小説目次


『夜飛ぶホタルに』
こあとる著
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其の弐


 闇。
 人は闇を怖れる。
 何かその中にひそんでいるのではないか。入ってしまえばもう二度と戻って来れないのではないか──そんな思いとともに、恐怖する。
 昼間はいい。太陽がある。さんさんと暖かく、すべてを包む光をくれる。
 しかしひとたび、それが落ちれば?
 完全なる影、完全なる闇が落ちるとき。人が無意識に怖れを抱く夜。
 陽の入りに眠り、陽の出に目覚め──そんな生き方をしている者が、いったいどれだけ今の世にいるというのだろう。いや、人間が文明を誕生させたそのときから、そんな生き方は否定された。
 夜でも人は生きねばならない。暗い夜の闇の中、心のどこかで怖れを抱きながら生きていかなければならなかった。
 むろん、闇にあらがう術はあった。
 人間が文明を誕生させたそのときから炎が、電気が産み出された。しかし夜をつつむ闇は広大で、深淵で、かぎりがなかった。
 だから人は、夜の光にすがった。
 昼のそれとは比べものにならないほどつつましやかな上にひどく冷たく、だがとてつもなく神秘的な、太陽とは異なる光を放つもの。星々の光を圧倒して大地を照らす、夜の支配者。ときに数々の賛辞を送られ、ときに奇怪でねじれた伝承を生みだし、ときに悪魔とおなじく怖れられ、ときには神とおなじく崇められた──。
 それこそ、ちいさな地球の添え星。しかしこの星の生き物すべてにとっての夜の王。
 月。

★          ★


 パトカーの回転灯がまたたく街路で、工藤宋介はちいさくため息をついた。
 週末の真夜中、繁華街にわりと近いところにある住宅街で殺人事件が起きた。工藤は夜勤シフトではなかったが、手が足りないという理由で現場にまで呼び出される羽目になったのである。
 風呂に入って疲れを落とし、晩酌もすませ、すっかり眠る気になっていたところを呼び出された。まだ工藤は四〇なかばほどだったが、徹夜明けはいつもこたえる。まして殺人事件ときた。
 ──いいや。猟奇殺人やな、あれじゃ。
 ついさっき、鑑識たちの間からのぞき見た死体の有様を思い浮かべる。眉根がよるのが自分でもわかった。
 工藤より十歳以上は若かったであろうその死体は全裸で、きれいに首を胴から切り離されて発見された。それだけならまだしも、死体のそばには一滴の血も流れていなかった。
 鑑識が調べている現場一帯に、いやな匂いがたちこめている。肉が焼かれた時に出る、生々しい匂いである。
「──工藤さん」
 名前を呼ばれて振り返ると、鑑識のひとりがこちらにやってくるところだった。古なじみの顔で多少は気安い。
 まわりに人がいないのを確認してから、念のために声を低めて聞いてみる。
「検証、終わったんか」
「……おおよそは。これから戻ってかって、ガイシャ調べて……」
 この後の手間を想像してしまったのか、鑑識は面倒そうに言葉を切った。工藤と違ってため息をつかないところは立派だったが。
「……こっちも、これから身元洗わんなんやろけども」
 こちらは派手にため息をついた。鑑識が苦笑する。
「……お互い、えらい難儀なことですわ。また、厄介な」
 鑑識の後ろで、袋に詰められた死体が担架で運ばれていた。袋の盛り上がりかたがどうしても目に付いてしまう。あとで何かと言われるかもしれないが、報道陣を閉めだしたのは正解だった。
「何か。……切った後で、焼いたいうことか、ありゃ」
 鑑識の顔が渋面をつくった。手に持っていたクリップボードにちらりと目を向けて、首を振る。
「……違いますな、ありゃ。『切って』『焼いた』んじゃなくて、『焼き切った』としか思えませんて。現場に血痕は、ひとつもないんですから」
 『切って』『焼いた』のではなく──鑑識はその部分を強調して言った。
「『焼き切った』……? んなら、凶器は」
「詳しく調べてみんと、何とも。でも工藤さん、動物の肉を炭にするのに、どんくらいの熱がいると思います?」
「炭ぃ? ……炭になんて」
 反論しかけた工藤に、鑑識はボードを見せた。クリップに調書と一緒に、ポラロイドカメラで撮られたらしい写真が挟みつけてある。街灯の下で目を凝らして、工藤は口をへの字に曲げた。
 写真は死体の胴部のアップだった。切り離された断面を真正面にして接写されている。解像度の悪いポラロイドカメラでも、判別がついた。
 工藤は最初、それが切断面だとは解らなかった。
 胴部の断面が均等に、しかも水平な切り口の状態のまま真っ黒に炭化していたためである。それはまるで、木炭かなにかに見えた。
「……何をどうしたら、こんなできるんか」
 工藤も焼死体は見たことがあったが、普通の火ではこうはいかない。ガソリンか薪木をたっぷりと使ってかつ長時間に渡って焼かなければ、水分の多い人間の身体を炭化させることなどできないものである。
「まあ、偽装の線も睨んでるとこですからね。調べてかって、別の死因だったとすりゃ、いくつかありますけども」
「ああ……」
 確かに偽装だったとしたら、と工藤は考えた。
 別の場所で被害者を殺したあと、猟奇的な処置をくわえて別の場所に放置する──捜査を攪乱するための手としても、いくつか日本でも前例がある。
 しかし。
「……まあ、こっちも調べてみるかいや……」
 工藤は足取りも重く、現場を離れた。
 首を炭化するまで『焼き切られた』死体は、前例がなかった。
 すくなくとも、二十年以上を刑事として勤めた工藤の記憶には。

☆          ☆


 暗かった室内に光が射し込む。
 六畳一間、バス・トイレ共同、築二十年。古びた木造アパートの一室は、扉を開けられるまで時間が止まっていたかのようだった。電気をすでに止められているらしく、廊下にある蛍光灯の明かりだけが唯一の光源だった。
 扉を開けた人物は、それ以上室内に入ろうともせずに立ちつくしている。
 蛍光灯の白茶けた光の中で、灰白色のツーピースは不思議とよく映えた。曇りひとつないミラーシェイドのサングラスに周りを映し出し超然とたたずむ、長身の女性。
 住宅街での奇怪な戦いのあとでここへやってきたのだろうが、表情にはその片鱗すら見られない。
 女がそのとき名乗った名は──。
 ホタル。
 夏の夜空をほんのひととき照らす、そんなはかなげな虫の名を持つ女は、しばらく戸口の前で佇んでいた。何をするでもなく、何をしようという気配も見られなかった。ただじっと室内に顔を向けている。
 質素という言葉も似つかわしくないほど、その部屋には何もなかった。
 すり切れた畳、ずっと以前から敷かれたままになっているのであろう布団、片足がねじれた、小さな四脚テーブル。
 何冊かの古い雑誌、空になったインスタント食品の容器、ビールの空き缶。
 あとは埃。よどんだ空気。
 どれだけの時間がたってからか、ホタルはふと思いついたかのように部屋に足を踏み入れた。
 数歩だけ進んで止まり、部屋を見渡した。
 ドアの対面にはそこそこ大きな窓があった。布団の位置からして、ちょうど頭を向ける場所だった。カーテンは掛かっていない。
 窓の向こうは、夜の闇が広がっていた。住宅街のはずれにあるアパートの裏手は整地された空き地があるきりで、街灯の明かりも届いてはこなかった。
 ホタルは、窓の外を見ていた。
 窓の外には夜の闇。何もない空き地。まるで、この部屋のごとく。
 はるか遠くに街の光が見えた。上に目を向けると、星の光が。
 ここで寝泊まりしていた人間は、毎日夜空を見上げていたことだろう。カーテンにさえぎられることもなく、他のものに心を向けることもなく。
「──そうでしたの」
 他に誰もいない室内に、ホタルの声が響く。ゆったりとした口調だった。
 どこか哀しげに見えた。
「毎日、毎日、見ていらしたのですね」
 誰に話しかけているのか。視線は変わらず窓の外に向けられている。顔は心持ち、上向いていた。
「だから、目を──奪われたのですね」
 口調は変わらない。ぽつりぽつりと話すような、哀しげに見える姿も。
「綺麗だったでしょうね、さぞや」
 その口調がわずかに変わった。もし誰かが注意して聞いていてもわからないほどに、それはかすかな変化だった。
「だから『変えた』のですね?」
 ほんのわずかに、問いかける調子になった。それと同時にどこか哀しげな雰囲気もまた、変化した。
 哀しんでは、もういない。
 喜んでも、ましてや楽しんでいるようにも見えない。喜、哀、楽の、そのどれでもない。
 姿勢も、表情も、視線も変わらない。ただ窓の外を見上げている。
 夜の闇。夜の空を。
「いつもそうですわ。いつもいつも、貴女は」
 月を。
 蒼い光を放つ月が、中天に浮かんでいた。
「見つけだしますわよ? ……絶対に」
 言い捨てるようにつぶやいて奇妙な独白を終えると、ホタルは部屋を出た。扉の前に出て、扉に貼りつけてある簡素なプレートを見直した。
 『田上裕』と、書いてあった。

★          ★


 『後藤尚一』という名前が出てくるまでに、丸一日かかっていた。
 工藤宋介はたまった疲労をずっしりとかかえ、書類に目を通していた。その書類は古く、わずかに黄ばんでいる。
「……見つからんはずやって……」
 充血した目をこすり、ぼやく。書類はかなり昔に書かれたものだった。
 行方不明者捜索願の調書である。
 昨夜発見された死体についてはすでに検死が終わっていたが、もともと全裸で発見されていたために遺留品から身元を割り出すことも不可能だった。また概して身元割り出しの核となる手術痕や歯の治療痕、果てはほくろにいたるまでが、この死体にいたってはほとんど発見できなかった。前科もなかったため、指紋照合も不可能だった。
 とりあえず捜査班に組み入れられた工藤ほか数名は、捜索願の出ている人物を片っ端から調べていった。最終的に「こいつではないか」と出てきたのが『後藤尚一』だったのである。
 最初工藤たちはこの書類を見逃していた。だが書類を絞り込んでいった結果、あの死体の特徴に該当する人物が彼しかいなかったために認めざるを得なかった。
 後藤尚一、三〇歳、富山県出身、独身。高校卒業後に金沢の中小建築会社に勤務するも、会社の倒産により失業。以後土建関係のアルバイトを転々としながら生計を立てていたらしい。半年以上勤めた山林開拓──高速道路のトンネル工事らしかった──の住み込み飯場からある日突然姿を消し、富山の実家から捜索願が出されていた。
 今から、一二年前のことだった。
「……変わっとらんがいや……」
 工藤はポケットから煙草を取りだし、火をつける。徹夜明けの喉と肺には、お世辞にもうまいとは言えなかった。
 調書にのっているものは、現場でのスナップ写真らしかった。検死段階で撮影された顔写真とうりふたつの顔が、こちらを向いてぎこちなく笑っていた。
 そう、変わっていない。
 死体で発見されたとき、後藤は四二歳だったことになる。工藤とほとんどおなじ年齢だ。にもかかわらず、その顔は一二年前からまったくと言っていいほど変わっていなかった。
 若すぎる。まるで歳をとっていないかのようだ。
 ──猟奇事件なんてモンでも、ないわ……。
 検死報告にも目を通してみた。死亡時刻は午前零時ごろ──前後誤差は二十分程度らしい。死体の第一発見通報から、三十分とたっていない。
 薬物反応なし。心臓病などの疾患なし。直接死亡原因となりうるだけの打撃痕、索状痕、裂傷なし。
 直接死亡原因は、高熱による頸部切断。損傷部の破損状況から推測すると、凶器は最低一千度以上の熱量を持つ工業用バーナーかなにかでなければならない。ただし──。
 切断時におけるショック症状の形跡、一切なし。
 つまり一瞬にして被害者は首を断たれ、首を断たれたということそのものが死因になったということだった。
「工業用バーナーや外科手術用のガスレーザーでも、人間ひとりの首を一瞬で切断するのはほぼ不可能です。それこそ数万度を越える熱量が必要で……」
 狐につままれたように説明する検死官の顔を思い出して、工藤はほとんど吸っていない煙草をもみ消した。明日から本格的になるであろう聞き込みに備えて、仮眠を取っておかなければならない。
 憂鬱だった。ひどく気が乗らない。今すぐ家に戻って、ビールを飲んで寝てしまいたかった。
 仕事がきついからではない。二十年の刑事生活の中では、こんなものは序の口だ。一週間で合計五時間しか眠れなかったこともある。もっと悲惨な現場や死体にだって立ち会ってきた。
 仕事がきついのでは、なく。
 一二年前に消えたときのまま、変わらない被害者。
 謎の凶器を使って、被害者を殺害した加害者。
 ──これじゃ、『怪奇事件』や……。
 工藤はふたたび煙草を取りだした。ひどく酒が飲みたかった。
 このまま、逃げ出してしまいたかった。

其の弐   了


其の参