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| 『幻想犯罪』 こあとる著 <MAIL> |
05/10/1893 フランス
オーギュスタン警部がその事件の報告を受けたのは、深夜の十時をいくらか過ぎた頃だった。
正確な時刻がわからなかったのは、彼の愛用している懐中時計が始終狂いっぱなしだったからだ。そして夜中の十時過ぎなどという気違いじみた時間にモンマルトルの丘までわざわざ出向かなければならなかったのは、それだけ重大な事件が起こったからだった。
死体が見つかったのだ。モンマルトル墓地に向かう路地、表通りを照らすガス灯の光から離れた暗がりに、その死体は転がっていたという。
もちろん、ただの死体ではない。パリ市警きっての敏腕警部が、勤めをとっくに終えた後だとわかっていても必要になる――それだけの意味を持つ死体だ。
死んだ男の身元はすぐにわかった。ツィドレルという名前。モンマルトルの丘にある、パリでもっとも有名なナイトクラブの音楽監督をやっている男だった。
毎日何百人という客を迎えるクラブの音楽監督である。たびたび舞台にも現れており、パリの上流階級にもかなりその名前と顔は知れ渡っている。オーギュスタン自身さえ、以前客としてその姿を目にしたことがあるほどだ。
夜勤の巡査の手には余る身分の人間の死体であったこと。これがオーギュスタンが呼ばれた理由のひとつ。
理由はもうひとつあった。夜勤の巡査の手に余る理由が、もうひとつ。
二頭立ての馬車でオーギュスタンを呼びに来た巡査長が、当惑顔でこう告げた。
「何故死んだのか、――それがまったくわからないのです」
■幻想犯罪 〜幻獣辞典・外典〜■
モンマルトルの丘に着く頃、街路に人通りはほとんど無くなっていた。
夜吹く風が薄寒くなるこの季節、通りはそろそろイチョウの落ち葉が目に付き始める。かさかさと風に吹かれて揺れる落ち葉を踏みしめ、オーギュスタンと巡査長は現場へと向かう。
巡査長曰く、最初に死体を発見したのはドイツ人の旅行者だという。
「簡単な聴取は行いました。別段怪しいところは――ああ、どうにも少し変わり者のようには見えますが」
「ドイツ人という連中は、」オーギュスタンは大股で歩きながら応じる。「君も知るとおり、皆が皆揃って変わり者だ……だが儂が着くまで待たせたのは賢明だったぞ、巡査長」
「恐縮です――そこを左へ。その奥です」
かしこまる巡査長に鷹揚に頷き、狭い路地へ入ると、すぐに現場はあった。
ふたりの巡査が、3ヤードほどの距離を置いて背中合わせに立哨している。その間にひとりの男が仰向けに倒れているのが見て取れた。
その傍らに、すらりとした長身の男が立ち、死体をじっと見下ろしていた。
くるぶしまである長い臙脂のコートに、細面の横顔。高い鼻にかかった銀縁の眼鏡。
靴音を聞いてか、巡査たちが敬礼をする前に男はオーギュスタンの方に顔を向ける。表情に乏しい、それでも端正な顔立ちは、不思議とオーギュスタンに冷たい印象を与えなかった。
「ご苦労様です、警部。こちらは発見者の」
敬礼をとき、巡査の一人が説明しようとするのを、
「ライマン。ライマン・フェルキンスだ。……よろしく、オーギュスタン警部」
男――ライマンが自らさえぎった。
ゆったりとした口調でことさら大声でもないのに、まるで渡り台詞のように淀みがなく、割り込んできたという感覚をまったく感じさせない。台詞を奪われた巡査もそう感じたのか、すぐ口を閉じて曖昧に頷いただけだった。
オーギュスタンは咳払いをひとつ。ふと浮かんだ疑問を頭の隅に追いやる。――巡査たちか巡査長が話しているのを聞いたのだろう、「だから」儂の名を知っていたのだ。
「よろしく、ムッシュウ・フェルキンス。早速だが、いくらか聞きたいことがある」
「何なりと」
「何故、君はこの路地を? 宿屋はこのずっと先だ。旅行者が通るところじゃない」
「悲鳴が聞こえたのだ、警部。ここを通りかかったのは偶然だ。
『ムーラン・ルージュ』でシェリー酒とワイン、シャンソンと喜劇をいささか嗜んだその帰りだった。貴方がご指摘の通り、私のとっている宿はそこのずっと先――」表通りを指さす。「――サン・ラザール駅の近くにあるホテルだったのでね。今し方までくつろがせてもらっていたクラブの音楽監督の死に目に遭うとは、さすがに驚いたが」
流暢なフランス語で、淡々とそこまでを話した。視線を死体に移し、何やら考え込むようにしている。
「今日の舞台に、ツィドレル氏は出ていたのかね?」
「いいや。ここで出会ったのが初対面だな」
「では何故、彼の……」素性を知っていたのかと言いかけて、やめる。巡査たちの話を聞けばわかることだ。代わりの質問を。「……彼の悲鳴とやらは、大きかったかね?」
「いや、かすかなものだった。他の誰にも聞き取れないほどにかすかで、弱々しかった。
私だからこそ聞こえたのだろう」
――そんなに耳が自慢か?
微妙に引っかかるものを感じながらも、オーギュスタンは質問を続ける。
「立ち入った質問だが、ご旅行とか?」
「ああ。ヨーロッパを気の向くままにね。それほど余裕有る暮らしをしているわけじゃないが、つい先日少しばかりまとまった遺産が手に入った。まったくの気まぐれさ」
能弁と呼べるかもしれない、しかし淡々とした口調。ゆっくりとした、しかし他人を苛立たせない程度には遅すぎない声。
言い訳を考えながら喋っているようには見えない。
『別段怪しいところは――ああ、どうにも少し変わり者のようには見えますが』
巡査長の言葉を思い出す。かなり適切な人物評かもしれないとオーギュスタンは思い始めていた。
「普段、お国でのご職業は」
「一応は」そこでライマンは初めて、ほんのわずかだが言いよどんだ。視線をあさっての方に向け、すぐに戻してから「探偵をやっている」
「探偵?」
「残念ながら、ポオのデュパンのようには巧くいっていないがね。
……ああ失礼。パリ警視庁には専門の探偵がいるのだったか。それに比べれば個人でやっている、私的な探偵ごっこのようなものさ」
アメリカで書かれた物語の人物を引き合いに出してから、ライマンはかすかに笑って言い直す。
この時代、探偵は警察機構において主に存在し、現在における捜査班の役割を担っていた。
まだ近代的な捜査システムが確立していなかった時代である。イギリスでドイルが『シャーロック・ホームズ』を執筆して数年ほどしか経っていない時代だ。個人で営業活動をしている、現在呼ばれる「探偵」――プライベート・アイと言うべきものは存在しないと言ってもよかった。
「探偵……ですか。ふむ」
すなわち、オーギュスタンにとっては非常にいかがわしい答えだった。それが表情に出さないよう口元を撫でさする。
――自称探偵というドイツ人が、気まぐれでフランスに旅行を?
はっきり言えば不審人物だ。これがフランス人だったならば、このまま市警に引きずっていっても何処からも文句は出まい。
だが、オーギュスタンは思った。この男はドイツ人だ。もう少し慎重に対応する必要がある。
よしんばこのドイツ人がツィドレルの死に何らかの形で関わっていたとしても――殺害した本人もしくは死に至る現場を目撃している人間だったとしても、この時点では何も知らないと言い張っているのだ。いっそ泳がせて様子を見るか。何もはっきりした証左のないまま取り調べをしても、この男は相当に手強そうだ――。
おっと、それならば肝心の質問を。
「パリにはどのくらいご滞在の予定ですかな」
「そろそろ発とうと思っていたが……」
それは怪しむべきところだ、と思った矢先に、
「……気が変わった。もうしばらく滞在しようと思う。
『オスピタリティ』というホテルの305号室に宿をとっている。何かあったときは遠慮なく尋ねてもらいたい」
あっさりとそう言われた。
言葉に詰まったが、つまりは「もう今日は帰らせてくれ」ということなのだろう。方便の可能性も考え手近な方の巡査に目配せする。「お送りします」との巡査の申し出に、ライマンは何のためらいもなく首肯した。
表通りの方にふたりが歩き出すのを見て取り、それからオーギュスタンは死体にかがみ込んだ。仰向けのまま、大袈裟なほど大の字になって倒れている死体は、未だ瞼も降ろされておらず、かっと目を見開いて曇った夜空を睨みつけていた。
巡査長が持っているカンテラを借り、ざっと着衣を見る。襟が多少乱れている程度で争った形跡はほとんどなし。血痕や外傷、打撃痕もなし。つづいて顔を。同じく外傷なし。頭を抱え起こして後頭部に触れる。出血なし。
死者の目を覗き込む。――これは。
「そうそう、オーギュスタン警部、その人物はおそらく他者によって殺害されたのだ。
私はその人物の主治医ではないので断定はできないが、たとえば心臓の発作などによる突然死ではあり得ないと思う」
視線を上げると、路地の入り口近くにまだライマンが立っていた。
顔だけを振り向かせ、こちらをじっと見つめたまま、まるでオーギュスタンの反応を催促するかのように眼鏡をかけ直す。
「……ムッシュウ、何故そんなことを断定できるのですかな」
「かすかだが顔が紫色に染まり、目は真っ赤に充血している。
十中八九急激な窒息がもたらすものだ。以前見たことがあるのでね」
どきりとした。まさに声をかけられる直前、オーギュスタン自身が同じことを考えたのだ。
「だとしても、殺人と断定するには早いのではありませぬかな。何かの発作という可能性もある」
にわかにわき起こった反抗心の導くまま、オーギュスタンは切り口上で言葉を返す。
ツィドレルの死因は窒息死だ。だが首には紐の痕も手の痕もない。争った形跡もない。つまり絞殺とも扼殺とも考えられない。
ならば、なぜツィドレルが殺されたと断定できるのか。
「そう、病気の可能性は捨てきれない。ただそう考えると、ひとつだけ不自然な点がある。
普通仰向けに倒れた場合、手の平は上を向くはずだ。……違うかね、警部」
ぎょっとして死体に向き直る。気付きもしなかった。手はどうなっている? 手の平は下。大の字に倒れた胴体に併せるように、ぺったりと開かれた状態で石畳に触れている。
持ち上げると、砂と小石が手の平から落ちた。そこでもうひとつ気付く。
手の甲に丸い鬱血があった。内出血の痕だ。
「その痕、その奇妙な鬱血が何かということだ。オーギュスタン警部」
その声に応じようとしたが、もうその声の主はいなくなっていた。表通りのガス灯の光の中、イチョウの葉が何枚か、かさかさと夜風に舞っているだけだった。
頭をひとつ振り、オーギュスタンは隣に立つ巡査長に話しかけた。
「くだんのホテルまで尾行だ。そのまま交代で見張りに。市警には儂から人を寄越すよう伝えておくが、それまで手が足りなければ警邏の人間を割いても構わん」
「承知しました」
☆
一夜明けた日の午後、オーギュスタンは遅めの昼食を取りながら部下の報告を聞いていた。
「まずツィドレル氏の主治医は、北駅近くで問診医をしているベルナルド医師でしたが……彼を含めた懇意の人間たちによれば、ツィドレル氏は健康、わずかに喉を患っていた程度だそうです。ぜんそくか百日咳、てんかんなどといった持病もなく、ある日突然呼吸困難になって死に至るような理由は無い、と」
「恨みを抱いていそうな人間についてはどうなっとるかね」
「それもあまり。多少狭量なところがある、という人物評はありましたが他はおおむね――決断力があり才能のある人間はすぐ抜擢するなど、むしろ好意的な評価の方が高く、金貸しや賭け事によるトラブルもないようです。音楽監督という仕事上、歌手や演奏者との雇用トラブルは過去にいくつかあったらしいのですが……」
すべて洗い出すには相当の時間と人出がいる。オーギュスタンはうんざりして先を促した。食事をとる手は休めなかった。
「死体の検分は、いつものようにユッテル医師に。やはり外傷はほとんどありません。手の甲の内出血の他は、手の平と後頭部に擦り傷が多少見られた程度だということですが」
「擦り傷?」手が止まる。
「砂が髪の毛の中に。手の平には小石が食い込んでいました。どちらも地面に押し付けられてこすられた時に出来たもののようです」
「やはり殺人かね」
部下に聞かせるでもなく呟くと、最後の紅茶を飲み干す。それから一番気にかかっていた事を聞いた。
「――あのドイツ人はどうしとる?」
「あの後ずっとホテルに籠もっていました。つい先程――昼頃に出かけてシャンゼリゼの方に。現在もドナルドが尾行しています。そろそろ交代したセヴランが戻ってくるでしょう」
「ふむ……」
受け取った調書に目を通していると、立てたクロークの襟を戻しながらセヴランが部屋に入ってきた。くるなり大仰に顔をしかめて、
「あのドイツ人、花束を持ってイヴェット・ギルベールのアパルトに押し掛けましたよ?」
「何だと?」
イヴェット・ギルベールは、ベル・エポック――「古き良き時代」のフランスを代表するシャンソン歌手である。
のちに『ロートレックの詩神』、『シャンソンの女王』などという名声を欲しいままにする、当時にして三十前ほどだった彼女はまさに歌い手としては最盛期にあり、モンマルトルの丘に立ち並んでいた『ムーラン・ルージュ』や『シャ・ノアール』、『ディウァン・ジャポネ』と言った高級ナイトクラブやパブでも引っ張りだこという人気を誇っていた。
わざわざ他国から彼女の歌を聴きに来る人間もいるほどなので、ライマンの行動は取り立てておかしいというわけではない。だが死体を見た翌日に、何喰わぬ顔でシャンソン歌手に会いに行くとは……。
「十分ほどなにか歓談していましたが、すぐにアパルトを出払い、ド・ゴール広場のキャフェで昼食を。そのままホテルに戻りましたよ。
……まるきり洒落者の観光客ですが、警部、いったいあのドイツ人の何処が……」
オーギュスタンはセヴランの呆れたような問いかけを聞いていなかった。奇妙な符合に引っかかるものがあった。
――『ムーラン・ルージュ』から帰ってきた男が、『ムーラン・ルージュ』の音楽監督の死体を見つけた翌日、『ムーラン・ルージュ』の人気歌手に会いに行っただと? あの奇妙なドイツ人が? 花束を持って?
どうにも、今ひとつ釣り合わない。直感的なものがほとんどだったが。
昨日の夜の台詞といい、あの男にはどうにも何かを隠しているような、もしくはもったいぶっているような胡散臭さがつきまとっている。何かを知っているような素振り、自分にしかわからないことを自分の中でひねくっているような態度がそう思わせるのだ。
「……ギルベール女史には話を?」
「いえ。聞いておきますか」
「そうしてくれたまえ。儂は『ムーラン・ルージュ』の支配人に会ってくる」
開店にはまだ充分な時間がある。支配人に直接話をするつもりで、オーギュスタンはモンマルトルの丘に向かった。戻ってくる頃には新しい報告が届いているだろうと踏んでのことだった。
ところが『ムーラン・ルージュ』のある表通りで馬車から降りるや否や、オーギュスタンは渋面を作り、ちょうど店内から出てきた背の高い人影を睨みつけた。
乗り合いの馬車を止めようとしているところに大股で近付き、乗り込む前に声をかける。
「ムッシュウ・フェルキンス!」
人影は、ライマンだった。さっと周囲を見渡すと、拍子抜けした様子の部下――ドナルドが二十ヤードほど向こうで立ち止まるのが見えた。目線で「そこにいろ」と告げてから、ゆったりとこちらに向かって歩いてくるライマンに詰問する。
「パブが開くのは八時からだ。何をしていたのかね?」
いぶかしげな様子を隠しもせずに聞いたオーギュスタンに、ライマンは口元だけで笑みを作り、
「二、三従業員に話を聞いていた。得心のいかないことがあったのでね」
「何だと?」
「昨日のことと、いささか関係があることだ。……と言うよりは、関係があると解ったのだが」
「何のことかね? 事件のことを言っているのなら、それは我々の仕事だ。よそ者の君は関係ない――」
ライマンが首を振る。
「それは誤解だ、警部。確かに昨日の事件にも少しばかり興味はあるが、今回はあくまで私自身前々から興味があったことについて尋ねて廻ったに過ぎない。事件との関連については今し方気付いたことで、結果的にそうなったと言うだけなのだ」
その表情は相変わらず穏やかで、言い訳めいた調子も含まれていない。ひとつ息を吐いて苛だたしさをどうにか鎮め、話に乗ってやることにする。
「それで? 何が解ったというのだ」
「よければ、馬車に乗りながらがいい。たった今、向かうところが出来た」
「……パリ市警の馬車でよければ」
皮肉半分、自棄半分で、オーギュスタンはそう告げた。待っていた馬車を呼びつけ、ついでにドナルドも手招いて――知ってか知らずか、ライマンはかすかに笑っただけだった――三人で馬車に乗り込む。「アラブ人街へお願いする」とライマン。
「移民居住区にかね?」
オーギュスタンですら眉根を寄せた。ドナルドなどは露骨に顔をしかめている。
パリの郊外にはこの頃から、移民たちの街が点在していた。
中でもモンマルトルの丘がある「十八区」は古くから芸術家たちの住む場所、高級歓楽街、そしてアラブやアフリカから来た移民たちの居住区――引いては貧民街――のある場所というみっつの極端な顔を持っていた。娯楽と芸術、隆盛と退廃がそれぞれ同居する奇妙な街区だったのである。
折りも折り、ヨーロッパの列強国を中心に「有色民族を支配下に置く白人こそが人類の頂点」といった社会的ダーウィニズムが流行りだした時代、フランスの移民たちも例外なく貧しい生活を強いられ、同時に差別を受けていた。
オーギュスタンのような警察官ですら例外ではない。その目にはありありと嫌悪感が滲んでいる。
「まさか移民街の連中がツィドレル氏を――」
ドナルドが言いかけたのを遮ったのは、しかしオーギュスタンだった。
「違う。ツィドレル氏は何も盗まれておらん……財布も、銀の懐中時計も指輪も、なにひとつだ」
視線をライマンに向ける。ライマンは頷き、
「もともと私がここに来た目的のひとつに」馬車の窓から流れていく町並みを見ながら話し始める。「『ムーラン・ルージュ』で話題を呼んだショーを観たかった、というのがあった。およそ聞く限り奇想天外な話だったのでね。直にこの目で観てみたいと思っていたのだ」
「奇想天外……?」
オーギュスタンは腕を組んで考え込む。『ムーラン・ルージュ』は確かに歌だけではなく、喜劇やダンス、アクロバティックなショーなどといったサーカスまがいの芸も幕間に見せることで名高いが、果たして「奇想天外」という形容の出し物などが今までにあっただろうか。
「以前聞いたのだ。ドイツに来ていたマルセル・ボーデュアンという医学博士が話していた――とてもおかしく奇天烈な芸をする男が『ムーラン・ルージュ』にいるとね」
ぐるり、と首を廻して、ライマンはオーギュスタンの顔を覗き込む。どことなく面白そうに目を細める。
「聞いたことはないかね。ピュジョルという男だ」
「名前だけでは……」
首を傾げたオーギュスタンの横で、ドナルドがあっ、と叫んだ。
「覚えているぞ。新聞で読んだ……あれだろう、放屁で『ラ・マルセイユーズ』を奏でるとか」
「はあ?」と誰かが素っ頓狂な声を上げたのをオーギュスタンは聞いた。
誰かと思ったら自分の声だった。ライマンがククッ、と笑って首肯するのが見えた。――屁でフランス国家だと?
「なんだそれは。それが事件とどういう関係が」
「まあ聞いてもらいたい。
かくして私はその男の芸を観たくて――もちろんそれだけでは無いが――この国にドイツの片田舎からやって来たというわけだ。ところがその男はもうあのクラブにはいなかった。聞けばその男が自前の芸を披露していたのはほんの数ヶ月の間で、その後の行方がわからなかった」
「確かにね。俺も実際には観たことがないな。当時はあのクラブに行ったお偉い様方が腹を抱えて笑い転げたとか聞いたのに」
「……その惜しそうな顔はやめろドナルド。何が放屁だ、けしからん」
舌打ちでもしそうな表情のドナルドと、言語道断という顔のオーギュスタンを交互に見やり、ライマンは肩をすくめてみせた。
「そこでいささか気になってね、ギルベール女史や『ムーラン・ルージュ』の店員に聞いてみた……本当はツィドレル氏に聞くのが一番だったのだろうが。その男を雇い入れたのは彼らしいからな」
「ツィドレル氏が?」
「そう、彼が。そしてひとりの店員が教えてくれた。彼は今アラブ人街にいる、らしい」
「ようやく話が繋がり始めたことを喜べばいいのかね、儂は」
いまだ憮然としたままのオーギュスタンに、
「ツィドレル氏を殺したのは、おそらく彼だよ。オーギュスタン警部」
唐突に、核心を――ついた。
「何だと!?」
まさに虚をつかれて絶句する。ドナルドもひどく複雑な顔で――それがタチの悪いジョークなのかどうか判断し損ねている顔だ――もごもごと口ごもっている。
「正確に言えば彼だけではない。おそらくは協力者がいる。おおよそ想像もついている。
私ですら少々信じがたいが」
「信じられるか!」驚きから立ち直った第一声は怒鳴り声だった。「だいたい屁で――ゴホン――人が殺せる道理が何処にある! どんな強烈なものであろうと、人一人を窒息死させる屁などあってたまるものかッ!」
柳眉を逆立ててあげる罵声にも、ライマンはすずしい顔でやんわりと応じる。
「その通りだ、警部。人は放屁では死なないな」
「き、き、貴様儂を馬鹿にしておるのかッ!? 今し方貴様は――」
「誤解だ。私は別にピュジョルが屁でツィドレル氏を殺した、などとは言っていない。
彼の放屁による芸は、実際には彼の特殊な生理的特徴を利用しているものだ。彼はその生理的特徴を以てツィドレル氏を殺した可能性が大きい、ということだ」
「生理的特徴だと?」
「ああ、ギルベール女史が話してくれたところによると、彼の肛門は特殊な『吸引性』を持っていた。水や空気を自在に吸い込め、吐き出せる。彼は皆の観ている前で、洗面器いっぱいの水をあっさりと尻の中に吸い上げてしまったそうだ」
ドナルドがまた笑い始めた。臑を蹴飛ばして黙らせる。堅物のオーギュスタンにとっては胸が悪くなる話だった。
しかし、馬鹿馬鹿しいながらもライマンが言おうとしていたことは飲み込めた。つまり、
「その男は空気を吸い上げて……殺した? ツィドレル氏を?」
「そうではないかと思う」
この時ばかりはありがたくも、ライマンの表情は真面目だった。
それにつられた、と言っていい。
「つまり、ああ……その、尻を、ツィドレル氏の、顔に」
ぶはッ、とドナルドがとうとう吹き出した。
堰がきれたようにげらげらと笑い出し、ひいひいと身をよじっている部下を忌々しげに睨み、オーギュスタンは青筋すら浮かべて黙り込む。ライマンと御者がいなかったら、ポケットの中の拳銃でドナルドを撃ち殺しかねない顔だった。
「とんでもない与太話だと思っているかもしれないが……」すました顔でライマンは告げる。「事件の早期解決のひとつの可能性ではある。少なくとも私は、その可能性が低いとは思わないな」
言い返そうとした時馬車が止まった。御者がこの先です、と告げてくる。
「この際だから協力してほしいのだがね、警部?」
馬鹿な、と言おうとした。馬鹿な。こんないかれたフン族の戯言につきあわされて、こんな薄汚い移民どもの街まで来させられた。もう一秒だって我慢ならん。とっとと署に戻ってまっとうな方法でまっとうな死因をつきとめ、まっとうな手段を、
「……他に誰も説明できていないのだろう? あの死に方を」
やんわりと、そう遮られる。心を読まれたような絶妙のタイミング。
ドナルドはまだ笑っていた。笑いすぎて痙攣している。
オーギュスタンは鼻を鳴らして、吐き捨てた。
「――もしそいつが犯人じゃなかったら、貴様とこの馬鹿をまとめてセーヌに沈めてやるわ!」
☆
いい加減朽ちかけたアパルトにバラックまがいの掘っ建て小屋、下を見ずに十歩も歩けば間違いなく三回つんのめるであろうがたがたの石畳、すえた糞尿と反吐の匂い、閉め切られた窓、閉め切られた扉、そこから向けられてくる形のないもの、敵意、羨望、嫉妬、反感。
――これがパリの一区画か。これが芸術と文化華やかなりし都の風景か。夢のようと絶賛される夜を与える、古くも新しき街の裏側か。
どれもこれも、オーギュスタンにとっては認めたくないものばかりだった。
名目上はパリ市内、しかし事実上パリ市警の管轄の外、そんな外国人移住者たちの自治区を、オーギュスタンは独りで歩いている。ドナルドとライマンもそれぞれ町中に散り、今ごろはピュジョルの行方を追っていることだろう。
三人ばらばらに捜すのを提案したのはライマンだったが、オーギュスタンは真っ先にそれに賛成した。三人で手分けすれば早く捜せる。一刻も早くこの薄汚い場所から立ち去れる。ピュジョルとやらが犯人であるかどうかなど知ったことか。むしろそうでない方がよほどいい。あの生意気なフン族の小僧の首を、思い切り締め上げてやれる。
――そうとも、馬鹿げとる。そんな侮辱的な芸をやるやつも、それを天下の『ムーラン・ルージュ』で流そうとするやつも、そんな馬鹿をわざわざ捜し出そうとするやつも、何もかもだ。
つまりはそれに乗せられている自分も。それがもっとも腹立たしいことだった。
もう何度目になるか、アパルトのドアのひとつを乱暴にノックする。パリ市警だ、と居丈高に叫ぶ。おそるおそる出てきた薄汚い男に、どんよりとした目の女に、老いた年寄りに、痩せさばらえた子供に高圧的に詰問する。「ピュジョルという男を知らぬか」。弱々しく首が横に振られ、ときにフランス語とも呼べない片言で言われる。「旦那様わかりません」。荒々しくドアを閉める。
もう何時間も繰り返しているような気がして足を止め、懐中時計を探り見た。一時間も経っていない。
何人かの青年たちがとぼとぼと歩いてくるのが見えた。ぼろぼろのシャツと汚れたズボンをどうにか纏っているような体で、狭い道の真ん中で立ち止まっているオーギュスタンを見るとこそこそと両脇に避けていく。「お前たち、ピュジョルという」聞こうとした言葉は口の中だけで消えた。不意にひどく馬鹿らしいという思いが、耐えきれないほどに高まったからだった。
すえた空気を深く吸い込むこともためらわれて、オーギュスタンは小さくため息をついた。「まったく馬鹿げとる」声にするとよりそう思えた。
確かにツィドレル氏の死に方は謎だ。二十年警官として勤めてきたオーギュスタンにも、ユッテル医師にも判断がつかない。窒息死なのは間違いないところだが、まさか――。
そこまで考えて、ふと思い当たる。
――待てよ。ピュジョルが犯人だったとして――。
あの両手の鬱血はどう説明するのか。どうやってついたというのか。
そもそも、何かを顔に押しつけて窒息させたというならクッションや布きれだって同じことだ。何がおかしいと言って、ツィドレル氏の死体はほとんど争った形跡がないこと、着衣の乱れがないことが疑問だったのだ。
暴れる大人の男を抑え付けるのは手間がかかる。手足を押さえれば痣がつくほどきつく抑えている必要がある。そうなれば当然着衣は乱れる。その乱れがなかったのが問題だったのではないか?
何故気がつかなかったのか。
――犯人は、独りでは、
顔を上げようとしたのと、両手に違和感を感じたのが同時だった。
両手の甲に、何かがぺったりと隙間無く張り付いたのである。ひんやりと冷たい、くにゃりと柔らかいもの――焼く前のパン生地のような何か。
右手を見た。先程左右に避けていったはずの青年の後ろ頭が見えた。背中を向けていた。
左手を見ようと思ったところに、膝の裏を払われた。そのまま後ろに倒れる。息が詰まるほど豪快に倒れ込んだというのに、手の甲に張り付いた何かはまったくはがれようとせず、持ち上がったままの両腕がねじれて激痛が走った。
叫び声を上げる前に、何かが顔に覆い被さってくる。ひんやりとした柔らかいもの。手に張り付いているものと同じ感触。鼻と口がふさがれる。呼吸が出来ない。
手が何かに張り付いているせいで動かせない。息が苦しい。びり、と手の甲に痛みを感じる。苦しい。思い切りつねられているような痛み。くるしい。腕が無理矢理石畳に押しつけられてびくともしなくなる。クルシイ。足をばたつかせるがそれもすぐに抑え付けられる。クルシ――。
「離れたまえ」
その声だけが、はっきりと耳に届いた。
「警部から離れるのだ。追ってきた警官を殺してもいいことなど何もない。余計に罪が重くなって、余計に追っ手が増えるだけだ」
顔を覆っていたものがはがれる前に、オーギュスタンは気を失っていた。
☆
新たに呼んだ馬車に四人の青年が乗せられるのを、オーギュスタンはじっと見守っていた。
四人は抵抗らしい抵抗もせず――というより能動的な行動すらろくにせず――、ライマンも彼らを無害だと言い切った。ある生理学的特徴の一点を除けば彼らは普通の人間であり、まっとうな警官に敵うものでもないと。
空気を、自在に吸引する肛門。それはつまり、「吸い込む」ことにも利用できる。
まるで吸盤のように張り付いて、おそろしく堅固な力で吸い上げる。大の大人でも引き剥がせぬほど、人間の皮膚に内出血を起こさせるほどに強く。
両手の甲についた丸い痣を、オーギュスタンは苦々しげに見下ろした。それからいつの間にか隣にやってきていたライマンに、
「……儂を、囮に使ったな?」
痣を見下ろしたまま、確認する。
「申し訳ない、警部。貴方が一番目を引くと思った。
貴方から逃げる素振りをする者がいればよし、恐慌に駆られて貴方を襲ってもよし。――駆けつけるのが遅かったことについては、重ねて謝罪するが」
「構わん。早期解決の一助と思えば安いものだ。どうせ手柄は我々が頂戴することになるのだしな」
「痛み入る」
わずかな沈黙。警官の急かす声。何をもたもたしている、さっさと乗るんだ。
「……散々聞き回って知っているのだろう。彼らは何なのだ。何故ツィドレル氏を殺した」
「簡単な理屈だ」予想していたのか、ライマンはすぐに応じる。「あんな特異と言っても過言ではない生理的特徴の持ち主、遺伝という理由以外に一度に四人も集まるはずもない……」
「子供だということか。四人とも?」
「まず間違いなく。彼には四人の息子がいたとギルベール女史も言っていた。……それだけでも充分驚きではあるがね」
馬車の扉が閉まる。走り出す。
ふたりはそれを、じっと見送っている。
「何故だ。どうしてフランス人の彼らがこんな――」
「彼らに直に聞いたわけではないが、おそらくは」逡巡するような空白。「どんなに愉快な芸であっても、どんなに特異な能力であっても、いつかは飽きられてしまう。それを嗜む人間たちが娯楽に飢えていればいるほどに、その時期は早く訪れる」
「…………」
「歌であっても、絵であっても、喜劇であっても同じことだ。ましてピュジョルの芸は歌でも絵でも劇でもない。人によっては眉をひそめるような」ちらりとオーギュスタンに目を向ける。「猥雑な類の一芸に過ぎない。一度見てしまえばその興は冷めていく一方だろう。事実、彼が『ムーラン・ルージュ』の舞台に立てたのは半年にも満たない、ごくわずかな期間だけだ」
「その後は?」
もはやそれは問いかけではなかった。オーギュスタン自身にも理解できていた。
当のピュジョルは、町の何処にもいなかった。青年たちもそれを話そうとしなかった。
すでに死んでしまったか、子供たちを残して失踪したのか。どちらにせよ子供たちは残され、華やかな歓楽街を遠目に望む移民たちの町で、貧しい暮らしを余儀なくされた。
ツィドレル氏を殺したのは逆恨みか、それとも――自分たちを売り込もうとした挙げ句のことか。
どちらともつかない。彼らは殺したツィドレル氏から何も盗まなかった。
「この街で飽きられた芸人は、もうどうしようもない。飢えて落ちぶれるしか道がない」
ぽつりと呟くように、ライマンは続ける。
「彼にはおそらく、他の場所に行っても無駄だとわかっていたのだろう。
貴方は言ったな、『けしからん』と。その通りだ。あんな芸はヨーロッパの何処でやってもまともに評価などされまい。イギリスやドイツの首都であんなことをしたら? 下手をすれば投獄されかねないだろう。この街だからこそ客は喜んだ。たとえ短い間でも、喝采をもって迎えたのだ」
古きと新しきが入り交じる街。芸術と文化華やかなりし都。夢のようと絶賛される夜を与える場所。
高尚な芸術も、猥雑な芸も、ことごとく呑み込む奇妙な街――。
「この事件は、この街だからこそ起きたのだ。私はそう思うよ、オーギュスタン警部」
すい、とライマンは歩き出した。馬車に乗るつもりはないのか、モンマルトルの丘に向かう街路をのんびりと歩き始める。
その背が遠くなる前に、オーギュスタンは顔を上げた。その背に向かって問いかけた。
「もうひとつ。――もうひとつだけ教えろ」
背が止まる。顔を向けないままで返事は返ってきた。「何なりと」。
「儂自身がやられてわかった。あの状態では声など出せない。貴様は最初に言ったはずだぞ、『悲鳴が聞こえた』と。あれは嘘だ。
教えろ。本当は何故あそこにいた。いつからいた? 事件が起きた時にはもういたのではないのか?」
止められたのではないのか。あの事件を。
「……貴方は有能なのだな、警部」
わずかに横顔を見せる。その口元には自嘲するような苦笑が浮かんでいた。
「だが私は嘘は言っていない。悲鳴は聞こえたのだ。近くに私が居合わせたのは偶然だったが、私がそこに駆けつけたのは悲鳴が聞こえたからだ」
「それはあり得ないと、何度言ったら――」
「確かにあり得ない。――生きている者の声ならね」
オーギュスタンは目を見開いた。呆けたように口を開けた。
――何を言ったのだこの男は? 今何を言った?
何かを言おうとして、声が出ない。喉の奥に張り付いてしまったかのようだ。
ライマンが、苦笑を深めたように見えた。
「私が貴方達の捜査にずっと先んじられたのは、その『声』がこう言っていたからだ。
『助けてくれ、ピュジョル! こいつらを止めてくれ!』
彼に関係した事件だとそれでわかった。あとは証拠を集めるだけ。貴方達にも納得の行くような、現実世界の証拠をだ」
かつり、とブーツの踵が音を立てる。顔が見えなくなる。背中が遠くなる。
立ち尽くすオーギュスタンの前で、ライマンの姿がゆっくり小さくなって、やがて消えていった。オーギュスタンの耳には、最後にライマンが呟いた声だけが残っていた。
「この街でも受け容れられない、――そんな芸も世にはあるのだ」
了
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