小説目次


『〜幻獣辞典〜』
こあとる著
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 破裂音。

 ノックスは一瞬、その音をこう誤解した。「一体どこのどいつが、こんなところまでバルーン・プードルを持ってきたのだろう?」と。
 その音が響いたのが、だだっ広い荒れ地のど真ん中だったのが誤解した理由のひとつだ。ついでに今の時間が強い日差しの照りつける午後になったばかりであることと、つい今し方まで何時間も、何ひとつ起きていなかったことも重要な要素であるのは間違いない。
 それがひょっとしたら誤解なんじゃないかと気付いたのは、乗っていたトラックががくがくと揺れながら止まった時だ。フロントグラスはとうの昔に熱さに耐えきれなくなったフィネガンによって砕かれていたので、運転手のスターンが思い切りブレーキを踏み込んだ時ノックスは派手につんのめり、くわえていたタバコと一緒に車外へ投げ出されるところだった。
 「何事だよ!?」フィネガンが耳元で叫ぶ。ノックスが座っている助手席の背に鼻面でもぶつけたのだろう、声は手で押さえているかのようにくぐもっていた。ヴァージルはむにゃむにゃと呟くばかりで、まったくもって驚いたことにまだうたた寝の最中だった。
 もっとも、ノックス自身もふたりを責める資格はないと自覚はしていたが。
 ――プードルが割れた音にしては大きかったな。
 直後にそんな間抜けた感想をぼんやりと考え込んでしまったのは、思考が明確に働いていないからだと――つまりこの場所の空気はあまりにも渇いて熱すぎていて、緊張どころか明確な思考なんか絶対続くものじゃないと――頭の何処かで言い訳する。悪くない。
 そうだ。熱い。
 「暑い」などと言うより、よほどここの空気はそう評するのが正しいと思える――すこしばかり騒がしくなった車内の空気になじめずにいたところに、声がかかった。
「出てきてくれ、ノックス。アクシデントだ」
 落ち着いた、というには沈んだ響きの強い声だった。いつもロビンはこんな調子だ。訛りの強い暗い声音が、熱気とアクシデントで多少混乱していたノックスの頭を現実に引き戻してくれる。
「ロビンか。――何が起こったんだ」
 外から車内を覗き込んでいるロビンに尋ねる。日除けのために切り裂いたシートを頭からかぶっているのは、ノックスたち一行の人数上と立場上の関係から、ひとりは荷台に乗って後ろを見張っていなければならなかったからだ。
 車が止まった原因は、もうノックスにも見当は付いていた。
 パンクだ。後輪か前輪か、ひょっとしたら両方とも。
 ブレーキを踏んだスターンもわかっていることだろう。スターンに向かって悪態を並べ立てているフィネガンも、ようやく今ごろになって目をこすり始めたヴァージルも、すぐに理解するだろう。
 深刻な事態である。ノックスは青くなった。
 そんなノックスの心中を察しているのかいないのか、ロビンは錆びたようなぶつ切りの口調で、
「タイヤがやられた。四つとも。全部だ」
 絶望的な、追い打ちをかけた。


 ■『ヒマントポデス』の巻■


 十時間ほど、話は遡る。
 ノックスはその時、六人の仲間と共に二台のトラックに乗っていた。
 トラック二台分の「取引」を日付の変わった深夜に終え、空っぽになった荷台の替わりにぎっしり紙幣の詰まったカバンをよっつ後部座席に載せ、めいめいがその分け前で何をするか夢想しつつ、根城としている街へ凱旋している最中だった。
 中東某国。
 政府に反感を抱く反政府軍が各地で一斉蜂起してから四年、国連の介入が数度に渡って行われたにもかかわらず、未だ内乱の火が消えぬ場所である。地方に潜伏した反政府軍は局所的な攻撃やテロ活動を繰り返し、内情もまったく安定していない。
 それこそノックスたちには、望むべき場所だったのだが。
 「取引」はうまくまとまった。上々と言っていい。相手は思った以上に潤沢な資金源を――おおかた日本人でも誘拐して得た金ではあるのだろうが――持っていて金払いもよく、トラブルもまったくないままに終わった。取引相手のリーダーは上機嫌で、今後とも品物が揃えば取引に応じよう、と確約さえしてくれた。ノックスが差し出された手を握り返したのは言うまでもない。
 けちがつきはじめたのは、街まであと二百キロの場所にさしかかったときだった。
 政府軍の兵士たちがこんな時間に、しかも干渉地帯にまで来るはずがないとたかをくくっていたノックスたちだったから、闇夜の彼方に自分たちの方へと向かってくるフロントライトを見つけた時にはひどく肝をつぶした。まだ遠くてよく見えないその車が、しかし街から来たのは明らかであり、ましてここが反政府軍の縄張りにほど近い物騒な場所とあっては、その可能性以外には考えられなかった。
 ノックスたちは迷わず車をUターンさせ、全力でアクセルを踏み込んだ。案の定相手もスピードを上げたのがわかった。掴まるわけにはいかない。兵士たちすら滅多に訪れないような場所で、しかも明け方にノックスたち「よそ者」がなにをしていたのか、兵士たちは興味たっぷりに尋ねてくることだろう。
 結果は兵士の性格によって、二通り。
 生真面目な兵士なら、国家への反乱者としてその場で逮捕。略式の尋問の後、九分九厘射殺。
 そうでない兵士なら、ノックスたちが稼いだ金のいくばくか――ほぼ全額と同義だ――と引き替えに「表面上の」おとがめなし。
 どちらも真っ平だった。
 必死に車を走らせるノックスたちの苦労も虚しく、後方のヘッドライトはどんどん近付いて来ていた。もともと現地で手に入れた中古のトラックと荒地踏破を想定されて造られた軍用ジープでは、スピードは同じでも馬力が桁違いだ。ちょっとした昇り勾配で簡単に差を詰められてしまう。
 「あそこに逃げろ」、と言ったのは、思えば誰だったのか。後ろの誰かだったかもしれないし、前を走っているゼッドたちとの連絡用に持ち込んでいたトランシーバーからだったかもしれない。もしかすると自分で叫んだのかもしれなかった。
 ともあれノックスたちは、大雑把に整地されただけの道を逸れ、右手に見える大きな峡谷に向かって走り出した。入り組んだ岩場と洞窟の多い場所なら、追っ手を上手くやり過ごせるかもしれないと思った。
 ところが峡谷に入る直前で、驚いたことに追っ手のライトが遠ざかっていくのをノックスは見た。スターンは喝采を挙げた。トランシーバーからゼッドの口笛が聞こえた。
 ノックスとロビンだけがいぶかった。
 ――連中は、何故引き返したのか?
 あと十分も追いかけっこを続ければ、すぐに捕まえられたものを。追いかけ回された時間を考えると、ここで引き返すのはどう見ても割に合わなかった。
 理由はほどなくわかった。峡谷に入ろうかという、ぎりぎりのところで。
 ノックスたちのトラックの前を走っていたゼッドのジープが「その瞬間」、たしかに地面から五十センチは浮き上がったのをノックスは見た。前輪が踏んでしまった小さな丸いスイッチが、四人の仲間を乗せたジープをひっくり返すのに充分なくらいの爆発をもたらすものだとは誰も予想できなかったが、それ以前にまさかこんな辺鄙な道にまで埋まっていると予想できた者がいなかった。
 地雷だった。
 旧式の対人地雷だろう。スイッチが押されてまた離れる、その動作と同時に信管が作動し爆発するタイプではないかと思われた。政府軍と反政府軍のどちらが敷設したものかはわからなかったが、結果として真下で炸裂した地雷の爆圧はトラックの脆い床板をいとも簡単に引き裂き、爆風と破片と石くれを狭い車内に跳ね回らせた。
 マクレインは天に召され、ゼッドとシーバーはひっくり返ったジープの残骸から引きずり出した時にはまだ生きていたものの、足手まといと判断したノックスが止めを刺した。奇跡的に頭を打っただけのヴァージルだけが生き残った。
 ノックスたちは、完全に足止めを喰らう形になった。
 かといって戻ることも――政府軍の連中がすっかり諦めて街に戻ったと、保証できる者など誰もいなかった――出来るはずがなく、周囲をうかがっていたところに、
「灯りが見える」
 無愛想にそう言ってロビンが指さす峡谷の中程、ぽつんとそこに光が灯っていたのである。距離にして一キロは無い、ほんの目と鼻の先、――平時ならそう呼べるだけの距離の先だ。
 それからのノックスたちの行動は、自暴自棄が八割、神頼みが二割。それでも「人が住むところなら地雷はないはずだ」というノックスの希望的観測を全員が受け容れるまで、たっぷり三十分は演説まがいの口論を続けなければならなかったのだが。
 アクセルを固定したトラックを、峡谷に向けて無人で走らせた。ローギアの咳き込むような唸り声とともにゆっくり峡谷を降りていくトラックの轍を、ノックスたちはことさら慎重に、マグライトで照らしながら辿っていった。
 全員の前で熱弁を振るっておきながら、ノックスは実のところ百メートルも進めばいい方だと思っていた。予想は外れた。三回ほどよたよたとコースを外れて、その度に方向を修正しながらも、トラックは無事に目的地までたどり着いたのである。
 村とも呼べない集落だった。古くて粗い石造りの家が数えるほどあるだけで、他に目に付くものはなにもなかった。
 一行は集落から少し距離を取って車を止めた。神経をすり減らしてへとへとになったのだろうスターンが座り込むのが見えた。他の連中も疲労の色を隠せない様子だった。
 ノックスはひとり考えた。――何故地雷がなかった。何故あれ一発で終わった。
 運が悪かったのか。そう考えてみた。ゼッドたちは運がなかったのか。あれはとっくに撤去されていた地雷原の「最後の一発」でしかなくて、――違う。普通地雷原をどうにかする場合、まずは道の真ん中にある地雷を撤去するのが当たり前だ。道端やその外は二の次で、だからこの国で道を行く者は皆道の真ん中を歩き、車を走らせる。
 そう思っていたからこそ、自分たちも道から離れなかった。荒野を逃げなかったというのに。
 何より、運悪く一発だけ残っていた、撤去済みだというならば、何故正規軍の連中は追跡を止めたというのだろう? ここら一帯が地雷原だとわかっていたから、正規軍は追ってこなかったのではないのか?
 スターンの、大袈裟すぎるくらいの安堵のため息が聞こえた。ノックスはまだ神経を尖らせている自分に気づいた。ロビンを見やると同じようにこっちを見ていた。おそらく同じことを考えているに違いなく、ノックスは頷いてみせた。
 ――つまり、誰かが撤去したということだ。
 ノックスはそう結論づけた。そして集落に向けて歩き出そうとしているヴァージルに、フィンガースナップと仕草だけで「大人しくしていろ」と伝えた。
 正規軍は地雷があると思っていた。つまり正規軍ではない何者か――地雷を撤去できる技術と装備を持った――がやったということになる。ひょっとしたらこの集落の誰か。
 五十メートルほど向こうに並ぶ集落に目を向ける。寝静まった家が、まるで廃屋のようだった。
 ざっと眺める限りでは、重機のたぐいはなかった。自分たちのものより古めかしい小型のトラックが一台あるきり、それも後輪のタイヤを外して発電器として使用しているらしく、撤去の役には立たないだろう。
 ナイフとスコップで地雷を撤去できるか? 答えはイエス。地雷が振動感知式でないのなら、恐ろしい根気と慎重さ、そして地雷に関する知識がそれなりにあれば不可能ではない。
 ――そうとも、不可能じゃない。マッチ箱だけで、接着剤もなしに原寸の自由の女神を造るくらいの根気と慎重さがいるだろうが。
 問題は、そんな不屈の精神の持ち主はどんな人間か、というところだった。
 入り口から此処に着くまでに、もう夜が白み始めていた。
 全員を呼んで、ノックスはスターンに地図を出すよう言った。広げられた地図を見下ろし、
「今の場所がわかるか?」
 土地勘のわずかなりとあるスターンに尋ねた。
 スターンは昇り始めた陽の光でなんとか地図に目を凝らし、「おそらく此処だね」と一点を指した。街道から更に五十キロほども離れてしまっていた。
「あの道はもう使えないとなると、この峡谷を抜けて……」スターンが指で地図をなぞる。「こんな風に反対側から廻るしかないよ。ざっと倍の行程、しかも道が悪いから更に倍の時間がかかる」
「一日かかっちまうってのか!?」
 噛みついたフィネガンに、スターンが肩をすくめてみせた。
「それ以前に燃料が足りない。――水もな。食料に至っては積んですらいない」
 気が滅入るとわかっていても、ノックスは付け足したものだ。
 スターンがおずおずと同意してみせ、ヴァージルは「アッラー、アクバル」と苦笑しながら此処にいるはずもない偶像を糾弾した。ロビンは無言。フィネガンが地面に唾を吐いた。
 ほんのつかの間沈黙が降りた。「なんてことはないさ」破ったのはスターンだった。
「そうだよ。なんてことはない。分けてもらうさ、あそこから」
 スターンはそう言って集落を、それから小型トラックに目をやった。水がまだあるかどうかはともかく、小さな井戸も見えた。
 ノックスも考えてはいた。――というより他に手はなかった。
 トラックの助手席の下、頑丈なジュラルミンのケースにつめかえられた紙幣は、不安定な政情下でも十二分に通用する量があった。数時間前の取引の成果なのは言うまでもないことで、多少値が張ったとしても痛くもあるまいと思われた。
「おあつらえだぜ。誠意を見せようじゃねえか、特別お優しくな」
 フィネガンはベルトにねじ込んでいたスターム・ルガーの六連発を取りだし、ノックスやスターンと違う交渉手段をひけらかし気味に嗤ったものだ。
 ――荒くれでも気取っているつもりか、デブ公が。
 ノックスは舌打ちし、それでもできうる限りの忍耐力を発揮した。
「その小切手を使うのは最後にしておけ、フィネガン――」
 すでに太陽が、昇りはじめた頃だった。

 ◆

 集落にいたのは、ひとりを除けば子供と老人たちだけらしかった。「らしかった」というのは、ノックスたちが実際に見た家が二件だけだったからだ。
 最初にノックスたちが訪れた家――というより小屋だったが――には、子供たちしかいなった。黄塵にさらされたドアはノックするとすぐ開かれ、ひとりの少年がどうしましたか、と出てきた。
 無害な外国人を演じるのが一番いいと思ったノックスは、出来るだけ愛想よくするつもりだった。
『朝早く済まない、実は、』
 そこで言葉がつっかえてしまった。
 少年の目が、ずいぶん下から自分を見上げている。十四、五歳ほどの見た目にしては、それはかなり違和感のある低さで、それからすぐにノックスはその違和感の元に気付いた――視線をずっと地面まで下げていく、ただそれだけで。
 少年の両膝から下の部分が、無かった。正確に言えば、失われていた。
 少年は膝を足の変わりにして、「立って」いたのである。失われた足の分だけ、身長が低く見えてしまったのだ。
 ――地雷か。
 思い当たるのは簡単だった。火薬によってもたらされる爆発、爆発によって吹き上がる石や岩の破片。旧式、新式の区別には何のかかわりもなく、人間の身体をいとも簡単に引き裂いてしまうもの。
 開いた扉の隙間から中が見えた。狭い小屋の中に八人、すでに起きていたらしい子供たちが、薄暗い部屋の中からノックスたちを半分物珍しげに、半分警戒した視線でじっと見つめていた。
 彼らの全員が何処かが欠けていた。主に四肢、それから下腹の一部。
 後ろにいたスターンが小さく呻いた。馬鹿が、と罵りたい気分だったが自分も似たような顔をしていたことだろう。「何処かが欠けた」子供たちがいっぱいに押し込められた室内、というその光景は吐き気をもよおすほど異質で、おそろしく冒涜的なものを感じさせずにはいられなかった。
「……ああ、実は」うっかり英語で喋った。何とか小さな咳払いだけで動揺を抑え込み、『その、実はトラブルがあってね。車の燃料と……食料もあったら少し分けてもらえないかと、ああ、礼はするよもちろん』
 ややろれつの回らぬ現地語で一息にそれだけ告げた。少年は表情も希薄なまま頷き、扉を後ろ手に閉め切った。一軒の家を指さしてから、案内してくれるつもりなのか歩き出した。
 前をひょこひょこと「歩く」少年の様は、滑稽だった。
「け、かたわどもの寄り合いとは恐れ入るぜ」
「黙っていろ、フィネガン」
 小馬鹿にしたように呟く堅太りのカナダ人を諫めながらも、ノックス自身、自分の胸に広がっていく油膜のような違和感をどうすることも出来なかった。
 ――まるでドナルド・ダックかベティ・ブープだ。
 双方の足の長さが微妙に違う上に足を折り曲げることができないため、腰をくねらせるように動かすことによって足を持ち上げ進むしかない。その進み方は子供の頃遊んでいたゼンマイ仕掛けのアヒルのおもちゃやフレイシャーのカトゥーン・キャラにそっくりで、不意に先程来感じている強い違和感が、そのままそっくりヒステリックな衝動に変わっていくのを感じた。
 ――あんよがもげたなら、ブリキのあんよをさし上げましょうか? ボクの宝箱ご自慢のドナルド・ダックから酔いどれのパパがもぎりとった、可愛いアヒルのギザギザあんよをボクが君に溶接してあげる。ステキなボクの酔いどれパパが、ボクの背中に押しつけた暖炉の火箸でね。
 一行の先頭を歩きながら、ノックスは口の中だけで謳うように呟いていた。過去の記憶のナンセンスなカリカチュアでもあったそれは、ひどくサディスティックな愉悦を与えると同時に、相反する不快感でもって同じだけノックスの精神をやすりがけていった。
 そのとき不意の土砂降りのように脳裏に浮かんできたのは父親の記憶だった。右脚を失ってベトナムから帰ってきて以来、へし折れたようにうつむき何事か口走っているか、さもなくば常軌を逸した癇癪を起こして自分をありとあらゆる方法で虐待することがすべてだった父親、自分が十五の歳に残りの脚もへし折ってやった父親、その夏には椅子に座ったまま死んでいた父親、悪友の家に泊まり込んでやっていたヘロイン・パーティから戻ってきたときには腐り果てて倍も身体を膨らませていた父親、ガスと蛆虫で腹をぱんぱんにしていた父親、――よかったな親父、戦友とやらを失ってからはずっと孤独だったあんたも、最後はそんなにいっぱいの見送りがついて……ああでもそいつらじゃお悔やみの言葉は期待できないな、ぶんぶん飛び回ってるだけなんだから、――それにしても案内された家が十メートルと離れていない場所にあったのは幸いだった、あと十メートル分この冒涜的な先導者の背中を見つめていたらきっと俺は耐えられなくなって大笑いしながらこの餓鬼の背中を蹴り上げるに違いない、きっとフィネガンなんかよりもずっと早く、嗚呼神様貴方に感謝を、お礼に可愛いアヒル・ダンスはいかが。
 ずいぶん長く歩いたような錯覚にいらつくノックスを後目に、少年はノックもせず扉を開けた。
 扉の向こうに中年とおぼしき黒人の男が座っていて、まるで内線電話で秘書から報告を受け待っていた取締役のように「ようこそ」とノックスたち一行を迎え入れた――床に敷いた厚めのマットの上に、座り込んだままの姿勢ではあったものの。
「この国の人じゃないみたいだが、それを言うなら僕だってそうだ。
 まあ入りなさい、そろそろ外に立っているのは辛くなるよ」
 訛りの少ない流暢な英語で、男は一行を招いた。この家は男以外には誰もおらず、そのためかそろそろ容赦ない太陽が照りつけ始めた外とは対照的に、ひんやりとした空気が漂っていた。
 ノックスたち三人――ロビンとヴァージルは、トラックの番として残っていた――と入れ替えに、少年がひょこひょこと出ていって扉を閉めた。きい、ぱたり。開けるときには気付かなかったささいな軋み音がやけに大きく響いた。
「このままの格好なのは、いささか礼を失したものだけど――」
 ひょろりとした風体の男の左足は、あぐらをかいて曲げられていた。左腕は床におろされ、斜めにかしぎかけている上体を支えていた。
「――致し方ない。勘弁してもらいたい。こんな風だからね」
 男が座り込んだまま、そう言って苦笑する理由は単純なものだった。今し方出ていった少年と同じで、考えようによってはなおひどい。
 あぐらをかいた左脚のくるぶしから先、「足」にあたる部分が失われている。右手も上腕部の半ばだけがかろうじて残っている状態で、着ている長袖のシャツはそこで結ばれ、だらりと下に垂れ下がっていた。
 右足は、きれいに根本から無くなっていた。
 いびつにねじれる現実感が、「まるで奇術だ」とノックスに思わせた。そう奇術、簡単なトリック。あのマットには穴が空いていて、男の足はそこから床に掘られた穴にまっすぐ伸ばされていて、我々はただ一杯食わされているだけで、今にも「It’s a JOKE!!!!」と赤ペンキで殴り書きされたプラカード片手のバスター・キートンかアボット・コステロが現れ、自分たちの顔にいっせいにクリーム・パイを――。
 ぐらりと現実が傾いだ気がした。その取り返しようのない傾斜、気違いじみた妄想の奔流をすんでのところでせき止めたのは、皮肉なことにその男の声だった。
「こんなところに、こんな時間に何があったのかね? ――いやおおよその見当は付くけれど。
 車のトラブルか何かだね?」
 訛りのないきれいな英語は、この国に来てから初めて耳にしたような気さえしたものだ。
「パンクか? タイヤのスペアならひとつだけある。工具もひととおりあるからちょっとしたエンジントラブルくらいなら対処できるよ」
 ノックスは男の話がひと段落するのを忍耐強く待って、いや実は、と切り出すつもりだった。ところがそれに先んじて男は、
「ただ、悪いが燃料や食料は駄目なんだ。水ならあるけれど、我々も備蓄が残り少なくてね」
 申し訳なさそうに、しかしあっさりとそう言った。背後でスターンが呻いた。
 ノックスは――その一瞬、何を言われているのかが理解できなかった。
 いや、それは正確ではない。
 あまりにその答えが「的を射すぎていて」、次に用意していた言葉がすべて引っ込んでしまったのだった。「何だって?」と聞き返そうとしてああ、いや、と口ごもり、困惑した頭の中でふと思った――そんなに自分は大きな声で、あの少年と喋っていたか?
 やくたいもない思考を追い出すのにしばらくかかった。
「そうか」
 一呼吸置いて嘆息して見せる。「それなら仕方ないな」と諦めたように見えたかもしれない。しかしノックスが腰のベルトにはさみこんであったレミントンの二連装ショットガン――銃身が切り詰められた、ショートバレルの――を抜き出した時も男は別段驚いた様子もなく、まるで予想していたかのように「おやおや」と言っただけだった。
「こちらとしても、穏やかには済ませたいところなんだ」ノックスは銃身をむけるでもなく、銃を抜く際に浮かせた腰を再び落ち着けた。「他にどうしようもないことを、理解してくれると助かる。ちゃんと報酬も支払おう。何なら貴方の言い値でもね。ただ忘れてもらっちゃ困るのは、『幾らで売るか』以外にこちらの譲歩は無いってことなんだ。わかってもらいたい」
「この辺はよく政府軍の憲兵たちが見回りに来る。街道に戻れるくらいの燃料があるならば、彼らに助けを求めればいい」
 脅されている自覚があるのかないのか、平然と応じた男の台詞が終わらないうちに、背後に立ったままでいたフィネガンが飛び出した。がつんと鈍い音。男の頭に、フィネガンがスターム・ルガーの銃尻をしたたかに打ち込んだのだった。
「ふざけるなよ、黒んぼ。燃料をよこせと言ったんだぞ。燃料だ。
 寝てたのか? 聞こえなかったのか? 英語がわかんねえのか未開人? ハロー? ハロー?」
 一区切りごとに、フィネガンは上体を折り曲げた男の身体にブーツのつま先を食い込ませた。
「やめろ、フィネガン――」
 ノックスのうんざりしたような口調にフィネガンが従ったのは、たっぷり一分ほどもそれを続けた後だった。にもかかわらず、
「――それとも、彼らに助けを求められない理由でもあるのかね?」
 男はさしてこたえた様子も見せずに、殴られる前の台詞をそのまま繋いだ。フィネガンの癇癪を何度も目の当たりにしたスターンが「何てこった」と呆れるのが聞こえ、フィネガンは目に狂気すらたたえてノックスの方に振り向いた。
 ノックスも驚いていた。アバラの数本も折れているだろうと思ったのだ。その驚きを表に出さないよう苦労した。まだ自分は善人を演じるべきだ――いやこうなってしまったからには「善人をまだ演じている」と悟らせるべきだ、それを自分に言い聞かせた。
「……それを聞いてもいいことはないと思う、ミスター。いや、絶対にないと断言できるよ。
 さあ、身に染みたろう。まだ間に合うさ。我々は幾ら払えばいい?」
「外国人でその身なり、しかも武装しているとなると観光客じゃないね? 密売でもやっているのかね? ここでは何が一番売れるのかな?」
 出来うる限り穏やかにもちかけたノックスの言葉にも、男は聞く耳を持たないとばかりに質問を続けた。
 いや、質問と言うよりは、わかっていることを確認して当てこすっているような。
「やめたまえ。そんなことを知って何に――」
「まさかとは思うが。――武器や兵器を売っているんじゃないだろうね?」
 図星を指されて、ノックスは押し黙った。
 ――殺すか。いやまだだ。どうにもこの男は得体が知れない。万が一反政府軍と繋がっていたら、うかつには殺すことはできない。
 男の口調は、まるでノックスたちのことを知っているかのようだった。それがノックスを躊躇わせた。その間にも男の言葉は続いた。
「人殺しの道具をよそ者が売って、この国の人間が殺し合う中で君たちは金儲けかね? 小銃や、拳銃や、迫撃砲や、携帯ロケットなんかを売っているんじゃないだろうね?」
 先に我慢が出来なくなったのは、やはりフィネガンだった。
「てめえ、あまり図に乗ると――」
 胸ぐらをつかみ上げ、ノックスの静止も間に合わずにこめかみに押しつけたスターム・ルガーの引き金をぎりり、と絞ったフィネガンを、
「よもや――」
 凍り付かせたものは。
「……よもや地雷なんか、売ってないだろうね?」
 その声、その目、その表情――。
 何と形容すべきだろう。その男から視線を外せず、呆けた表情しか浮かべられず、ノックスはただぼんやりとそれだけを考えた。
 思い当たったのは、やはり父親だった。
 正体を無くすまで呑んだとき、子供だったノックスに馬乗りになって殴打を始めるとき、わけのわからない言葉を――今から思うに、あれはひどく強いスペイン訛りだったのではないか――まき散らしながら泣きわめくとき。
 声音も、表情も似つかない。ただ自分たちを見つめる男の目があの日の父親のそれを彷彿とさせて(パパ、こんなところにまで出しゃばってくることはないだろう)、ノックスは身震いした(そんな目を向けられるようなことを、ボクが何かしたってのかい、パパ)。
 憎悪だ。
 理不尽な出来事に遭い、何かを失くしてしまって、なのに憎むべき相手がいない。誰とは判らない誰かに憤らずにはいられない、何処かの誰かを憎まずにはいられない、そんな濁りきった渇望を常に渦巻かせた死に至るような負の意識の中「憎むべきもの」を見つけたとき――それに向けられる狂的な怒り。込められた途方もない憎悪。歪んだ歓喜。
 ――パパ。もう何度も殴らせてやったんだ、そうだろ。
 ノックスだけが、その呪縛から逃れられたのは、おそらくは単純な理由だったに違いない。
 ――パパ。もう何度も殴ってやったんだ、忘れたのかい。
「交渉は、……決裂だ」
 声が震えなかったのは、それだけの気力も残っていなかっただけだった。背後でスターンが、しゃっくりのような頓狂な声を上げた。
「食料、燃料、水。残らずもらっていく。逆らえば皆殺しだ」
 男は歯をむき出して嗤って、それからひとつ「いいとも」と頷いた。それが何に対しての肯定なのか、一瞬ノックスには理解できなかった。
 『いいとも仕方ない、持っていきたまえ』と認めたのか、それとも『いいとも撃ってみたまえ、できるものなら』と挑発したのか――。
 答えは男自身が告げた。

「いいとも、ミスター。その小切手にサインしよう」

 それが「本当に意味すること」を、その時のノックスは理解できなかった。スターンやフィネガンも気付かなかった。
 それは銃を突きつけていながら、男が降伏したことに心底から安堵していたからであり、この集落からすぐにでも出ていくこと以外に考えが働かなくなっていたからだ。
 男とのわずか二言三言のやりとりがそうさせたすべてであるとは、必ずしも言えない。この集落はノックスたちにとって異質であり過ぎた。
 ただ、覚えている。ノックスは覚えていた。燃料を確保するため小屋から出ていく、そのときに垣間見た男の様子を覚えていた。
 未だ薄暗がりの中から、キャンドルの火のようにぎらぎらと揺らめいていたもの。
 ――パパ。こんなところにまで出しゃばってくることはないだろう。
 狂的な怒り。途方もない憎悪。歪んだ歓喜。
 何かにせき立てられるように、ノックスたちは集落を離れた。すでに陽の光がじりじりと照りつけ、分刻みで気温が上がりはじめていたが、無視して車を走らせた。三時間前のことだった。

 後になって気付いたことだ。
 車のタイヤが破裂したのは、きっかり正午だった。

 ◆

 パンクの理由は単純なものだった。
 錆びてよじれた鉄条網の束が、轍の下で砂にまみれていた。ただでさえ半分砂に埋まった状態で放置されていたそれに、意識が朦朧としていた――ほとんど徹夜で運転していた上、この暑さだ――スターンが気付くはずも無く、五人分の体重とトラック本体の重量を支え続けることすらも限界に近かった、使い古しのタイヤがそれに耐えきれるはずもなかった。
「何でこんなについてねえんだ!? 誰がこんなモンを放っておいた!? ――何処のカマ野郎が!」
 フィネガンが怒鳴り散らすのを、ノックスはうんざりと聞いていた。もっとも「うんざり」程度で済んでいるのはノックス自身いい加減へばっていたためで、心中ではことの深刻さに頭を抱えていたのだが。
 調べてみると、よっつタイヤのうちふたつが塞ぎようもないほど裂けていた。スペアタイヤはひとつだけ、残りのふたつにしても充填剤がなく、これ以上走ることは不可能だった。
 周りはと言えば、見渡す限り砂と岩だけが連なる死の世界だ。峡谷を抜けてからというもの、草木どころか岩影ひとつないような荒野が延々と続いており、道らしい道すらそこには無かった――かろうじて古い轍がいくつか残っているのを追ってきたようなもので、ガソリンスタンドはおろか、車が通りかかる可能性すら絶無と言ってよかった。
 日差しが強い。真上から照りつける陽光がもたらす熱は、幌の下でも耐えられないレベルになりつつある。走っているときは風が吹き込んできたが、今はそれもない。
 古い煉瓦造りのオーブンに、車ごと叩き込まれたような気分になる。ここで立ち往生せねばならないと言う事実がどれほど厄介なことか、一秒刻みで実感させてくれる熱さだった。
 ノックスは全員車内に戻るよう言い渡し、素早く状況を整理してから揃った顔を見渡した。
「さて諸君、こうなったからには我々にはふたつしか道はないわけだが……つまりあの集落まで戻るか、さもなくば街まで歩くかだな」
 ノックス自身も判っていたことだが、ふたつなどではあり得なかった。
 あえてふたつ挙げるとするなら、街に進むか、ここで干涸らびて死ぬかのどちらかだ。あの薄気味が悪い集落に戻ったところで状況が好転するわけがないということは、実際のところ他の誰かに言われるまでもなかった。
 それでも選択肢として口に出したのは、全員の意思を生還へと向けさせるためである。先程顔を見渡したとき、何人かの目の奥に疲弊とかすかな諦念が顕れはじめていることを、ノックスは見逃していなかった。
 スターンは気弱な性格だから仕方がない。ヴァージルの諦観主義も前からのものだ。しかしあろうことかフィネガンにまでその兆候が見て取れるとなると、問題は深刻になりつつあるという証拠だった。実のところフィネガンは剛胆な性格とはほど遠い。普段「粗野」と「暴力」でくまなくメッキされているというだけのことで。
 是が非でもその弱気を叩き出さねばならない――そうとも、アッラーのケツの穴にこいつら全員の顔をねじ込んででもだ。
「論外だぜ」幸いなことに、フィネガンは即座に目をつり上げて激昂した。「この暑さでお脳がフロリダまでぶっ飛んじまったのか、ノックス? 今更あのけたくそ悪ィ小屋まで戻って何になる? 寸足らずなかたわどもとクリベッジでもやろうってのか?」
 ノックスは両手を上げ、にんまりと笑った。「オーケーフィネガン、私が悪かった。まったくもって正直なところ、クリベッジは得意じゃないんだよ」
 フィネガンは喉の奥で唸り、助手席のシートを蹴りつけて黙り込んだ。憎々しそうに自分を睨みつけるその視線に満足してから、残りの連中を順に見ていった。
「お前たちはどうだ? 二百キロとって返し、ドナルド・ダック一個小隊とクリベッジに興じたい奴は?」
「人が悪いね、ノックス。ああ、アンタは悪党だ」ヴァージルは嘆息した。両手で顔をごしごしとこすり、感に堪えぬと言った様子で窓の外を見やる。「トム・ハンクスもびっくりの耐久ジョギング・コンベンションってわけだな」
「そうさ。ハーベイ・ボールに泥だらけのTシャツを渡す機会には恵まれないかもしれんがね」
 何もかも諦めきった口調なのは、ヴァージルに限って言えばいつも通りだった。そこに笑えない諧謔味が加わっているとなれば、心配することも無いだろうと判断する。
 ヴァージルがこんな調子なのは、おそらく事の重大さがまったく飲み込めていないから(飲み込もうという努力をはなから放棄しているから)だということは判っている。だがそれゆえに、この気取った諦観主義者はどんな仕事でも「何も考えずに」こなすことができるということもノックスには判っていた。よちよち歩きの子供の首をへし折ることも、しくじった仲間の死体を細切れにして犬の餌にすることも、彼なら顔色ひとつ変えずに――何もかも諦めきったようなへらへら笑いのままで――やることができるだろうし、実際以前似たようなことを何度もこなしているのだから。
 ロビンは何も問題はない。相も変わらず感情のこもらない目でノックスだけを見返している。
 ネイティブ・アメリカンの血を引く南部生まれのこの男とは、一番古い付き合いだった。故郷で州兵をしていた頃からの部下であり、どんな不利な状況でも怖じ気づくことがなく、常に寡黙に自分に付き従うロビンは、ノックスにとってもっとも信用に足る狩猟犬のような存在だった。
 問題はスターンだが、実のところそれも予想の範疇におさまった。
「トランシーバーが、……それで連絡とか、取れないかな。その、政府軍とかにさ」
 もごもごと話すスターンの目は、答えが間違っていることをちゃんと自分で判っていながら教師に反論する学生を思わせた。ノックスは「これかね?」とダッシュボードからケンウッドのトランシーバーを取りだし、それから優しく学生をたしなめる教師さながらにかぶりを振ってみせた。
「こいつの交信範囲なんて微々たるモノなんだ、スターン。これだけだだっ広ければ、手旗信号かノロシの方がよっぽど明瞭に交信できそうなくらいにね」スターンの肩を叩き、顔を覗き込む。「それに……我々のご身分を忘れたのかね、スターン? 政府軍はよくないだろう。私たちは清廉潔白な市民でも無いし、ましてや敬虔なイスラム教徒でも無いんだ。アッラーのご加護は期待しちゃいけない。信じるのは我が身と――いや、我が足と言うべきかな」
「……まだ街までは二百キロ以上ある。歩くのは自殺行為だよ」
 そう来るだろうと思ったよ。にこやかな笑顔の陰でノックスは唾を吐き捨てた。
 ノックスの視線を避けるようにうつむき、絶望的な顔で首を振るスターンのシャツの襟を、ノックスは即座にひっ掴んだ。力任せに引き寄せ、額が打ち合わさるくらいまで顔を寄せる。
「――じゃあ此処に残りたいのかね、坊や? いいとも。いっそ全員で仲良く窯焼きも悪くない。お前は特にこんがり焼けるよう、私が血抜きをしてやってもいいね。どうだ、ええ、スターン?」
 計算づくで出したいつも通りの声音に、スターンは震え上がった。不安が再び頭をもたげかけたらしいフィネガンも舌打ちしただけに終わったのを見て取り、わずかに口調を緩めて言い添える。
「もちろん夜になるまで待つ。どうせ政府軍の連中が通りかかることもないんだ。腹をくくってダイエットメニューに励もうじゃないか、諸君。
 ロビン、荷台のシートで日除けを作ってくれ。本音を言わせてもらえれば、窯焼きは好きじゃないんだ……真っ平と言い換えてもいいね」
 話はすべて終わりだとスターンを突き飛ばし、ノックスは助手席のシートに深く腰を落とした。情け容赦のない強烈な陽光が、じりじりと自分を焼いていくのを忌々しく感じながら、陽炎が浮かぶ広大な荒れ地をじっと睨みつける。
 少なくとも水はある……ノックスは考えた。あの集落から奪ってきた水が20リットルのジェリ缶にふたつ、荷台に積んであった。問題はどうやって運ぶかだが、ここを街まで五人で歩くとなると足りないほどだ。
 街に近付けば車に巡り会える可能性も高くなるだろうが楽観は出来ない、ジェリ缶は背負ってでも持っていく必要がある。交代で運ぶとして最低三人、金は自分が持つしかあるまい。夜のうちに歩けるだけ歩き、日陰を見つけて休息をとる……一晩で五十キロ歩けるか? 不可能だ。40リットルの水ではどんなに切り詰めても三日も保たない。クーラント液も数リットルあるだろうがまず飲めないだろう。四人ならどうか? 食料はどうする? 三人なら?
 ばさりと音がして、目を灼くほどの陽光が遮られた。ロビンが荷台の耐水シートをフロントにかぶせたのだった。目に見えて体感温度は下がってくれたが、今度は熱気が籠もり始めた。後ろでは早くもスターンが犬のように喉を喘がせ、フィネガンは悪態を付き始めていた。
 あと六時間は動けない。
 ノックスは目を閉じた。今は眠るのはまずい。大量に汗をかいてしまう。
 運転席のドアが開く音がした。焼けた空気が撹拌され、わずかに涼しさを感じた。
「スターン、三時間したら荷台のロビンと替われ。一応は車が来ないか見張るんだ。
 わかってると思うが、水を飲みすぎないでくれよ。私たちの命綱だ」
 ああ、と呻くような返事だけが聞こえた。まだかすかに怯えた響きが残っていることに気をよくする。スターンはこらえ性の無さではフィネガンと大差ないが、脅しつけた恐怖が残っている間は従順そのものになるからだった。
 ――もっとも、運転手はもう必要ないかもしれないな。
 明日の昼までに、スターンかフィネガン辺りが何かしら愚図ってくれればいいのだが。人心地ついた様子で戻ってきたスターンの気配を感じながらノックスは思う。五人なら水はひとり8リットル。四人ならば10リットルになる……。

 くあん、という奇妙な音が思考を中断した。

「――ノックス!」

 投げつけるようなロビンの呼び声が耳に飛び込んでくるなり、ノックスはドアを蹴り開け、転がるように外へ出た。右手はすでにショットガンを抜きはなっている。普段寡黙なロビンがこれほどの大声で自分を呼ぶ――とんでもなく切羽詰まった出来事が起こった証拠だった。
 荷台に走り寄ると、信じられない光景が見えた。どちらかというと信じたくない光景、という方がふさわしかった気もするが、ノックスは一瞬前の緊張も暑さも忘れて呆然と立ちすくんだ。
 荷台の上に、どくどくと水があふれ出していた。
 並べて立ててあったふたつのジェリ缶のうちひとつが、横に倒されていた。そのジェリ缶の底部にぽっかりと丸い穴が開いており、水はそこから漏れているのだった。
 ロビンはと見ると、その穴を塞ごうともせず、いつの間にか荷台からトラックの天上に上がってジェリ缶を睨みつけている。その緊張した様子はただごとではなく、何をしていると怒鳴りかけた声が喉の奥に張り付いたほどだった。
「ロビン、いったい――」「下だ!!」
 ロビンがノックスの言葉を乱暴にさえぎり、倒れたジェリ缶を指さす。
「ノックス、真下だ! 車体の下を!!」
 視線を戻した先で、くぁん、と同じ音がした。同時にもうひとつのジェリ缶が下から突き上げられたかのように飛び上がり、荷台の上に横倒しになった。
 呆然としていたのは、そこまでだった。かっと脳内が灼熱した。
「誰かジェリ缶の穴をふさげ! はやく塞ぐんだっ!!」
 ようやく何事かと降りてきた三人に声を張り上げ、ノックスはその場で腹這いになってトラックの下を覗き込む。誰かが潜んでいて撃たれるかもしれないという恐怖は、ジェリ缶からこぼれ出ていく水のどくっどくっという音にかき消されてしまっていた。――水が減った。水が減っていく。貴重な水が。
 畜生誰が(パパ。こんなところにまで出しゃばってくることはないだろう)。
 殺してやる(パパ。もう何度も殴ってやったんだ、忘れたのかい)。
 果たして、其処には誰もいなかった。

 いや、――いた。何かがいた。

 車体の下は薄暗く、急に外に出て目がくらんでいたノックスにははっきりと見えなかったし、それは目にも止まらぬ早さでかき消えてしまったが、確かにそこに――。
 水が滴ってきた。荷台にまで開けられた穴から、地面にこぼれてきたジェリ缶の水だった。
 声にならない唸りを上げて、ノックスは立ち上がった。ロビンがヴァージルとともに、底に穴が開いたジェリ缶を逆さにして抱え持っている。スターンとフィネガンはまだ事態が飲み込めていないのか、ぽかんと口を開け、荷台に広がりきった大量の水を眺めていた。
「おいノックス、こりゃいったい何なんだ。え? 誰がこんなことをしやがった?」
 べっとりとシャツに汗じみを作ったフィネガンの問いには応えず、
「……車を動かすんだ」
「おいノックス! 俺はどういうことだか聞いて――」
 癇癪を起こしかけたフィネガンの叫びは、遠雷のような轟音によってかき消された。
「聞こえなかったのか、デブ公?
 スターン、ヴァージル、ロビンもだ。私は車を動かせと言ったんだ。二度は言わんぞ」
 ノックスは空に向けてはなったショットガンの銃口を、無造作にノックスの太鼓腹に向ける。フィネガンは顔を真っ赤にして歯軋りしたが、自分に向けられた銃口と、その向こうに見えるノックスの双眸に慌てて視線を逸らすことになった。
 ほんのすこし前、トラックの中で自分に両手を上げておどけて見せた痩せぎすの中年は、今やもう何処にもいなかった。

 ◆

 ノックスたちがトラックを動かすと、そこに穴があった。
 直径が10センチ以上ある穴だった。ちょうどトラックの荷台のあたり、ジェリ缶があった位置のほぼ真下の地面に空いていたその穴は、まっすぐに下に伸びていた。
「もぐらの穴には見えないね。ま、車体の下に潜って徹甲弾をぶっ放すなんて習性のもぐらがいればの話だけど」
 ヴァージルは白けたような口調でうそぶいたが、ロビンは大真面目な顔で首を振った。
「もぐらもウサギもアナグマも、真下には潜らない。それに」トラックに顎をしゃくり、すぐに視線を穴に戻す。「あれは徹甲弾でもない。あれほど大きな口径の徹甲弾なら、ジェリ缶は粉々に吹き飛んでいるはずだ」
 荷台の底板とジェリ缶に空いた穴――今は切り取ったシートが丸めて突っ込まれ、とりあえずではあるが塞がっていた――は二センチかそこらで、車体の真下から杭を突き通したかのように見える。ジェリ缶そのものはもちろん金属製だし、トラックの荷台もかなり厚い鉄板が貼られていたはずなのだが、両者ともにほとんど役に立たなかっただろうことは、あの時響いた「こおん」という音からしても容易に想像できた――下から突き上げられた何かが、ボール紙か何かのように鉄板とジェリ缶をまとめて貫通したということだ。
「地雷でもない。強いて言うなら槍に近いかもしれない。
 ……ノックス、貴方はあの時見たはずだ。どんなものだったか覚えているか」
 ノックスはちらりとロビンを見返し、それから首を横に振った。
「ほとんど一瞬だった。見てないと言った方がいい」
 それは確かだった。見えたのはほんの一瞬だ。しかも高速で穴の中に戻っていったため、その細部すら定かではなかった。
 ただ、細長い何かだった。今考えると、ちょうど穴の直径と同じくらいだったような気もする。
 地面から生えたそれが、トラックの底部に向かって伸びていた。一瞬「手」のようにも見えたし、動きは「蛇」か何かのようにも思えた。見たことのない「何か」だった。
 だが、とノックスは思い直す。「あれ」がなんであれ、どちらにしても――。
「どちらにしても」その時ようやく、スターンが口を開いた。「もうおしまいさ」
「うるせえぞ、スターン!!」
「だってそうじゃないか、あんなに水が流れ出ちゃって、車は役に立たなくて、おまけに食べ物も無しって、それでどうやって200キロ先の街まで行けるって言うんだい? 少なくとも五人全員は……水さえあったら…………無理に決まってる…………」
 フィネガンが吼えるように叫んでも、スターンはぶつぶつと呟き続けた。
 思えば車から降りてきて以来、彼は一言も口にしていなかった。放心状態だったに違いないが、それが一気に吹き出したのだ。おぞましいまでの現実が、ついにフィネガンどころかノックスへの怯えすら上回ってしまったのだ。
「殺されてえのかスターン!? そのこうるせえ口を今すぐ閉じねえと――」
「うるさいって? ――ハハッ、うるさいのはアンタじゃないか、デブ公? さっきノックスに怒鳴られたときのツラったら無かったよ……怒鳴り散らしてばかりのハリキリデブが真っ赤になって、ああ、……アレはウケちまったね、ホントの話がさ、ハッ、ハッハッ、ハハッハハハッハハッ……」
「手前ッ」
 咳き込むようにかん高く笑いはじめたスターンも、飛びかかろうとしたフィネガンも、ノックスの目には映っていなかった。怒りで目を血走らせたフィネガンがスターム・ルガーを抜きはなち、スターンに掴みかかっていたが、どうでもいいことだった。
 重要なのは(水が減った)、あの穴の奥から出てきたものが(五人ならひとり8リットル)どういうことをしたかということで(四人なら?)、即ち、
 ノックスはまったく意識せずにトリガーを引いた。
 スターンの頭は真横にひん曲がった。顔の半分は散弾の直撃で扁平に潰れ、まるで防犯用のカラー・ボールよろしく血と肉片を大量に振りまき、残り半分の顔で笑いを浮かべたまま棒のように地面にぶっ倒れて、そのままぴくりとも動かなかった。
 スターンの返り血で真っ赤になったフィネガンが、目を丸くして振り向いた。その視線の先に、薄く煙を吐き出すショットガンを構えたノックスがいた。
「邪魔だ。すこし黙れ」
 ノックスは、口論をしていたふたりに目を向けることすらしなかった。「車から金と水……あとはシート。それだけ降ろしてくれ」とロビンに命じ、ロビンはひとつ頷いて作業にかかった。ジェリ缶をヴァージルにふたつとも手渡し、自分は日除けがわりにしていたシートをたたんで肩にかつぐ。それから空いた片方の手でジュラルミンのケースを掴み、四方を油断無く見渡すと、
「ノックス、あの岩場は?」
 ロビンが指さしたのは、そこだけ地面から一メートルほども盛り上がっている分厚い岩盤だった。ちょうど上が平たくテーブル状になっていて、かなりの広さがある。
「あれしかないか。――車は捨てる。あの上に移動だ」
 ノックスは先頭に立ち、早足で岩場に向かった。そのすぐ後にロビンが続き、ヴァージルもやれやれといった様子で後を追う。
 ひとり取り残されたフィネガンを、ノックスは振り返らなかった。スターンを撃ち殺したという事実さえどうでも良く、正直なところ、二人まとめて死んでもいいとさえ漠然と感じていた。
 もともとスターンとフィネガンは、それほど古い付き合いというわけでもない。さらに付け加えるなら優秀というわけでもなく(スターンは車の整備と運転に関しては一番だったが、それももう必要ない)、この先何か役に立ちそうにも思えない。臆病風を吹かすのが製品仕様になってるような若造に、荒っぽいだけが取り柄の贅肉の塊――いったいどんな役に立つというのだろう?
 何より重要なことは、水だ。今やあのジェリ缶には何リットル入っているのだろう。半分か? 三分の一? 前は四人で分けてひとり10リットルだった。今はどうだ? 5リットル? 3リットル?
 フィネガンも殺しておくべきかもしれない。場合によってはヴァージルも……だが今はまだだ。どちらにせよ(もうおしまいさ)黙れスターン。そんなだからお前は死ぬんだ(みんな死ぬんだ)私が殺してやった。
 考えがまとまらない。額を滑り落ちる汗を忌々しく拭いながら、暑さのせいだとノックスは決めつけた。この暑さ、陽炎が脳髄にまで湧き立ちそうな暑さのせいで。
 強いめまいを振り切るために、わずかに後ろに目を向けた。ロビンがすぐ目の前でこちらを見返し、そのやや後ろでヴァージルが逆さにしたジェリ缶ふたつに悪戦苦闘し……そのずっと後方にフィネガンが慌ててついてきているのが見て取れる。
 あの至近距離でスターンもろとも散弾を浴び、フィネガンは傷ひとつ負わなかったらしい。その幸運だけは買ってもいいな、とノックスはひとりほくそ笑んだ。
 視線を戻すと、岩場はもう目の前にある。
 岩の上に登ったところで、ようやくひと心地ついたように息を吐いた。自分が汗みずくになっていることすらその時まで気付かず、同時に強烈な渇きを感じる。ヴァージルが運んできたジェリ缶のひとつを掴み、今やそこが飲み口となった底部の穴から慎重に水を啜った。
 水が喉を滑り降りていくとともに、自分のなかの余裕も戻ってくるようだった。にわかに数瞬前までの殺伐とした思考が滑稽に思えてくるほどに、そうだノックス、いいぞ、今はショットガンを振りまわす時じゃない。まずは余裕、落ち着くことだ……。
「どうなってるんだ、なあノックス。何でまたこんなところに、――」
 フィネガンがヒューヒューと細く息を継いでいる。わずかな距離しか歩かなかったのに、まるでマッターホルンでも登頂したような有様だった。かすかに沸いてくる仏心に自嘲的なものを感じながらも、まずは全員に水を飲むよう促し、それからシートを日除けに被り、その後ようやくノックスは口を開いた。
「あの穴だよ」ノックスは岩の上からでもぽつんと見える穴を指さした。「あれから逃げたんだ。あれは私たちをハメようとしてる――」
「はあ?」
「わからないかね、フィネガン。あの穴から出てきたモノは何をした?
 たったひとつだ。ジェリ缶を壊した。私たちにとっての生命線を断とうとしたってことだ。モグラやアナグマがやることじゃないだろう?」
「偶然ってことは?」
 ヴァージルがジェリ缶を支えたまま、ぼんやりと尋ねる。ノックスは首を横に振った。
「考えにくい。私たちを狙わず水を狙ったところも奇妙だが、今考えるとそもそもあのパンクからして不自然なんだ、ヴァージル。
 街とあの集落を結んでほぼど真ん中、どちらに行くにしても困難だというこの位置からしてまずきな臭い。それにあんな鉄条網が埋まっていたら、装甲車でもない限りほとんどの車は間違いなくパンクする……」
 事実我々はそうなったがね、と吐き捨てるようにつけ加える。
「……そうして陸の孤島みたいな荒野の真ん中で立ち往生してるところに、水を狙われた。はなから意図的な罠だったと考える方がつじつまが合う。
 荷台の上にあったジェリ缶を車体の下から貫通するような真似も動物には出来ない。つまりあれは何らかの兵器で、誰かが私たちを罠にはめようとしている。――他に可能性があるかな?」
 わずかに沈黙があった。フィネガンは薄気味悪そうに穴を見やっている。ヴァージルは何もかもどうでも良さそうに見えた。ロビンはこちらの話を反芻し、何か考え込んでいるようだった。
「だとすると」最初に口を開いたのはロビンだった。「誰かがあれを操っていることになる」
「それが判らないことのひとつだね。このだだっ広くてクソ暑いだけの荒地に、どうやって隠れるって言うんだ? ずっと地面に潜ってるってのか?」
 ヴァージルがシートの中で、顔を巡らせる真似をした。外を覗き込むまでもなく、周りは影もろくに出来ないほど何もない荒地で、およそ身を隠せそうな場所はどこにもなかった。
「それとノックス、アンタも言ったことだが。もしアンタの言うとおりだとして、その誰かさんは何故オレたちを狙わなかったのかな? 運転席にいたってアレなら殺せたはずだ。ルジェロ・デオダードの映画みたいに、串刺しファックにしてさ」
「その辺りは私にもさっぱりだな。監視しているのか、何か必要があってそうしているのか――まあ、確かに直接殺す必要が無さそうなのは認めざるを得ないが」
「……ッ、このまま死ねってのか!? こんな何もないところで、ヒモノになって――」
 フィネガンが声を荒げた。いつもの不満げな罵声ではない、べったりと恐怖が張り付いた震え声。
 ノックスがちらりと視線を向けるだけで、フィネガンは押し黙った。笑えるほど劇的な変化と言える。
 ――パパ、もう何度も殴ってやったんだ――。
 そうとも、従順な部下。結構な事じゃないか。
「もちろんそんなつもりはないよ、フィネガン。夜になったら移動する。相手がどこから監視しているとしても、夜に動けば見つかりにくいだろう」
 ノックスは腕時計で時間を確認する。四時すこし前――日没まであとわずかだ。
 今の季節なら、五時前から既に日が暮れ始める。その分夜が長く、日の出まで十二時間近くあった。
「この岩盤なら、トラックの荷台のようには突き抜けられない。水を減らさないようにすることが第一だ。
 あとは……全員武器を使えるようにしておいてくれよ。念のためとは言えね」
 フィネガンが真っ先にスターム・ルガーを抜いた。一発も撃っていないのにシリンダーをスイングアウト、きちんと六発入っていることをいちいち確認してから、愛好家がペットのハムスターでも扱っているかのような慎重さで両手に捧げ持つ。少し見ないうちにずいぶん愛着が湧いたものだな、とノックスはひそかに嗤った。
 ヴァージルはデトニクス・マキシ・オートマチックの45口径。ロビンは38口径の古めかしいリボルバーしか持っておらず、それすら滅多に使うことがないが、代わりに刃渡り三十センチ近いブッシュナイフをチェストケースに収めていた。
 ノックス自身もポケットから弾を取りだし、ショットガンに込め直す。武器を手にすることで得られる安心感は昔から変わらないが、その一方でこんなものではどうにもならないとも思いつつあった。
 本当のところを言えば、ノックスは先刻の自分の説明を半分も信じていなかったからだ。地面の下から槍のようなものを突きだして相手を殺す兵器など、噂にだって聞いたこともない。
 第一、そんなものどうやって移動するというのか。
 地中を掘り進むという作業は、たとえ機械を使っても生半可な労力ではない。ドリルか何かついてでもいるとして、どれほどの速度が出せる? 時速3キロ? それとも最新のテクノロジーで5キロ? 人間が走って逃れることのできる兵器など、果たして兵器と呼べるのか?
 そんな非効率なものがどれほどの役に立つのだろう(まだスターンの方が役に立ちそうだ!)。ましてここはアメリカや日本ではない――政府軍にせよ反勢力にせよ、たったひとつの兵器にそれほど高価なものは使っていられないのだ。
 そんなものを使うくらいなら、安い地雷を大量に敷設した方がはるかにましなのではないか。我々のような小規模の闇ブローカーでさえひとつ10ドル、スイッチ式で簡単な構造のものでよいなら5ドルもくれれば大量に揃えることができる。スイッチひとつで一人以上の兵士を無力化する、安くて扱いも簡単な理想の無人兵器。事実ゆうべの取引でも、反政府軍は近いうちに200基以上の対人地雷が必要だと言っていた……。

 よもや地雷なんか、売ってないだろうね?

 ふとノックスの脳裏を、半日前にある男から聞いた言葉がよぎった。
 憎悪と、狂気と、濁りきった歓喜に満ち満ちたあの言葉。四肢を奪われた憎しみ、欠損者として生きて行くうちに降り積もっていく狂気、曖昧でぶつけどころのないそれらすべてをぶつけられる相手を見つけたときの目、「憎むべきもの」に向けられる感情。
 まさか。
 ノックスの中で、ある図式が組み上がった。それは直感でしかなく、どこにも証拠など無かったが、奇妙なほどのリアリズムをもって連鎖的に繋がっていった。妙なほどに訳知りなあの男の態度、引き返していった政府軍、鉄条網、待ち伏せ……。
 そうだ。あんな渓谷の中に集落を作って住んでいるわりには、子供たちは全員身綺麗だった。身体も痩せてはいるものの、全員が平均的な範囲内で、今考えてみれば街から遠く離れた、痩せた土地にひっそりと住んでいる子供たちとはとても見えなかった。
 あの集落は、いや、あの男は政府軍と繋がっている。そう考えると、昨夜から起きている怪事をいくつも説明できてしまう。
 街から離れたところに住み、水や身を隠せる場所をエサに、反政府的な人間を見かけたら通報する役目だったとしたら。
 代わりに男はいくばくかの金を――直接保護を受けている可能性もある――受け取っているとしたら。
 いや、ひょっとしたら今自分たちを追いつめているのも彼自身かもしれない。たとえ足が片方無くとも、あらかじめ仕掛ける場所を決めておいたなら、最新機器の助けを借りているならば、何より強い憎悪と執念さえあれば、ひょっとしたら酔狂なトラップのひとつやふたつは張れるかもしれない……例えばそう、車をパンクさせられて、進むも戻るもままならなくなったみじめな「死の商人」たちが渇き死にするよう仕向ける、そんなトラップだ……。
 ――そして君は、あの薄暗い部屋でシャンパンを開け、何処かから引っ張り出したモニターで我々の死を見届ける、ということかな? よちよち歩きのドナルド・ダックたちと一緒に? 我々が蝿の巣になって、ドライフラワーのように干からびるまでを完全生中継と?
 そうはいかないよ、とノックスは声に出さず呟いた。もうすぐにでも夜が来る――ほら、もう太陽は半分も地平線に隠れてしまっているじゃないか。
 ――絶対に生き残ってやる。他の三人の心臓を喰らってでも生き延びて、お前らの足に残らずブリキのあんよをくれてやる……そうとも、何度だって殴りつけてやるんだ。
 ノックスは嗤いの形に口元をねじ曲げた。どうしようもなく喉が渇き、頭は脱水症状寸前で朦朧としていたものの、立てた膝に爪を食い込ませその苦痛に耐えた。
 他の三人も押し黙ったまま、じっと陽が沈むのを待っている。シートの中で身じろぎもせず、岩に染みができるほど大量の汗を流しながら、それでも手にした武器を片時も離すことなく。
 中東の夕暮れは、気が狂いそうな暑さをともないつつも、素晴らしい速度で進んでいった。暑さはいっこうに治まる気配を見せないが、これは大地の余熱に過ぎず、完全に夜になれば急速に気温は下がり始めるのだ。
 水が飲みたい。だがまだだ。もう少しだけ耐えろ。もう少しだけ。
 やがて、陽は沈んだ。待ってましたとばかりに、全員がシートを剥ぎ取った。
「ようし、行動開始といこう、諸君。――まずは水をたらふく飲んでからな。そのくらいの贅沢は許されるべきだと思わないか?」
 フィネガンが無言のまま、奪うようにジェリ缶のひとつを抱え込む。よほど慌てていたのか、その手からぽろりとスターム・ルガーが転げ落ち、岩場の下に落ちていく。
「おやおや、フィネガン坊やときたら。ちゃんと拾っておくのですよ」
 ヴァージルが茶化しても、フィネガンは反応しなかった。開けられた穴に直接口を付け、一滴もこぼさぬようにしながら貧欲に喉を動かすその様は、さんざんおあずけを喰った挙げ句に母親のおっぱいへと吸い付く赤子さながらだった。
 ヴァージルは小馬鹿にしたような苦笑を深め、ノックスとロビンを眺めると、「まずは一杯どうぞ、お二人さん」と残ったジェリ缶を振ってみせた。
 ごぼりという籠もった水音に、激しく喉が鳴った。
 ロビンが鋼のような忍耐力で顎をしゃくり、ノックスに先を譲ってくれる。震える手で栓を外し、缶を傾けた。待ちに待った瞬間だった。
 喉を滑り降りていく水は生ぬるかったが、それはとてつもない甘美さを伴い体中に染みこんでいく。全身の細胞が賦活され、見る見る力がみなぎってくるようだ。そのまま頭から水をかぶりたくなる衝動を必死にとどめ、ノックスはロビンに缶を渡した。
「いやはや、こいつはまったくよく効くね。ところでフィネガン、いつまでもママのおっぱいにしゃぶりついてないで、とっととご自慢のイチモツを拾いに行ったらいかがかね?」
「クソ喰らえだぜ」やっと調子を取り戻したか――実際にはいつもの調子をやっと取り戻したのはノックス自身だったのだが――フィネガンがにやっと笑ってそう言った。缶を名残惜しそうにヴァージルに渡してから口元を拭い、大儀そうに岩の上に立ち上がる。
「さっさとそのでかマラをハメてちょうだいよ。アタシおかしくなっちゃう」
「言われなくても突っ込んでやるさ。あの穴に嫌ってほどな」
 ヴァージルの野卑な冗談に唾を吐き、フィネガンが身を屈めて岩の下に降りた。ノックスは堪えきれずに声を上げて笑った。ロビンすらも口端を吊り上げた。

 その笑い声が、爆発音でかき消えた。

 爆発はノックスたちの目の前で起こった。まったく唐突に地面が爆散し、大量の土砂を吹き上げ、フィネガンを瞬時に包み込んで視界から消し去った。
 全員の笑いが止んでいた。半端な笑みを貼り付けたまま、降り注いできた砂と小石にまみれて、三人の顔が青ざめ凍り付いていた。
 昇りはじめた月の光が、もうもうたる土煙を透かして爆心地を照らす。大きくえぐれた地面の真ん中で、フィネガンがうつぶせで倒れている。

 彼の下半身は、無くなっていた。

 ◆

 驚くべきことに、フィネガンはまだ生きていた。もっとも「死にかけていた」と表現する方が正しかったかもしれないが。
 彼の両足は付け根から粉微塵に飛び散ってしまい、骨盤が直接見て取れた。脂肪で大きくたるんでいた腹は二箇所で裂け、裂け目のひとつは胸まで達し、ほとんどの内臓を大量の血とともに地面に吐き出していた。
 それでもまだフィネガンは生きていた。かすれたような喘鳴をせわしなく繰り返しながら、全身をびくびくと痙攣させ、上半身をくねらせるように動かしていた。
 ――鉄の性根を見せてくれたじゃないか、フィネガン。チンケな鉛玉五、六発で、あっという間にあの世に逝ったスターンとは、ふた味も違うしぶとさだぞ。
 血と肉片混じりの土砂を浴びながら、ノックスの頭の片隅はそんなことを考えていた。残りの頭のほとんどすべては、考えることを止めていた。
「…………地、雷…………?」
 呆けたようなヴァージルの声で、ノックスは我に返った。
「そんな馬鹿な!」岩の縁から後ずさり、フィネガンの死体から目を逸らす。「そんなもの、いつ仕掛けたと言うんだ! こんな近くに! 私はずっと見ていたんだ! ずっと! 何も動かなかったんだ! 何の音も――なにひとつだ!!」
 そもそも地面をすり鉢状にえぐるほどの破壊力をそなえた地雷など、強力な対戦車地雷以外に考えられない。大きさ三十センチかそこら、重さ10キロ前後の大型地雷で、ある程度深く埋める必要があるため、いかに判断力が低下していようと、すぐそばにいる人間に気付かれずに敷設することなど絶対に不可能だと言うのに。
 いや、そもそもどんな爆発物も敷設などできるわけがないではないか。
 理解の及ばない現実に後ずさるまま、反対側に落ちそうになったノックスの二の腕を、ロビンが強く握る。ロビンも意識していなかったからか、その強さはノックスを呻かせるほどだった。
 反射的に振り仰いだロビンの顔は、何かに耐えるように小刻みに震えていた。
 愕然とした。ロビンがそんな顔をしたことは、ノックスの記憶ではただの一度もない。
 荒野のど真ん中で立ち往生することになっても動じることなく、目の前で仲間が撃ち殺されても(撃ち殺したのがたとえノックスだったとしても)眉ひとつ動かさない、それほどの男が怯えている。歯を食いしばり、肩を奮わせ、しかし夜目にも解るほどに顔を青ざめさせて、恐怖に呑まれようとしているなんて。
「ノックス、――あれを」
 ロビンが指さした先を目で追って、しばらく月明かりの中を探った末、ノックスもそれを見つけた。喉がひくりとえずいて、声にならない呻きになった。
 倒れ込んだフィネガンのちょうど股間の辺り、深くえぐれた地面の中心に、それはあった。
 穴だった。直径10センチほどの、真下に掘られた穴。
「地雷ではない。あれのしわざだ……あの中にいるものの」
 確かに時間はあった――ノックスの冷静な部分が指摘した。あの穴を掘った「何か」が、どういう方法かはともかく、大量の爆発物を何処かから持ち運べるとするなら、そしてなんらかの監視手段でノックスたちがここにいることが解っていたとするなら――。
 ノックスたちを、移動させるつもりがないとするなら。
「……これ、」誰に聞かせるでもなく、ヴァージルが呟く。「ひとつだと、…………おもう?」
 そんなわけがなかった。
 ノックスもやっと解った。あの穴の中にいるものの意図は明白だった。
 嬲り殺すつもりなのだ。ノックスたち全員を。
 摂氏五十度を越えることすらある陽光で、じりじりとノックスたちはローストされる。残った水は苦痛を和らげるモルヒネのようなものだが、最終的に訪れる死をいくばくか引き延ばすだけの役にしか立たない。最後は熱中症と脱水症状で全身を絞り上げられて渇き死にするか、さもなくば身をもって教えてくれた親切なアンクル・フィネガンに倣って全身をなかば吹き飛ばされて死ぬか、そのどちらも嫌だというなら、絶望の果てに自分の銃を口に突っ込むしか無い。
 まず移動手段を奪い、次に水を奪う。すべて奪わないのがこつだ。まだ何とかなると思わせる。差し当たっての避難場所(もちろん、あらかじめ見当を付けておいた)を見つけさせ、一息つかせる。色々と考える余裕も与える。
 陽が暮れて、獲物は元気を取り戻す。次の瞬間、そのすべてを崩し去る。
 さあこれからだという希望が、もうここから出られないという絶望に替わる。それを何処かから眺めて愉悦に浸るのだ。
 思えばノックスたちは、今までそのシナリオ通りに動いていた。大サービスと言って良いかもしれない。
 スターンは早々に絶望にかられ、仲間に撃ち殺された。フィネガンは怒りをさんざん空回りさせられた挙げ句、股ぐらから下を吹っ飛ばされた。鉄面皮のロビンも飄々としたヴァージルも恐怖に顔を引きつらされ、我らが死の商人たちのまとめ役ことノックスは、思うさま精神をなぶられ……仲間の頭をショットガンで吹き飛ばしてしまった。
 そして、ショーは佳境へ入りつつある。ムシュウ・エ・メダム、悪党どもの日乾しショーへようこそ、三匹の蛆虫たちがゆっくりと腐れ果て、からからに乾いていく一大スペクタクル――けれどどうかご安心を、最後は彼らも大勢のトモダチに見送られて安らかに逝くことでしょう……お悔やみの言葉は無いかもしれませんが!
「冗談じゃないぞ」ノックスは食いしばった歯の奥からひねり出すように唸った。「この私が、わたしが……あの下衆野郎以下の死に様だと? こんなクソみたいな国の果てで干からびて終いだと……?」
 自分の身体がぶるぶると震えていることに、ようやく気が付く。それは怒りと死への恐怖と、「死に方への絶望」ゆえの震えだった。
 認めない。そんな死に方は認めてたまるものか。自分は親父のような屑とは違う。ちがうのだ。
「ヴァージルッ!」声を張り上げる。「下に降りて爆発物を調べるんだ! ただちにッ、――今すぐにだッ!」
 返事はなかった。ノックスは鬼のような形相で振り向いた。自分を見ているヴァージルと目があった。
 ヴァージルはぽかんと大きく口を開け、それに負けないほど大きく目を見開いてノックスを見ていた。その顔にはもう取り澄まされた作り物の諦念も、底意地の悪い諧謔味も、何ひとつとして見つけることが出来なかった。
 ノックスの震えが一段と強くなった。
「聞こえなかったのか、ヴァージル、ヴァージル、ヴァージル? 下に降りるんだ」
 ショットガンの銃把を血が滲むほど握りしめながら、ノックスは可能な限り穏やかな声で繰り返す。いつものやりとりを夢想しながら――さあ、命令に従うんだヴァージル。私の言うことを聞け。いつもの諦めきった伊達男を演じてみせろ。「やれやれ、こんな夜中に何をするかと思えば、ナイフ片手にビック・モローの真似事をさせられるとはね」くらいの軽口なら許してやるぞ。
 現実は違った。ヴァージルの顔はムンクの「叫び」にリスペクトされたパントマイム芸人のまま、なにひとつとして変わるものは無かった。
「ヴァージル。安心しろ。フィネガンの足元から探っていくんだ。あそこなら爆発物は無いはずだ、親切なフィネガンがぶっ飛ばしてくれたからな。
 さあ、ヴァージル早く。ヴァージル。ヴァージルヴァージルヴァージルッッッ!!!」
「いやだ」顎をかくかくと動かし、どうにかヴァージルはそれだけを伝える。歯の根が合わないせいなのか「ひはら」と聞こえた。
 ノックスはもうためらわなかった。狙いもろくにつけず、ヴァージルの足元を無造作に撃った。銃口から飛び出した散弾は何発かが岩を削り、もう何発かが足元に置かれたジェリ缶に食い込み、残りの弾はブーツごとヴァージルの右足の肉をもぎり取っていった。
 長い絶叫。
 その場にへたり込んで、ヴァージルは叫び続けた。泣き叫びながら顔を横に振り続けた。
 ノックスはふたたび引き金を引いた。顔面をぼろくずのように吹き散らされる寸前、ヴァージルの顔に浮かんだのは完全なる諦観だった。
「貴様の思い通りになど!!」ノックスは絶叫した。「見ているのはわかっているぞ! ああ、わかってるんだ!! 誰が貴様のファック趣味になど付き合ってやるものか!」
 それからロビンを振り返ろうとした刹那、ノックスは強い力で突き飛ばされた。あっという間もなく岩の下に――ちょうどフィネガンの横に転げ落ちる。たかが一メートルの距離でしかなかったが、完全に不意を付かれたため顔から落ちた。
 幸か不幸か、爆発はなかった。もっともノックスにとってはそれすら気にならなかった。
 狂ったように振り仰いだノックスの目に、リボルバーを構えたロビンが映った。その銃口が自分に向けられている事実を、数瞬ノックスの頭は理解できなかった。
「――ロビン? これは、どういう」
 舌がもつれてうまく言葉にならない。
 ロビンはやや青ざめてはいるものの、いつもの表情に戻っていた。何処か暗さを感じさせる、無表情な鉄面皮に。
 ただ、その目に浮かぶものだけがいつもと違っていた。ノックスが見たこともない目をしていた。
 少なくとも、自分の指示を待つ忠犬の目ではなかった。
 ノックスの身体は再び震えはじめた。ロビンはそれを冷ややかに見下ろし、言った。
「あんたがやるんだよ、ノックス」
 ノックスの口から、獣のような咆哮が上がった。奇跡的に放さなかったショットガンを振り上げ、引き金を絞り――かちり、と小さく撃鉄だけが下りる。すでにノックスは二発撃ってしまっていた。
 替わりに、ぱん、と乾いた銃声が響いた。ノックスの右肩に灼熱の痛点がねじ込まれる。苦痛と激情で頭がまっ白になる中、ロビンが繰り返す声だけがやけに明瞭に聞こえてきた。

「あんたがやれ。あんたがしくじったら俺がやる。
 さんざんあんたに仕えてきてやったんだ。そうだろノックス」

 優しいとさえ言えるような口調だった。
 足元に小さなジャックナイフが落ちてきた。ロビンは小さく笑みすら浮かべて見下ろしている。
 ノックスの左手がのろのろとナイフに伸びた。思考は停止していた。それを取ってロビンに投げつけるのか、彼の「命令」に従って地面に這いつくばるのか、ノックス自身にも判っていなかった。
 ただ、何故か父親の記憶だけが浮かんでは消えた。右脚を失ってベトナムから帰ってきた父親、へし折れたようにいつもうつむいていた父親、ありとあらゆる方法で自分を虐待した父親、十五の息子に脚を折られて泣き喚いていた父親、その夏には椅子に座ったまま死んでいた父親――そういえばあの下衆野郎は、なんで脚を無くしたんだっけ?

 ノックスがナイフを拾い上げる寸前に、それは起こった。

 ノックスが伸ばした手の先、ナイフが落ちていた地面が、小さく爆ぜた。
 そこから、何かがとてつもない速度で伸び上がった。
 「それ」は高速で身をくねらせつつ地面から飛び出し、岩から身を乗り出してノックスを覗き込んでいたロビンの喉に、あっという間もなく巻き付いた。
 その時の音は、「じゅぶっ」とも「ぞぶっ」とも聞こえた。熟れきったマンゴーを思い切り握りつぶすような、湿った破砕音に近かった。

 ノックスの足元に、あらたにもうひとつ、何かが落ちてきた。
 それは、ロビンの首だった。

 ◆

 「それ」を見て咄嗟に思ったのは、「蛇」だった。
 地面から伸び上がり、ロビンの血に濡れた鎌首をもたげてノックスと対峙するその様だけは、確かに蛇と似ていなくもない。しかし全身を蛇腹状の甲殻で包んでいる蛇など、ノックスの知識には存在しなかった。
 何より「それ」には、頭がなかった。頭とおぼしき部分はあるにはあったものの、そこには目も口も無く、替わりに五本、まとめてまっすぐに伸ばされた鋭い突起があるだけだった。
 「それ」はしばらくノックスの前でゆらゆらと躯をくねらせていたが、やおら鎌首をすべらせ、ノックスの手から離れて転がっていたショットガンを、その五つの突起でくわえ込んだ。
 次の瞬間、ショットガンの銃身はくの字に折れ曲がった。
 ビニールのストローを曲げるようなあっけなさだったが、ノックスはようやくそこで自分の間違いに気が付いた。
 それは「突起」などではなかった。揃えられた「指」だったのだ。
 ノックスが呆けて見守る中、「それ」は次々とノックスたちの武器を破壊していった。フィネガンのスターム・ルガーをぺしゃんこにして、ヴァージルのオートマチックを粉砕し、ロビンのリボルバーを叩き壊してから、ブッシュナイフをセロファンほども造作なくばりばりと握りつぶした。
 そして、出てきたときと同じ唐突さで穴の中に消えた。
 わずか数分程度の時間の出来事だったはずだが、長い時間が経ったような気がした。ノックスはごろりと地面に横たわり、痴呆のように空を見上げる。
 隣に横たわったフィネガンの死体はすでにすえた臭いを発し出していたものの、ノックスは気にしなかった。その臭いは幼い頃から、何度も嗅いだことがあるからだった。
 ノックスの思考は、相変わらず停止したままだった。父親の記憶だけがより鮮明に浮かんでは消え、それは何度も繰り返された。
 いつしか長い時間が経ったころ、ノックスの中に一度浮かんだ疑問が甦ってきた。

 ――そういえば親父は、なんで脚を無くしたんだっけ。

 鳥の糞をたっぷりなすりつけたベトコンの有刺鉄線にでもかかってしまって切り落とすしかなかったのだったか、迫撃砲ででもやられてしまったのだったか、それとも。
 フィラメントの切れかけた頭でノックスは考える。トウモロコシのウィスキー瓶で自分を殴打する最中、あのクソは何と呟いていただろうか? ――そうだ、ほとんど聞き取れなかったが、確か二言三言、

 ――ああ、そうだ。何で今まで忘れていたんだろう、



 「穴」だ。



 身体が震え始めた。今までで一番ひどく、理由もないのに。
 「穴」。偶然だ。落とし穴か何かのことかもしれない。きっとそうだ。穴。地雷で空いた穴。
 ほんとうに? その穴は地雷か? 地雷で空いたものなのか? 地面を恐ろしい早さで掘り進み、ナイフやショットガンをいともあっさりと握りつぶしてしまうような、そんなとんでもない力を土の中で一気に解放したら……フィネガンの足を木っ端微塵に吹き飛ばしたその穴、マクレインにゼッド、シーバーたちを乗っていたジープごとオシャカにした穴、親父の足をもぎ取った穴――どれが地雷で空いた穴だ? 全部か? それとも?
 何故か集落で会った男が浮かんだ。政府軍のスパイ。奇術、簡単なトリック、マットには穴が空いていて、男の足はそこから床に掘られた穴にまっすぐ伸ばされていて、我々はただ一杯食わされているだけで、足はまっすぐ、「どこまでもまっすぐ」に伸ばされて、――。



 朝日が昇ってきた。ノックスは呆然としたままそれを見上げた。
 もうシートも水も銃も部下も、何ひとつとして彼の手にはなかった。しかし、そんなことはもうどうでもいいのだ。呪うべきことはただひとつ、思うべきことももうひとつしか無かった。



 「こんなところまで出しゃばってくることはないだろう、パパ」。



 ノックスを、朝陽が焙りはじめた。



 了



 ――ヒマントポデスはプリニウスの『博物誌』に記述のある、謎多き種族である。

 名前のHimanto−podesは「罠の足」を意味する。『博物誌』によれば「長い足を持ち、これを罠の代用として用いる」とあるのだが、ただ長いだけの足をどうやって罠として用いるのか、またどのような獣を捕る罠であるのかについての記述はない。他には東方に住むという曖昧な生息地の説明があるきりである。
 自分の足を穴や沼に突っ込み、蛇や鰐、魚などを捕る技術は何処の地方にも古くからあるため、そのいずれかがモデルであると思われるが詳細は不明――。

 ヒマントポデスが狙った獲物というのは、何だったのだろうか? どんな罠を仕掛けることが出来たのだろうか?
 彼らの足は、――どれくらい長かったのか?

 本当に知りたいことは、結局謎のままなのである。


【幻獣辞典】より



FIN.


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