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『〜幻獣辞典〜』
こあとる著
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 それは、ヒツジに似ていた。

 と言うよりも、ヒツジそのものだった。もこもことした毛も、くるりと巻かれた小さな角も、どこかのんびりとしているような雰囲気を漂わせる顔も、テレビや本で見たヒツジのものだった。

 めえ。

 それが短く鳴いた。鳴き声もヒツジだった。もそもそと草を食べる。やっぱりヒツジだった。
 でも、それはヒツジではなかった。
 ヒツジと決定的に違うところが、ただひとつだけあった。それ以外は完璧にヒツジなのだが、ヒツジに本来あるはずのないものをたったひとつ、それは持っていた。

 めえ。

 もう一度、それが鳴いた。そのあと首を垂れて、もそもそと足元に積まれた干し草を食べだした。
 訂正しないといけない。「足元」という表現はそれに当てはまらない。
 何故なら、それには「足」がないからだ。「脚」はあるのだが「足」はない。地面に立つための器官――ヒツジだから蹄か――がない。

 代わりに、その部分には「根」があった。

 伸びた脚の先端が、根になって地面から生えているのである。
 その奇妙なものについて、私は尋ねてみた。カンナはにっこりと笑って答えた。

「それは、バロメッツです」



■『バロメッツ』の巻■




 バロメッツと言うのは、それの名前らしかった。

「……このヒツジが『バロメッツ』という名前だと?」
「いえ。固有名ではなく……」カンナは微笑みを絶やさない。「『そういうもの』を指して、すべてバロメッツというのです」
「『そういうもの』?」「はい」

 私は「それ」をもう一度、まじまじと見つめた。ヒツジに見えるもの。めえめえと鳴くもの。もそもそと草を食むもの。
 足元に視線を。――根っ子。

「つまり、」言いかけて、適切な表現が浮かばずにしばらく詰まった。「その、…………これは動物なのかね。それとも植物?」
「どちらでもありませんね。植物は草を食むことはしません。動物が根を張ることもありません」
「草を食べているということは……草がなくなったら?」
「ええ。死にますね」
「水と日光では生き長らえない?」
「そうなります。バロメッツが生きていられるのは、自分の周りの草を食べ尽くすまでです」そこで少し考える素振りを見せて、「……もしくは、誰かに食べられてしまうまで、ですか」

 なんて中途半端な生き物だろう。
 生き延びるために両方の特性を持っているというなら――食虫植物のようにだ――まだ仕組みとして理解できるが、植物としての機能を持っていないというなら、その根はただの足枷でしかない。

「誰が食べるのかね」
「肉を食べる生き物が。『それ』にだけ関して言えば、味は羊のそれと変わらないようです。実際傷つくと赤い血を流します」
「……だが、これは」
「はい。バロメッツは逃げられません。ですからそのまま喰われます」

 してみると、いよいよこの生き物の存在理由がわからない。それではまるで、食べられるために生まれてきたようなものではないか。
 足が根になっている、という部分以外は、この生き物はヒツジそのものだということになるのか。だがヒツジと違って、根がある以上動けない。
 動けないなら自分を害する何かから逃げることも出来ないということだし、つがいを求めて動くことも出来ないということだ(それとも種で増えるとでも言うのだろうか?)。今は干し草を与えられているが、これが自然の場所だったとしたら? 動けない以上、周りの草もあっと言う間に無くなるだろう。

 そんな生き物が、長生きできるはずがない。
 私がそう言うと、カンナはあっさりと頷いた。

「はい。ですからバロメッツは短命です。いつの間にかぽつりとあらわれ、すぐに死んでしまいます。他の生き物に食べられることすら少ないでしょう」足元のそれに視線を移す。「バロメッツは餌を与えなければたちまちに死にます。株分けで増えるわけでも、種を残すわけでもありません。死んだらそれきりです」
「それきりなのか。――本当に?」
「はい。それきりです。バロメッツはただ『生きている』というだけです。何を残すわけでもなく、ただ浪費して、やがて枯れてしまうだけのものでしかありません」

 そうしてカンナは私に視線を戻し、

「――貴方と同じです」

 にっこりと笑った。

「…………」

 かなり長い時間、その言葉の意味を図りかねた。
 ずいぶん経ってから、ようやく「何?」とだけ絞り出す。言葉そのものを忘れてしまったかのように、私は呆けてしまっていた。
 カンナは、変わらぬ笑みを浮かべて「失礼しました」と頭を下げた。

「正確な表現ではありませんでしたね。今の貴方はこのバロメッツと同じではない。
 先刻、此処にいらっしゃった時の貴方は同じでしたが」

 そこまで聞いて、ようやく私は怒りを「思い出した」。

「……何を言っているのだね? 先刻? 今?
 私は私だ。此処に来る前も此処にいる今も変わらない。
 第一私の何処がこの生き物と――こんな不完全なものと―― 一緒だと言うのだ?
 私はヒツジでも植物でもない、人間だ。ましてやそのどちらともつかない、このような奇天烈な生き物とは似ても似つかない!」

 興奮して語調を高めた私に、カンナは頷く。

「はい。『今の貴方』はまったく違いますね」
「今も昔もないと言っているんだ!」
「いえ。失礼ながら少し前の貴方は――」
「黙れ! それ以上私を愚弄するのは許さんぞ!」

 遮られたことに怒りもせず、では、とカンナは続けた。

「貴方は何故此処にいらっしゃるのですか? ご説明できますか?」

 ――。

 何?

 ――。

 私が此処にいる理由だと?

 ――。

 私が此処にいるのは、

 ――。

「此処が何処であるか、貴方は説明できますか?」

 此処が何処か?

 周りを見渡す。じっとりと湿気を帯びた暖かい空気を吐き出す巨大なスチーム、窓のないドーム状の天蓋、腐葉土の地面、何本か生えている葉の落ちた樹木。
 背後には大きな鉄扉。わずかに開いたそこから覗く、薄暗い昇り階段。

 にこやかに笑うカンナと、草を食むヒツジ。違う。ヒツジに似た何か。

 ――。

 私は考える。

 ――。

 此処は、いったい何処だったろう?

 ――。

「此処にいらっしゃる前は、どちらにいらっしゃったのですか?」

 ――。

 何処にいたか? 決まっている、家にいたのだ。
 白い壁と白い天井の大きな家だ。

 ――。

 医者たちが多い。

 ――。

 医者だと?

 ――。

「貴方は、――どなた様ですか? まだわたしはそれを伺っておりませんが」

 ――。

 ――――。

 ――――――。

「私は、」

「……ああ、そうですね。先程までの貴方は、という表現も間違いです。
 今の貴方が、バロメッツです」

 ばろめっつ? 何だそれは。
 おまえは誰だ。

「貴方は今から十五分ほど前、その階段を下りて此処にやってきました。
 いえ。わたしが呼んだのです。わたしにはそういうことが出来ます――貴方のようになってしまったものに限られますが。
 思考しないものに対してのみ、わたしは影響を与えることが出来ます。
 ところが此処に来て『それ』を見るなり、貴方は再び思考を始めました。
 だから、――のを止めたのです。考えるものは――わけには行きませんから。
 わたしが――のは、何を残すわけでもない、ただ浪費して、やがて枯れてしまうだけのものだけです。
 わたしが――のは、バロメッツだけと決めています」

 女は、わけのわからないことを延々と喋っている。
 家に帰らないといけないのだ。私はそれを思いだした。
 あの白い部屋は私の部屋ではないのだ。だから出てきた。

 そうだ。家を探して歩いていたら此処に来たのだ。
 家に帰らないと。

「今の貴方は、バロメッツです。
 わたしはバロメッツではない。思考しているのだからバロメッツではない。
 ですから、バロメッツの貴方は他の生き物であるわたしに、」

 女が、両手で長いスカートを持ち上げた。

「――食べられるのです」

 その足は、そのまま地面に生えていた。



 了



 ――人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない、しかしそれは考える葦である。
 これをおしつぶすのに宇宙ぜんたいはなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでじゅうぶん事足りる。

 しかしたとえ宇宙が押しつぶそうとも、人間は人間を殺すものより尊いであろう。
 なぜなら人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである。

 宇宙はそれについてなにも知らない。それゆえ我々の尊厳はすべて思考のうちにある。
 我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって、我々の満たすことのできないところからではない。

 だから我々はよく考えるように努めよう。
 ここに道徳の根源がある。

 パスカル著『パンセ』より抜粋



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