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| 『〜幻獣辞典・無名外典〜』 こあとる著 <MAIL> |
〜外典之壱〜
たとえば、僕は思うんだ。
「――思うんだけど――」
「…………ん」
真っ暗な、ちょっと冷たい部屋の中で。
「キルケさんはさ、……その、僕の」
「……?」
「僕のさ、――えと、何処が好き?」
シーツにくるまって、すべすべの肌がくっついていて。
「……声」
「声?」
あたたかいその肌が、もぞもぞと動いて。
「……ん。声。
あと。………手」
僕と彼女の距離がもっと近くなって。
細くて綺麗なちょっと冷たい指が、僕の顔にぺたりと触れてきて。
「手?」
「ん。手。
あと。……………におい。味」
「……」
首筋に埋められた彼女が、ぺろりと僕の肌を舐めてきて。
そのまま首筋に沿って、小さく鳴らされる鼻先が髪の毛の中をくぐってきて。
「……なんか、よく。わかんないよ」
「…………ん」
くすぐったくて。
あたたかくて。
「……」
「わたしも」
「――え?」
「……わたしも、よくわからない」
僕をじっと見上げてくる瞳が、きれいな金色で。
「……そっか」
「………………ん」
こすりつけてくる頬が、とてもやわらかくて。
そんな時間が、あるのなら。
彼女がキスを知らなくたって、充分しあわせだって。――僕は、思うんだ。
〜外典之弐〜
上映を告げるブザーが鳴り響く――直前、篠原は館内に滑り込むことができた。
レイトショーの最終上映時間、しかも上映の最終日。今日を逃せばDVD発売を待つしかない、きわどいタイミングだった。
家にプレイヤーはある。ただしテレビは15インチ、ろくなスピーカーもついていない、量販店で買ったフナイの安物だ。篠原は映画館派だったから余計に、そんな事態は我慢ならなかった。
――此処が、最後の砦だったわけだ。
そんなことを考えながら、一番後ろの真ん中に座った。
日付も変わった深夜のレイトショーだけに、同じ列には誰も座っていない。あまり広くもない館内の前の席に十人ほど、ぽつぽつとまばらに後ろ頭だけが見えている――それでも入っているほうかもしれない。
大きな映画館は、もうとっくに上映を終えているタイトルだった。新鋭が監督を勤めたB級モンスター・パニック映画。観たい、観ようと思いながらも忙しさに追われ、気が付くと今日此処での上映を残すのみとなっていた。
絶望的な気分になりつつ必死にタウンガイドをめくり、来たことのないこの映画館を見つけたのが昨日の昼休み。滅多に来たことのない街外れに向かって、ガイドに載っていた小さな案内地図を頼りに車を走らせることができたのは今から三十分ほど前。
仕事は片づいていなかった。かまうものかと思った。今から二時間足らずだけ、何もかも忘れてやる。
緞帳が開いて、館内のライトがゆっくりと消えていく。スクリーンに灯がともるころには、それなりにクッションの効いた椅子に深く座り直す余裕が生まれていた。
大手映画館のように、長ったらしいCMが入らなかったのは気に入った。代わりに次回上映の予告もなかったので少々残念――差し引きゼロだ。
映画が始まった。
期待していた以上の出来だった。
お定まりの工業廃棄物で巨大化した生物がちいさな町を襲って――とストーリー的には何のヒネリもない「平凡な」パニック映画だったが、演出とセンスはずば抜けていた。とりわけ単なるパニックものではなく、どちらかというと「パニックもののパロディ」的演出が随所に散りばめられているのが、B級好きを自認する篠原にはたまらなかった。
ハラハラして観るのではなく――そんな観方を、思えばもうずっとしていない――、ニヤニヤと、時々くすりと、そしてゲラゲラと笑いながら観る。これはなかなかに新感覚だった。
DVDも買おう。篠原は固く誓った。
――それにしても、
口元に残る笑みを消しきれないまま、篠原はすこし眉根を寄せる。
しんとした館内は、スクリーンの中で黒人のDJ役が騒ぎ立てている以外の音がなかった。上映が始まってからずっとこの調子なのは、篠原もいささかげんなりしていた。
――今のシーンは、すこしくらい声を出して笑ったってよさそうなものだってのに。
確かに、映画館で無駄な音や声を立てる人間など言語道断だ。しかしこういう作品でも(こういう作品だというのに)、しわぶきひとつたてないというのはどうだろう。
日本人はこんなだから――篠原は自分がそうであることも忘れかけ、腕を組んで嘆息する。映画とくればどんなものでも高尚で文化的だとでも思っているのだろうか。そのくせ「ハリウッドの大作」と宣伝会社があおりでもすれば、流行りものか何かのように飛びついて絶賛し、――賭けてもいい、一週間もすればどんな映画だったかすらもけろりと忘れているのだ――。
ドルビーサウンドから聞こえてくる悲鳴が、不機嫌に傾きかけた篠原の意識を呼び戻した。スクリーンに注意を向け直せば、映画も終盤のクライマックスにさしかかろうとしていた。
好きにするさ。篠原は嗤って動かない後ろ頭どもに一瞥をくれる。
――そこで一生固まってろよ。
オチも申し分なく、評価は上々だった。エンドタイトルが流れると同時に、篠原はこらえていた笑いをいささか解放する。
これもウィットのひとつなのだろう、のんびりとしたカントリーソングとともにキャストが流れ、続いてスタッフへ。
腰をずらして肩の力を抜き、それから伸びをひとつしたところで「それ」に気付いた。
誰も、席を立たない。スクリーンを眺めている。
篠原はいくぶん気分がよくなり、すこし前に下した彼らへの評価をほんのちょっとだけ改めようと思った。最近タイトルクレジットが終わらないうちから立ち上がり、外に出る奴が多すぎることが不満だったのだ。
そうそう、と知った顔で頷く――そうだよ、タイトルも含めて映画と言えるんだ。
さすがはこんな場末の映画館に、しかも夜更けのレイトショーに集まった連中だけのことはある。後ろ頭を見る限りでは、この深夜帯で舟をこいでいる奴もいないようだ。
その澄ました態度はどうかと思うが、同じ映画好きとしては及第点をくれてやってもいい――。
ぽつぽつと弱い灯りがつき始め、緞帳が閉じていく最後まで、誰ひとりとして席を立たなかった。
それを見届けてから、篠原は席を立つ。帰ったらひと風呂浴びて、それから寝る前に映画好きの友人が集まる掲示板に書き込みをしようと心に決めて、
扉が、開かなかった。
「ん?」
大きな、防音材を使用した両開きの扉だった。出口は此処しかない。
たてつけが悪いのかと、力を込めて引いてみた。びくともしない。押して開けるのだったか。違う。此処に入ってきたとき押し扉だったのだ。それでも押してみた。動かない。
扉の上についている緑のぼんやりした非常口案内を見上げた。そのさらに上にある映写室の窓ガラスが、白い蛍光灯の明かりを漏らしていた。
――こういうときは、どうやって連絡したらいいんだっけ。
とりあえず振り向いて、他の客に教えてやろうとした。
口を開けた。声を出そうとして出なかった。
誰も、席を立っていなかった。
もう緞帳は閉まった。灯りもついている。なのに誰も立たなかった。
しわぶきひとつ聞こえなかった。ぴくりとも動かなかった。
まばらに並んだ十個ほどの後頭部だけが、篠原に向けられていた。
「…………ねえ、」
しいんと静まりかえった館内に、篠原の声が響き渡って、
そのことに、何故か、ぞっとした。
耳の裏の毛がそそけ立つ感覚に、篠原は無意識に一歩後ずさった。手がドアの取っ手に触れた。がちゃがちゃと引く。動かない。
もう一度声に出したのは、何処かで現実感がなかったせいかもしれない。
「…………ねえ、ちょっと、」
なのに、
声を出した途端、
ものすごい後悔が、
ものすごい現実感を以て、
――帰ったらひと風呂浴びて≪がちゃがちゃ≫それから寝る前に映画好きの友人が集まる掲示板に書き込みをして≪がちゃがちゃ≫明日に備えて寝て≪がちゃがちゃ≫七時に起きて≪がちゃがちゃ≫歯を磨いて≪がちゃがちゃ≫パンをトースターに入れて≪がちゃがちゃ≫バターを塗って≪がちゃがちゃ≫牛乳を冷蔵庫のドアをコップを流しをがちゃがちゃ電車を中央特快定例八時半会議売り上げ報告書類作成がちゃがちゃ作成作成作成作成作成提出打ち込み地回り新規開拓がちゃがちゃ開拓開拓開拓開拓がちゃがちゃ帰って風呂に入ってがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ
なあに?
了
――「それ」はある日突然に降り掛かる。夕立のように前触れもなく、誰にでも平等に。
【幻獣辞典】より
〜外典之参〜
たとえば、こう考えてみたまえ。
この地球上には、様々な種類の動物がいるね。
ある生物学者によると一千三百万種、別な学者によれば三千万種。未だ発見されていない種をあわせると億に達し、今までに絶滅したと思われる種も合わせれば十億を軽く越えると主張する者もいるくらいだ。まさに生物の坩堝というわけだな。
さてその多様な生物種は、君たち人類の学問上ではいくつかの項目によって厳密に分類が成されている。
私も聞きかじっただけなので詳しくはわからないが、界、門、綱、目、科、属、種の七つだ。君たち人類を例に挙げるなら、『動物界/脊椎動物門/ホ乳綱/霊長目/ヒト科/ヒト属/現人種/ヒト』。ちなみにもっと細かい分類もあるらしい――今はどうでもいいことだけれどね。
さて、この七つの分類を用いて、さらに別な例を挙げてみよう。
君たちの祖先などはどうかね? 学術名≪ホモ・エレクトゥス≫――北京原人というと君も聞いたことがあるんじゃないのかな。
彼らの分類はこうだ。『動物界/脊椎動物門/ホ乳綱/霊長目/ヒト科/ヒト属/原人種/原人』。
おやおや、遠い御先祖様だから仕方ないとはいえ、君たちと一項目しか違わないわけだ。
しかしだ。彼らが生存していた頃の想像図を――そうそう、毛むくじゃらの猿だかヒトだか判然としないアレだ――見たことはないかね? アレと君たちを同じ生き物だと言うのは問題があると思わないか?
個人によっては、似ていると称されるのも我慢成らないだろうね。実際あの生き物と君たちとは身体の構造からして大きく異なるんだ。骨格はもとより内臓各部の配置にその役割の比重、脳の発達部と未発達部、発声機能なんかは最たるもので、彼らは「言語」というものをほとんど持たないに等しかった。
そうだね。機能的な部分だけを比較してみても、乗用車とショベルカーくらいの違いがあるんだ。
学問の分類上ではごくわずかな違いに見える……そりゃあ全生物の種別でいうなら、たとえば昆虫なんかとの差違と比べればごくわずかな違いかもしれない……でもまったく別の生き物なのさ。
さてさて、ここまでがたとえ話だが、これを「我々」に当てはめてみよう。
そんな分類をした者などどこにもいないだろうし、だからこそ別段そういうものを学んでいるとは言えない私が勝手に命名してしまうのは汗顔の至りではある――ものの、まあ聞いているのは君だけであるのだから問題はないと思う。「この後」学会に発表するつもりもないし、ククク、そんな学会は何処にも無いだろうしね。
「我々」を敢えて先刻の方法で分類するとしたら、
『超自然存在界/自然発生門/精怪綱/吸血目/擬人科/インド属/原種/ラクシャサ』。
いささか乱暴な分類ではあるが、まあこんなところではないかな。
いいかね、ここでもっとも大切なのはさっきの例えだ。
ヒトと≪ホモ・エレクトゥス≫は別種だ。あたかも近似のものであるかのように書かれていてもまるで違う。話しただろう?
何が言いたいのかって、私と「君の認識している存在」とは別のものだってことさ。
外見は見方によっては似ているかもしれない。まるきり異なる他の存在と比べればいっそ同じものとくくってもいいかもしれない。共通点もいくつかある。
でも違うんだ。別のものなんだよ。
だから、君がさっきから必死になって掲げている十字架なんて、私にはちっとも恐くないんだよ。
了
――インド神話において『ラクシャサ(※「傷付けるもの」の意)』といえばラーヴァナ王を筆頭とした鬼神の一族だが、『聖典(ヴェーダ)』に登場するラクシャサは長く乱れた髪と五本の足を持つ血まみれの姿の怪物として描写されている。
硬く鋭い牙をもち、痩せた犬やハゲタカに変化する、夜明け前に人を襲って血を啜るなどといった特徴から吸血鬼と同一視されがちだが、この怪物には伝えられている限り、およそ「弱点」と呼べるものが存在しない。
西洋に往々にして伝えられる「吸血鬼」と同様、ラクシャサも宗教上から生まれた怪物ではあるが、この二者はまったく異なる怪物と見るべきである。
なお吸血鬼の伝承は世界中に存在するが、このラクシャサは数少ない「自然発生的」な怪物である(※言い伝えの中には喰人の罪を犯した年若い者がなるというものもあるが)ことも付け加えておく。
神の呪いや罰ではなく、魔術師のなれの果てでもなく――「彼ら」は生まれたその時からラクシャサなのである。
【幻獣辞典】より
〜外典之肆〜
高速道路の料金所を抜けると、そのままバイパスに入る。
東京からそれほど急ぐでもなく、車を走らせてきた。十年ぶりに戻ってきた故郷の街だったが、バイパスの下に広がる街の景色は、ずっと昔に見慣れていたそれとあまり変わっていなかった。
「――懐かしいですか?」
ハンドルを握っている九重(ここのえ)さんが、助手席の俺にちらりと視線を向けてそんなことを言う。
実家を離れ、東京で暮らしていた俺を迎えに来てくれたひとだ。一応俺の実家の「使用人」ってことになっていて、昔から代々続く――そんなエライもんでもないと俺は思うのだが――実家を守ってくれているらしい。黒目がちな瞳と、肩で短く切りそろえた髪。きりっとして整った顔がちょっと中性的なスーツ姿――「今は」そんな格好をしている。
俺も昔はいろいろ世話をかけてしまって、ちょっとこのひとには頭が上がらない。今回帰ってくることになったのも、このひとから「迎えに行きます」と連絡があったからで、そうでなければ自分からわざわざあの無駄に重々しい親父のツラを見に、九月の平日に帰ってきたりはしない。
迎えに来たのがこのひとでなかったなら、きっと俺はその哀れな使者様に丁重にお帰り願って、今ごろ三限目の講義を終えて学生ホールでタバコの一本もふかし、菅田教授のレポートでもちまちま書いているところだったろう。そのへんは見透かした親父の差し金って気もしてちと面白くないのだが、まあ久しぶりに九重さんに会えたのは素直に嬉しかったので、
「……いや、つーよりぜんぜん変わってねーじゃんかさ」
馬鹿馬鹿しそうに呟き、シートを傾けて寝転がったりしてみた。
……素直じゃねえなー、俺。
「懐かしくありませんか?」
九重さんは微笑みながら、何故か食い下がってくる。
無駄だと思いつつ抵抗。
「そんなでもないけど」
「嘘つき」
やっぱり即座に指摘された。う、と詰まりつつ九重さんを見ると、くすくす笑いながらも案の定小さく鼻を鳴らしていた。
――と、不意に何かを思いだしたみたいに「あ」と声を上げて、
「あの、窓を閉めた方が」
「え?」
俺たちが乗っているのは古い車で、パワーウィンドウなんかついてない。
開け放たれた窓から、すっかり涼しくなった空気が入り込んでくるのが心地よかった。
「いいよ。涼しいしこのままで」
「でも……嫌でしょう?」
「なにが?」
なんか話が見えない。一方九重さんは何故か心配そうな顔で俺を見ている。しかもほら早く、と焦って急かしてくるとなると、これはむしろ珍しい。
「何がって――」
説明しようとした九重さんが、もう一度「あ」と呟いた。
遅かった、みたいな響きを感じると同時に、つんとする匂いが俺の鼻に届いてきた。
思い出すのに、ほんのちょっとだけかかった。
「あーあー、これね」
「だから言ったのに……」
シートを起こして左手を見ると、ビルとビルの向こうににょきにょきと建った煙突が見えた。
高く建てられた煙突からは、ひっきりなしに白い煙がもくもくと上がっていて、この匂いは其処から届いている。距離があるから薄まってはいるものの、鼻の奥がつんとするような刺激臭。
この街の製紙工場だった。あれはパルプを加工する際に出る匂いなのだ。
「ニガテだったよな、俺」
思い出しておかしくなる。
ガキの頃、この匂いが嫌いでたまらなかった。
なにかの用時でこのバイパスを通るとき、あの煙突が見えてくると、俺は決まって目をきつく閉じ、必死で呼吸を止めて通り過ぎるのを待っていたもんだ。
一回なんかは気絶寸前まで無茶をして、酸欠でフラフラになった。あの匂いを吸ったら吸ったでクラクラきて、そのせいで車酔いになったりもしたっけ。
そんなことがあってから、ここを通るとき、九重さんは必ず俺の隣に座ってくれるようになった。
鼻をつまんで息を止めている俺の肩を抱いて「もう少しです」「頑張って」と励まし、気持ち悪くなった時は優しく背中をさすってくれた。
「だらしない」とか「こんな匂いがなんだ」とか、「やっぱり子供だな」と苦笑する――そんな反応しかしない親族の連中に対して、九重さんはいつも真剣にむずがる俺を案じてくれていた。
「気持ち悪くないですか? 大丈夫?」
そうして、今も、俺を心配そうに見てるのだ、このひとは。
「いや、もう平気だよ。ガキの頃とは違うんだから」
笑いかけた俺をじっと見て、それから九重さんはすんすん、と鼻を鳴らす。
「――ね? 嘘なんかついてないだろ?」
「……あ、はい。本当です……」
きょとんとしている九重さんに、俺は今度は余裕を持って応じた。
九重さんもやっと笑って、
「すごいです。克服なさったんですね」
「克服つーのかなコレ」
ふたりでちょっと、笑い合う。
「変わられたってことなんですから。凄いです」
「変わってないことの方が多いかもしんないけどな」
例えば、思うのだが。
変わっていったものがある。東京へ出ていった俺もこの街も、ちょっとずつではあるけど変わっていく。
その一方で、変わってないものもある。
堅苦しい俺の実家や融通の利かない親父や、あの製紙工場の匂いや、
「ちょっとでも変わられたのなら、それは凄いことだと思うのです」
「頑固だなー、相変わらず」
「はい。わたしは変わりませんから」
九重さんも、変わらない。
ずっと昔から、ずっと変わらない。
変わっていったことと、変わっていないこと。
それは時に嬉しかったり寂しかったり、嫌になったり辛かったりもする。
でも今この瞬間、俺たちは嬉しい。
俺が変わったことが、九重さんには嬉しい。
九重さんが変わらないことが、俺には嬉しい。
ときにそれは、寂しさや辛さを呼び起こしたりもするのだろうけど――。
「……なあ九重さん、『嘘』ってどんな匂いがするんだ?」
昔感じ続けた疑問が、数年ぶりにふとわき上がった。
ちょっと説明しづらいですけど、と九重さんは笑って、
「――貴方の嘘の匂いは、昔からすぐわかりますね」
そんなくすぐったいようなやりづらいようなことを、さらりと言った。
吹き込む風が、心地よかった。
了
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