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『D&D&D』 第2話 sudo著 |
背中から発する鈍い痛みで、男は目を覚ます。
いや、鈍痛というよりそれは熱か。
体の奥底までじわりと達するような、不快な熱さだった。
出かかったうめき声を喉の奥でかみ殺し、小さく息を吐く。
――もう、だめなのか。
男は自分に身を寄せて眠っている女の寝顔に見入った。
かすかな寝息が聞こえる。豊かな黒髪が幾筋か、女の顔に垂れていた。
――ひと月か。たったのひと月。いや……やはり、見てはならない夢だったのだ。
女を起こさないように、そっと髪をかきあげてやる。
田舎娘とは思えないほど整った顔立ちが、窓から射しこむかすかな月明かりに浮かびあがってみえた。
健康的に陽に焼けた肌をのぞけば、貴族的とさえいえるほどの端正な美貌だった。黙って、表情を消してさえいれば。いま、眠りについているときのように。
だが、起きているときの女は深窓のお姫様どころではなかった。仕事にも生活にも活発で、情感豊かであり、よく笑い、泣き、ときには激しく怒った。
美貌のゆえに惹かれたのではない。その豊かな感情を、よく変わる表情を、男はなによりも愛した。
――これで見納めになるか。
男の顔に、悲哀の色がよぎる。
未練を断ち切るように顔を背け、温かな女の体から離れた。
肌のぬくもりが遠のくと、背中の熱さはひどくなる。逆に、心は冷えきっていくような気がして、男は思わず身震いした。
男は粗末なベッドを静かに抜け出し、乾いた木の床に足をおろす。
女がかすかに身じろぎした。男は手を伸ばして薄い掛布をかけ直してやる。
静かな夜だった。
めずらしく風もなく、時が止まったような静寂があるだけ。
いま、ここにいるのは、男と女の二人だけだった。
――夢だ。惚れた女と二人であたりまえの暮らしをするなど。おれには過ぎた夢だ。
そして男は「現実」に目を向けた。狭い寝室の隅、無造作に並べられた剣と鎧に。
とたんに背中がうずきだす。
熱かった。
耐え難いほどの熱さが、いまや全身を駆けめぐっていた。
男は再び小さく息を吐くと、ベッドから腰を上げた。
男の体は細身だったが、鍛え抜かれ、さながら強靱な鞭を思わせるものだった。その肌には張りがあったが、屈強な肉体に似合わずひどく青白い。血の気のうすい肌の分を補うように、髪だけが燃えるように赤かった。
そして背中一面には、焼き印が刻みこまれていた。
文字とも記号ともつかない複雑な紋様が、無惨にも焼きつけられている。
いささかの乱れもなく整然と刻みつけられた焼き印が、いったいどのような方法でなされたのか。
紋様の意味するところはなにか。
誰がなんの目的でこのような凄まじい傷跡を男に与えたのか。
いずれも人の理解の及ぶことではなかった。
男はなにも身に着けようとせず、そのまま寝室の隅へ歩いていく。
剣にも、鎧にも、うっすらと埃が積もっていた。
男は壁に立てかけられた長大な剣に手を伸ばす。柄を片手でつかむと、なじみ深いその感触だけで、男は自分の腕がいささかも鈍っていないことを知った。
すぐさま剣を縦横無尽に振るい、全てを叩き斬り、粉微塵に破壊し尽くす……湧き起こる衝動を、男は必死の思いでねじ伏せなければならなかった。
待て。違う。なんでもいいわけではない。『奴ら』だ。『奴ら』を斬り倒し、狩り尽くさなければ、この痛みが、熱さが癒えることはない。
「行くのね」
ベッドから声をかけられ、男は剣を手にしたまま振り向いた。
女が起きていた。ベッドの上で体を起こし、じっと男を見つめている。目を覚ましたばかりとは思えないほどはっきりした声であり、まっすぐな視線であった。
あるいは最初から眠ってなどいなかったのかもしれない。それくらい、勘のいい女であることを、男も知っていた。
「……ああ。どうやら、おれはそういうふうにできているらしい」
女の目が、射抜くように男を見つめる。女の顔に表情はなかった。高貴ささえ漂う、美しい顔。だがそれは、男の望むものではなかった。
「……トリストラム。悪魔の巣くう廃墟の街。あそこから帰ってきた人はいないわ……でも、あなたは行く」
女の表情には、悲しみも、怒りも、憎しみもない。あるのはただ、透き通るような――喪失感、だろうか。わからない。わからないが、恐ろしく心が痛んだ。
そんな顔をする女を、見たくはなかった。そんな顔を、させたくなかった。そうさせた、自分が許せなかった。だが……
だが、この熱さはなんなのか。凍てつく心を灼き尽くすような、凶暴な衝動はなんなのか。この背中に刻まれた焼き印はなんなのか。
そして……おれは、いったい、誰なのか。
答えは、あそこにある。恐ろしい厄災に見舞われたハンデュラスの都、トリストラム。狂える暗黒王レオリックの死後、甦った魔物の跋扈する魔界と化した恐怖の街。その地底、異形の怪物が徘徊する闇深き迷宮に、男の過去が、全てがある。
なぜ、そうまで確信できるのか。男にもわからない。だが、背中の焼き印が告げるのだ。そこに己の全てがあると。化け物どもの屍を乗り越えた深淵にこそ、真実があると。
男は口を開きかけたが、言葉は喉の奥につまって、ひとことも出てこなかった。
なんと言えばいいというのか。
必ず生きて戻ってくるとでも?
欺瞞だった。意味のない言い訳にすぎない。いかに言葉を取り繕おうとも、焼き印の痛みのせいで男が死地へ去っていくという理不尽な現実を、ごまかすことなどできない。
女が、ベッドを降り立った。
言葉もなく見守る男へと、静かに歩み寄ってくる。
女の顔からは表情が消えたままだったが、やはり、美しかった。
月光を浴びた女の裸身は、光り輝き、まるで……伝説の天使のようだ、と男は思った。
女は、男の胸に顔を埋め、背中に手を回してくる。いま、このときを繋ぎ止めようとするかのように、強く抱き締めてきた。
女の指先が焼き印をなぞっていくと、男の体に震えがはしった。
「あなたは……死なないわ」
胸の中でつぶやく女の声も……震えていた。
男にはなんの返す言葉もなかった。ただ、黙って、女の肩を抱き寄せる。
「きっと。あなたはあの街から生きて戻る、最初の一人になるのよ」
それは、夢だった。女の夢であり、男の夢であった。
それは言葉にしてはいけない夢だったかもしれない。信じてはいけない未来だったかもしれない。そんな風に思って自分を待つのはやめろ、と――しかし、男には言えなかった。男も、その言葉を信じたかった……二人の、夢を。
女が、顔を上げた。
その目は、あふれる涙に濡れ光っていた。
深い悲しみをたたえた瞳に、男もまた胸を引き裂かれる思いだったが、同時にどこかで喜びも覚えていた。すくなくとも、自分にはまだ女にとって涙を流す価値があるということだから。
男は胸の中の女に笑いかけた。約束してやることはできない……言葉にしては、なにひとつ。だが、その笑みの中に、男は全てを込めた。ありったけの想いを。それは、言葉にはならない、神聖な誓いだった。
女の顔にも、笑みが広がった。激しい情感のこもった泣き笑いの表情が、女にはふさわしかった。それこそ、男が愛してやまない、女そのものだった。
たまらなく愛しかった。男はただしっかりと女の体を抱き締めた。女の涙も、吐息も、肌のぬくもりも、体の震えも、胸の鼓動も、そしてその想いも、全てを抱き締めて……
男は、日の出とともに、旅立った。
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