| 小説目次 |
| 『夜飛ぶホタルに』 こあとる著 <MAIL> |
空には蒼い月、そして星の光。炯々とかがやく。
だが、そのかがやきが落ちる大地にも、また。
街の夜景は、まるで星のようだ。行き交う車のライトは、流れ落ちる星だ。
もうひとつの夜空がここにある。
ただよう夜気を、鏡にみたてうり二つ。──いやどちらが輝いているかというのならば、それは明らかだった。
だから人は、空を見上げなくなったのかもしれない。街に夜空を産み出したから。
だから街は、眠らなくなったのかもしれない。夜空に想いを馳せなくなったから。
夜空は、嘆くかもしれない。
自分を見てくれと、想いを寄せてくれと、哀訴するかもしれない。
否。
夜空は人ではない。嘆くことはない。ましてや哀しみ訴えることなどけしてない。
ただ──怒り狂っただけだった。
深夜の一二時になっても、人の流れは絶えなかった。
仕事帰りの会社員、遊びに飽食した学生たち、そして彼らを相手取る商売人たちが、夜の街なみを行き来する。
石川県金沢市──その街のなかの一区画。
『香林坊』というストリートだ。
裏日本では屈指の大都市と市長みずからが豪語する街、その中心たる大通りは、夜中でも活気にあふれていた。歩く人々の姿がけばけばしく明滅を続けるネオンによって、いたるところで照らしだされている。
光と、音と、人の渦。沸き上がっては消え、寄り添っては離れるいくつもの流れ。
そんな渦の中に、その女はいた。
灰白色のジャケットに同色のタイトスカートを身につけた長身の女である。夜を想わせるような黒の長髪は背中まで伸ばされ、表情を見せないその顔のなかばをミラーシェイドのサングラスがおおっていた。
肌がぬけるように白い。
白いというよりも、色そのものがないかのようである。透明といっても言い過ぎではないかもしれなかった。
どこへ、何をしに行くのか。
少なくともまわりの酔漢たちと違うことは確かなようだった。酒気をおびていないだろうことが、その遅滞のない足どりから見て取れる。
スクランブルを抜け、アーケードの続く歩道から裏路地へと。きらびやかで派手な表通りのネオン・サインに比べれば灯のような飲み屋の看板が、こちらはひっそりとならんでいた。
女の歩みがふと止まる。偶然目にとまったような仕草で、顔をあげた。
『ロンドン』と書かれた電光看板の光が、女のミラーシェイドに映し出された。ワイン・レッドのその光が、まるで女を誘っているかのようだった。
そして女は、それに応えるかのごとく。
せまい通路の急な階段を昇り目的の扉をあけると、小さなカウンターが出迎えた。同伴者はかすかに響くヴァイオリンの音色だった。
「いらっしゃい」
もう壮年も過ぎるであろう顔立ちのバーテンが、グラスを磨く手を休めずに言う。やや無愛想なところが、むしろこの店にはふさわしく見えた。
女はスツールに腰をおろし、口を開いた。
「──水割りをもらえますかしら」
女の声はささやくようで、それでもバーテンの耳にははっきりと聞こえた。
ゆるゆると注がれていく液体が、やがてグラスを満たしかけたころ、
「田上裕を知っていらっしゃるわね」
女が言った。
バーテンはおや、という顔つきをし、それからいぶかしげに女の顔に目をやった。うつむいたその表情は読み取りにくく、視線はミラーシェイドにはばまれている。
「知っていらっしゃるわね」
女がくり返す。口調は変わらず、ささやくように小さく、それでいて何かあらがいがたいものを含んでいた。
バーテンは目を細め、ええと応じた。
「たしかに前まで、うちで働いてた奴ですがね。四日ほど前から来なくなりまして、結局今日まで連絡もないままですよ」
そう、と女がつぶやく。何の抑揚も込められていない。
「変な様子みたいなものは、なかったのかしら」
「あんた、興信所の人かい?」
バーテンが渋面になって尋ねた。口調が接客のものではなくなっている。面倒は困ると、顔に書いてあった。
「似たようなものかもしれないけれど。──違いますわ」
女はその時、ようやくバーテンの方に顔をあげた。口の両端がかすかに吊り上がる。笑ったのだとバーテンが気づくまで、しばらく時間がかかった。
その間の沈黙のせいかどうか、バーテンは少し考える素振りを見せた。
「……そうだね。そう言われてみれば、ときどき妙にそわそわしてたようにも見えたかな……でももともと無愛想なやつだったしね。わからないな」
「そう。じゃあもうひとつ聞きますけれど」
女はゆるりと首をかしげた。その一瞬の仕草だけが、ひどく女を幼く見せた。
「この街を離れる、離れたい──そういうことは言っていませんでした?」
バーテンは眉をひそめ、それから今度はずいぶん長い間考え込んだ。
しばらくたって、結局バーテンは首を振った。
「……いいや」
「ありがとう」
言って女は立ち上がった。この店への興味を失ったかのごとく、出口へとむかって歩きだす。
「飲んでいかないのかい」
水割りを一口も飲んでいないことに気が付いたバーテンが、後ろ姿に声をかけた。
「ありがとう。でも」
ドアをあける後ろ姿が応える。やはりささやくように、そっけなく。
「職務中ですから」
煌々と月明かりの灯す夜道を、女は歩く。
住宅街へとむかう通りを迷う素振りもなく、すっかり明かりの消え去ったビル街をミラーシェイドのグラスに写しつつ。
どこへ向かうのだろうか。そして、何をしに?
あてもなくさまよっているとはとても見えない。その歩みは目的をもっている者特有の、しっかりとした足取りに支えられている。
どこかへ向かおうとしていることは、見れば誰もがわかるだろう。何かをしようとしていることもわかるだろう。だがその先となると誰にもわからない──そんな不思議な雰囲気が女にはある。
ただ、その歩みは超然としていた。整った顔立ちと抜けるような白い肌とに、それはよく似合った。
夜道を歩く女を照らすものは月と星の光であるというのに、女そのものがあえかな光を放っているようにすら見えた。星の、そして月の降らせる夜の光に、それはまるで対抗するかのように。
その足が止まった。唐突に。
「珍しいですわね。そちらから来ていただくのは」
声はやはり、空吹く風のよう。応じるかのように、すうと風が吹きすぎた。
歓楽街はとうに抜け、人気はない。どこかで車のクラクションが聞こえた。
「それともたまたま逢えたのかしら。だとしたら、はじめまして」
誰もいない空間に、女は語りかける。
「ホタルと申しますの」
言いつつ、ついと小首をかしげた。
それは突風をともなって来た。
今まで女──みずからホタルと名乗った──の顔があった場所を、猛烈なスピードで何かが行きすぎたのだ。数本の髪の毛が千切れ飛び、風に吹かれて落ちる前に、風は形をとってアスファルトに下り立った。
月光をつややかにはね返し、四本の脚でアスファルトを踏みしめ、金色の眼でホタルを射抜かんばかりに睨み付ける一匹の獣。
漆黒の豹。
「……綺麗ですわね」
およそこの街には似付かわしくない獣に、ホタルは賛辞を送った。ゆるやかな笑みがその顔に浮いている。
月夜にふさわしい名を持つ女がつづけた言葉は、奇妙なものだった。
「あなたが田上さん?」
答えの代わりに、獣は眼を細めた。否とも応とも見える。
「だとしたら、お話があるのですけれど」
黒豹が、ぐっと姿勢をかがめた。
「お時間は取らせませんわ」
しゃっ!
擬音をつけるとすれば、まさしくそれ。
黒豹がホタルに飛びかかった。人間の肌などバターのように引き裂く爪をひらめかせ、あろうことか眼に──殺意をこめて。
よけられるスピードではない。ましてや防ぐことなど、できようはずも。
えぐった。喉笛を。
いや。
自分の着地と同時に血をまきちらして倒れるはずであった哀れな犠牲者が平然と立つのを、黒豹は怪訝そうにねめあげた。放った爪からは何の手応えもなかったのだ。
「抵抗はおやめになったほうがよろしくてよ」
ホタルは振り向きつつ、変わらぬ口調で言った。一歩も動いてはおらず、体勢を変えた様子もなかった。
しかし、黒豹の闘志は衰えない。次なる一撃を加えんと身をかがめ──。
突如、声にならないうめきとともにがくりと体勢を崩した。その獣毛におおわれた背中から、ひとすじの煙がたちのぼっている。
ホタルが何らかの攻撃をしかけたのだろうか。しかしいつ? 先程から何もせず、立ち尽くしているようにしか見えないというのに。
「わかってもらえましたかしら」
ホタルは口元にゆるい笑みをうかべて言った。生々しさのまったくない表情。
「わたしはあなたが思っているほどには弱くはありませんの。抵抗なさらず、質問に答えてくださいません?」
それは疑問への肯定を意味している。
黒豹はそれでも、よろめきつつ立ち上がった。ホタルはまあ、とため息のような声を洩らした。
そして、哀しげにささやいた。
「やっぱり。──戻る気はありませんのね」
美しきハウリングは答えか、絶叫だったか。
黒い、流れるような疾走。瞳の金と牙の白が残像をともなって迫る。
ホタルは。
笑みを浮かべていた。
その手が伸びる。自らの顔へ。
その眼をおおう、ミラーシェイドへ。
夜気を引き裂いて、豹が跳んだ。
たおやかな扇手がミラーシェイドにかかる。
牙が。
ミラーシェイドが。
交差した。
一瞬の停止のあと、ホタルはくるりと振り向いた。豹は着地した時の姿勢のまま膠着していた。
「……さようなら」
豹の首が、ずるりとすべった。
どさり。
首が落ちると、体もその後を追った。
落ちた首の断面はきれいな平面をみせて煙を放っている。すさまじい高熱をともなう鋭利な刃物で焼き切ったとしか見えないが、しかしホタルは寸鉄も身に帯びてはいないではないか。
あなたは、とホタルはつぶやいた。
「ここが嫌いになったの? ……それとも?」
その言葉が、変貌をもたらしたのかもしれなかった。
見よ、首と胴を切り離された獣が、月光満ちる中序々にその姿を変えていくではないか。
黒い獣毛が、さらさらと抜けていった。
鼻面は音もたてずに縮んでいった。
後脚は骨格ごとねじまがり、前脚は左右に張りだしていった。
尾は真っすぐに矯正された背骨のなかに消えていった。
ああ、その姿は。
人であったのだ。
| 其の弐 |