小説目次


『〜幻獣辞典・無名外典〜』
こあとる著
<MAIL>





 


〜外典之伍〜

 朝起きると、九重(ここのえ)さんが犬になっていた。
 と言うか、軽自動車くらいはある犬型の獣になって俺に寄り添っていた。



 腰が抜けた。



「おはようございます」
「……おはよ九重さん」

 それでも優しく声をかけてくれる辺りはさすが九重さんだ。シッポをはたりはたりとゆっくり振っているところもちょっと貫禄で、――こんな朝の挨拶でぱたぱたと思いっ切り振るほど子供っぽくはないですよ、でも嬉しくないってわけじゃないですからねにこにこ、てカンジ? おおっオトナの笑み。じゃなかったシッポ。

 ……よし、まずは冷静になろう、俺。

 まずは悲鳴を上げなかった俺、エライ。九重さんなら笑って許してくれるだろうけど、実際にはそういう行為に九重さんはひどく敏感で、とりわけ――今ならちょっと自惚れて言えるかもしれない――俺がそういう態度をとったらきっとひそかに、ちょっとだけ傷ついてしまうに違いない。
 今の俺としては、その「ちょっと」ですらも許し難い。布団に寝そべったままごろりとうつ伏せて、顔だけ九重さんに向けて誤魔化すことにする。

「何時くらい?」
「十時をすこし過ぎました。――朝ご飯、作りましょうか?」
「ううん、まだいい……」

 なんか普段の会話してるよ俺。九重さんの声がいつも通りっていうのもあるんだろうけどヘンな気分だ。
 身体を起こして(起きれた。もういっちょエライ俺)まじまじと見てみる。……ホントに犬みたいだなー。
 大きさを除けば、毛足が長めのコリー犬みたいな外見。体毛は濃いグレーで柔らかそうだった。
 まん丸の目が、俺をじっと見返していた。

「びっくりしましたか?」
「うん、まあ流石にちょっと。……えと、なんでそういう姿なのか聞いてもいいのかな」
「はい、簡単にご説明しますと」九重さんはちょっと首をかしげて「わたしがいくつか取れる姿のうちのひとつなんです、これ。……そうですね、お仕事用とでも言えばいいのか」

 お仕事、というのはつまり、普段実家で九重さんがやっているもののことだ。
 と言っても、九重さんが実家で何をしているのかというと、非常に解りにくい。実家に寝泊まりはしているけれどお手伝いさんのようなことを――実際、ウチの実家にはお手伝いさんが何人かいた――するでもなし、実家で暮らしている人間、とりわけオヤジが外に出るときは必ずその側にいるけれど、かといって秘書のようなことをするわけでも無い。
 俺も子供の頃は「いつも側にいてくれる優しいお姉ちゃん」で良かったのだが、その「優しいお姉ちゃん」が家族じゃないと知るとその立ち位置についてそれなりに考えを巡らせるもので、本人が否定も肯定もしないせいもあり、中学生くらいになった頃には漠然と「ボディガードのようなものなんだろう」と思っていた。
 いや、間違ってはいない。それで正しい。九重さんはオヤジを――と言うよりウチを守っている。
 それは言葉通りなのだが、ここで重要なのは、どういう風に守っているかで――。

「……はじめて見た。そういう姿になるんだ」
「はい。人の姿を取っている時よりも、ずっと速く動けますし力も出しやすいんです。
 あとは――まあ、不思議なこともいろいろ出来るようになりますね」

 説明しづらいのか、九重さんはちょっと言葉を濁す。
 九重さんが「どういう存在」かを知らされたのは、高校になってからだった。
 その頃になったらいくら鈍い俺でも「優しいお姉ちゃん」が何故かまったく歳を取っているように見えないことや、まるで犬か何かみたいに――俺が学校帰りに何処のファミレスでドリンクバーにある何を飲んできたか匂いで判る、なんて犬でも無理なんじゃなかろうか――鼻がいいこと、そして何より人間離れして強いことなんかを知っていたから、「優しいお姉ちゃん」が普通の人とは違うって事実をどうにかこうにか受け容れることができた。

 あらゆる災いから、家とそこに住む人を護るもの。

 暴漢や泥棒などといった単純な暴力に始まり、突発的な事故や火災、果ては呪いとか祟りとか、「そういうもの」に至るまで。
 「ジュウゴウコドク」とか何とかいう方法で造られた、いわゆる妖怪。それが九重さんだ。
 ずっと昔にオンミョウハカセだかに造られて、それからずっとウチの代々の当主に仕えて、ずっとウチを護っている妖怪――。
 給料なんかでない。保険も利かない。当然年金なんかない。
 メシも喰う必要が――喰えないってことじゃないらしいけど――無い。酒もタバコもやらない。ひょっとすると寝ることすらも必要としない。

「もともとわたしは本性を持っているんですけど、それは人の姿よりは、どちらかというと今の姿に近くて、」

 この世界に生まれてきてからずっと働いていて、今でもオヤジに仕えて、ウチを護っている。
 ――けれど、

「だから、この姿も見てもらおうかな、って」
「そっか」

 俺は膝でにじり寄って、九重さんの大きな首たまに、ぎゅっと抱きつく。
 ふかふかの体毛に頬ずりすると、俺が一昨日コンビニで買ってきたリンスインシャンプーの匂いがした。

「見てもらえて、恐がらずにいてくれて、……よかったです」

 俺に、優しい声でそんなことを言って、いとおしげに鼻先を擦りつけてくる「このひと」は、――九重さんだ。
 何故かまったく歳を取っているように見えない。犬みたいに鼻がいい。総重量二・五トンのロールスロイス・コンチネンタルをたったひとりでひっくり返せるほど力が強い。
 食事も眠りもたぶんほとんど必要としなくて、代々俺の実家に仕えていて、軽自動車くらいある犬型の獣に化けられて、妖怪で、人間じゃない、

 でも、「優しいお姉ちゃん」なのだ。

 それがいつでも最初にあったから、たぶん俺は、このひとがすきなままいられるのだろうって、そう思う。

「……とりあえずさ」俺は笑う。「肉球とか、どーなってんの?」
「ちょっとドキドキしながらこの姿を取ったのに――」九重さんのしっぽが、はたりと動く。「茶化すような意地悪なひとには、触らせてあげません」
「うあ、なんだそれ。横暴だー」
「甘えても駄目ですよー」

 布団の上で、ふざけて抱きつきながら、牙を立てずにかぷかぷと噛みつかれながら。
 どたばたと、じゃれ合えるんだと、そう思う――。

 それが、最初にあるうちは。
 九重さんが、俺に微笑んでくれる限り。

「――甘えたら、駄目なの?」
「それとこれとは、話が違います」



 ――それは、身勝手なことだろうか?



 了



〜外典之陸〜

 呼吸を整えながら、右手を落としていく。
 ゆっくりと落とした手の、小指の付け根にあたる部分が、こつりと硬い感触を伝えた。ちょうど自分の腰のやや上くらいの高さだった。
 緊張はしなかった。ただ集中した。
 右手を開いたまま、ゆっくりと持ち上げていく。同時に息を吸い込んでいく。視線は目標から動かさず、ただ集中を続ける。
 右手が上がり切った瞬間、身体すべての動きと気息が重なった。
 振り下ろした。さして速くもない、大仰なかけ声もない――あっさりとした動きだった。
 手刀を受けた耐火性煉瓦が、粉々に砕け散った。
 その下に積まれていた煉瓦も間髪置かずに砕かれた。その下の煉瓦も砕けた。次の煉瓦も。その次も。その次も。
 隙間無く重ね置かれた、十枚の煉瓦すべてが砕けた。
 割れたのではない。木っ端微塵に砕け散ったのである。
 ひとつが10センチ近い厚みのある、頑丈な耐火煉瓦を、一撃で。
 信じられないほどの技だった。その証拠に、感嘆の声を上げる者は誰ひとりとしていなかった。二十人近い門下生たちが一斉に息を呑む響きだけが、道場に広がっていった。

 そうして、あっけらかんとした一言にかき消された。

「――はあ。それが?」


 ★


 右手を軽くふって煉瓦の破片を払い落とし、大崎啓治は声の主に向き直った。
 大崎を除いて、道場で立っている人間はひとりだけだった。残りの門下生は全員壁際に正座して――たった今声を上げた主を、信じられないような目で見ていた。
 身長170センチほどの小太りの男だった。ワイシャツとスラックスを身につけ、暑さのせいかしきりにハンカチで顔の汗を拭っている。ぽっちゃりした真ん中に造作の小さな目鼻がちょこんと並んでいる顔は愛嬌があると言ってもいいくらいだが、今浮かべている表情はしかめ面に近かった。
「困ります」小さな口が尖って、わずかに高い声が漏れる。「大崎師範。私が見たいのは、そういうものじゃないんですよ」
 大崎も身長はあまり高くない方で、実際男と比べても目線ひとつ分ほどしか違わない。ただし鍛えられ、がっしりと引き締まった逞しい体つきは比べるべくもなかった。
 大崎が一歩近付き、口を開いた。太く力強い声だったが、かすかに困惑した響きが混じっていた。
「しかし、――桂さんでしたか。貴方は確かにおっしゃったはずです、私に――」
 少し眉根を寄せてしまったのを不機嫌の証ととったのか(確かにそういう気持ちも無かったとは言いがたい)、男――桂は大崎の言葉を遮るように声を高めた。大袈裟な身振りで手を広げ、
「いやいや、まあスゴイと思いますよ。確かにスゴイ。煉瓦を重ねて砕いちゃうなんて、そこらの人間にできるもんじゃないのは確かですし」
 賛辞のつもりなのだろうか、と大崎は苦笑する。ちらりと門下生たちの方を見ると、露骨にむっとした顔をしている者たちも少なくはなく、かえって大崎の苦笑は深まってしまった。
 「そこらの人間にできるもんじゃない」とは、また言ってくれるものだ。じゃあこの男は、ちょっと探せば出てくるくらいに思っているのだろうか? ぴったりと重ねた煉瓦を十枚手刀で粉砕できる人間が、少し大きな街をちらほらと探せば一人や二人はいるとでも?
 大崎は自信過剰な人間ではないつもりだった。しかしこれだけは言える――ここまでのことが出来る人間は、この日本中を探してもそうはいないだろう。
 十人? いやいや、五人でもきわどいのではないか。三人くらいはいるかもしれない。もちろん大崎自身を含めての話だが。
 隙間を作った耐火煉瓦を十枚割る人間は、それほど少なくはない数がいるだろう。
 隙間さえ作れば、厚さ20センチの氷柱五枚だろうが素焼きの瓦三十枚だろうが、たとえ自然石であってさえも割ることができる。もちろん拳や手刀などの打撃部分を鍛えて硬くしなければいけないし、身体も鍛える必要はあるが、ああいう試技はたいていの場合コツを掴めばそれほど難しくはないのである。
 コツさえ掴めば、一般人でさえも瓦の十枚ほどは踏み割れる。
 だがそれは、隙間があるからだ。瓦と瓦の間に置かれた「詰め物」が作るわずかな隙間、割れた瓦が次の瓦に落着する際に生じる衝撃力が、打撃を助けるからだ。
 間に「詰め物」も無くただ重ねられた瓦となると、十枚割ることは至難である。二十枚重ねたそれを割るとなると、鍛えていない人間には絶対に不可能だ。
 まして煉瓦である。積み上げると隙間はまったくなくなる。厚さ10センチの煉瓦だったら十枚重ねて1メートル、事実上1メートルの厚さの石を砕くのとあまり変わらない力と技術が必要になってくる。ほぼ人間には不可能と言ってもいいかもしれない。
 大崎は、それができる数少ない人間だった。
 二十代なかばから、極心空手の全国大会で三年連続優勝。その後三十前にして独立し、『青龍館』というフルコンタクト制の道場を自分で開いた。
 東京と横浜に併せて七つの支部を持ち、門下生は一般だけで百五十人を越える。空手界では本格的な実戦空手の雄として知られ、注目されている。
 大崎自身も指導する立場に就いてはいるものの、鍛錬は一日たりと怠っていない。三十もそろそろ後半になり、格闘技者としてのピークを越えかけているというのに、まったく衰える様子もない。
 その証拠のひとつが、今やった煉瓦砕きだ。テレビの取材を受けたこともあるほど有名な技だった。
 普通の人間が見ても驚嘆に値する技で、格闘技をきちんと知っている人間が見れば、まず間違いなく度肝を抜かれる――はずだった。
「しかしですね、私はたしかこうお願いしました。『貴方がモノスゴク強いということを証明してみせてください』と。
 それじゃ証明にならないのではないでしょうか? それともこれから見せてくれるのですか。――いや、でもそうだとしたら今のは何のためにやったんですか?」
 しかし、桂は何一つとして、心を動かされることは無かったようだった。
 そのセリフを聞いて、門下生たちは色めき立つ。だが大崎は間近で桂の顔を見ていたから判った。
 今のは皮肉などカケラもない。純粋に桂は今、「何でこの人はこんなものを見せたのだろう」と不思議がっている。
 桂が言う「モノスゴク強い」ということと、大崎が見せた技とは、桂の価値観では結びついていないのだ。それが判った。
 だとしたら――、
「だとしたら、桂さん。失礼ですが、貴方にとって『強い』というのはどういうことでしょう。
 どういうことで証明すればいいのか。どういうことをしたら貴方にそれを証明したことになるのか。それを私に教えていただけないものでしょうか」
「ええ? ど、どういうことで……ですか?」
 何ともちぐはぐなことに、桂は慌てて聞き返してきた。大崎は真剣に頷いてみせる。
「はい、教えてください。それが今すぐできることなら、すぐにやってみます。
 時間がかかることだとしても、私に可能な限りやってみます。公正にやると誓います。
 さあ、教えてください。意地悪で言ってるのではないですよ」
「え、ええ、そりゃあもちろん存じております……そ、そうですか。
 ちょ、ちょっと待ってください。今考えますから」
 桂は二度三度と首肯して、それから腕を組んでぐるぐる道場を歩き回り、果てはうんうんと唸りだした。門下生たちは揃って呆気にとられている。
 どうやら桂の言っている「強さ」というのは、桂自身ですらはっきりと言葉にして説明できるものではないらしかった。
 そうでなければ、その証明方法をまるきり考えていなかったということになる。とにかく此処にやってきて、大崎啓治という男にお願いすれば、それを形にして見せてくれると信じていたかのかもしれなかった。
 本当に奇妙な客であった。大崎はどかりと板間にあぐらをかき、面白そうに桂の歩き回る様を眺めている。
 桂がふらりと道場にやってきたのは、午前の部が終わろうとしていた頃だった。
 師範として指導をしていた大崎のもとに直接やってくるなり、桂は深々と頭を下げてこういった。
 ――貴方はとてもとても、モノスゴク強いと伺いました。不躾なお願いで申し訳ありませんが、それを私に証明してはもらえないでしょうか?
 どこかひょうきんささえ漂うその申し出に面食らったものの、大崎は午前の部が終わってからなら、という条件付きで快諾した。
 大崎も、いわゆる道場破りの類は会ったことがある。極心にいた頃も道場を開いてからも、年に一人か二人はそういう手合いが現れることがある。
 大崎は、そういう相手とは必ず試合をした。
 試合の前と後に、誓約書をきちんと書く。二台のビデオをその場で廻し、自分と相手で証拠として一本ずつ分け合う。
 それさえ呑むなら、どんな相手とでも戦った。そして負けなかった。
 大崎にとって、そういう「挑戦」は嫌なものではなかった。むしろ好ましいものだった。
 ちょっと名が売れているコイツを倒して、俺がコイツの名声を喰ってやる。そういう欲望にギラギラと目を輝かせている彼らは、まるで古い野武士のようで、大崎の胸のずっと奥にある小さな部分をわくわくさせた。
 格闘技雑誌の記者やカメラマンに、技を見せてくれと言われたこともある。桂のような言い方をされたこともあった。「ちょっといいとこ見せてくださいよ。瓦とか割れます? 一枚撮らせてもらっても?」というような感じに。
 これも大崎は必ず受けた。しかも手を抜かなかった。
 ある時瓦を二十枚破壊できたら、それ以降二十枚以下にすることはなかった。三十枚割れるかと聞かれたら三十枚に挑んだ。たとえ失敗しても(実際何度かは失敗したし、二度ほど拳をそれで痛めた)気にしなかったし、その内必ず割ってやるとさえ思えた。
 さすがに桂のような手合いは初めてだったが、結局大崎にとっては同じことだった。
 いわば、挑戦を受けているようなものなのだ。「オマエ本当に強いのか?」と問われているのだ。
 だったら、その時の自分がどれくらい強いかを教えるだけだ。
 相手が格闘技者なら戦うことで、そうでないなら、その時出来る最高の試技を見せることで。
 居酒屋で酔っぱらいに絡まれた時ですら、大崎は生真面目にそれに付き合った。だからそれが、昼日中に道場を突然尋ねてくる、サラリーマン風の小太りの男であっても応じる――それだけだ。
 ――けれど、少しばかりこのひとは手強いようだ。
 大崎は思う。桂は大崎が今まで出会った、どんなタイプの「挑戦者」とも違う考えを持っている。
 ひょっとしたら――考える。ひょっとしたら、そうなのか。
 瓦をいくら割っても、強さではないというのか。
 大崎の唇が、ほんのわずかつり上がる。わくわくしてきた。名前もない、身体の芯の何処かが。
 まったく無抵抗、動きもしない、フットワークもブロックも、パリイングもスウェーもしない、まして反撃など絶対にしてこない。
 そういう、「ただ硬いもの」をどれほど砕いたって――強さの証明にはならない。
 そういうことなのだろうか?
 難しい問題だ。そして大崎は考える。そういう人には、どうやって証明するべきか。
 大崎は今やはっきりと、微笑みを浮かべていた。突きつけられたその難問が楽しかった。
 ――此処にいる門下生で百人組手でもやるか。いいや駄目だ、納得してもらえないかもしれない。では一斉にかかってきてもらうというのはどうか。二十人、いや正確には十八人。十八対一。これなら。だけどどうやって勝つか。壁を背負うか。それなら三人ずつ程度しか来れまい。いやいや待て待て、教え子たちでは手心があると疑われるかも。ならば、
 はふう、とため息が漏れた。大きな大きなため息だった。
 桂が漏らしたのだと気付いたとき、大崎はもはや満面の笑みと言ってもいい表情で立ち上がった。
「浮かびましたか、桂さん」
 桂は大崎の方を向いて、何故か困ったように笑い「ええ」と呟く。
 逆に大崎はわくわくする。これはきっと無理難題だ。桂自身からして無理だと思ってる顔だ。
「やらせてください」意気込んで乞うた。桂は困り顔のまま器用に愛想笑いを浮かべ、「あー」やら「そのー」だのともじもじしつつ、両手を組み合わせたり離したりして、それからやっと、
「そのう。ではこうしましょう――」
「はい」

「――私を、殴ってもらえないでしょうか」

 複雑な笑みで、そう言った。
「は?」
 大崎は、その突拍子もない提案に戸惑った。門下生たちはもはや絶句している。
「いえですから、私を殴ってみてください。抵抗しませんし何発でもいいですので、ええと、渾身の力で、最高のパンチを、いやいや蹴りでもけっこうです、どうか私に、
 いや違うな。違う違う……うんそうだ、私を倒してみてください。何でしたら殺しても」
「ちょっと、ちょっと待ってください。いくらなんでもそれはできません」
 大崎はわけがわからない。何を言っているのかこの男は。本気で殴れ? 何発でもいい? そんなことをしたら本当にこの男を殺してしまう。
 そもそも煉瓦を割るのを見て、それで自分を殴れ、抵抗しないとはどういうことだ。抵抗も何もしないなら煉瓦割りで充分の筈だ。自分が耐火煉瓦より頑丈だとでも思っているのか。
 それとも話はもっと単純で、この男はさっきのがトリックか何かだと疑っていて――鍛えに鍛えた空手家の拳というものがどういうものか、まったくわかっていないというだけなのだろうか。
「いえ、こうなればもうこれしかありません。
 正直、どうやって貴方の強さを証明すればいいのか私にもわからないのです。とすれば、私自身を以て証明していただくより他は無いと思います。
 お願いします。貴方は日本でも屈指の強さを誇ると言われる方なのでしょう。
 私はその強さが知りたい。どういう強さなのか知りたい。この通りです」
 桂はへし折れたかのように、深々とお辞儀した。それから大崎の顔色をうかがうように頭を上げ、大崎が困惑しているのを見てますます深く頭を下げた。
 大崎が「わかりました」と言ったのは、たっぷり一分もたってからだった。
「ただし、誓約書を書いてもらいます。どんなケガを負っても責任を問わないこと、すべて合意の上であること、その二点だけ書いていただければ」
 引き締まった、というより覚悟を決めた表情の大崎とは対照的に、桂は喜色を満面に浮かべて「やっていただけますか!」と叫んだ。もみ手せんばかりの喜びようだった。
 さっそく門下生に紙とペンを用意させ、誓約書を書かせた。桂は鼻歌交じりにそれを書き、親指を署名の端に押印するや、道場の真ん中にぴょんと直立不動の姿勢をとった。
「さあ、お願いします! 一切手加減はなしで!」
「いえ、それについては」大崎は慎重に言葉を選ぶ。「まず最初は軽く当てていきます。痛いと思ったらすぐに言ってください」
 桂はあろうことか、目を丸くする。
「とんでもない! 徐々に強くするだなんて!」
 かん高い声で憤慨したかのように、「そんなのは強さじゃありません!」言い切った。
「準備運動のつもりなのでしょうか。冗談は止めてください。貴方はもし私が凶暴な獣だったとしたら、これを逃したら貴方に跳びかかってくるとわかっていたら、最初はのんびりと軽く拳を……などと思いますか。軽く見てもらっては困ります」
 大崎は驚いた。確かに一理ある。しかしなにより図星を突かれたことに驚いた。
 そうだ。自分は軽く見ている。まるで鍛えていないように見えるこの男が、自分を殴ってみてくれと言っているのだから。
 格闘技というものを知らないとしか思えない。そうでなければ自殺志望者だ。
 しかし、どうやらこの奇妙な男はそういう手合いの者でもないとわかった。ならば何が知りたいのだろう。
 死んでも良いから知りたい強さとは、何だろう?
「わかりました。――でも、一度だけ」大崎はしっかりと桂の目を見据える。「そこを曲げて一度だけ、一発だけ私に付き合ってください。これは私からのお願いです」
 頭を下げた。この男に対する、大崎なりの礼のつもりだった。
 まず最初の一撃に、桂は耐えきれないだろう。しかし万が一耐えたら――。
 桂が「はあ」と仕方なく頷いた。
 どうぞ、と立つ姿は、脱力しきっていてだらしなかった。前蹴りの一発で吹き飛びそうだった。
 ――しかし万が一、――。
 大崎は、慎重に距離を測った。
 半身に構え、両拳を軽く握って頭部をガード、猫足立ちでじり、と半歩踏み込み、
 顎を引っかけるような、目にも止まらぬ右フック一閃。
 びりっ、とその拳に痛みが走った。
 道場がどよめいた。フックを放ったままで、大崎は硬直した。

 桂の顎の先をきれいに捉えたフックは、そこで止まってしまっていた。

 鉄を殴ったような感触――ではなかった。普通の人間の顎の感触だった。
 ただ、一ミリも顎は動いていなかった。
 桂は至近で大崎を見つめて、困った顔で一言呟いた。

「――はあ。それが?」

 大崎は、何処かがかっと熱くなるのを感じた。
 腹が決まった。覚悟と言い換えてもいい。距離を取り直した。
「申し訳ありませんでした」はっきりと声に出す。「次から、本気です」

 「挑戦」を、受けます――その言葉を呑み込んだ。

 桂が、にっこり笑った。「お願いします」何と言うこともない口調。
 しゃっ、と息を吐いた。左足を軸に身体を半回転、渾身の力と全体重と、90度分の遠心力のすべてを乗せて右脚が跳ね上がった。
 けれんのない右のサイドキックが、凄まじい勢いで桂の脇腹に吸い込まれた。ウォーターバッグを蹴ったような手応えは一瞬、肋骨に蹴り脚が衝突する感覚。
 強い痛みが蹴り脚を襲う。ひびくらいは入ったかもしれない。
 桂は、微動だにしなかった。
 大崎は咆哮した。
 蹴り脚を引き戻し、戻りきる前に顔面に正拳をぶち込んだ。もっと強い痛みが走った。砕けたか。かまわん。
 拳の端から、桂の小さな目がこちらを見ていた。まばたきもしていなかった。
 反動を利用し左フック。テンプルを狙った。当たった。効かなかった。手首に痛み。
 右手の痛みを無視して貫手を作った。喉へ。当たれば死ぬ。死ななかった。中指が折れた。
 左膝を股間に叩き込んだ。恥骨ごと内臓を打ち抜く。膝の皿が砕けた。

 門下生の誰ひとりとして、声も上げない。
 おそろしく異質な空気の中で、大崎の叫びだけが響いていた。


 ★


 とぼとぼと道を歩きながら、桂は考えていた。
 どう考えてもわからなかった。――あれが人の強さだと? そんなわけがない。

 ――あんな程度が、「強さ」であるはずがないのだ。

 あの男は「技術」はあった。なかなかに「胆力」もあった。今まで遭った人間の中でもそれなりに高い、それは認めてもいい。
 だがあんなものでは、そこらにいる人間と五十歩百歩ではないか。第一あれは「技術」であって、あんなものをあと百年続けたって、≪自分たち≫と対等になれるはずもない。
 煉瓦を十枚割れる? 何を言っているのか。自分なら十枚どころか、同じ厚さの練鉄の塊だってまっぷたつに引き裂いてみせる。
 拳。蹴り。――止まって見える。正確に飛んでくる拳の、親指の生爪だけをはぎとることだって出来る。
 そもそも、強いと言われたから行ってみれば、どういうわけか素手で戦うときた。
 最初、本気で理解できなかった。騙されたのかと思った。確かに自分は人間たちの社会をあまりに知らなすぎるかもしれないが、それにしたって素手とは。
 それでは、あっさりと限界を迎えてしまうではないか。
 もともと人間は弱いのだ。だから数を集めて、道具を、武器を使うのではないのか。
 なんでわざわざそれを捨てて、一対一などという縛りを設けて――天の邪鬼な方法で強くなろうとするのだ。それでは本当に強くなるのに何年もかかるのではないのか。
 そして結局、大した強さになれないまま朽ちていくのだ。もとより脆弱で、弱々しく、短命な生き物なのだから。
 それでも試してみたのは、そこにこそ何か秘密があるのではないかと思ったからだ。自分が求める「人間の強さ」の秘密。それがあるかもしれないと。
 でも駄目だった。今度も何も判らないまま。人間の「強さ」は証明されないまま。
 あの男が弱かったのだろうか。そう考えるのが一番正しい気がする。少なくとも、自分が求めている「強さ」のレベルに達している人間ではなかったのだろう。

 証明しなければいけないのだ、――桂は思う。

 今を遡ること八百年以上前、かつて自分の祖を討ち滅ぼした人間がいる。
 しかし、そんなことがあり得るのだろうか? 桂は常々疑問に思ってきた。
 人間に、自分たちの一属が敗れた。本当に?
 たとえその祖が、一属の中でもっとも弱い個だとしてもあり得ない。人間に、しかもあろうことか、ただひとりの人間に敗れてしまうなんて!
 桂にはずっと疑問だった。そして考えに考えた結果、ひとつの推論を出した。

 ――彼らには何か、自分たちが理解できない「強さ」があるに違いない――。

 どういうものかは解らない。しかし必ずあるはずだ。
 何故なら、自分たちの「個」と人間の「個」は、その力に差がありすぎる。
 ただ力を比べるだけでも、素早さでも、頑丈さでも、牙や爪の長さ鋭さでも、寿命でも、魔性でも。
 それは絶対的、いや、絶望的と言う他はない差だ。百や二百という数で、もしくはなまなかな武器や道具で縮まるものではない。

 ましてたかが「技術」などという、染みったれたシロモノで埋め合わせられるものではないのだ!

 桂は嘆息して気鬱を吐き出し、それから懐に手を突っ込んで手帳を取りだした。
 そこには彼が調べられる限り調べた「強い」かもしれない人間たちの居場所が載っている。
 そうだ。今回は駄目だったが、きっと調べだしてみせる。一番近い人は何処にいるだろう。
「えー……この先……ハン・マ? ……何て読むんだろうね、コレは……」
 手帳に顔を近づけたとき、手が滑った。ぽろりと手帳が落ちていく。
「おやおや――」
 桂は、≪尾≫を使ってそれを落ちる手前で拾い上げた。鞭のようにしなって手帳をくわえた≪尾≫は、しゅるしゅると擦過音のような呼気を吐きながら眼前に手帳を持ち上げ、その後ちろりと長い舌を吐いてスラックスの中に戻っていった。
 あらためて手帳の住所欄を見る。ここから歩いて三十分ほどのところらしかった。
 もう一度、嘆息をひとつ。

「……今度こそ、わかるといいのだが――」

 面倒くさかったので、桂は飛ぶことにした。周りに人間もいなかった。
 ざわりと全身が毛羽立った。スーツとスラックスを引き裂いて、針金のような獣毛が飛び出してきた。
 金色と青灰色の虎縞模様、二十センチも伸びた鋭い鉤爪、身体はどんどん脹らみ、みしみしとアスファルトが軋みを上げていく。
 長い尾が空気を裂いた。その先端は蛇のような「口」がついていた。

 四つ足を地につけた瞬間、桂は飛んだ。
 『ぎえん』、と凄まじい咆哮が轟いた。


 はるか昔に、ある鳥に喩えられた咆哮だった。


 了



〜外典之漆〜

Q1:貴方達のことについて話してください。

 ――まず最初に言っとかなきゃならねえ。オレらとキツネは別の生き物だ。
 当たり前だろうって? いやいや、ぱっと見の外見とか、お前らのやってる生物学ってヤツに基づいてされる分類のコトを言ってんじゃねえよ。アンタと話してるオレ、つまり通常の生物って範疇を越えて長期間生存している存在……そうさな、一般に妖怪って言われてるレベルまで行ったオレら、タヌキとキツネのことだ。よくアンタらの昔の童話なんかに出てくるだろ、化け狸や化け狐、ヒトやら物やらに化けて誰かを驚かせたり悪さをしたり。そういう手合いさ。
 で、問題にしたいのは今オレが例に挙げたやり方そのものだ。「化け狸と化け狐」。なんかどうにもワンセットっぽい響きじゃねえか? この言い方だとやってることも同じっぽく聞こえねえか? 聞こえるだろ? そこだよ。そこが嫌なんだよ。
 確かにオレらとキツネどもは、アンタら言うところの「妖怪」って括りで見れば同じだろうよ。だがそいつはオレらに言わせりゃデカく括りすぎだ。犬猫や鳥に魚、果ては人間も全部ひっくるめて「動物」って言うくらいデカい括りなんだ。アンタは猿や犬猫と同じモノだって言われたらどうだ? 腹こそ立たなくてもいい気分にゃならねえだろう?
 ……違う違う。こりゃ喩えがまずかったか。どっちが上とかじゃねえんだ。
 そもそもアンタらは、「万物の霊長」とか何とか、自分を世界の中心に置きすぎなんだよ。木の上でウッホウッホ言ってたのを地面に降りて、知恵つけたってのが自慢なのは解るけどな。
 うむ、こういう喩えはどうだ……「天ぷらとカツ丼は同じ『料理』です」。確かに字面としちゃあ間違っちゃいねえが、少なくとも天ぷらとカツ丼がセットになってると考えるヤツぁいねえよな。
 つまりだ、オレらとキツネってなまったく違うモノなんだよ。

Q2:具体的に、どのように違うのですか?

 はン、それこそ天ぷらとカツ丼くらい違う。つまりはほとんど全部ってことさ。
 どういう方法でなるのか、どういう仕組みでなってるのか、どういう力があるのか、それぞれが全部いちいち違うんだ。
 そう、まず代表的なトコで「化ける」ってのが違う。その言葉は連中よりはオレらに対して用いるのが妥当で、連中はどっちかと言うと「化かす」の方が正しいな。
 わかんねえってツラだな? ――アカウンタビリティってワケだ。OK、お教えしましょう。
 連中の能力については、さすがに細かいところはオレにもわからん。ただおおよそのところは、古株の連中から聞いたりして掴めてるよ。
 連中のはな、一言でいっちまうと「幻術」なんだ。
 マボロシ。見せかけ。立体映像みてえなもんかな。其処に見えはするが実在はしてない、あるように見せかける……そういう能力。
 ただ立体映像と違うのは、それが視覚だけに作用するもんじゃねえってことだ。視覚、臭覚、聴覚、触覚、果ては味覚にまで作用する。わからなけりゃ、モノスゲエ高等で神懸かりな催眠術って言ってもいい。
 連中が能力でマンジュウを作ったとする。見た目はマンジュウだが、なんとたまげたことに触ってもマンジュウ、匂いを嗅いでもマンジュウ、喰ってみてもマンジュウの味がする。挙げ句に腹までふくれてきて、糖分を適度に採ったお陰で頭まではっきり冴えてくる。
 でも結局それは見せかけだ。騙されてるだけで実際には何もない――。
 ――と、フツウならそう思うよな。
 さあ、ところがお立ち会い。ここからが「モノスゲエ高等で神懸かりな」部分だ。
 連中がもしそう望めば、そのマンジュウだけを食い続けても餓死しねえんだよ。
 ヘンだろ? もしコレが催眠術みてえなモンだったとしたら、つまるトコロは脳味噌が「マンジュウはある」と思いこまされてるだけで、カロリーも糖分も栄養もゼロのはずだろ?
 もうひとつ喩えてみるか。存在しないはずの刀を連中が能力で作ったとする。それで斬られた。斬られたヤツは死んだ。
 でもその死因は斬られたと思いこんだ末のショック死じゃなくて、裂傷と失血がもたらすショック症状で死ぬってんだからコレがわからねえ。死体を検分したヤツ全員に同じ術がかかってるとしか考えられねえが、それを確認しようと遠くから別な人間を何人連れてきても結果は同じ。それじゃあその「場所」に術がかかってるんじゃねえかってコトで死体を動かしてみた。結果は同じ。
 連中のあの能力は、オレらの一番の年寄りが千年近くかけて付き合っていても以前謎のままだ。ひとつだけ幸いなのは、どうやら連中の全部がこの能力を行使できるわけじゃなく、極めて強力な限られた個体だけが使えるらしいってことくらいさ。ともかく奇妙な部分はいくつかあるが……まあ、連中の能力が基本的には「自分以外の誰かにかける幻術」ってのは間違いないところだと思う。
 さて、これに対してオレたちの場合、基本的には自分の身体を「組み替えて」色々なモンに化けるってのがデフォルトだ。
 アンタらの学問で言うと、原子レベルで自分を分解、違う物質に再構成する……てなトコだろう。オレの体感ではもっと小さな単位にまで及んでるっぽいんだが、まあとにかく自分をどんなものにでも造り替えちまえるんだよ。別な生き物だろうが、鉄だろうが石だろうが、セラミックだろうが発泡スチロールだろうが――。
 おっと、むろん制約ってのがある。まず明確な「個体」が存在しないモノ――例えば空気や水だ――にはなれない。機械類みたいな、複雑な構造のモノに変化するのも難しい。石にはなれても鉄にはなれねえヤツもいる。
 絶対無理、って言ってるんじゃねえぞ。いくらかの個人差と年期、あとは勤勉さが関係してくるんだ。化けるモノを「理解」してなきゃならねえってこった。
 ――アンタ、石ってどんな構造してるか解るかい?
 石って言っても色々あるよな。花崗岩、石灰岩、安山岩、閃緑岩、斑レイ岩、凝灰岩、砂岩……有名なトコで花崗岩なんてどうだ? どんなツクリしてると思う?
 ぶっちゃけ答言っちまうけどな。深い地の底でマグマが冷えて、それぞれ結晶化した斜長石、石英、普通角閃石、黒雲母、磁鉄鉱なんかが混ざり合った末に出来るんだ。どうだ、知ってたかい。
 わかんねえよなあ、フツーはよ。そんなん知ってるのは専門家くらいのモンだろうぜ。
 オレらの「制約」ってのがな、まさにそれなんだ。
 別に知識で知ってなきゃダメってことじゃねえんだが、ともかく化けるモノを完全に理解してないと完全にゃ化けられねえ。花崗岩を理解してないと完全な花崗岩にゃ化けられない。
 そういう意味では、アンタらの学問は便利だな。言葉で明確に秩序立てて、あらゆるモノを分類してあるから解りやすい。
 オレなんかは便利に利用させてもらってるぞ。学士号と修士号は専門課程でそれぞれ八つ持ってるし、危険物取り扱いや機械整備の資格もどっさり、何を隠そう医師免許なんかも持ってる。今でもアンタらの大学にかけもちでふたつ通ってるぜ。
 で、まあ理屈でも体験的なモノでもいいんだが、とにかくそういうことを知らねえで化けるとだな……カタチだけ化けてることになる。
 見たことがねえモノにはそもそも化けられねえ。隅々までしっかり覚えてないと同じモノには化けられねえ。そんでよく性質を掴んでねえと、見た目「だけ」しか同じにできねえ。
 『ぶんぶく茶釜』って聞いたことあるだろ。父さんタヌキが化けた釜をば和尚さんが火にかけちまったから釜があちこち跳ね回って大騒ぎ、ってアレさ。
 アイツはな、「釜」の構造を知らなかったんだ。
 正確に言うと「鉄」の構造を知らなかった。だから見た目そっくりにしか化けられなかった。
 鉄の構造に組み替えてなけりゃ、基本的にはタヌキのまんまだ。そりゃアイツも化けることが出来るくらいの魔性は持ってたんだろうからちっとは頑丈だったろうが、それでも火にかけられりゃ熱くて跳ね回っちまったことだろうぜ。
 完全に理解してればどうなるかって? そりゃオメエ、鉄になるんだからな。中に水を入れてあれば、温度差で加熱熔解もしねえ。そもそも神経がなくなるから熱いとは感じなくなる。
 ああ、そうだよ。完全に化けちまえば、アンタらの「物理学的な」やり方じゃ、何をどうひねくってもオレらが化けてるかどうかなんて見破れねえよ。
 んでもって、コレにも制約がある。完全に体を組み替えちまった場合――個体差はあるが――長時間それを維持するのが困難だってことだ。
 化けたモンに、オレらの「本質」が引っ張られるからさ。
 無機物に化けるのはけっこうヤバイんだ。無機物はほとんどモノを考えねえからな。
 いや待て待て……脳がある、無いの話じゃねえんだよ。ったく、アンタらはいつもそうやって、何でもかんでもテメエの知識に押し込めたがるよな。
 オレたちは、もうおつむでモノを考えてるワケじゃねえと思うぜ? じゃあ何処でって言えば、オレにだってはっきりとは解らねえんだが。
 ――そうそう、おとぎ話でこんなエピソードを聞いたことがねえかい。「タヌキが何かに化けた、だけど尻尾が生えてたんでバレちまった」。
 アレは実は保全手段なんだ。一箇所オレらの「本質」を残しておいて、それで自分がタヌキだって自覚を強く持つ。するってえと不思議なことに、長時間意識をクリアに保てるんだよ。
 簡単かつ効果的な方法なんだがね……ま、確かに馬鹿っぽい方法でもあるかな。
 わかるっつーのな。フツウな。

Q3:あなた方は、何なのですか?

 だから言ってるだろ。タヌキの妖怪だよ。
 長い年月をかけて、生物であるタヌキから別のモノになっちまった……「何か」。アンタらにとって理解するのが難しい、ワケの分からないモノ。
 コレばっかりはオレにも解らねえよ。自分がどんなモノであるか、なんてのは。
 オレもアンタらの学問を色々と学んだが、なにせオレらはアンタらの学問から、何百年も前に削られちまったモンだからな。もーリクツじゃ語れません、ってトコかね。
 けれど、そうだなあ、たぶんオレたちは、もうカラダと意識が、存在する過程において等しくなっちまってるのかもしれねえ。
 アンタらの言葉にあるだろ……「コギト・エルゴ・スム」。我思、故に我有。
 コレはアンタらにとっちゃ単なる哲学上のもんでしかない。考えようが考えまいが、思っていようがいるまいが、アンタが其処にいるのは紛れもない事実だ。思考なんていくら大層に言い飾っても、生物にとっちゃしょせん肉体の生み出す作用のひとつに過ぎねえ。
 ところがオレたちにとっちゃ、これが文字通りの意味を持ってるかもしれねえんだ。オレたちは自分が存在するという「事実」を認識してなけりゃならなくて、始終自我をしっかり保っている必要に迫られていると言える。
 何かに化けるってのは、それをカタチから否定するってことになるんだ。コレもアンタらの言葉にあるだろ。「カタチから入る」って。
 それが精密であればあるほど、強く否定してるってことにゃならねえか、なあ?
 オレたちがキツネどもと違って群れで行動しがちなのも、昔はアンタらをしょっちゅう騙してばっかりだったのも(いや、悪かったよ)、馬鹿っぽく尻尾を残して変身せざるを得ないのも……みんな自分をしっかりと保つためにやってるんじゃねえかって、オレは思ってる。リクツの通じねえとんでもない化け物だとしても、結構危うい存在なんじゃないかってな。
 だからアンタも協力してくれよ。インタビューにも答えてやったろう? ギブアンドテイクってヤツでひとつ頼むぜオイ。

 オレらとキツネは、違うって言ってんだよ。
 間違えるんじゃねえぞ、アンタ?



 ――ご協力、ありがとうございました。



 了



〜外典之捌〜

「えー、では次のニュースです。
 現世利益の喜捨という名目で、信者たちから金品を巻き上げていた疑いがかかっている世田谷の新興宗教組織、――えー、『無の幸福』教団本部に対し、今朝方警察が一斉捜査を開始しました。
 捜査は現在も続いているということですが、…………えー、現場との中継が繋がったようです。田端さん?」

 (※現地レポーター:田端安成)
 ――はい、ご覧いただけますでしょうか。施設から続々と証拠品が運び出されています。
 朝から四時間以上に渡って続けられている強制捜査ですが、施設内が思った以上に入り組んでおり、また地下にそうとうな広さの部屋がいくつも見つかったということで、まだまだ捜査は終わりそうにありません。
 警察はまた、以前から入信したまま自宅に帰らなくなってしまった長男を巡って、しばしば教団と争っていた荒巻吾郎さん(58歳)一家が一ヶ月前から行方が判らなくなっている事件について、教団が何か関係しているのではないかと睨んでおり、その捜査も並行して行われているとのことです。
 今回逮捕状が出たのは『無の幸福』教祖である布部太一朗(34歳)他幹部数名とのことですが、――あっ、出てきました。今布部以下四名が、警察官に連れられて施設から出てきました。何やら周りの捜査官や報道陣に向かって声高に喚いているのがここからでも聞こえます。捜査に踏み切った段階では協力的だったとのことですが、現在の様子は、あっ、――ッ、暴れているようです、あれは布部でしょうか、警察官たちともみ合いになっているようです。辺りが騒然としてきました。今、あっ、手をふりほどきました! ――住宅地の方に、いや、警察官たちが取り押さえています、警察官たちが、――。

『――ッらぁ、やめ――とこよさま――起こすなッて――とこ――あやまれ――とこよさまに――』

 ――今、取り押さえられました。幹部たちも暴れていますが、捜査員と警察官が取り押さえているようです。何やら布部容疑者が叫んでいますが此処からははっきりとは、



 (※爆発音)



「おや、映像が……えー、田端さん。聞こえますか?」

 (※悲鳴。爆発音。悲鳴。悲鳴)

「田端さん?
 …………えー、申し訳ありません、只今現地からの映像が、」



 ……………………………………………………………………………………はァ?



「あっ、音声が繋がったようです。――田端さん?」

 ――あれは、……………………何でしょうか?
 虫? ですか? 虫なのでしょうか。芋虫?

「田端さん? 聞こえてますか? むし? 虫とは?」

 ――ええと……なにか、その、……ええと。(※「田端さん! 田端さん、おい! カメラ何処だ後藤! 立花何処行った!?」)



『――ああ、――もう、――とこよさまが、――――――おまえらが、』



「……田端さん?」

 ――施設からなにか、…………ええと、芋虫でしょうか。おおきな、十メートル以上ある、……ええと?
 あっ、――パトカーが、ああ、……おまわりさんが、ああ。あああ。

(※「田端さん、駄目だ、バケモノだ、――逃げろ田端さん!」)



『あああ、とこよさま。とこよさま、どうか…………』



 了


 ――常世虫(※「とこよのむし」)は『日本書紀』に記述のある謎の昆虫である。

 皇極天皇の時代、大生部多という男が突如この虫を崇めれば現世利益が得られると謳いだし、民衆はさっそくその通りにしてみたが何も起こらなかった。その方法は虫を奉った廻りで「己の財産」をすべて投げだし、歌い踊るという奇怪なものであったらしく、大生部多は人心を惑わせた罪で罰せられたという。

 「長さ四寸、色は緑で黒い斑がある」――古代日本においては神と崇められていたという伝説もあるこの虫だが、それでは何故崇められていたのか、という事に関しては不明なままである。

 なお昭和初期の民俗学者、兵藤北神は、この虫について『日本書紀』の寸尺記述を「寸と丈の誤り」とする異説を発表している。

【幻獣辞典】より




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