小説目次


『タは探偵のタ』
こあとる著
<MAIL>



  序、

 ――雨。雨音。

 雨はキライ。
 濡れるのがキライ。
 濡れた服の匂いがキライ。
 景色がおぼろにかすむのもキライ。

 ――あの日を思い出すから、ダイキライ。

 雨に濡れていた。
 暗い路地裏の、つめたいアスファルトの上で。
 傘も雨合羽も、軒下すらなく。
 秋も終わりの、つめたい雨。
 小さな幼い身体から熱を奪っていく、無情な雨。

 涙を流していた。
 暗い路地裏の、つめたいアスファルトの上で。
 ぬぐう力も、気力すらなく。
 親に捨てられた、悲しい涙。
 小さな幼い心を絶望で満たす、最後の涙。

 どこに行こうとしても、雨が、涙が邪魔で。
 何を考えようとしても、冷たさと、絶望とが邪魔で。
 どこに行けばいいのか。何をすればいいのか。
 わからない。
 どこにも行かなかったらどうなるのか。何もしなかったらどうなるのか。
 興味がない。どうでもいい。
 だって、あたしは捨てられたんだもの。

 東京。大きな街。何でもある。人もいっぱいいる。
 東京。今のあたしには大きすぎる街。今のあたしには何も与えてくれない。今のあたしを見つけてくれる人もいない。
 誰も。
 誰も。誰も。誰も。
 身体が死んでいく。熱を奪われ、冷たさで満たされて。
 ココロが死んでいく。絆を奪われ、絶望で満たされて。
 どうしたらいいのだろう。どうすれば。どうやったら……?
 ああ、もう、あたしにはどうでも――

『……泣いてるのかい、嬢ちゃん』

 誰?

『何を、泣いてるんだ。嬢ちゃん』

 あなたは、誰ですか?
 なんで、声をかけるんですか?
 あたしに、何の用ですか?

『…………どこ、ですか』

 口から出たのは、ちがう言葉。
 あなたのことを聞こうとしたのに、口から出たのは。

『……あたしの居場所、どこですか』

 あなたは、なんて言ったんでしたっけ。
 あなたは、どんな顔をしたんでしたっけ。
 あなたが、そのとき言ったのは――。


 一、〜依頼前 13:30〜

 すがすがしい朝。すみわたる青空。
 今日もお江戸は日本晴れ。
「……ウソだけど」
 あたしは窓辺に顎をのっけて、誰にともなくぼへーっと呟いた。
 五月も終わりに近づいた、妙にむし暑い昼。
 ざーざーと降り続く雨が、思い切り憂鬱な気分に拍車をかける。
 買い置きしてあったカップ食料が底をついた。これが始まりだった。
 電気が止まった。これが三日前。
 水道が止まった。これが昨日。
 ○HKが集金に来た。今日の昼。カカト落としで撃退。
 ……おいといて。
 家賃は、三ヶ月ほど滞納してる。
 ちなみにおなかと背中は、すでに結合寸前。

 切実。

「不景気だなあ……」
 言わずもがなのことを、あたしはぼそぼそと。ついでにのっけた顎を支点にして、身体をゆさゆさ揺すってみる。
「……しかもヒマ……」
 てれーっと脱力して、雨の街並みを見る。
「お客さん、こないなあ……」
 もう全然。
 あたしの住んでるとこは、東京新宿の賃貸雑居ビル。
 築ン十年、家賃激安、環境最悪でネズミも出る。地価高沸の副都心における暗黒のエアポケット、そんなビルの一室。
 ちゃんと社名だって扉に書いてある。ちっちゃいけど。
 『渓探偵事務所』。
 あたしはそこの留守番、兼間借り人。主人のいないこの事務所をひとりで切り回して、もうどのくらいたつんだろう。
 所長と所員のみんなは、長い仕事でそろって出かけてしまってた。
 ときおり口座に送金がくるとこを見るとまだ全滅はしてないらしいけど、留守番をまかされた身としては、留まって番して守らなきゃいけないわけで。
 たったひとつ言えることは、所長、お金ぜんぜん足りません。
「おなかすいたー……」
 ああ、この口が勝手に。言うとよけいにみじめになるのはわかってるのに、真実は常にひとつだった。
 最後に仕事が来た日を思い出そうとして、やめ。今の精神状態じゃとどめに近いことだし。
 とりあえずすることもなく、あたしはずるずると仮眠室に向かって這いずりはじめた。雨はあんまり好きじゃなかったし、これ以上起きてるとおなかが減る――切羽詰まるくらい。
 ――寝よう。もう寝よう。寝ないとどんどんおなかすく……。
 もうココロがすっかりふて寝に向かって秒読み開始ってところで、邪魔が入った。
 けたたましい金属音が事務所に鳴り響く。電話のベルだった。
「電話……?」
 いまだに黒電話なうちの事務所は、電話の呼び出し音もベルの音。
 そりゃもううるさい。すでに寝ぼけはじめていた頭を無理矢理しゃっきりさせられる。
「うー……ま、いっか……」
 はっきりいってめんどくさかったけど、あたしは何となく嬉しくもなって受話器を取った。もしかしたら仕事の依頼かもしれないし。他の電話だったらすぐに切っちゃおう。
「はいはい、『渓探偵事務所』――」
 ――何といっても「寝る前に電話のベルが鳴ったハードボイルド小説」なんて、そうそうないんじゃないかなあ。
 「どこらへんがハードボイルドじゃ」とか何とか誰かに猛烈に突っ込まれそうなことを考えながら、せいいっぱいの営業用スマイルで応える。
 どうか仕事でありますように、って祈りながら。
 え、何に祈ったのかって。
 ……『探偵の神様』……じゃダメ?


 第一話『ウは浮気のウ』


 電話の主は、ホントにお客様だった。

 ――待っていました探偵タイム、早くアポイント取ってください。
 女の人で、お金持ちそう。思わず聞き惚れてしまうの。
 諸経費を払えるものならば――空腹よりお仕事。
 「調査を頼みます」と、さっそくオッケー、ちょっと信じられない!
※(C)広瀬香美 編曲:星川螺美

 探偵の神様どうもありがとう。
 ……というわけで、あたしたちは近くの喫茶店で会うことにした。
 指定されたのは名曲喫茶、コーヒー一杯千円。世の中絶対間違ってるなんてあたしがひそかに思ってたことは、経費をもってくれるクライアントには内緒だ。
 荒木静江さん、ていうのが依頼人の名前。三十代手前くらいの、大人っぽいワンピースがよく似合う人だった。
 対してあたしはといえばくしゃくしゃになったボタンダウンのシャツとミニスカート、ジャングルブーツにぶかぶかの男性用ジャケット、止めにボブカットの頭にちょこんとのっけた人民帽。
 一歩間違えれば新宿駅の入り口付近で靴磨きでもやっていそうな格好で、釣り合わないことおびただしい。一張羅だから仕方ないんだけど、ひどいギャップに愕然とする。
 まあ愕然としたのは、お客さんの方も同じだったみたいだけど。
「あなたが……その、先程の?」
「あ、はい。『渓探偵事務所』の星川螺美と申します」
 十代の女の子がこんなカッコで出てきたら、そりゃ疑いたくもなるよねえ。
 こういうときには、さも当然、ってカンジで接するのがあたしのセオリーだった。どうせ「探偵」なんて商売は明確なイメージを持ってるお客さんの方が少ないし、持っていたとしても大抵間違ってたりする。
 今時パイプをくわえて助手を従え、安楽椅子でぎーこぎーこなんて悠長なことをやってる探偵なんて世界に残ってるんだろうか。まだ人民帽にミニスカートの探偵の方がいそうな気がするんですけど。
 ここに実際いることだし。
「わたしはいわゆる『連絡役』みたいなものです。調査する人間は別に――うちでは適材適所がモットーでして」
 ――ごめん、ウソです。
「そ、そうでしたの。私てっきり……いえ、貴方がどうこう、というのではありませんけれど……」
 ――はい、よーくわかります。
「もちろん、承知してますよ。わたしじゃ調査には不向きですから」
 ――不向きだろうが何だろうが、あたしがやっちゃうんですけどね。
「い、いえ、私が無知なだけで。さすが、考えていらっしゃるのね」
 ――丸め込むネタは、いつも考えてますとも。
「ありがとうございます。光栄です」
 ――ですから、はやく前金――じゃない、仕事のハナシしませんか?
 心中とは裏腹もいいとこのセリフをしゃあしゃあと並べた挙げ句、あたしはにっこり笑ってみせた。果たしてお客さん――荒川さんの顔からはきれいに疑念の色がとれている。
 結果おーらい、って言うじゃない?
「それで、こちらで調べさせていただくことは?」
 いよいよ本題だ。さっと荒川さんの顔が緊張する。
「はい……その、うちの主人のことでして……」
 ははあ。
「素行調査、ですか?」
 言いにくいだろう荒川さんに水を向けると、すこし驚いた表情のあとでこくりとうなずいた。向こうにしてみれば図星をさされたようなものだろうけど、こっちにしてみりゃ若い女性の依頼の九割がたは相手男性の素行調査だし、慣れたもんだよ。
「主人の様子が、最近おかしくて――」
 お決まりのセリフをためらいがちに話しだした荒川さんにあいずちを打ちながら、あたしの心はすでに報酬の使い道へとジャンプしていた。
 ――まずは光熱費と、ビルの家賃……は足りないかも。ひと月分だけ納めることにして……この際だしあたしの服……いやいや私欲に走ってはイカン、探偵社の一員として自覚をもって当たらねば……ううん、するとやはり家賃を二ヶ月、いや食費も……くううっ、悩む!

 いや、だから切実なんだってば。


 二、〜依頼初日 19:14〜

 夜になってから、雨はようやく止んでいた。
 午後の七時を回ったくらいの、新宿のビジネス街。濡れたアスファルトの匂いがどうにも鼻につくのを我慢しながら、あたしはてくてく歩いてる。
 静江夫人の旦那さん、荒木正人の勤める商社ビルがこの先にある。定時は五時三〇分のはずだけれど、奥さんに携帯電話で確認してもらった――今日は残業で遅くなる。
 ――今日「も」と言うべきなのかな?
 あたしはちょっと皮肉っぽいことを考えて、くすっと笑った。人目につかないところで人待ちを装い、入り口に注意を配る。
 ――浮気調査とくれば、尾行くらいのもんだからねー。
 ビルから出てくる人間をチェックしながらも、あたしはもう一度依頼の内容を思い出してみることにした。
『主人の帰りが遅いんです』
 静江夫人が話してくれたのは、まさに「典型的な」というやつだった。
 お見合いで結婚してから三年、正人氏は理想的な旦那さんだった。若手ながら大手上場商社の課長をつとめ、大学時代は水泳部で優秀な成績を残し、今でも三日に一度は会社がひけてからジムに出入りして汗を流すスポーツマン、酒も煙草もたしなむ程度、借金もギャンブルも一切やらず……まあ何というか、いるんだねこんなヒトも。
 こんな完璧超人が存在すること自体あたしには信じられなかったけど、案の定――じゃない、先月に入ってから正人氏の様子にちょっとづつおかしなものが混じりはじめるようになったのを、静江夫人は感じたとか。
 まずは会社のつきあいでもないのに、夜遅く帰るようになったこと。
 最初は二時間ほどの遅れが、週に一度。それが二日になり、三日になり、いつしかほぼ毎日のように遅れるようになった。
 一度ならず携帯電話で連絡をとろうとしたけれど、常に電源を入れてるはずの電話は着信せず。追求しようとしてもはぐらかされて、体よく逃げられてしまう。
 それが会社がらみではないと知ったのは、いつもいっしょに飲みにいくという同僚から家に電話をされたときだった。
『ご主人は在宅ですか?』
 これでピンときた。彼女一筋なはずのダーリンは、自分や会社の同僚にも話せない「何か」のせいで帰りが遅れてるのだ。毎日きっかり、たった二時間だけ。
 最初は心配、でもそれはすぐに疑念に取って代わった。
 疑念が確信になったのは、夜も――あたしが女だったのが幸いして話してくれた――相手をしてくれなくなったことだった。
 遅く帰ってきた日はとくにだけど、今まで最低週に一度はいたしていたのがぱったり止んで、奥さんみずから悩殺しようと試みても今日は疲れてるを連発する――とくれば、『女の直感』が働かないほうがどうかしてる。かくして静江夫人はさんざ悩んだあげく、我が社の電話番号をかけた……ということらしい。
「そうだよね。なんてことのない、典型的な浮気パターン……」
 そうでなければ、奥さんの単なる思い過ごし。
 あたしだって、伊達に事務所の留守番をまかされてるわけじゃない。
 ひととおりの探偵業務はこなせるつもりだし、現に所長たちの不在中に受けて解決した仕事だってある。浮気調査なんて両手の指じゃたりないくらい見てきたし、解決もしてきたつもり。
 でも今回の依頼は、ちょっとひっかかる。たったひとつだけ。
 静江夫人と、うちがつながらない。
 うち――つまり、『渓探偵事務所』のこと。静江夫人はどうやってうちのことを知ったのだろう。
『古新聞を片付けていましたら、ちょうど目にとまりまして……』
 さりげない体をよそおって聞いたとき、静江夫人はそう言った。その態度にはおかしなところは見つからなかった。
 確かに、うちは所長たちがいたころ新聞や雑誌に広告を出してたことがある。今ほど貧乏じゃなかったころだ。すごく前というわけではないので、偶然目にとまったということもあって不思議じゃない……と思う。
「……でも、じゃあ、なんでうちなワケ?」
 ふたたび疑問がもちあがる。
 うちが偶然目にとまった。でもそれだけのことでこんなに大事な――奥さんにとっては何よりの大事だ――ことを任せる気に、普通なる? 興信所や探偵事務所はこの東京には捨てるほどあるし、もっと実績のある大きなところは大々的に宣伝もやってる。そっちに目移りしなかったのは? ぱっと見の広告ひとつで決めてしまえるほどの決断力を、あの奥さんが持ってる? とてもそうは見えない……。
 ぱちり、とあたしはまばたきする。思考に没頭しかけた頭とは裏腹に、あたしの目と記憶は退社する人の中から正確にひとりの男性の姿を拾い出していた。
 思ったよりはるかにがっしりとした身体をスーツに包んだ、黒縁メガネにオールバックのぱりっとしたサラリーマン。奥さんの話じゃ外回りじゃないはずだけど、真面目そうな顔はほどよく日に焼けていて爽やかだった。
 荒川正人氏。間違いない。
「……んー……見っけ」
 十メートルほどの距離をとって、あたしは正人氏の後をつけはじめる。
 正人氏は軽快な足取りで、新宿の雑踏を進んでく。あたしはつかず離れず、その後をつけていく。
 ふと気付いた。正人氏の歩行速度は、ほぼ完全に均一だ。
 つまりそれは、歩幅と足運びを同じペースで行ってるということで、あたしは少なからず驚いてた。
 そんなこと誰にでもできるって? そりゃできるよ。誰もいないような、だだっ広い場所でなら。
 正人氏はこの雑踏の中でも、誰にもぶつかることなくそれをやれてる。はっきりいってちょっとしたもんだ。あたしだって意識しないとできない。
 水泳選手……てのとは関係ないよねえ。
 そんなことを考えてるうちに、正人氏が路地に入った。あたしも何気なく路地を曲がると、そこそこ大きなフィットネスジムがあった。
 一緒に入っていくべきかと躊躇したけど、結局あたしは入り口で待つことにした。ことによったらこれから何日かは尾行を続けなきゃいけないことだし、無理して顔を見られないほうがいい。
 しばらくは出てこないだろうけど、出入りする人をそれとなくチェックしておく。
 ――しかし、会社帰りにジムで一汗流してただけ?
 まあ、こういう依頼にはけっこうありがちなパターンのひとつではあったけど。初日だからとカメラをもってこなかったのは、ちょっと失敗した。
「ま、証拠写真ならまた撮れるしね……」
 張り込みを続けるついでに、さっき新たに浮かんだ疑問を再考してみる。
 正人氏の大学時代にやっていたスポーツは水泳。でも看板の案内なんかを見るかぎりでは、このジムにはプール施設はないらしい。水泳は最近月に一度、しかも日曜くらいのものだって奥さんが言ってた。
 ここは基礎体力系専門のジムみたいだし、学生時代にとった杵柄とはいえ、正人氏はさほど水泳に固執しているわけじゃないと思う。
 でもサラリーマンの余技にしては、堂に入った歩法だった。
 あれは偶然じゃない。会社からこのジムまで徒歩で十五分強かかってる。偶然ならそれだけの時間続けられない。
 じゃあ、歩法が関連しているスポーツをやっているとしたら?
 思い浮かべてみる。バスケットとかサッカーとか、そうでなけりゃ格闘技。フットワークでいうなら、やっぱボクシングとか。
 別なジムをかけ持ちしてるとすると……奥さんには話してない?
 あたしは聞いてない。このジムのことも知らなかったくらいだ。
「……浮気とは、関係ないんじゃない? やっぱ……」
 どうやら本当に、『体育会系の旦那さんの趣味に振り回された奥さん』で終わってしまいそうだった。
 拍子抜けはしたけど、あたしは別に刺激に飢えてるワケじゃない。むしろこんな簡単なことで成功報酬が出るのなら、と歓迎する。
「今日のうちに、報告書だけでも書いちゃおっかな……」
 時計を確認すると、八時を過ぎたところだった。人の出入りをチェックし始めて、一時間弱ってとこだ。
 筋トレとストレッチだけだったらそろそろ出てきてもいいころだけど、まだ正人氏はジムから出てこない。
「まあ、熱心な人なんだろうけど」
 ホントに体育会系だなあ、と考えて、張り込み続行。
 九時近くになった。まだ出てこない。
「……オーバートレーニングなんじゃない? 明日も仕事なのに」
 そこまで筋肉バカには見えなかったけど。
 中に入るのもためらわれたんで、もうちょい待ってみる。
 十時になった。ジムの明かりが消えるのを、あたしは呆然と見ていた。
「……ひょっとして……」
 ひょっとしなくても、見逃した?
「……ウソだあ……」
 シャッターが降ろされた後も、あたしは呆然としたままそこに突っ立っていた。


 三、〜依頼二日目 12:47〜

 尾行失敗。
 これはヘコむ。かなりヘコみます。
 事務所に戻ってきてから悶々として考えたけど、どうにも合点がいかなかった。素人さんを尾行で見逃したなんて、いくらあたしだって初めてだった。
 翌日になって荒川宅に電話し、静江夫人に昨日のことを聞いてみると。
『主人でしたら、昨晩は十時ごろに帰ってきましたが――』
 見事に、旦那さんは帰ってきてた。
 荒川宅は世田谷の住宅地にあるから、移動時間を逆算すると、正人氏は九時前後にはあのジムを出てることになる。
 つまり、あたしがそれに気付かなかったということだ。
 翌朝銀行には、きちんと前金が振り込まれてた。光熱費も家賃も払えて、ついでに朝食もきっちりとらせていただきました。牛丼を。大盛りで。
 対し旦那さんの行動調査は、初日からスカ。
「……情けないよう……」
 事務所に戻ったあたしは、接客室のソファに寝転んで落ち込んでいるところ。映るようになったのでだだ流してるテレビが哀愁を誘う。昼過ぎのニュース番組に流れているのは、北海道で馬に育てられた子牛の話。
 落ち込むスピードにニトロが入る。亜音速だった。
「どーして、見逃したんだろ……」
 あたしはゆうべの自分の行動を、思い出してみる。
 確かに考え事はしてた。でもそれで監視がおざなりになるというわけじゃない。
 あたしは思考と行動をある程度分離させる方法みたいなものを、所長たちから教わってる。事実あのジムに出入りした人間の背格好は、今でも九割がた思い出すことができた。
 あたしのミスである可能性は低いと思う。腕が鈍っているわけでもないと思う。
 つまり、それ以外に問題があるってことで……。
「相手、だよね」
 正人氏が何らか、アタシが見落とすような手段を用いてあのジムから出た、と考えるべきじゃないだろうか。
 たとえば別な出口からこっそり出たり、変装したり。素人の日常行動と侮っていた昨日のあたしなら、たぶんそれでだますことができる。
 前者だとしたら、ちょっと対処が難しい。現在この事務所にはあたしひとりしか人員がいないので、複数箇所を同時に見張ることはできない。
 逆に後者だとすれば、それはそれで問題だった。あたしだって多少は変装術を身につけているのに、それをかいくぐるほど見事に化けたということだから。
 楽な依頼だと思ってたけど。
「……よっし」
 息をひとつついて、本腰を入れることにする。ニュースではさっきまでののんびりした話題はどこへやら、世田谷で起こった連続通り魔事件やら国際線のハイジャック事件やら、多発する十代のココロの闇だとか何とか物騒なことをキャスターが喋っていた。
 ある意味羨ましい。こっちはココロに闇なんて、抱えてる暇がない。
 やらなきゃいけないことが、結構あるから。

 〜依頼三日目 23:52〜

 おおよその下調べは一日で片づいた。次の日、あたしは朝からジムのほうに出向くことにした。
 その日一日で出入りする人間を、全員写真に写すためだった。出ていく人間と、入っていく人間を両方――時間はジムが開いた朝の十時からはじめて、夜の十時まで。
 正人氏が入っていくのも、当然フィルムに納めた。出て行くのはまた確認できなかったけど、今日ばかりは仕方がない。
 十二時間の成果として、合計で三桁を越える写真のつまったフィルムケースをポケットに押し込み、あたしは揚々と事務所に引き上げた。
 ここからが大変だ。
 あたしは全部の写真を現像して、「入っていった」人間と「出ていった」人間の顔や特徴を徹底的にチェックした。
 あのジムに客用の裏口がないこと、そして正人氏が客としてジムに出入りしてることは、前日のうちに調べてある。となると正人氏は間違いなく、変装してあのジムを出たことになる。
 その変装を見破るための写真だった。これが一番確実だ。
 服装、体格、顔のみっつの特徴から同一人物を割り出し、該当したものから除けていく。おそろしく根気と集中力が必要な作業だったけど、丸一日かけてなんとか終わらせることが出来た。
 首尾は上々。「入ったまま出てこなかった」正人氏と同じく、たったひとりだけ「入ってはいないが出ていった」人物が見つかった。
 すなわち変装した正人氏、ってことなんだけど……。
「こりゃわかんないよ、実際――」
 あたしはその写真をしげしげと見て、思わずこぼしてしまった。
 その写真に写っている、『人物』。
 身長や体格は正人氏とほぼ同じ、よく見れば顔の作りも一緒だ。オールバックだった髪型は崩されてるし、メガネも外されてるけど、それ以外に目立った変装は施されていない。服はTシャツにジーンズスタイル。入っていくときに着ていたスーツは――おそらく、肩にかついだ大きめのバッグの中。これも簡単に予想がつく。
 でもこの写真を見て、一発で正人氏だと言い当てることの出来る人は、たぶんまずいない。ことによったら奥さんでさえ。
 これが、あのやたら爽やかで真面目そうな正人氏? さわったら噛みつきそうな野良犬みたいに目をぎらつかせた、この網走番外地が?
「子供泣くよ。これは」
 ぎらぎらと正面を見据えた目、全身から漂う暴力的、破滅的な空気。
 浮気相手の家に向かうというよりは、今から相手の事務所に命をかけて殴り込み、って雰囲気だった。言い訳する気もないけれど、あたしが見逃してしまったのも納得がいく。
 なかば感心、なかば呆れて写真を見ていたあたしは、ほどなくもうひとつ気になることを見つけていた。
 この写真が写された時間だ。
 日付の自動プリントを見比べると、正人氏はジムに入ってから十分もたたないうちにこのカッコで出てきている。つまり正人氏はあのジムを単なる着替え場所にしか使っていないということだ。
 あのジムに契約型の貸しロッカーがあることは調べた。そこにこの着替えを入れておいて、人目につかないトイレなんかで着替えるとする。
 どこかで何かの用事をすませて、別な場所――たとえば帰宅途上にある駅のロッカーとか――に着替えを仕舞い、翌日以降にまたジムに服を置きに行って……。
「……で、どこで何をしてるわけ?」
 これはちがう、とあたしは感じた。『体育会系の旦那さんの趣味に振り回された奥さん』の事例じゃない。
 じゃあ浮気? この顔で――どこのSMクラブに? それとも相手の女性と無理心中でもするつもり?
 これもたぶん、ちがう。クラブに行くなら変装までする意味がない。心中するにしては悲壮感が見えない。
 まだ不十分だと思ったけど、あたしは静江夫人に一次報告することにした。電話をとって、教えられた番号をダイアルする。
 一度話しただけだったけど、静江夫人は理知的で、落ち着いた人だった。わけのわからない旦那さんの奇行にも、冷静に向き合ってくれると思う。
 ――たぶん調査続行、だよね……。もう一度、尾行しなきゃ……。
 電話の呼び出し音を聞きながら、嫌な予感がした。
 写真にうつる正人氏の異様なくらいの変わりようが、頭から離れなかった。

 〜依頼四日目 20:09〜

 世田谷を走る、東急線駅前にあるアーケード街。
 昼間はそれなりに買物客でにぎわうんだろうけど、今は人の気配もなく静まり返ってる。
 あたしの前方五十メートルほどのところに、正人氏が歩いてた。
 正確には、『変装した正人氏』だ。行き先はわからない。正人氏が降りたのは、自宅の最寄り駅からはふた駅ほど離れた駅だった。
 ふらふらとあてどない歩調で、何かを探してるようにも見えるその後ろを、あたしは速度を落としながら尾行してる。
 ――気づかれてないよね……。目的地があるようには見えないけど……。
 正人氏は時折後ろを振り返る。でもだいぶ離れて歩くあたしをいぶかしんでいる様子はない。
 正人氏を尾行しながらも、あたしは昼間に交わされた静江夫人との会話を思い浮かべた。それはちょっと気になる内容だった。

『……ご主人がこの格好でどこに向かったかは、現在調査中です』
『ありがとうございます。引き続きお願いします』
『……まだ、浮気じゃないと断定はできませんが……』
『いいえ――どうやら、やはり主人は浮気をしているようですわね』
『へ? いや、あの……心当たりでも』
『勘ですわ』
『はい?』
『専門のみなさんにお話しできるようなものではありません』
『は、はあ……』
『間違っていてくれれば、と思います。それを調べていただきたいのです』
『あ、はい。それはもちろん――』
『適材適所、と申しますでしょう?』
『あ、あはははは……』

 一本取られた、ってカンジだけど。
 ともあれ、依頼は続行されることになった。あたしの予想通りに。
 でも静江夫人も、なにかを予想してる。
 正人氏の奇行も気にかかるけど、そのことも気にかかった。あれはまるで正人氏が何をしているのか、わかっているような口ぶりだった。
「……っ、と……」
 正人氏が、また後ろを向いた。
 今度はこっちを向いたまま、気にしているようにも見える。あたりにまったく人影がないうえに、正人氏が意外に遅く歩くんで、距離がけっこう詰まってしまってた。
 ――潮時、かな?
 あたしはちょっと焦らして歩いたあと、不意に横合いの路地を曲がる。もちろんあきらめるわけじゃなく、角に身を潜めてポケットをさぐった。
 取り出しましたるは、鏡つきのエチケットブラシ。
 鏡の部分をひょいと覗かせ、街路を映して様子をうかがってみる。正人氏は安心したのか、また歩きだしたみたいだった。
 ――もう少し距離を離してから、隠れながら追跡を続けて――。
 そこまで考えたとき、あたしの思考はむりやり中断された。
 悲鳴。
 それも女性の悲鳴だ。正人氏がいた方向から。
 あたしは尾行中なのもかえりみず、路地から飛び出した。アーケード街の出口に近いところで、ひとりの女性が顔を押さえてうずくまっていた。
 正人氏の姿は、ない。じわっと嫌な予感が膨らんだ。
「あのっ、大丈夫……」
 走り寄って、仕事帰りのOLらしいその女性に声をかけようとして。
 あたしは、絶句した。
 まだ二十代そこそこのその女性は、身をふたつに折って地面に倒れてた。びくびくと足を突っ張らせて、苦しみに悶絶してる。
 綺麗にファンデーションが塗られてたんだろうその顔は、アスファルトにこすりつけられてすり傷だらけになり、自分の吐き出した血の混じった吐瀉物に埋もれかけてた。
 口の端から流れ出るのは涎ではなく、血の泡だった。
 ――肋骨……肺に、刺さってる……!
 一発でそれがわかった。女性の苦しげな喘鳴にぞっとする。
 このままじゃこのひと、死んじゃうって!
 パニックを起こしかけた頭を乱暴に振って、あたしは周囲を見渡した。奇跡のように真後ろにあった公衆電話に飛びつき、緊急ボタンを思い切り押し込む。
「……もしもしっ、急患! 救急車、大至急!」
 コール一回で出た救急隊員に怒鳴りながら、あたしの頭の中でひとつの仮定がつながった。所長たちに教えこまれた思考法はこんなときでも完璧に機能して、わずかないくつかの情報からひとつの推論を導き出すことに成功していた。
 正人氏の奇行、静江夫人の態度、いままでに感じた違和感、そしてこの女性――全部を納得させられる推論ができた。
 それなのに全然、あたしは嬉しくなかった。


 四、〜依頼五日目 20:31〜

 五日目の夜、あたしは道端で人を待ってた。
 昼間から曇天だった空はいまだに雲が厚く、吹いてくる風は湿っぽかった。いつ雨が降りだしてもおかしくなかった。
 ――できれば、振り出す前に来てほしいな。
 待ち人に届くはずもないのに、そう思ってしまう。雨は好きになれないし、雨の中長々と立ち話をするのはもっと好きになれない。
 その人が今日、まっすぐ帰ってくることはわかってる。
 というより、予想がつく。あと数日はまっすぐ帰ってくるかもしれない。
 あるいは、今日くらいしか「保たない」かも。
 そうなっては困る。だから今日、今夜。
 今夜しかない。
 あたしが待ってる人が、歩いてくるのが見えた。その人は必ず、この道を通る。
 住宅街からまっすぐ伸びた、駅へと続く道。夜になると人気の途絶える、寂しい道。
 その人の顔がはっきりと見えるくらいの距離まで来たところで、あたしは街灯の明かりの下に姿を見せた。両手はポケットに突っ込んだままだったけど、営業スマイルでにっこり笑ってみせる。
「こんばんわ。荒川正人さんですね?」
 いぶかしげな表情のその人に、確認した。直に話すのは初めてだ。
「……そうですが。君は?」
 穏やかで、早くもゆっくりでもない声だった。初対面の、しかも年下の女の子にいきなり声をかけられて、不快そうな様子もなく敬語まで使ってる。上司はもちろん、部下や同僚の受けもよさそうなタイプだった。
「『渓探偵事務所』の、星川螺美と申します」あたしは笑顔を浮かべたまま、言葉を続ける。「ご主人の浮気の件で、奥様に調査を依頼されまして」
「……浮気……ですか?」
 正人氏は、ちょっと驚いた様子だった。
 その後浮かべた表情は、苦笑だった。
「僕は潔白ですよ。――失礼ですが、ほんとうに静江がそんなことを?」
 いたずらだと頭ごなしに決めることもせず、夫を疑った静江夫人を責める口調もなく。
「はい。たったいま、報告してきたところです」
 本当に、いい人だ。
「困るな……無実です。浮気なんて……」
 あたしはそれ以上答えず、正人氏にクリアケースを手渡した。今日の午前中のうちに、新聞からコピーしてスクラップしたファイルが入っている。
 苦笑を浮かべたままそれを取り出した正人氏の目が――。
 ほんのわずか、細められた。
「……世田谷の住宅地を中心に起きてる、連続通り魔による暴行事件の関連記事スクラップですよ。昨日になって、被害件数は二桁に達したそうです」
 ファイルの内容を説明する。
「被害者はいずれも女子供、凶器は素手、被害者の証言によれば犯人は三十代前後の狂暴そうな男……警察はモンタージュまで作ったようですが、いまだに犯人は見つかってませんね」
 最初の事件は、三ヶ月ほど前。
 それから十日から週に一度のペース、今月に入ってからはもっと期間が狭まった。前回の事件から今回にかけては、わずか三日しかたってない。
「被害者は全員重傷です。鼻を折られた女性、肋骨を折られた女性、顎を砕かれた子……頚椎損傷させられた子は、後遺症が一生残る可能性もある、と」
 正人氏は一言も発せず、それでも顔はまだ笑っていた。視線はファイルから離れない。
「ジムから出てくる写真を取らせてもらいました。被害者のみなさんに見てもらえれば、おそらく同一人物だと証言がとれるはずです――」
 あたしはポケットから両手を出して、尋ねる。
「……どうして、『浮気』なんかしたんです?」
 大手商社の有能な社員。
 美人で旦那さんを愛している奥さん。
 ローンはまだ残ってるけれど、世田谷に立派な一軒家。
 趣味はスポーツ、仕事も真面目。酒も煙草もギャンブルもやらず、日曜は奥さんと私用専用のワンボックスカーでドライブに。
 それは、平凡ながらも堅実で、前向きで、幸福なはずの人生。
 無抵抗な女子供を、殴りたおして悦に入る。そんな狂った人間の生き方とは、生涯無縁なはずの。
 平凡で真面目な人生という「正妻」、暴力に狂喜する人生という「愛人」。
 『浮気』だと……思いたい。
 こんないい人の本性が、どろどろに腐った屑みたいな人間だとは、あたしは思いたくない。
 静江夫人も、そう思ったんだろう。
「……奥様からの、新しい依頼です。ついさっき報告の後で、頼まれました」
 本当に直感で、旦那さんのことに気づいたのだろう。
 どうやってか、うちのことも知っていたのだろう。
 悩んだ末に、『適材適所』だと――そう思ったのだろう。
 普通の探偵社では、調査するだけ。ここまで踏み込んではくれないから。
「自首を薦めてほしい、と」
 正人氏の身体が、びくりと震えた。
 その手から、ファイルとクリアケースが落ちる。
 あたしの顔にぽつりと水滴が当たったのと、正人氏が顔を上げたのは同時だった。
 ――雨――。
 雨はキライ。嫌なことばかり、起きるような気がする。
 正人氏がメガネを、両手でゆっくりと外した。
 ただそれだけで、どうしてこれほど変わるんだろう?
 柔和で爽やかで、奥さん想いの旦那さんの顔は、もうどこにもなかった。
 姿形はそのままに、目が、口元が、表情が、雰囲気が。
 暴力に狂喜する、どろどろに腐った屑みたいな――。
 正人氏が、構えた。
 拳を握った両手を顔の高さにまで上げて、足で小刻みなリズムをとって、左半身に。
 セミ・クラウチングとか何とか。
「……どこで習ったのか、知りませんけど」
 新宿だけでも、ボクシングのジムは結構ある。
 おそらくは、最近だ。それまでは自覚がなかったんだろう。
 他人を殴ることが、「楽しい」だなんて。
 その「楽しみ」から、逃げられなくなるだなんて。
 雨が、ぽつぽつと降り始める。
 あたしは憂鬱な気分になるのを自覚しながら、正人氏をにらみつける。
「あたしは、――だまって殴られたりしないよ?」
 無言のまま、正人氏が突っかけてきた。数歩あった距離を一気に詰めて、左のジャブ。
 顔のど真ん中に飛んでくるそれを、両手でブロックする。
 鋭い衝撃が走った。とても初心者とは思えないくらい、そのジャブはスピードもキレも良かった。
 ――これじゃ、普通の人はよけられないね――。
 普通の人なら。
 ケンカなんてしたこともない女性や、非力な子供なら。
 ブロックのすき間から、あたしは正人氏の全身の動きを正確に掴んでいた。右手を肩口に引きつけたことも、その目が歓喜に染まったことも。
 「思い切り殴れる」という、歓喜。
 利き腕のストレート。
 あたしはその瞬間、正人氏に背中を向けて腰を低く落とした。
 こうやって身を守ろうとした被害者もいた。三人目の被害者の女性は肩甲骨を砕かれた後、倒れた全身に蹴りを食らって今もベッドの中だ。
 でもその女性は、しゃがみこんだだけで終わった。
 身体をさらにひねりつつ、地面すれすれまで身体を倒し、左脚を正人氏めがけて飛ばすこともしなかった。正人氏もそんなこと、予想もできなかった。
 非力なはずの女の子が、反撃してくるなんて!
 ストレートを打つために踏み込んできた正人氏の右足を、タイミングを合わせたあたしの水面蹴りが綺麗に払っていた。
 あたしがすぐさま起き上がった時も、正人氏は呆然とした顔でやっと上体を起こしたところだった――両手を地面について。
「もう『浮気』は――」
 あたしは右足を振りかぶった。静江夫人の顔が、なぜか浮かんだ。
 正人氏の顔が、はじめて恐怖に染まった。
「――やめなさあいっ!!」
 ローキック気味に放ったあたしの右の爪先が、正人氏のこめかみに突き刺さった。
 正人氏の首が真横にひん曲がって、アスファルトに横倒しになる。白目を剥いた正人氏は、完全に失神していた。
 あたしは、息ひとつ切らしていなかった。
「…………」
 雨が本降りになりつつあることに、そのときやっと気づいた。
 服に雨が染み込んでいく感覚が、気持ち悪い。
「……ばか……」
 正人氏に言ったつもりだったのに、自分に返ってきたような気がする。
 ひどく気分が悪くて、雨がうっとおしくて。
「……本当に」
 だからそんな言葉とともに雨が遮られたのには、びっくりした。
「え……えっ?」
 驚いて振り返ったあたしの目に、静江夫人が傘をさしかけて、ひっそりと笑ってる。近づかれたのにも、ぜんぜん気がつかなかった。
 つまりそれくらい、あたしは落ち込んでたってことで――。
「あ、あ……あのっ……ごっ、ごめんなさいっ……」
 そんな落ち込んだ顔を見られたショックと、依頼人の旦那さんを不可抗力とはいえ蹴っ飛ばしてしまった不備から、あたしはどもりながらもあわてて謝った。
 静江夫人は、少しおかしそうに笑って首を振った。
「いいえ。……お仕事、ご苦労様でした」
 変わらない落ち着いた声でねぎらってくれる静江夫人は、大人の女性だ。
 でもその目に哀しげな色があったことに、あたしは不思議な気分になる。
 暴力を与える快感に目覚めた夫に気づいて、それを内緒で調べて、止めるようにあたしに依頼して。
 自分では説得できないと、それは認めてしまうってこと。
 もう力づくで止めるしかない。でも自首はしてほしい。だからあたしに依頼した。
 それはつまり。
 ――まだ、旦那さんのこと好きなんだ……。
 勝手なあたしの思いこみかもしれなかったけど、そう思ってしまって。
 ごめんなさい、という気持ちと。
 ないまぜになった、複雑な気分。
 声を出せないあたしに、静江夫人は笑いかけてくれる。
「……さすがは、『適材適所』がモットーの探偵社です。有能な所員を持っていらっしゃるのね」
「説得は……失敗しちゃいましたよ?」
 冗談めかした夫人の言葉に、なんとか苦笑を返すことができたのは、
「私的には、ぎりぎり成功ラインとみていいんじゃないかしら」
 さしかけられた、傘のおかげだったかも。
 あはは、とあたしは笑う。
「そう言っていただけると……」
 ちょっと、嬉しい。
「……光栄です、奥様」
「どういたしまして、探偵さん」
 パトカーのサイレンが、遠くから響いてくる。静江夫人が呼んだんだろう。
 ――ホントに、できた奥さんだなあ……。
 脳ある鷹は爪を隠す、ってヤツかもしれない。
 ――この奥さんが手綱を絞めてれば、旦那さんも更正できるかな?
 さすが夫婦はよくできてると、あたしはおどけて感心した。今回の事件に一縷の望みがあるとしたら、この人が正人氏の奥さんだったことだ。
 これからこの人も、正人氏も大変だろう。警察の取り調べに長きにわたる裁判、被害者への謝罪。賠償問題で家も抵当に出されてしまうかもしれない。
 ニュースが事件を取り沙汰し、それを見て義憤を感じた人がふたりをしばらくは苛むことになる。とりわけ残された奥さんへの風当たりは、当分納まることはないだろう。
 それでも静江夫人は、ここを動こうとはしない。
 あたしに傘をさしかけながら、痛ましげな視線は正人氏に向けられてる。
 その目には、ある決意があるように思える。
「……あの、なにか、これからも困ったら」
 だからあたしは、おずおずと声をかける。
 こちらを向いた静江夫人は、やっぱり笑ってた。
「できれば、サービスしていただけると嬉しいわ。これから少し、大変そうですもの」
 最後の言葉が、決意を裏づけてる。
 あたしは精一杯の空元気で、営業スマイル。
「はいっ! まかせてくださいっ!」
 雨が振る中を、あたしたちは立ち尽くして笑いあう。
 心からの笑顔とは、ちょっと言えないけど。
 少なくとも、あたしの中では――。

 雨が、少しだけおさまっていた。




小説目次