家主を知りたい

★家主紹介★

家主は第二次世界大戦開戦の年に満州国の張家口市に生れる。終戦直後の母の偉大な決断により、終戦1年後に無事に父の実家の宮城県刈田郡(現:白石市)に裸一貫で引き揚げる。子供時代は、畑で芋掘りや麦刈り、田んぼで田植えや稲刈り、田螺やどじょう獲り、白石川で水泳や川魚つり、近くの山でワラビやキノコ等の山菜獲りをして育つ。1964年にトンペイの数学教室を卒業して、メーカーに就職する。それ以来34年間、システム部門、ソフトウェア開発部門、システムサービス部門と一貫してソフトウェア関連の仕事に従事して、現在は第二の人生を歩んでいる。

★終戦時の偉大な決断★

第二次世界大戦終戦の年に、満州国役人の父が赤紙1枚で兵隊として招集されていたので、終戦時には4才の家主を筆頭に、3才、6ヶ月の子供3人と母の4人暮らしである。終戦直後に日本に引き揚げるために、家族4人は近所の人達と共に、民族移動を開始した。母は背中にリック、胸に6ヶ月の子供を背負い、両手は3才、4才の分からず屋の幼児の手を引いているという姿である。混乱時の民族移動は単身でも大変なのに、3人の子連れでは口には言い表せない程の苦労だったのでしょう。「こんなに苦労するなら死んでもいいや」との思いで、近所の人達と別れて自分の住処に戻ってしまう。この決断が母子4人家族のその後の運命を決めている。

自宅に戻って1週間後に、なんと幸運なめぐり合わせなのか、兵役を解かれた父が帰宅するのである。それから約1年間、戦前に父が懇意にしていた中国人のワンさんのお世話を受けながら、露天商紛いの商売をして何とか食い繋ぎ、混乱も落ち着いた1年後に家族5人揃って引き揚げてくる。

終戦直後の大混乱時の移動で、苦労に絶えかねて、引き揚げ途上で子供を中国人に預けてしまい、家族ちりじりになるという悲惨な出来事が数多く起こっている。あの山崎豊子の「大地の子」にならずに、無事に引き揚げることができたのは、混乱時のこの偉大な決断があったからと思っている。

Updated on Aug.29,1999