| 小説目次 |
|
『D&D&D』 第7話 アヤマ著 |
――何故!? 私は、肉塊に矢を?
どこかで女性が悲鳴をあげている、あのような肉の塊を見れば女性ならば悲鳴をあげる。違う、悲鳴を上げているのは自分だ。
悲鳴をあげて何になる。
その間に矢を放て、そう考える自分が心のどこかにいる。
――なんで、アレがここに? ここは? ここは寺院地下墓地ではないの!?
第二射、第三射と続けて矢を放つ。
――違う! 狙う場所が違う!
怪物の分厚い肉の前にシャイナの弩程度の威力では、微々たる傷しか負わせる事ができない。
分厚い肉の下から己の臓物を溢れさせ、血と肉の脂を石畳に撒き散らしながら、怪物は迫ってきた。
――にく? ニクって、肉?
怪物の叫んでいる言葉、片言の言葉がシャイナには理解できた。彼女の記憶の小箱から一つの伝承が取り出される。怪物に関する伝承、一族に貯えられた知識。
――そうあれは、『底に在りし者達』の第一章第四節、かつて、天使の歌に送られた戦士たち。悪魔と戦う神の正義を厚い胸板に持った「覇王」達の、その堕落。
シャイナは途中までを心で思い出していた。
かつて天使たちのもとで悪魔に神の正義を行うべく、百日千夜終わり無き死闘を続けていた戦士たち。「覇王」と呼ばれる一族。その一族が悪魔へと魂を売り渡し、いま目の前にいる。
無意識のうちに矢を放っている。しかし、分厚い肉に阻まれ、致命となる傷を負わせる事はできない。怪物の血によって赤く染まった石畳。臓物とともに溢れ出た脂が血溜りに浮いている。自分のつくった血の海を怪物は足を運び、近づいてくる。
――狙う場所、そう、狙う場所。
一族の伝承を思い出し、自分自身の使命を感じ、為すべき事を考える。
――私の弩の効く場所……、そこ!
シャイナは脇をしめ、その場所を狙う。そこだけは分厚い肉など関係ない。
怪物が己の臓物を引きずりながら、足を進める。手に握られた小さな鉈。否、人の胴ほどもあるはずだ。その肉の壁と見間違わんばかりの巨体のせいで小さく見えているに過ぎない。シャイナの細い身体など力を入れる必要も無く、その自重でたやすく二つにできるだろう。
――吸って、吐いて、吸って、吐いて、撃つ!
呼吸の止まった瞬間、矢を放つ。矢は弩を離れ、直線を描き、怪物の眼球へと吸い込まれた。
怪物が石畳を震わす咆哮、否、悲鳴をあげた。あまりに巨大な叫び声にシャイナは矢を取り落とした。慌てて、腰の矢筒に手を伸ばす、空を掴む感触。
矢が、無い。
慌てて、取り落とした矢を拾うため床に目を移そうとしたした瞬間、視界の隅から黒い影が空に躍った。
――他にも敵が!?
シャイナは空に踊った影を一瞬で判別できた。薄い金色に光る鎧、長剣。兜より覗く赤い髪。長剣の刃が薄暗い空間の光を一身に跳ね返す。怪物が目を押え、頭を下げた瞬間を逃さず、長剣の刃が怪物の頭を捕らえた。
皮が裂け、骨の砕ける鈍い音。長剣の刃によって怪物の頭は砕かれ、皮と血と骨、そして白い脳髄を撒き散らし、怪物は地に倒れた。低く怨嗟のこもった声、肉を、そういっているのがシャイナにはわかった。
男が血溜りの中で剣を振る。剣にこびりついていた血と脂が飛び散り、壁に飛沫模様をつくる。男はそのまま石畳の隙間に剣を差し、手を離した。
シャイナは今自分が間抜けな顔をしているであろう事は分かっていた。だが、その「覇王」の一族を一撃で葬ることのできる人間がいる事の方が驚きだった。怪物はなぜ腹から臓物を出すほどの傷を負っていたのか。誰かが傷を負わせたからだ。それが目の前の男なのか、シャイナはそう考えていた。怪物に目を移す。四肢が痙攣し、血の海に小波をつくっていた。トリストラムの地下には、人を精肉する怪物がいると聞いた事がある。
それがこの怪物だろうか。
男が兜を脱いだ。燃えるような赤い髪が現れた。
男は口を閉じたまま、シャイナに瞳を向けた。ひどく無表情な瞳、そして白い肌。鎧には怪物の返り血を浴び、元の色が何であるか分からないほど真っ赤になっていた。
男はこちらを無言のまま、こちらを見ていた。
目と目が合う、男の口は動きそうに無い。シャイナは口を開いた。
「ここは何処……いや、いいわ」
ひどく間抜けなことを言っている。あえて、言葉を交わす気にはならない。ここは寺院の地下墓地ではないことだけは確かだ。明らかに寺院の地下墓地とは違う。床の石、壁の装飾、そして焦げた装飾具。
壁の文様、石の質、焦げた絨毯の質。
――ハンデュラスの王城だろうか。
シャイナは瓦礫の散在する通路を見ながら考えた。
なぜなのか、あの時なのか。
驚く前に思い当たる。
確かにあの瞬間「方位」が変わった。
彼女は町外れの寺院跡の地下牢獄を探り、長い通路を見つけた。先の見えぬ、暗黒の回廊。彼女はゆっくりと足を踏み入れた。何処まで続くのか、そう思った矢先、通路は終わっていた。何も無い行き止まり。待っていたのは怪物でも、宝でも、死者でもなく、ただの石の壁。シャイナは小さくため息を吐くと、最後まで行ってみるかと行き止まりの壁に近づいた。
二歩足を進めたその瞬間、「方位」が変わった。
今まで前方が東であったはずだが、いきなり後方が東になっている。床に何か仕掛けでもあるのか、しかし目の前には先と変わらぬ石の壁があった。後ろを振り向く。今来た暗黒の回廊があった。
自分の方向感覚には絶対の自信を持っていた。しかし今いきなり方向が変わった。ここのところの地下牢獄の探索の疲れだろうか。シャイナは「来た」と思われる通路を戻りはじめた。
少し進むと通路の壁面が違う事に気づいた。
更に進むと来たときにはなかった扉にぶつかった。開けるとそこは何処かの部屋だった。開けた扉は壁に偽装された隠し扉だった。部屋は木箱や樽が高く積まれ今にも崩れてきそうだった。
そして部屋の壁には窓があった。朽ちたカーテンの隙間から外が見えた。暗雲に覆われた空、トリストラムの空が見えた。
自分の目を疑った。
ここは寺院跡の地下牢獄ではなかったのかと。目眩を感じる暇もなく、床を震わす轟音が響いた。
木箱や樽が崩れる。
彼女は部屋から飛び出した、そして怪物に出くわした。
――あれが伝承に聞く、転送魔法なのだろうか。
男の視線を気にせず、考え事に没頭していた。
「かつて、天使の歌に送られた戦士たち。悪魔と戦う神の正義を厚い胸板に持った「覇王」達の、その堕落。無数の血塗られた戦士たちの、悪魔への陰鬱な淀んだ忠誠心に煽られて、暗黒の回廊にひきずりだされたかつての神の戦士。魂を堕し、底に住まう者達が、ただ己の欲望のまま殺戮を繰り返す」
シャイナは一息に言った。男が眉間にしわを寄せているのがわかった。
「『底に在りし者達』の第一章第四節、悪魔の伝承よ」
男が怪訝そうな顔をしていることがよくわかる。しかしそんなことはどうでもいい。怪物、しかも「覇王」が一族の突然の出現には驚いた。しかし、今彼女は生きている。生きているならばやらねばならないことがある。
行わねばならない一族の使命、守らねばならない一族の誇り、そして伝えねばならない一族の業。
シャイナは落ちた矢を拾うと矢筒に戻した。そのまま弩を背中の背嚢に戻す。腰の剣を抜き、背中の盾を左手に結び付けた。
シャイナは男に背を向け、歩き出す。
開きかけた口を閉じ、男はシャイナの行動を黙って見送った。一度なにか言おうとしてから小さく首を振ってシャイナから視線を逸らし、血まみれの剣を眺める。分厚く、脂の詰まった肉を切ったため、剣の刃が荒れていることに男は顔をしかめた。もう少し脂を流さねば切れ味が鈍る――どこかで洗い落とす必要があった。
そんな男の行動も、シャイナは見ていない。
シャイナは思う。
怪物は臓物を溢れさせるほど傷を腹に負っていた。そして体には幾筋もの黒く焦げた模様が走っていた。誰かが傷を負わせたのだ。腹の傷はあの赤い髪の男だろう。「覇王」が一族の頭を一撃で粉砕できる腕前だ。十分に考えられる。
焦げの方はわからない。もしかするとあの赤い髪の男は魔法を使えるのかもしれない。だが問題はそんなことではない。
怪物の前で悲鳴を上げてしまった事、闇雲に矢を放ってしまった事、男がいたことに気づかなかった事。すべてが重大な間違いだった。
――私が行わねばならないこと、悪魔を倒す事。
「覇王」の一族を葬れる人間がいたことは驚きだが、それだけだ。いずれは自分がそうならなければならない。悪魔に抗する事ができる、それが一族の誇りだからだ。だが今の自分を思うと、情けなさのあまり、涙が溢れてくる。今日生き残れた事、それは単なる偶然だ。もしもあの男がいなければ、自分は今ごろただの肉塊となり、怪物の陰鬱な喜びを満たすだけの存在となっていたはずだ。
口を押さえる。しかし鳴咽は収まらない。涙で目の前が曇る。
――泣いていても何もならない、ただ邪魔なだけ。
心は千々に乱れ、いくつもの声が響く。
――生き残れたこと、ただ恐かったこと、なにも考えられなかったこと、そして無力な自分。
ただただ、情けなかった。
シャイナは大声で泣きたかった。しかし大声をあげること、それは寿命を短くすること。泣くのは全てが終わってから。まだ見えないけれど、いつしか大声で泣ける日が来るはず。
シャイナは足を進める。
いつか一族の誇りを守り、一族の使命を果たしたとき、自分は大声で泣く事ができるだろうか。仲間の死を思い起こし、泣く事ができるだろうか。
いつかそのような日が来ると信じて足を進める。
――だって、それくらいしかできないから。
その日まで心が悲しみを感じないように、辛い事を辛いと思わないように、恐れを抱かないように、心を固めなければならない。感情を殺し、冷たい心を用意する。
悲しみは小箱に入れて、心の片隅に置いておく。
彼女の目からもう涙は流れていなかった。
彼女が泣けるその日まで、人と関わり合うことはないだろう。だって人と触れるとせっかく固めた心が溶けるから。人の暖かみがなにより心に堪えるから。
だからそれまでは、誰であろうと路傍の石。
そして自分で自分におめでとうと言えるために。
シャイナは剣を構え、青い瞳を凝らし、暗闇を見据え、足を進める。
その日を目指して。
| 第6話 | 第8話 |