| 小説目次 |
| 『〜幻獣辞典〜』 こあとる著 <MAIL> |
葬儀は、しめやかに行われた。
「身内」だけで済ませた葬儀だったが、参列者は多かった。たくさんの花と、聖句と、祈りとに見送られた棺がいま、ゆっくりと土をかぶせられて消えていく。
泣き声は、なかった。誰も泣きはしなかった。
代わりに、囁いていた。
――ミスター・シュルツも、老いには勝てなかったな。
――半年前から、ドンの御容態は悪くなる一方で……。
――最近では、喋ることすら――。
喪服に身を包んだ男たちは一同にこうべを垂れながら、こんなことを囁きあう。
死者が――ひいては男たちが――属していた世界は、世間一般から見てまっとうなものではなかった。
イタリアン・マフィア。
死と暴力とあらゆる犯罪をつかさどり、街に根を張り続ける「家族」の名を借りた組織。組織の権力者たちはみな「兄弟」であり、最高の権力者はいわば「父」となる。
もちろんそれは言葉だけのものにすぎない。
「犯罪者たちの寄り合い」という本性を隠し、本来ひどく脆い結束を強固に見せかけるための、いわば偽りの血縁である。同じ血が通っているわけではないし、その血生臭い本性が隠しきれるわけでもない。
ただ古参の人間にとっては、その関係は見に染みこんだ絶対のものだった。
偽りであっても、本物のそれと代わりない。少なくとも彼らは、そう思いこんでいる。
「父」の最後を見送る古参の「息子たち」のその表情は、さすがに痛ましげな色があった。死者の天への道程を、気遣う様子まで見ることができた。
だが。
――しかし、ドンの死に関しては……違う向きもある。
――そうだ。コーネリアスの死も不自然だった。あれから二月もたたないうちに、今度はドンだ。
――不自然すぎる。
――しっ。ここで言うことじゃない。あの若造も来ている……。
――ドンが死に、ドンと義兄弟の契りをかわしたコーネリアスも死に……。
――これでファミリーの実権は、あの若造のものになるか。
――それに関してはやむを得まい。マッケンが出奔した今となっては。
――ドンの後継者は、カルロだけだ。
――ドンも常々言っていた。「マッケンかカルロ、どちらかに」――とな。
その話題が出たときには、彼らの顔は冷たく狡猾な人間のそれになる。
偽りの血縁はなりを潜ませる。代わって顕れるのは、自分たちに利益をもたらす組織の行く末を見極めようと目をぎらつかせる、野良犬の本性。
マフィアの幹部の顔であった。
その目がそっと向けられるのは、もはや土の中に埋まりかけた故人ではない。別れを済ませた死者にもう用はない。
視線の先は、ひとりの青年。
葬列の最前列に立ちつくし、棺を入れた穴を何の感慨もなさそうにただじっと見下ろしている、ひとりの青年の背中に。
くせの強い赤毛に鋭い造作の顔つき、肩は広いほうではなく、体もどちらかといえば痩身だったが、ひ弱な印象はまったく見られない。薄いグレーのスーツに真っ青なマフラーという組み合わせは、どことなく冷たい印象を見るものに与える。
シュルツ・ファミリーを継ぐであろう男、カルロ・モディリアニ。
いや――そのうちに、性は「シュルツ」に変わる。おそらくはそう遠くない未来に、ドンのただひとり残した娘と結婚して。
――マーガレットお嬢はなんと?
――まだ、なにも。ドンが死んでから、部屋でふさぎ込んでしまっているらしい。
――いずれにせよ、こうなるのはわかっていた……葬儀の後、会合を。
――跡目式となるか……コーネリアスの身内を、納得させねばならんな。
「……土は土に、灰は灰に……」
神父の声が、肌寒い早朝の墓地に響き渡る。葬儀もまもなく終わろうとしている。
男たちがこのすぐ後に控えた会合について思いを巡らせていたとき、列の後ろからざわめきが上がった。
はじめは小さかったざわめきが次第に大きくなっていくのを、男たちはいぶかしく思った。その元凶を確かめるために、それぞれがそっと背後に顔を向け。
ざわめきのひとつに、驚愕のうめき声をもって自分自身が加わることになった。
葬列の最後尾よりさらに後方、墓地を囲む頑丈な鉄柵にもたれるようにして、ひとりの青年がいる。
ブロンドの金髪とやや手入れを怠った口ひげ、穏やかな光をたたえた碧眼、ブラウンのロングコートに包まれたがっしりとした体躯。
手に持った花束は、死者に捧げるためのものにしては大きすぎた。しかし、それが決定打だった。
シュルツの誕生日に、いつも青年が送っていた白いマーガレットの花。
「花なんて」と苦笑を浮かべるシュルツに、
「叔父貴もたまには、花のひとつも飾ってみなよ。マギーの花さ――」
そう言って微笑した青年の表情が、男たちの記憶からひとつの名前を引き出した。
「…………マッケン…………」
それが聞こえたわけでもなかったのだろうが、青年はそっと地面に花束を置き、それから出口へと歩き出す。振り返ることはなかった。
青年が立ち去った後も、男たちはしばらく動けなかった。
呆然としていたその顔をあわてて正面に戻し――。
びくりと、息を呑んだ。
自分たちに背を向けていたカルロが、いつの間にか向き直っていた。
その目がじっと、男たちを見つめている。
いや、わかっている。カルロが見ているのは自分たちではないと。
自分を見ているわけではない。自分たちを通り過ぎたその向こう、今はもう立ち去った男を見ていたのだ。それは間違いない。
それならなぜこんなに、汗をかいているのだろう。指先が震え始めたのはなぜだろう。
自分たちの半分も生きていないような若輩が、ただ無表情に見つめている――その視線の途中にいるというだけのことではないか。もっと恐ろしい視線にさらされたことだって、何度もあるではないか。
何の表情も浮かべない、ただ冷たい目。
それがどうして、こんなに恐いのだろう?
男たちのほぼ全員が、それが異常なことだと気付いた。しかしそれを口にした者は、いなかった。
教会の鐘楼が鳴りはじめたが、誰の耳にも届かなかった。
〜幻獣辞典〜
■『アンフィスバエナ』の巻■
ドン・シュルツこと、マッキド・シュルツは聡明だった。
マフィアのドンとしてというよりは、歳を重ねた人間としてである。
昔気質の人間ではあったが、新しいことにもきちんと理解を示した。面子は重んじたが、感情のみにまかせた独断を決してしなかった。先走りがちな若い人間に声を荒げることはあっても、認めるべき部分まで頭ごなしに叱りとばすような人間ではなかった。
古い幹部たちとシュルツは信用――文字通りに「信じ」、「用いて」いた――しあっていたし、若い人間たちも時折不平をこぼしながら、シュルツのやり方を認めていた。
当代シュルツは、ここ数代続いたファミリーの歴史の中では最高の指導者だった。
だが、ふたつ失敗をしてしまった。それも人生最後の大事と言うべき、ある場面において。
――いずれはお前たちのどちらかに、私のすべてをくれてやることになるだろう。
自分が息子のように育て、目をかけてやってきたふたりの若者を呼びだし。
シュルツはそう言ってしまった。
自分と先代たちが営々と築き上げてきたファミリーを、次の代に託そうという時に。
――我がファミリーと、我が資産と、我が愛する娘を、すべてだ――。
これは明らかに失敗であった。
確かに、シュルツがそう「言わなければならなかった」のは当然である。
シュルツには、息子がいなかった。たったひとりの娘がいたきりだ。
それに昔気質な面のあるシュルツにとっては、自分の資産はすなわち、ファミリーの資産だった。
ファミリーを継ぐ者が、すべてを手にする。
それはシュルツのみならず、ファミリー全員が理解していることだった。その時シュルツに呼び出されたふたりにしても、そのことはきちんと理解していた。
しかし納得はしていなかった。シュルツはそれが読めなかった。
挙げ句、シュルツは引き継ぎの件を「未来のこと」として語ってしまった。どちらに、という明確な答えは出さなかったのである。
これがふたつ目の失敗だった。
さしづめシュルツは、まだ若いふたりに自覚を持たせようと思ったのだろう。ファミリーひとつを牛耳るにはふたりは若すぎたし、シュルツ本人もあと十年は現役でいようと思っていた。
その時点でのふたりが、甲乙つけがたかったのも原因だろう。ふたりの若者は完璧とはいかないにしても多くの見所があり、優秀だった。
ひとりは性急にことを運びすぎ、短気だったが、行動力と求心力は並はずれていた。
ひとりは逆に受動的でのんびり屋だったが、垣間見せる機転と聡明さは皆の度肝を抜くほどだった。
シュルツ子飼いの「鷹」と「梟」。
敬意をこめて囁かれるその呼び名を聞くたびに、シュルツは好もしく思ったものだ。ふたりが成長するにしたがい、シュルツの頭の中にある青写真ができあがったのも無理はない。
どちらかを――そう、どちらでもよいのだ――頭に据えて、もうひとりをナンバー・ツーに。実質上ふたりによって、ファミリーを動かす。
互いが互いを補い合って、かつ十年という歳月がふたりの若さによる欠点を残らず消し去ったとしたら? 「鷹」がじっくり獲物を狩ることを、「梟」が昼間でも飛ぶことを覚え、かつ力を合わせて狩りができるようになったとしたら?
自分のすべてを任せるのに、これほど相応しいふたりがいるだろうか。
シュルツが見た夢は、決して夢だけで終わるものではなかった。
やり方さえ間違わなければ。
ドン・シュルツは――間違った。
取り返しのつかないほどに。
◇ ◇
マーガレット・シュルツがその店の扉を開けたとき、客はひとりだけだった。
その客はカウンターのスツールに座って、自分でショットグラスにバーボンを注ぎ、ブラウンのコートを脱ごうともせずに背を丸めて飲んでいた。ときおり額に垂れ落ちるやわらかな金髪を、ぼおっとした様子でかきあげていた。
他に人の姿はひとつもない。客はもちろん、バーテンさえも。
でもそれは、当たりまえのことだった。
カウンターとスツールには、ほこりが積もっていた。
磨く者のいないショットグラスは、くすんで輝いていなかった。
バーボンは他の酒場のラベルがついていた。
コートを着ていないと身震いするほど、すきま風が吹き込んできていた。
「……マスターなら」
誰もいないのは、当然だった。店はつぶれていたのだから。
「もう……いないの。死んでしまったのよ。貴方がこの街を去ってから、すぐに」
「……そうか」
マーガレットのよく知るその男は、わずかにグラスを傾けて、
「もう歳だったからな」
こちらを見るでもなく、ぽつりと付け加える。
「……そうね」
黒いワンピースドレスの上から羽織ったショールを、マーガレットはスツールの上に敷いた。男の座っているスツールの隣から、ひとつ離れた場所だった。
そのまま座ろうとして、止められる。
「そこじゃないだろう、マギー」
視線は相変わらず、グラスの中で揺らめく液体に向けられていた。
「そこは――いつもカルロの席だ。マギーの場所は、そこじゃない」
マーガレットは口を開きかけて、それから席をひとつ詰めて座る。
しばらく沈黙が続いた。重苦しいものではなかったが、マーガレットには辛かった。
「……俺のことを、誰から聞いたんだ」
だから男が沈黙を破ってくれたのは、ありがたかった。
「セルジオ叔父様が。葬儀の後に、すぐ」
「わざわざマギーに伝えてくれたのか。……あの人らしいな」
目を合わせていなくても、男が微笑むのがわかった。それが優しい笑みだということも。
いつもそうだった。子供の頃から。
カルロは直情的で、突っ走りやすかった。あまり他人の意見を聞こうとしない性格で、自分本位なところがあった。
それが嫌だったわけではない。むしろ男もマーガレットも、そんなカルロが好きだった。
「ここにいるんじゃないかって、思ったのよ。いつも三人で、来ていた店だったから」
「……ああ、そうだな。正解だよ、マギー」
対し男は、昔から穏やかで優しかった。雰囲気を察することに長けていて、こまやかな気遣いができる人間だった。
そんな男は、皆から好かれていた。もちろんマーガレットも、そんな男が誰より好きだった。
カルロも――好きだった、はずだ。
「――どうして」
いつもいっしょだった、三人。
どうして、行ってしまったの。
どうして今ごろ戻ってくるの、マッケン。もう何もかも遅いのに。
「叔父貴に」別れを言いに来た、と呟き、マッケンはグラスをあおる。「……心配しなくても大丈夫さ。ここで一本空けたら出ていくよ……マギーにも会えたしな」
微笑み返す、べきなのかもしれない。最後の言葉は。
マーガレットは、笑えなかった。
「カルロには?」
吐きすてた言葉には、苛立ちがこもっていた。グラスを揺らめかせる、マッケンの手が止まった。
「カルロにも、会って行きなさいよ。せっかく戻ってきたんでしょう?」
語尾をつり上げた時には、嘲笑すら混じった。
「いつも三人、いっしょだったじゃない。子供の頃から。そうよ、ずっと昔からよ」
スツールから立ち上がった。カウンターに手をつき、身を乗り出す。
「貴方があの日に突然いなくなって、私がどんな気持ちで今までいたと思う? カルロが恐いくらいに変わっていく様を見て、何度貴方のことを泣きながら呼んだか知ってるの? 叔父様が死んで、お父様まで死んで、カルロはもう昔のカルロじゃなくなって――」
声が高くなっていくのを、抑えきれなかった。手が痛むほど、強くカウンターを叩いた。
「わたしは――もう誰に笑いかけてもらえるの? 誰に愛してもらえるというの!?
みっつだったものがいきなりひとつにされて、同じように生きていけるはずがないじゃない!!」
自分でもひどく混乱しているのが、マーガレットにはわかっていた。自分の言っていることが、ひどく身勝手な言いぐさであることも。
――かまわない。このひとが戻ってきてくれるなら、それでも。
子供の頃を、思い出す。わがままだった自分と、跳ねっ返りだった同い年のカルロと。
少しだけ年上の、優しい兄貴分。いつもいっしょだった三人。
マーガレットの目に、涙があふれた。
「ねえ……どこにも行かないで……カルロは、わたしが説得するから……」
そうして、また三人に戻れば――。
昔のようにうまくいく。きっと。
「もう、置いていかないで……マッケン……」
ぽたりとカウンターに、雫が落ちる。
マッケンがようやくこちらを向いた。その顔は変わらず、微笑んでいた。
マーガレットですら滅多に見ることのなかった、哀しそうな笑顔だった。
「……あの日……カルロはあの日……」
マーガレットの涙をぬぐい、マッケンは逡巡するように言いよどむ。
迷いながらも口を開いたのは、かなりの時間がたってからだった。
「……俺に……銃を向けたんだ。『マギーはオレのものだ、誰にも渡さない』って」
マーガレットの目が、驚きに見開かれる。
「『もちろん、お前にもだ』……そう言われたよ。俺はだから……街を出た。
……出るしかなかったんだよ。マギー」
マッケンはマーガレットに話して聞かせた。シュルツに言われたことのすべてを。
「う……そ……」
マーガレットは、その事実を知らなかった。
知っているのは、マッケンがいなくなった日の前日。父にふたりが呼ばれたこと。
そこから戻ってきたのがカルロだけだったこと。カルロの様子がおかしかったこと。
マッケンのことを尋ねた途端に、乱暴に抱きしめられたこと。
荒々しい呼吸。のしかかってくる重さ。
繰り返し自分を呼ぶ嗚咽混じりの声と、降りかかってくる涙に――自分が応えたこと。
かまわないと、思ったのだ。そのときは。
マーガレットは、カルロが好きだった。マッケンと同じくらいに。
マッケンとカルロも、そうだと思っていた。「家族」として、ずっとやっていけると思っていた。
体の繋がりくらいでは、壊れないと――男と女という関係を越えた次元で、結びついていると思っていた。
三人で。
「皮肉なものだな。叔父貴はたぶん、俺とカルロのふたりにファミリーを継いでほしかったんだ。でも言えなかった」
告白が何かの決意を促したのか、マッケンの口調はよどみなかった。哀しげな表情は変わらなかったが。
マーガレットからふと視線を外し、
「『何で生き物には、ひとつしか首がないのかわかるかい、マッケン?』」
思い出したかのように、声音を変えてそう言った。
父の口調をまねているのだと判る。よく似ていた。子供の頃からの、マッケンの十八番だった。
「いつだったか、叔父貴が俺にそんな話をしたことがあったよ。答えはこうだ。『首がふたつあったら、いつか自ら体をふたつに裂いて死んじまうからだ。どんなに仲がよくても、ふたつの首はいつかふたつの道を進まざるを得なくなる……』」
カルロとマッケンを、暗喩した言葉だったのだろうか。マーガレットは呆然とした頭で考えた。
だとすれば組織のことを考えてしまった自分の父親は、カルロとマッケンという首を離そうとしたのかもしれない。同じ道を進ませるために。
――でも、お父様。それは間違いだったわ。
怒りさえ覚えて、マーガレットは唇を噛みしめる。
ふたりは確かに、「ふたつの首を持つ生き物」と呼べるほど近い存在だったかもしれない。ふたりはそれまで、ひとつの体とひとつの道を共有していたと言えるからだ。
マーガレットと、三人で生きること。
時に慎重に、時に大胆に。ふたつの頭で考え、ふたつの意志をすり合わせ。そして「体」はしっかりとふたつの首をつなぎ止め、生きるための力を与え――。
それまでうまく生き延びてきた、「双頭の生き物」。それが自分たち。
では、それを切り離せばどうなるだろう? 暗喩としてしかふたりの本質を見ることができなかったシュルツは、一度でもそれを考えたことがあっただろうか?
ひとつしかない胴をふたつに割って、それでふたつの首が正常に生きられるとでも思ったのだろうか? それともその生き物は、首だけで生きていけるとでも思ったのか?
首を切り落とすと宣告されて、暴れない生き物がいるだろうか? ――いるはずがない!
「……叔父貴は間違ってない。いつかは……こうなっていたかもしれない」
体を震わせるマーガレットに、マッケンが呟いた。かっとマーガレットの頭に血が上った。
「そんなこと――」
真っ向からあげかけた否定の叫びは、結局言葉にならなかった。
マーガレットは、マッケンに抱きしめられていた。
「…………え?」
力強くはけしてない、頼りない風のような抱擁――それでもマーガレットを戸惑わせるには十分だった。
「マッケ……ン?」
「……みんな、間違ってたんだよ。マギー。俺も、カルロも、叔父貴すら」
久しく思い出せずにいた、幼なじみのにおいがする。
「だれひとりとして、お前のことを考えてなかった。お前の意志は無視していた……お前はひとりの人間で、ずっといっしょだった俺たち……三人のひとりで」
穏やかな声が聞こえる。諭すような、なだめるような。
「『胴体』なんかじゃ、ないんだ」
好きだった幼なじみの声が。懐かしいにおいが。優しい抱擁が。
「………今さら………」
マーガレットの涙を、止めさせた。
「そんなことを言って、だから諦めろっていうの?」
三人に、戻ることを。
「済まないな」
「……冗談じゃないわ」
マッケンの背中に手を回し、マーガレットは強くマッケンを抱き返す。大きな胸に、顔を埋める。
もう、避けられない。どうすればいいのかも解らない。
ただ、泣くべきではないと自分に言い聞かせた。
「ああ。……冗談じゃないんだ」
マッケンが身を離した。その顔が店の外に向けられていることに、マーガレットはようやく気がついた。
スイングドアを飾っていた、砕けた色ガラスの隙間から、男の姿が見える。
エングレーブの入った六連発拳銃を両手に、風の中を立つ男。
「……カルロ……!」
絶句するマーガレットを後目に、マッケンはスイングドアを開けた。
いつの間にかマッケンの手にも、黒鉄色の銃が鈍く光っていた。
「ここにいてくれ、マギー。出てくるなよ?」
バーボンの瓶は、まだ三分の一ほど残っていた。
「……酒の残りは、叔父貴にくれてやる。今から殺し合いをおっ始める、救いようのないふたりの馬鹿息子が詫びてたって伝えといてくれ――」
言いざま、扉を蹴り開けた。
呼応する大口径拳銃の咆哮が、立て続けに三発。木製だった扉はあっさりと砕け、色ガラスの破片が店内にばらまかれる。
マーガレットがカウンターの中に飛び込むことができたのは、三歳の頃からマフィアの抗争が耐えないこの街で暮らしてきたことによる「慣れ」以外の何物でもない。彼女自身は、銃に触れた経験すら持ち合わせていなかった。
「……っの、馬鹿!」マーガレットは思わず毒づく。「ふたり揃って、救いようのない馬鹿ね! ――いっそ共倒れにでもなって、お父様の所にでも行けばいいんだわ!」
扉の横に素早く身をひそめ、マッケンは初弾をやりすごしていた。
ちらりとカウンターを見る。「まったくだ」とごちた後、苦笑を浮かべた。
「だがそう言われてみれば……ふたりして叔父貴の説教拝聴、ってのも冴えないな!」
店内を横切るように跳ぶ。めくら撃ちのはずのカルロの銃弾が正確に追いかけてきて、障害物ごとマッケンを打ち抜こうと店内を跳ね回った。
体をかすめる銃弾にひやりとしながら、外に通じる窓目がけ、走る。
頭を覆って体当たりをかけた。薄い窓ガラスを突き破った勢いで、石畳の上を転がった。
跳ね起きる暇も与えずに、半秒前にいた石畳が炸裂した。マッケンは体をひねり続けなければならなかった。
――あのデカブツを、それぞれ片手打ちで速射してるってのに……!
カルロの愛銃は、大口径のマグナム弾使用のはずである。
片手で正確な射撃が出来るものではない。人間離れした握力と腕力が必要なはずだった。
自分の知っているカルロは、そんなものを持ってはいない。特別射撃が上手かったわけでもない。
「カルロが恐いくらいに変わっていく」――そう、マギーが言ったのを思い出す。
――誰なんだ? お前は――本当に。
転がりながら、マッケンは問いかける。死の恐怖と戦闘の興奮とに支配された頭の中で、幼なじみに問いかけ続けているその部分だけが冷たく冴えていた。
――お前はカルロなのか? 俺の知っているカルロ? マギーの知っているカルロか?
十発目の弾丸が、引き戻すのが遅れた左足をかすめた。
――叔父貴は「お前」に気付いてたのか? 俺たちの知らない「お前」に?
十一発目の弾丸が、左の肩口を浅くえぐった。鋭い痛みと、跳ねた血が頬にかかる感触。
――お前自身はどうだったんだ? 自分で気付いていたか? それとも――。
十二発目。
叩きつけた左手で上半身を持ち上げた。
奇跡のように、真下の石畳が砕け散る。跳弾がマッケンの耳元を過ぎ、空へと抜けていった。
連続する銃声が――止まった。
――今だ。
体を跳ね上げる。両脚で石畳に立ち上がる。
カルロの姿を探す。いた。二丁拳銃のシリンダーを同時にスイングアウトさせ、空薬莢を排出しているところだった。
その目が、じっと自分を見ている。
瞬きすらせず、何の感情も見ることのできない、それはガラス玉のような瞳で。
「……カルロおおおっ!!」
両手で銃を構える。照星をあわせ、肘を絞り、狙いをさだめ。
カルロの手が遅滞なく弾を取り出すのが、照星越しに見えた。
奥歯をぎりっと噛みしめて、撃った。
一発目は右肩。二発目は腹に。
対人用の軟質弾頭が、カルロの身体を二回震わせて。
カルロは何事もなかったかのように、一発一発弾を詰め始めた。
「……?!」
防弾着か何か。違う。カルロはまったく着ぶくれしていない。
マッケンはぞっとしながら、もう二発撃った。
一発は外れた。もう一発は――。
眉間に小孔が穿たれても、カルロは弾ごめをやめなかった。わずかにペースがゆっくりになっただけだった。
「う………」
自分の喉がひくりと痙攣するのを、マッケンは他人事のように感じる。ひどい悪夢の中にいるようだった。
額を撃たれた。即死だ。立っているはずがない。
では何故動くのか? 血が出ないのは? 俺をまだ睨みつけているように見えるのは?
弾を込め続けている「これ」は――「何」だ?
『カルロはもう、昔のカルロじゃなくなって――』
マギーの言葉が、頭に浮かんだ。
「う、うぅ……ぉああああああああっ!!」
弾倉に残った五発を、絶叫とともにカルロに叩き込む。腹に、胸に、足に、腕に、顔に。
きりきり舞いしながらカルロが倒れる様は、奇妙なスローモーションとなってマッケンの視界に焼き付いた。持っていた銃の一丁が手を離れ、視界の端に飛んでいくのまでがはっきりと。
マッケンは身を折って嘔吐した。
人を撃ったことはあった。殺したことも。その日はひどい罪悪感に苛まれて眠れなかった。今でも時々は夢に見る。
しかし今、それとはまったく異質な恐怖がマッケンの背筋を、腹腔を冷たいもので満たしていく。時間にして一分と経っていなかっただろうこの戦いは、その短さに反してあまりにも異常すぎた。
胃の中は空だった。わずかにバーボンが入っていた程度だ。それを胃液ごとぶちまける。
長い長い嘔吐が唐突に止まったのは、かすかな音を耳にしたからだった。
擦過音。硬いもので、硬いものをひっかく音。
かりかりと、音が連続するそこに目をやった。
カルロが、ふらふらと起きあがろうとしていた。糸吊り人形に似ていた。
手はぎこちない動きで、弾をこめ終わった胴輪を戻そうとしていた。
「……ハ、ハ……」
マッケンは乾いた笑いと共に、カルロに歩み寄る。
「なぜだ……カルロ? 何故動ける?」
空になった弾倉を取り出し、
「クスリでもやったのか? 叔父貴はそれだけには手を出さなかったろう?」
ベルトに挟み込んであった予備の弾倉と入れ替え、
「俺の罪悪感が見せた、悪夢か何かなのか? 俺がバーボンに悪酔いして、幻覚でも見てるだけなのか?」
初弾を薬室に引き込むために遊底をスライドさせ、
「それとも……それとも」
カルロの目の前で、マッケンは止まる。
銃を構え、虚ろなカルロの目を見据え、吐瀉物のまじった唾を石畳に吐き出して、問う。
「それともそんなに……俺が憎かったのか? なあ、カルロ……」
見返してくるカルロの右目が、赤い血だまりになっていた。最後の一発が当たったのだろう。
思い出したかのようにどろりと、そこから血の筋が流れていく。反対側の目がぐるりと白目をむいて、そこからも血があふれ出した。
カルロが口を開く。
錆びたシャッターの軋みのような「音」が、そこから長く響き渡った。
人間の「咆哮」ではなかった。
胴輪のはめこまれた銃が持ち上がる。撃鉄がゆっくりと上がった。
「カ、ル……」
何かを言いかけたマッケンを、雷鳴のような音がさえぎった。
銃声だった。すぐ背後から轟いたそれは異常な事態に静止したマッケンの思考を切り裂きながら、数グラムの金属片を超音速で飛ぶ致命的な飛来物へと変化させた。
そして、その人間の殺意を実行する触媒は――カルロをつらぬいた。
額から後頭部へと抜ける。衝突した運動エネルギーが脳内で炸裂する。後頭部から血と脳漿がどっと吐き出される。
カルロはそのまま倒れた。今度は動くことも、起きあがることもなかった。
「この……この、バケモノ――」
後ろを振り返った、マッケンが見たものは。
カルロの銃を両手で構え、その姿勢のまま硬直していたマーガレットだった。
撃ったのは、彼女だった。大口径のカルロの銃を彼女が扱えたのは、奇跡のようなものだった。
マーガレットは、じっとカルロの死体を見つめていた。
両目にあふれんばかりの涙をたたえ、かちかちと歯を鳴らして。
「……マギー……?」
「……あんたなんか、カルロじゃないわ……」
マッケンの声は、彼女には届いていない。マーガレットは、マッケンを見ていない。
彼女が憎しみすら込めて見つめているのは、今や物言わぬ屍。
カルロだった――はずのもの。
「カルロをどうしたのよ。カルロを何処へやったのよ。カルロに何をしたの、このバケモノ!」
銃口を震わせ、身体を震わせ、屍に言葉を投げつける。
カルロのことを。
「――カルロを返しなさいよ! お父様が気に入ってたカルロを!! みんなから好かれてたカルロを!! 私とマッケンが好きだったカルロを!! 私の――」
息が続かず、言葉が切れる。
そこまでが、マーガレットの限界だった。
「……わた、し、の……」
目の縁に留まっていた涙が、堰を切ってあふれだした。
三人でいることを、もっとも強く望んでいただろう彼女が、自らその可能性を断ち切った。
引き剥がされた理不尽への怒り。
異常な出来事への困惑。
人を殺した罪悪感。
そして決別の涙。
「マギー」
嗚咽するマーガレットを、マッケンは後ろから包むように抱擁する。
銃把にからみついて離れないマーガレットの手に、そっと自分のそれを重ね。
「『これ』じゃないんだ、マギー。そいつを言って聞かせるのは、『これ』じゃない」
自分の手も震えているのがわかったが、頭の中はひどく冷静なのがわかる。銃口を下げさせ、たった今マッケンが「見つけたもの」に狙いを付けた。
「きっと……『こいつ』だ」
銃口の示す先を追ったマーガレットが、びくりと肩をすくめるのが伝わってきた。
吹き飛ばされた、カルロの頭。派手に中身の飛び散った、後頭部の穴。
そこから這い出てきたもの。
細く長い全身を血に濡らし、ぬらぬらと脳漿の中を這って逃げようとする生き物。
蛇だった。
黒い鱗に包まれた身体は親指ほどの太さで、一フィート半ほど。しかしそれがすべてではない証に、まだ尾の部分はカルロの頭に潜り込んだままだった。
その蛇がふと、ふたりに気付いた。
鎌首をもたげ、のろのろと這い寄ろうとする。
呼吸すら忘れたマーガレットが、そっと囁くのをマッケンは聞いた。
「…………そうね。『こいつ』だわ」
銃声が、ただ一度だけ轟く。
蛇の頭部は、粉微塵に四散した。
◇ ◇
翌日になって、ファミリーの幹部たちは一様に仰天することになる。
次期当主として名の上がっていたカルロ・モディリアニが死んだからであった。それも誰かに殺されるという、最悪の形である。
同時にドン・シュルツの忘れ形見だったひとり娘も行方をくらました。幹部たちはシュルツの葬儀に現れたマッケン・コーネリアスの仕業と断定し、方々に追っ手を差し向けたが徒労に終わった。
結局のところ、犯人の追及はすぐにうやむやにされた。穏健派の最長老であるセルゲイ・バッキノが幹部たちを説得したところも大きいが、シュルツの死に始まった一連の事件――まるでファミリーにとっての凶兆とも思えるような――を誰もが忘れたかったのかもしれなかった。
それでもカルロの死の事後処理に、組織は忙殺された。
だからカルロの死に際した奇怪な出来事は、皆の記憶に残ることはなかった。
あるいは、残したくなかったのか。
撃ち抜かれたカルロの頭蓋骨に潜り込むかたちで、一匹の蛇の死骸が見つかった。
その蛇は、「尾」を銃弾で吹き飛ばされていた。
了
――『アンフィスバエナ』はエーゲ海の島に住むと言われる双頭の蛇のことである。『博物誌』の著者プリニウスによれば尾に当たる部分にもう一つの頭が存在し、両の頭から猛毒を吐きかける毒蛇とされている。古代ギリシアで酒と祭の神デュオニュソスにまつわるエピソードとして伝えられた神話に登場するのが初出と思われるが、やがてヨーロッパにこの伝説が伝わると『両頭蛇(Double heads snake)』と名を変えて様々な書物に登場していった。
後に生物についてアリストテレスが「ふたつの頭を備えた生物は存在し得ない。ふたつの意志がひとつの肉体を争わせるためで、それは理屈に反するものである」と唱えてから存在は否定されていったが、その名だけは「ふたつの意志の間で揺れ動く不安定な人間(もしくは組織)」の暗喩として使われたという。
人間は常に、ふたつ以上の意志の狭間で揺れ動いている。
双頭の獣は、本当に「暗喩」にしか存在しないのだろうか?
【幻獣辞典】より
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