとりでそこにおっ立っとった。
どっかで、何か吠えとったなあ。山犬の声か。……違うな。うおーん、じゃなくて、がおーっ、ってカンジやったなあ。
……ああ? いや、やから、そんで話は終わりやって。そんだけや。
……わかってるわ、刑事さん。アンタも、信じてないんやろ?
がおーっ、って吠えてかって、ああ、哀しそうでなあ。
……ああ、あんときぁ、月が綺麗やった。
あおくて、つめたくて、そりゃ綺麗でなあ…………。
煙草の紫煙が、空に昇っていく。
覆面パトカーのドアにもたれかかって、工藤宋介は空を見上げていた。珍しくすみわたった青空が紫に変わる時間だった。
時計の針は六時を刺している。もう陽も暮れようかという時間だったが、工藤のほうは途方に暮れていた。
「……どもこも、ならん……」
がりがりと頭を掻く。煙草の煙を深く吸い込む。
ここ数日というもの、殺された『後藤尚一』という人物について聞き込みを続けていたのである。実家とその近所はもとより、前に勤めていた土建会社、そのもと上司、同僚、果ては当時の行方不明事件を調査していた刑事にまで連絡を取ってみたが、わかったことはごくわずかだった。
一二年前に突如として行方をくらました男が、死体となって発見された。しかもとてつもなく奇妙な方法で殺された。
犯人の遺留品、証拠、一切なし。並行して付近の聞き込みを二〇人体勢でおこなったが、目撃者はただのひとりも見つからなかった。現場検証と聞き込みはいまだに続けられていたが、新しい事実を見つける望みは薄かった。
それならと、工藤はあと何人かの人間とともに『後藤尚一』本人についての調査をはじめることにした。本人と周囲の人物関係もしくは蒸発した前後の状況を調べることによって、何か今回の事件のヒントがわかるかもしれない──そう考えたのだ。
結果として『後藤尚一』がどういう人物であるかは、おおむねつかめた。
社会的地位や人物関係、蒸発直前の暮らしぶりなど、今まで見えなかったものがようやく見えた。性格や嗜好などの内面的な部分までも、当時つながりのあった人間から聞くことができた。
だが、役には立たなかった。
どれだけの事実が明らかにされても、いや、明らかにされればされるほど、事件とのつながりは希薄になっていった。『後藤尚一』という人物はそれほど平凡で、どこにでもいるような人間だったのである。
性格──やや内向的。対人関係が苦手なタイプ。殻にこもりやすく、無口。しかし一匹狼というわけではなく、仕事上の友人や呑み仲間などもちゃんといた。
当時の状況──問題なし。仕事に決定的な不満を持っていたわけでもなく、莫大な借金を抱えていたわけでもなく、なにがしかのトラブルに巻き込まれていたようすもなかった。金銭面で裕福とは言えなかったが、それも日々の暮らしに困るほどのレベルではない。
可もなく不可もなく。そういった人間である。今回の事件はおろか、なぜ一二年前に蒸発したのかさえ工藤たちにはわからなかった。
そして、あの目撃談だ。
──要領を得ん、て言うんか……? いや……。
首を傾げて、それでも工藤は先刻聞いた目撃談を反芻してみる。
──何か空見上げてかって、ぼーっとしとってん。
──あんな目で、ショーイチがワシのこと見るなん、あるはずないがいや。
──その窓についとる明かりを、ショーイチは睨んどったんや。
蒸発する前の後藤のようすがおかしかった、という話は聞いていない。飯場のだれかと喧嘩をした、という事実もない。
あの最後に聞いた目撃談だけが、現実からぽっかりと浮いているように感じられる。ひどく現実味を欠いた、そんな感覚がある。
──いや、もうひとつ──。
工藤はもうひとつの証言を思い出した。
先刻の証言内容はひとりからしか聞いていない。しかもその時どうやら酔っていたらしいことが、話の端々から見て取れた。証言の信憑性でいうならば、かなり低い方だと言わざるをえない。
だがもうひとつの証言は、内容がそれと同じくらい奇妙であるにもかかわらず信憑性だけは高いものだった。今回取れた証言の中でも、群を抜いて高いと判断できるほど。
内容は、こうだ。
後藤が姿を消してから数日後に、ひとりの女性が尋ねてきた。その女性は後藤のことについて二、三聞き、帰っていった。
これだけである。
しかし後藤の関係者全員が同じ証言をしたとなると、話は別だ。
血縁、仕事関係者、当時常連だった飲み屋の従業員。少なくとも工藤たちが聞き込みに廻った人間全員がその女の訪問を受け、そのことを一二年たったいまでも覚えていたとなると、これはもう異常であった。
その女がなにか後藤の出奔に関係しているかもしれない。いや、しているに違いない──期待が確信へと変わり、工藤たちが後藤と並行してその女のことも調べることにしたのは当然のなりゆきだったと言えるが、やはりわかったことは少なかった。
まず、当時訪問を受けた人間が共通して覚えていたのは女の格好である。灰色のジャケットと同色のタイトスカート、ミラーシェイドのサングラスを身につけており、歳は二十代前後。すらりと均整の取れた長身で肌が抜けるように白く、腰まで届く長髪の美人。これは細部にいたるまで、全員から一致した証言を得た。
次に、何人かが尋ねた女の素性。これに関しては一致していないが、その質問への解答はすべて『否定』である。
──警察関係か? ノー。
──興信所か? ノー。
──マスコミか? ノー。
──後藤の女? ノー。
素性を偽ったとも考えられる。特に後ろのふたつは可能性が大きい。だが関係者はみな口を揃えて「そのどれでもなさそうだった」と答えている。直感的に全員がそう感じたとなると、これも無視するわけにはいかない。
そして最後に、女の名前──と呼べるものかどうか。これに関しても何人かが尋ねたらしい。
その全員がその名を聞いて「よく似合う」と思った。
『ホタル』。
女はそう名乗ったという。
「……それじゃ、わからんがいや……」
フィルターの根本まで吸いきった煙草を携帯灰皿でもみ消して、工藤はぼやいた。名字か名前か、ことによったら源氏名かもしれない。どちらにしても一二年前とあっては、身元を調べるには情報が足りなすぎた。
女がした質問はどれも簡素なものだったらしい。質問の内容は、おおよそみっつ。
後藤がどこに行ったか知っているか。
どこかに行きたいと言っていなかったか。
『ここ』を出たいと言っていなかったか。
街で、飯場で、そう聞いている。
その口振りからして、後藤の知人である可能性が高い。少なくとも女の方は間違いなく後藤尚一という人物について知っている。後藤尚一本人に関する質問を、なにひとつしていないのだから。
では何者なのかというと、予想もつかない。関係者の中でその女を知っているものはいなかった。当時後藤の血縁が興信所を雇ったという事実はない。当時捜査に当たった人間の中にも、女はいない。
──いいかげん、手詰まりや。
思考が完全に煮詰まったのを自覚して、工藤は車に乗り込んだ。新しい煙草を胸ポケットから引っぱり出し、火をつけないままくわえる。
──一度、署に戻っとくか……いまさら現場に行っても、しゃあねえやろし……。
フロントガラス越しの空は、すでに暗くなりつつあった。街灯の明かりがちらほらとつき始めている。
「……他の連中が、なにかつかんどるかもしれんしな……」
望み薄な期待をあえて独白する自分に、自嘲気味な笑みを浮かべて──。
工藤の表情が、強ばった。
路上に停めていた工藤の車の二〇メートルほど向こう、住宅街から山の方へと抜けるための細道を、ひとりの女が歩いていったのである。
工藤の口にくわえられていた煙草が、ぽとりと落ちた。
灰色の上下を着た長身の女だった。
すでに陽も落ちかけている時間だというのに、しかも離れた場所から見ているというのに、その肌の白さが見て取れた。
整った顔を覆うのは、ミラーシェイドのサングラス。腰まで届く長髪が、夜風にさらさらとなびくのがわかった。
女はしっかりとした足取りで歩いていく。目的を持った人間の歩きだと、長年つちかった人物眼が教えてくれた。
その姿が夜の闇にまぎれかけた頃、工藤は一瞬車のキーと女を交互に見やり、
「………!!」
それから我に返ったように──車のドアを蹴り開けた。
くねくねと続く細道が、山の上へと続いている。
横に目をやれば、下方に住宅街の明かりがちらほらと見える──そんな高さである。もうだいぶ山の上方に来ていた。
卯達山という名の、それほど高くない小さな山だ。住宅地と金沢市街の中間にあるために車道も整備されており、それが車を利用する人間のショートカットコースになっている。また山頂には駐車場つきの展望台があるので、暖かい季節になるとデートコースとしても人気があった。
もっとも女が今通っているその道は非常に細く、せいぜい軽自動車が一台通れるかどうかといったところである。車道の方には街灯も設置されているが、こちらの方は何も明かりがない。
そんな中でも、その女の歩みが乱れることはなかった。ほの光るような白い肌は、夜の闇の中で浮き上がっているようにも見える。
そんな女の背中に声がかけられた。
「ちょ、待ってほしいげんけども。お嬢さん」
声をかけたのは、誰あろう工藤であった。その女を見つけてから走ってきたらしく、大きく肩で息をしていた。
「私に何かご用ですの?」
小首をかしげながらも、女はよどみなく話した。工藤が何者かという点について、いささかも警戒していないように見える。工藤の方が面食らったほどだった。
「ああ、いや、ちょっと……いやまあ、二、三質問を──あ、わしこういう者で」
言いかけてからあわてて警察手帳を取りだし、
「存じ上げておりますわ」
やんわりと拒否されたその意味に、工藤のほうが怪訝そうに眉をひそめた。
自分を知っている。それはどういう意味か。工藤を知っているということか、工藤が警察関係者だとわかっていたということだろうか? 警察手帳を出す前から、一面識もないのに?
「金沢東警察署の工藤宋介さんですわね。存じ上げております」
「……わしとお嬢さんは、一回も会っとらんはずねんけど──」
工藤が人並みはずれているものがあるとしたら、その記憶力だった。人の顔に関するときだけよく働く、特殊な才能だった。
工藤は面識のある人間の顔を忘れたことはない。名前を忘れることはあっても、「見覚えがある」「見覚えがない」の区別は機械のように正確なのだ。十年以上逃亡生活を続けていた連続殺傷事件の犯人をただ一葉の写真の『見覚え』から追いつめた工藤の能力は、いまだに署内の語り草になっている。
工藤はその能力を使って彼女を記憶の中から検索し、結果を出した。
面識はなし。ただし──不確実。
面識はない。それは確実だ。しかしこの女のなにかが、奇妙に自分の意識の縁に引っかかっているのも確実だった。
声だろうか? 違う。顔つき? 違う。
表情? 身振り? 癖? 風体? 全部違う。もっと曖昧なもの。
雰囲気だ、と工藤は判断した。この女と対峙した今感じているこの雰囲気。どこか作り物めいた、それなのに不思議と安心できる雰囲気。
──これをどこかで。いや、今も。しかしいつ?
工藤の疑問に答えるかのように、彼女は口元を動かした。
「いいえ。少なくとも私は何度も目にしております」
それは微笑みだった。口元だけで浮かべた、注意しなければわからないほどの。
しかし、その表情が工藤に与えたものは大きかった。
今まで抱いていた女への警戒心や疑念といったものが、根こそぎ消失してしまったのである。まるで古くからのつきあいがある知人に対するような信頼感が、工藤の心に広がっていく。
「……あんた、名前は?」
女がなんと返事をするかすでに予想がついていたにもかかわらず、工藤は聞かずにはいられなかった。
不意に、女は工藤から視線を外して山中に向けた。それはどうということのない自然な動きだったのだが、工藤もつられて目を向ける。
その目が、驚愕に見開かれた。視線の先にある雑木林から山道へ、のっそりと這い出てきたものを見たがゆえに。
ぬめ光る鱗と決して瞬かない瞳、大人の脚回りほどもある太い胴、何よりも見たこともないようなその長さ。
蛇であった。しかもおそろしく巨大な。
「な、な、な、何………?」
拳銃を抜くどころか逃げることすら忘れて硬直する工藤に、視線は大蛇に向けたままで女が囁いた。
「私は──ホタルと申します」
それは工藤への返事か、あり得ぬ闖入者へのそれか。
大蛇が鎌首をもたげる。どっと放たれた牙の一撃は破砕槌にも似て、その速度は矢のように速い。
恐怖に閉じた工藤の瞼を、夜にふさわしからぬ閃光が灼いた。カメラのフラッシュを間近で見たような激しい閃光だった。
どすんという重い音に目を開けた工藤は、身体のなかばまでを縦に分断された大蛇を見ることになった。そのような状態になってもまだ息があるのか、巨大な身体はいまだびくびくと痙攣と蠕動を繰り返している。
「こここここりゃあ、な、なな、何や。ささ、サーカスか? ……あ、ああ、動物園かいや? ほやろ?」
「いいえ」
現実とは思えぬ光景に動転した工藤の耳に、もっとも聞きたくない言葉が否応なしにすべりこんできた。
「ご覧なさいな。これが──貴方の疑問の答えのひとつ」
ホタルが示す大蛇の身体が変形をはじめる。質量保存の法則など無視して全身が縮み、やおら突き出た肉片が見る間に手足となり、はげ落ちた鱗に代わって体毛が生え……工藤は知らなかったが、それは夜の住宅街で起きた幻妖の変化と同じものであった。
やがてやせぎすで二〇代後半の男性の姿になった屍は、ただひとつ大蛇の頃のおもかげを身体に留めていた。頭頂からみぞおちまでをふたつに断たれ、とてつもない高温に傷跡を炙られた死の形状として。
混乱した工藤は、パニックを終息させようと必死で思考をまとめあげた。ともすれば手の平からこぼれていきそうになる正常な思考をあわててかき集め、今の光景に論理的な説明をつけようとあがく。
──なんやこれ。蛇が人間に。化けとったんか。んなだらな。あの傷跡。この女が。じゃあ後藤も。どうやって。不可能や。幻覚か。それとも催眠術。寝不足やしな。そういや寝とらん。ひょっとしてわし寝とらんか。じゃあ夢か。夢。どうりでどっかで見たことあるツラやと。ほや、大西じゃいや。忘れとったなあ。済まんかった。忙しくてのう。どこにも見つからんと思っとったら。こんなとこに──。
工藤を狂気の縁から救ったのは、記憶のひらめきだった。二〇年来工藤の刑事としての人生を助けてくれたその記憶力が、またも工藤を救ったのだ。
「……大西、やと!?」
工藤は絶叫に近い声で喚いた。記憶にある。その顔と名前にはっきりと見覚えが。
大西健三。自分の同僚だった男だ──今から二〇年近くも前に。
まだ工藤が駆け出しの警官だったころ、隣の派出所に勤務していた男。無口で人付き合いが下手で、医者を目指したが失敗したと噂になった男。面識はほとんどなかったが、一、二度話をしたことがあった。
ある宿直の夜に、突然いなくなった男。覚えている。
さやけき満月の夜に。
満月?
──ああ、あんときぁ、月が綺麗やった。
──あおくて、つめたくて、そりゃ綺麗でなあ…………。
「大西健三さんでいらしたわね。貴方と同じ警官でしたわ」
「……!?」
工藤は今度こそ言葉も失って、ホタルを見た。
「この方のときも、ずいぶんと捜しました。あちこちを廻って、お知り合いの方にも尋ねて……貴方たち警察の方も捜してくれていましたね」
ホタルは首を傾けて工藤に微笑む。さっきと同じ笑みなのに、今度はなぜこんなに寂しげなのだろうか。
「後藤尚一さんもそう。でも昔と違うのは、彼らが向かってきたところ」
ざ、と梢がざわめいた。灌木の茂みから、林の影から、樹木の枝の高みから。
見上げる視線、見下ろす視線、みな一様に輝いている。
憎悪と、殺意に。
「今ここでなら、倒せると思いましたか」
ホタルの言葉に誘われるように、道路に出てきたものたち。
灌木の茂みから出てきたものは、巨大な鰐であった。
木々の枝を渡って降り立ったものは、大型犬ほどもある山猫であった。
空からねめつける視線の主は、翼長二メートルの梟であった。
林をのっそり抜け出たものは、工藤の倍以上の身長をもつ灰色熊であった。
いずれも金沢には、いや日本にはいるはずのない獣たち。
「その時が来たということですか。それとも焦っておられるの?」
ふたりを囲んだ獣たちに語りかけ──。
ホタルはそっと、ミラーシェイドに手をかけた。
挑んだのは三匹同時。
鰐の大顎は地面すれすれに、梟の鉤爪は真上から垂直に、山猫の牙は正面から。どれを受けても待っているのは死しかない。
工藤はミラーシェイドの鏡面が、かすかに光を反射するのを目にした。はるか下方の街の明かりだと気付いたのは、一瞬後。
その一瞬で、変化が起きた。
反射された微光が見る間に膨れ上がるや、目を圧するほどの輝きにまで変化し、それはふたたび収束して三条の光線となったのである。夜に出現した太陽のごとき輝きを集めたその光線は、襲いかかる三匹に向けて秒速三〇万キロの速さで突進した。
鰐は、自慢の顎から上下に分断された。
梟は片方の翼を落とされ、きりもみしながら墜落した。
山猫は眉間から串刺しにされ、一撃で絶命した。
灰色熊の咆哮が轟いたのは、まさにそのとき。
三匹が先に仕掛けたのは囮のためだけか、三匹を貫いた光が闇に消えると同時、ホタルに向かって灰色熊が突撃した。
光条が迎え撃ち、前肢が落ちた。突進は止まない。
吠えたける首が飛んだ。身体は進みつづけた。ホタルは動かなかった。
すさまじい灰色熊の執念がホタルを襲い、両者の身体がぶつかった。工藤は十倍以上の体重差に吹っ飛ばされるホタルの姿を思い描いて戦慄した。突進の勢いを止められず、山道から飛び出し落ちていく──。
熊の身体だけが!
ホタルは最初の位置から微動だにしていない。熊が「突きぬけた」瞬間を見ることができたのは、工藤だけであった。
蜃気楼のごとく、夢幻のごとく。いやこれが夢だとするなら、それは何と残酷な悪夢だろう。死して人の姿に変わった獣たちは屍となって横たわり、死をもたらした美女はただそれを見下ろしていた。
「島崎誠さん、近森重松さん、沼田秀雄さん、黒沢英明さん」
ホタルが告げた名は、その屍たちのものか。
「これでおしまい──どうやらこの四人の方たちの独断でしたかしら」
「……なんのことなんか、わしにゃさっぱりや」
あまりにも現実離れした光景の連続に、工藤は苦笑すら浮かべて言った。自分の神経というものは案外頑丈にできているものらしいと自賛すらした。とっくに気が狂って逃げ出していても、だれも工藤を責めはすまい。
「ホタルさん、やったかや。……もうなにを聞いても驚かんから、どういうことか話してくれんか。なあ?」
謎の蒸発事件に端を発する、猟奇殺人事件。光を操る謎の女。それを襲う謎の獣──いや、人間か──たち。
残った正気を総動員してまでことの本質に迫ろうとするのは、それが工藤だからか、それとも工藤が刑事だからか。
それとも工藤が、人間だからか。
「承知いたしました。貴方にも知る権利はあると思います」
工藤が拍子抜けするほどあっけなく、ホタルはうなずいた。
「……では、すこしお付き合いいただけますかしら。私が向かおうとしているところにまで一緒に来ていただければ、お話をいたしましょう」
一も二もなく、工藤はうなずいた。
今よりずっと昔の話です。まだ人間というものが、この星に生まれて間もないころの。
人は昔から、夜に生きるようには造られてはいませんでした。今よりは優れていたかもしれませんが、当時の人間たちでさえ動物たちにくらべれば各感覚が劣っていたからです。
猫や犬たちでさえ、真の暗闇の中ではものを見ることはできません。ましてや人にしてみれば、わずかな光がある程度では暗闇も同じでした。
それでも人が思考というものをはじめた時から、昼夜の区別は前ほどには明確ではなくなりました。ときには必要に駆られ、ときには己の意思に従って、人は夜を眠らずに過ごすようになります。
夜に働き、夜歩き、夜に語らい、夜に生き──。
しかしそれには、不可欠なものがひとつありました。
夜の闇は人から視覚を奪い、同時に恐怖を与えます。闇に相容れない存在であった人にとっては、闇を消し去るための光がどうしても必要でした。
最初は炎。あらゆるものが燃え、人に光を与えました。
でも炎を大きくするには、限界がありました。あれはとても制御が難しいものです。そのころの人間には、そんな技術はまだありませんでした。
だから夜空に輝く『それ』を、とても貴重に思ったことでしょう。人が生み出すいかなる光とも異なる冷たく白い輝きは、とても美しく思えたことでしょう。
いつしか、『それ』は信仰の対象にまでなったほどです。美しく気高い女神として、夜をささえる光をつかさどるものとして、人々は敬い、崇め、奉りました。後にそれがただの石くれであると定義付けられても、長い間その意識は人の根底に根づいたままでした。
ただ、人は知る由もなかったのですが──『それ』には、本当に意志があったのです。
厳密には生命と呼べるものかどうかも解りませんが、『それ』は人が考えるようなただの石くれではありませんでした。意識と思考と、そしてとてつもない力を兼ね備えた存在だったのです。人が妄想から生み出したはずの偶像は、実のところ非常に真実に近かったといえます。
『それ』は夜を照らし出すもっとも強く美しき光として、長い長いあいだ人に敬われてきました。『それ』もそのことを当然として受け止め、夜に君臨し続けてきたのです。
つい、このあいだまで。
『それ』にとっては、最初は取るに足らないものだと思ったことでしょうね。またぞろ人間がつまらないものを生み出した。どうせすぐに自分には及びもつかないことを悟って、また自分を崇め奉るに違いない、と。
でも、そうはいかなかった。
人間が炎にかわって生み出したものは瞬く間に世界にあふれて、夜の闇を駆逐したのです。『それ』の光も及ばないほど、人が『それ』への信仰も忘れ去ってしまうほどに、急速に、劇的に。
『それ』にとっては、時間という概念はとてもゆるやかなのですよ? 人にとっては長い長い時間でも、『それ』が過ごしてきた時間に比べれば、ほんのまばたきひとつほど。
さぞや、意外だったでしょうね? まばたきをひとつしたら、ほとんど誰も自分のことを省みなくなっていたのですから。あれだけ数々の賛辞を送られ、神とおなじく崇められたのに──。
……『それ』が意外に思ったあとで、なにを感じたと思います?
寂しさですか? それとも哀しく思ったでしょうか? 自分だけに与えられるはずの役目と感謝を奪われて、悲嘆にくれたでしょうか?
いいえ、『それ』はそんなものは感じなかった。人間と似て非なる意志を持つ『それ』は、たったひとつのことしか感じなかった。
怒り、ですわ。身が震えるような、激しい怒り。
なぜ自分を見ないのか。なぜ自分を称えないのか。今までさんざんに望むものをくれてやったのに、夜の闇からかばいだててやったのに、その態度はどういうことか? たかが星の表面にへばりついているだけの、矮小な生命体のくせに!
『それ』は復讐を考えました。いえ、『それ』からしてみれば天罰ですかしら。
この星の自然現象にさえ干渉できるほどの存在に、どうして人間が抵抗することができるでしょうか。『それ』の力をもってすれば、まったく造作もないことでしたの。
人の心をむしばみ、ゆっくりと理性を破壊し、意識を自分に向けさせる。いつしかその人間は『それ』のことしか見えず、『それ』のことしか考えられなくなるようにさせられてしまいます。
その後で、『それ』はじっくりと自分の意志を犠牲者に伝えるのです。夜には自分だけがあればいい、夜の闇を照らす光は自分だけで十分だ、他の光などすべて唾棄すべきまがいものにすぎない……と。
『それ』を現す西洋の単語は、同時に「狂気」も現すのだそうです。でも、他にも『それ』にまつわる伝承があるのをご存知ですか。
不老を司る伝承と、狼男の伝承です。
犠牲者たちが変えられてしまうのは、心だけではありません。姿そのものまでも、変えられてしまうのです。
貴方もあの人たちをご覧になったでしょう? あれこそ『それ』に魅入られて、心ばかりか身体まで歪められてしまった犠牲者の姿なのです。言葉を失った獣の姿と、長い長い年月にわたって『それ』を崇めることができるように、頑強で不老の肉体と。
未然に防げたこともあります。でも何人かは間に合わなかった。その結果があの人たちです。
私はずっと、人間たちを見守ってきました。『それ』の意図に気付いてからは、こうやって人に混じり守ろうともしてきました。
だって私は、人が愛おしいですから。愛されていたいし、私も愛しています。この世界に生を受けてから、ずっと、ずっと。
だから、『それ』を許すわけにはいきません。
私の愛する人たちを歪めてしまう『それ』が。これは天罰なのだと開き直る『それ』が。
『それ』──ですか? お気づきになりませんか?
貴方もいつもご覧になっているでしょう? ほとんど毎夜、空に浮かんでいるでしょう?
貴方も一度くらいは、美しいと感じられたのではないですか?
今も、『それ』はすぐそこにいます。私たちの話も、ちゃんと聞いているのです。話の内容もちゃんと理解して、おそらくは──。
ほら。怒っている。
ホタルは手を差し上げて、工藤に空を示して見せた。
中天にかかる満月が、異様なほどに紅く輝いていた。
卯達山の頂上にある展望台。人影は工藤とホタルのみだった。
眼下には、街の夜景が広がっていた。そして空には一面に広がる星の海と。
紅い、紅い月が。
工藤はずっと無言だったが、やがて小さくため息をついて煙草を取り出した。火をつけて深く吸い込み、
「……人が作った光に、お月さんがヤキモチか」
ぽつりと愚痴めいてつぶやく。
赤く焼けた煙草の火が、工藤の顔を照らし出した。
「昔は、……見とれたこともあってんや。嫌なことがあったときなんかは、コップ酒片手に月見酒、なんてのもあってなあ──」
昔をなつかしむように、工藤は繰り返す。
「月見酒や。あんた、やったコトあるか? あれがまたえらいうまくて、そん時のお月さんがまた、いつもえらい綺麗で」
工藤は空を見上げている。ホタルは空を見上げる工藤を見ている。
「こんなこと言うとまた怒るかもしらんけども……」
工藤がふと、空に向けていた顔をおろした。
「案外みみっちいねんな、お月さんも。べつにええやろが、そんなん」
「当人は、そうは思わなかったようですわね」
「……べっぴんのねえちゃんの、本性見たりってカンジやな」
「確かに男というよりは、女性的ですわ」
冗談なのか真面目なのか読み取りにくいホタルの口調に、工藤は声を上げて笑った。
「女やって。絶対女や。アタシをもっと見て、なんて男が言うかいや」
「……なるほど。多少古臭い意見のような気もしますが、説得力があります」
ホタルも微笑を浮かべている。ほんの少し面白そうな口調に聞こえたのは、工藤の錯覚だろうか。
ひとしきり不思議な話題に興じたあとで、ふたりの間に沈黙が生まれた。気詰まりなものではなかった。
工藤にとって、それは穏やかな沈黙だった。この正体すらはっきりしない女性にとっては、この穏やかな沈黙こそがふさわしいのだとすら思えた。
ホタルは静かな微笑を浮かべて、ただこちらを見ている。ミラーシェイドはまだ目元を覆っているのに、それがはっきりとわかる。
人を愛している、とホタルは言った。それは嘘ではないのだろう。
そうでなければ、ただ「見られている」だけでこれほど安らぐはずがない。
「……なあ。もうひとつ、いや。ふたつ聞きたいげんけども……」
「ここは、この街で一番高い場所。月にもっとも近い場所なのです」
工藤の頭の中を読んだかのような、ホタルの声。それはまさに工藤が聞きたかったことへの答えのひとつだった。
「ここはまだ、夜の闇がたくさん残っています。私の力も届きにくい。
──ここに歪めた人たちを集わせて、何をするつもりなのか。それを確かめるために、私は来たのですわ」
「んで、できるなら邪魔したい、か」
「はい。──いいえ」
ホタルがはじめて言いよどんだ。空を見上げたその表情は今までと同じ。
しかし、その口調がわずかに変化した。
「必ず、阻止します。もう、誰も」
一言一言を、くぎるように。自分に言い聞かせるように。
「もう誰も、歪ませたくありません。心も、身体も」
ぎりぎりまで追いつめられた者が、必死でその辛さをこらえるように。
獣に変わった犠牲者たちを、顔色ひとつ変えずに屠りさった彼女が。
「いつも私が包んであげられれば──」
ホタルが、くるりと後ろを振り返った。工藤にもある種の予感があった。
音も気配もなく、そこに集っていたものは。
「──こんなに、歪ませられずに済んだのに──」
展望台のまわりをびっしりと囲む、目、目、目。
獅子がいた。虎がいた。豹がいた。
狼が、山犬が、狐が、熊が。
蛇が、鼠が、水牛が、鳥が。
何百という数の、獣たち。歪められた人間たちが。
月の、狂信者たちが。
「も、も、もう驚かんぞ。お、おお、驚かん」
「ご無理をなさらないで。こうなった以上、必ずお守りいたしますわ」
「だ、だらっ。これでも勤続二一年、むむ無遅刻無欠勤……」
震える声を無理矢理こらえる工藤に、ホタルはくすり、と笑いかけた。
「それも存じ上げておりますが、あまり今の状況には役立ちませんわね」
ミラーシェイドに指をかけて、獣たちの群れに向き直る。
月に背を向け、しかしその言葉は月に向けられている。
「数をそろえても、無駄というほかはありません。今でも私がその気になれば、ここにいるすべての方を滅ぼせますわよ」
揺るぎ無く淡々と告げるホタルに、一斉に獣たちの憎悪が膨らんだ。
閃熱の刃をあやつるホタルの技は、工藤が見たとおり。そして蜃気楼のごとく相手の攻撃を無効化する力もある。
不破の攻撃と防御に対して、月の獣たちはどうしたか?
左右に分かれて下がった。波が引くごとく。
そこにいた、ただ一匹を残して。
子馬ほどもある巨大な狼だった。四つ足の状態でも、その頭は人の胸元まであった。
全身が月光を受けて鈍く輝いている。白くつややかな毛並みがさらさらと風に流れ、静かにホタルを映す瞳には神格すら漂わせていた。
こんな生物は、地球上のどこにもいない。
月からの刺客──工藤は目をみはって、ただその威容に立ち尽くしていた。
「なるほど。いままでとは違います」
ホタルの言葉は、敵への賛辞か。今はもう戻らぬ人への、せめてもの。
「一番新しい、私専用の敵。だとすると貴方は、一番新しい犠牲者」
その声には、やはり哀しみが。
「田上裕さん、ですわね」
狼は応えない。ただ静かに、佇んでいる。
「また、間に合いませんでした。……ごめんなさい」
謝罪の言葉とともに迸った白光が、戦いの合図。
手強しとみたホタルの先制攻撃が、いまだ動こうともしない白狼に伸びた。どれほどすばやく動き、強い生命力をもとうとも、秒速三〇万キロで直進する数万度の刃に耐えられるはずがない。
白狼の眉間に、光が吸い込まれた。山中での山猫の再現か。
いや。
白狼が光を受けてなお、悠々と一歩を踏み出したではないか。その全身があえかな燐光を放っているのを、工藤は見ることができた。
直感的に、その光が何かわかった。
月光だ。白狼のその毛並みの色こそ、中天に浮かぶ月の色だ。
かわすことは不可能。耐えることも不可能──それを、まさか防ぐことができようとは。月は自らのしもべにその光を与え、しもべは光をもって光を防いだのだ!
ホタルの光が消えると同時に、白狼の全身を包む燐光がさらに強くなった。
ホタルに異変が生じた。その姿がぶれ、しだいにぼやけ、ついには完全に消失するやちょうど一人分の距離を置いてふたたび出現したのである。
「屈折させた光を戻された──やりますわね」
ホタルの声は静かだったが、それはホタルの技が破られたことを意味していた。
自らの周囲の光を屈折させて、本来いない場所に自分の像を映す──灰色熊の突進を難なくすりぬけたのも、まさに蜃気楼たるこの力ゆえ。
しかし、その力も破られた。月の魔力がやどる光で。
攻撃も防御も封じられたホタルに、白狼が跳んだ。
初めてあけたその口腔で、人の小指ほどもある犬歯が二本、ぎらりと常夜灯の光を切り裂いた。
幾条もの光線が白狼に向かって放たれ、すべて無効化された。口腔を狙った光線は犬歯にはばまれ、その奥まで届かない。
がちんと牙を噛み合わせる音の後、展望台の端に着地した白狼の口には。
ああ、それは血を流してはいない。しかし確かに、人の腕。
白狼はホタルの腕を、ただ一度の攻撃で噛みちぎっていた。工藤の見守る中で、ホタルがぐらりとよろめいた。
取り囲む獣たちがどっと吠え叫ぶ。どの声も歓喜に満ちていた。白狼が再度の攻撃にそなえ、全身のバネをたわめるように身をかがめ──。
そのすべてを、ひとつの音がかき消した。
しん、と静まり返った中で、ひとりが全員の注目を受けて立っていた。両手にいまだ煙の立ち上る拳銃をかまえて、両足をしっかりと踏ん張って。
「……これで」
工藤は他の獣には目もくれず、正面の白狼をにらみつけていた。その胴体に自分が開けた、どくどくと鮮血を吹き出し続ける小さな穴を。
「これで、何とかなるんじゃないがか?」
それは白狼へにあらず、ホタルへの言葉。
白狼の目が、はじめて驚愕に見開かれた。次のホタルのセリフが、驚愕を恐怖へと転化させた。
「──十分ですわ」
白狼が絶叫した。すべての獣たちが、吠えた。
遮二無二跳躍した白狼が、見守るだけだった獣たちが、ホタルに向かって殺到する。それは絶望が生んだ玉砕だった。
ホタルの手がミラーシェイドにかかり、天高くそれを跳ね飛ばした。
かっと見開かれた双眸の、そのなんという気高さ、優しさ、美しさ。
なんという不思議な──銀色の瞳!
白光がすべての獣を包み、その目を眩ませた。眩んだ目は刹那を置かずに蒸発し、残る肉体もその後を追った。
白狼が月光を放ち、それに対抗する。一瞬だけ、月光とホタルの光は拮抗した。
拮抗を破ったのは、胴部にあいた小さな穴。そこから流れてつややかな毛皮を濡らした、白狼の鮮血。
月の色を失った時点で、白狼の毛並みはその光の魔力をも失ったのであった。
白狼の胴体が火を吹いた。火は白狼の体内を焼き尽くし、すべての穴という穴から同時に吹き出された。
白狼の牙がホタルにたどり着く前に、その全身は内部から焼かれて蒸発していた。
すべてが終わったとき、工藤は自分がたったひとりで展望台にいることに気がついた。
光があらゆるものを飲み込んでしまったかのようだ。あの獣たちも白狼も、そしてホタルもそこにはもういなかった。
工藤はぼんやりと、自分の右手を見た。まだ銃が握られていることに、工藤は不思議な安堵を感じた。
「ホタルさん。……なあ。いるんやろ?」
ただいってみただけだ。返事があるような気がして。
──ええ、ここに。いつでも。
だが本当に返事が聞こえても、工藤はもう驚いたりはしなかった。
「はは、助けたからサービスか。アンタも律義やな」
──いいえ、感謝しております。助けてもらったのは初めてですもの。
「そうか。そりゃよかったなあ。ワシも鼻が高いわ」
──嬉しかったですわ。
まだ茫洋とした、夢の中にいるようだった。ホタルの声は徐々に薄れて、遠くなっていくような気がする。
「アンタ、これからもずっと戦うんか」
──ええ、いつまでも。月があきらめないかぎり。
そして、ずっと人を守り続けるのだろうか。美しい身体に、光を纏って。
人ではない、不思議な彼女は。
「……最後の質問、ええか? まだひとつ、残っとった」
工藤の頼みに、ホタルのいらえは短かった。
──もう、おわかりなのでは?
笑っているように聞こえたその声が、最後の声だった。
工藤は、煙草をポケットから取り出した。口にくわえようとして、ようやく展望台から光がなくなっていることに気がついた。
展望台に設置されていた常夜灯が、一つ残らず割れていたからだった。
「……いくらなんでも、無茶しすぎじゃねえかいや」
そう、もう解っていると思う。彼女が何者かは。
月が嫉妬を向けた本人。月に替わって、人を暗闇から守るもの。夜になればいつだって、白い光で見守ってくれるもの。
白く作り物めいて、それでもいつも美しく。人に尽くすために人に作られ、人を限りなく愛してくれているもの──それは?
「……すぐに、また厄介になるわ」
暗闇の中を、工藤は歩き出した。街へ続く道路にはひとつの光もなかったが、暗闇への恐怖も月への畏怖も、不思議と湧いてはこなかった。
煙草に火をつけ、煙を吐き出す。火を見ているうち、ひとつ思い付いた。
厚かましいかもしれないが、彼女はきっと聞き入れてくれる。いやな顔ひとつせず、「喜んで」と。
考え込んだあげく、結局工藤はその頼みごとを口にすることにした。
「これからも、すまんけどよろしく頼むわ──」
眼下に広がる、『街の光』に向かって。
| 其の弐 |