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『D&D&D』 第8話 こあとる著 |
ブランドの感覚は、正確だった。
ブッチャーと戦っている時ブランドが背筋に感じた、奇妙な感覚。何者かによる視線がもたらした、戦慄。
ブランドがブッチャーと対峙した時点で、そこには他に誰ひとりいなかった。戦っている間も、なにひとつ姿を見せることはなかった。
音も、匂いも、気配すら、感じることはなかった。ただ強烈な、ぞっとするような『視線』だけが、ブランドの背中に張り付いて離れなかったのを感じた。
彼は、間違っていなかった。
その広間には確かに誰もいなかった。しかし『視線』の主は、確かに存在していた。
人間のものとも魔物のものとも違う視線──と、ブランドが感じたものも、正鵠を射ていた。それはまさに『魔物』の視線でも、『人間』の視線でもなかった。
『魔術』の、『視線』だったのだ。
薄暗い松明のともしびが、揺れていた。
王城の最上階──玉座の間に通じる、いくつかの部屋のひとつだった。揺らめく明かりが影を落とし、影も明かりに応じて揺れている。
今やかつての価値を失った調度、蝋燭も燃え尽きた壁の燭台、はがれおちたタペストリー。かなり大きなその部屋にあるいくつかのものが、それらの落とした影が、どこからか吹き込んでくるかすかな風にあおられ、揺れる。
そこにいる、ただひとり生きているものの影も、また。
揺らめきながらも、それ以外の一切の動きを止めた、いびつな人影だった。影は奇妙にあちこちが張り出し、歪んだローブで全身を包んだ、ひょろりとした長身の男から伸びている。
ジャミル・ザ・ファイアワークスである。
あたかもおのれの影と袂を分かったかのごとく微動だにしないその姿は、しかし、いつもとは違っていた。
まずすぐに目に付くのは、フードが外れていることだろう。
やや乱暴に撫でつけられた、くすんだ銀色の髪。
冷静に、冷徹に細められた目は、瞳孔が異様なほどに小さかった。
すらりと伸びた鼻梁、細いというよりは尖鋭な印象をあたえる顔の輪郭──それらはどことなく、猛禽類を思わせる。
空を悠然と飛び回り、地上をみじめに這いずる獲物を物色し、突如として高みより飛来し犠牲者をつかみ去る狩人。
ならば、その爪が血にまみれているのも道理だろうか。
指先までをおおった金属製とも革製ともつかぬ灰色の籠手は、今や両方ともにどろりとした鮮血の赤に染め抜かれていた。節くれ立ち、鋭い爪のように成形された指先のあちこちに付着している小片は、こそげおとしたばかりの肉片だった。
鷹の容貌と爪を持つ男の、血にまみれた両手が、もたらしたものは?
結果は、男の周囲すべてに転がっている。
『堕したもの』。
『屍肉喰らい』。
『生屍人』。
『骸骨兵』。
地獄の表層に住まう、地上への先兵たち。二〇は下らぬ、魔物の群れ。
それらすべての、息絶えた姿として。
見れば、その姿のなんと凄惨なことか。一撃で首をもがれたもの、頭を握りつぶされたもの、四肢を叩き落とされ悶死したもの、胸に大穴を穿たれたもの、腹を引き裂かれて、臓腑をえぐり出されたものまで。松明の明かりに照らされた部屋の石畳は魔物たちのおぞましき黒血で一色に染められ、部屋には吐き気をもよおす強い血臭が充満していた。
奇しくもその光景は数刻前、彼の眼前に広がった光景と同じだった。『解体屋』と呼ばれた魔物が、人を引き裂き作り上げた、あの謁見室と。
二〇を越える魔物相手に、たったひとりの人間がこの光景を創り上げたと知ったならば、壊滅したハンデュラスの騎士たちは何というだろう。しかもその人間は武器も持たず、騎士ならぬ身──魔術師なのだ。
魔の術(すべ)を用いるもの、とでも評しなおすか。
しかし、当の本人がそれをどうとも感じていないのは、明らかだった。
ジャミルは先刻よりぴくりとも動かず、ある壁の一面を凝視している。
正確には、壁の奥を。壁が隔てたその先にある、本来は見ることのできない部屋の様子を。
謁見室から玉座の間にいたる途中にこしらえられた、儀礼用の泉である。使われることは滅多になかったが、戦争から戻った将軍などが王にまみえるときなどはたとえ汚れていなくとも、ここで両手を洗い、戦のけがれを落とさなければならない。
今、泉は本来の目的で使用されていた。
男がひとり、自分の身体と武器にべったりとはりついた血と脂を洗い流している。かなりの時間をかけて男はその作業に没頭していたが、いまだに作業を止める気配はないようだ。
──無理もない。どれだけ澄んだ水で洗おうと、『解体屋』の血と肉だ。
かすかに、ジャミルの顔が笑みを作った。口元だけで作る、酷薄な笑みだった。
その笑みも、すぐに冷徹な表情によって塗りつぶされる。
──そう、あの、『解体屋』の………。
ジャミルはもう一度──すでに何度も行っていたことだったが──男をじっと観察する。
赤い髪を後ろに流した、精悍な顔つきの男であった。飾りの少ない全身鎧に身を包み、ひと振りの長剣をたずさえている。どちらもよく使い込まれているらしいことが、鎧のあちこちに刻まれた傷と、長剣の輝きから見て取れた。
──なにせ、この剣士殿が倒したのだ。
かなり長身の部類に入るだろうが、巨漢というほどではない。鎧の隙間からのぞく首廻りや顔の造作から判断すれば、むしろ肉付きのいいほうではないだろう。
だからといって、男は痩せぎすというわけではなかった。戦いに余計な部分をすべてそぎ落とした、そんな印象を与える。
ひとふりの剣。
剣を振るうために作られた、剣の肉体をもつ男。ジャミルは男をそう評価した。わずかに逡巡して、評価を付け加える。
──それも、おそろしくよく切れる。
剣の刀身を洗い流すその何気ない動作の中にも、油断や隙はまったく感じられない。今ここで背後から音もなく魔物が襲いかかったとしても、男はあっさりと防御し──否、一撃を与えられるよりも早く、敵を斬断してのけるだろう。
ブッチャーとこの剣士との戦いの一部始終を、ジャミルは観察していた。
直に見ていたわけではない。
今と同じ方法で、観察していたのだ。
壁や障害物の一切は、見えてはいるが朧にかすんでいる。半透明となったすべての光景の中で、術者が選んだものだけが、くっきりと焦点を結ぶ。
魔術による透視である。
これを用いればどんな分厚い壁にさえぎられていたとしても、気取られることもなく相手を観察することが可能なのであった。
いや、とジャミルはふたたび付け加えた。
──大抵のものには、気取られない……と言うべきか?
思い出す。
あの時、この剣士は確かに自分の『視線』に気付いていた。ほんの数瞬、剣士の意識が何度かこちらに向けられたのを、ジャミルもまた感じ取っている。
──正確な位置はつかまれていまいし、確信を持たれているわけでもないのだろう、が……。
本来、あり得ないことである。
ブッチャーを一方的に切り伏せた剣技といい、第六感レベルと言ってもよい戦闘感覚といい、剣士の能力はジャミルの予想を完全に越えていた。
不確定な要素。予測できない、介入因子。
だが、とジャミルの口が動く。
声には出さず、唇だけでつぶやく。
──それだけに……この上ない、切り札にもなり得る。
この剣士が、何のためにここに来ているのかはわからない。それでも、推理することは可能である。
金のため? 違う。彼が城内を物色している姿は見ていない。それに装備からして、何かを持ち帰ろうという意図のものではない。
名誉のため? これも違う。名誉を求めようとするものが、あんな目をしているはずがない。
執念とも呼べるほどの意志に瞳をぎらつかせながらも、剣士の目には放浪者のような無力感と曖昧さが同居していた。本来ならば決して同居することのない、ふたつのものだった。
何をすればよいかはわかっているが、何処へ行けばよいのかがわからない。
何処へ行けばよいかはわかっているが、何をすればよいのかがわからない──そんな目だ。
何かを捜している。何かを求めている。そこまではジャミルにも、わかる。
では、何を?
魔術が見せる剣士の姿に──ようやく身支度を終え、再び歩きだそうとしている──じっと視線をそそぎながら、ジャミルが深く己の思考の中に没していた、その時。
ジャミルの背後より、近付く影があった。人間の子供ほどの背丈しかない、小さな影が。
『堕したもの』に似ていたが、土色のはずのその肌は赤褐色に染まっている。両手は短槍をかかえ、ねじれた矮小な足はせわしなく動きながらも、まったく音を立てなかった。
『魔の子ら』。
『堕したもの』の、その眷属。さらに深き地獄にひそむ、住人だった。
今までどこに隠れていたのか、その歪んだ満面にいびつな喜色を浮かべ、魔物はジャミルの背中へと近付いていく。その体躯からは想像もできないほど発達した前腕が、ゆっくりと槍をしごいた。
ジャミルは、まだ気付いた様子はない。
ジャミルの腰に狙いを定め、音もなく槍をかまえ、笑みを一層深めて──。
突き出す。
かん高い金属同士の衝突音が響きわたったのは、次の瞬間だった。
『魔の子ら』の顔が、驚愕に染まった。
自分が渾身の力をこめて突き出した槍の穂先は、ジャミルには届きさえしなかった。その手前で、止められていた。
一枚の、大きな盾によって。衝突音は、この盾がもたらしたものだった。
しかし、この盾はどこから現れたのか。槍がジャミルに命中するほんの一瞬前までは、確かに存在しなかった。これだけ大きな盾となれば、ジャミルが隠し持つことは不可能である。
いや、それよりも──この盾は、誰が持っているのだろうか。
ジャミルではない。彼の両手は、いまだだらりと垂れ下がったままだ。魔物はすべて死に絶え、『魔の子ら』を残すのみ。むろん『魔の子ら』が持っているのでもない。
その盾は忽然と現れ、誰にも支えられることなく宙に浮き、槍を防いだのだ!
「まだ、生き残りがいたか」
ゆっくりと、ジャミルが振り返った。宙に浮く盾を従えて。
その顔にはどこか面白そうな、自嘲気味の笑みが浮かんでいた。
「さすがは抜け目無い、地獄の住人、か? ……いいや、私の油断が招いたミスだろうな」
その右手が、ゆっくりと上がっていく。
『魔の子ら』の表情に、さっと恐怖の色が走る。得体の知れぬ存在に対する、本能的な恐怖だった。
背を向けて、逃げだそうとした。その背中に語りかけるように、ジャミルは言った。
「間違いは──正さねばな」
振りかぶった右手を、落とした。
五指をまっすぐに伸ばした手刀の風切り音は、剣のそれと同じだった。
逃亡のため、最初の足を踏み出そうとした『魔の子ら』の頭頂にめりこんだジャミルの手刀は、鋭い手斧のごとく魔物の頭蓋を砕き、その半ばまでをふたつに断ち割った。
「『暴風の盾』を、もう見せることになってしまうとは。せめてそれを誇りに、ふたたび地獄に堕ちるがいい」
ジャミルが言い放ったのが合図であったかのように、ゆっくりと倒れた魔物の頭部から、新たな血が床に染みわたっていった。それをもたらした男の、なんという怪力。その行為の、なんという残虐さ。
右手を軽く振って血こごりを払うと、ジャミルは盾に一瞥を与える。宙に浮いていた盾は出てきたときと同様、するりとジャミルの背後に隠れ、忽然と消滅した。
「今の音、聞こえたか? 距離を取ってはいたが、あの剣士殿のことだ、油断するわけにはいかんか……」
眉根を寄せて、剣士──ブランドに『視線』を飛ばす。ジャミルにとっては幸いなことに、今の音を聞かれてはいないようだった。泉の小部屋を出て、通廊を歩き始めている。
──剣士殿、弓術使いの女、そして私。
手札は、着実に増えている。ジャミルは満足げにうなずいた。
ラザルスの擁する手札は、強力だ。慎重に、細心の注意を払って、この三枚のカードを操るのだ。捨て札と、エースと──そして、ジョーカーとして。
誰が切り札なのか。ならばエースは、捨て札は?
通廊につながる扉の向こうで、小さな音が聞こえた。
『視線』を向けたその先で、ひとりの人間がこちらの部屋に近付いてくるのが『見えた』。鱗状鎧に身を包み、剣と丸盾で武装したまだ若い女が、四方に注意を払いつつこの部屋にやってこようとしている。
「ほう」
ジャミルの笑みが、さらに広がった。扉を注意深く開けようとする女を見る目は、楽しげに細められていた。
フードをかぶり直し、その奥で嗤う。
──新たな手札が、もう一枚。絵札か、……それとも字札か?
その全身を、膨大な霞が包む。白く湧き立つ、魔力の霞が。
──最初の勝負は『狂王』で試すとするか。生半可な役ではないが……さて、こちらはどんな役を組めるか。
ドアノブが、廻る。
──もう中座はできん。ラザルスよ、掛け値を上げるならば、今のうちだぞ………。
口元に浮かんだ、邪悪とも言える笑みを、そのままに。
女が扉を開けたとき、ジャミルの姿はどこにもなかった。凄惨な室内でただひとつ動くのは、揺らめく松明の明かりただひとつ。
影の中へと、溶け込んだかのようだった。
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