南極に立った樺太 アイヌ

<樺太アイヌ隊員の研究書が出版されました>

 
下記の「白瀬南極探検隊と二 人の樺太アイヌ」を改定、東洋書店のユーラシアブックレットから全国書店で一斉発売しました。写真などを増やし、樺太アイヌに関する記事を増強。日露の狭 間で翻弄された少数民族の近代史を二人の生き方を通じて、振り返ることができます。北海道新聞などでも高い評価を得ました。税込み600円。


白瀬南極探検隊記念館(秋田県金浦町)職員の佐藤忠悦氏が、山辺安之助らの消息を追って北海道、サハリンなどを足で調査し新事実を開 拓、忘れられかけていたアイヌ隊員の生涯を掘り下げた力作。(売り切れ)

<白瀬とアイヌ隊員の絵本が出版されました>

やまとゆきはら 

白瀬南極探検隊 関屋敏隆作 福音館書店 2200円

※探検隊の栄光と知られざる悲劇を、現地取材を元に美しい絵で描き ました



2004年7月

「日 ロのはざまで―樺太アイヌの1世紀」
 
◎「ああ、おばあちゃん」    博物館で出会った肖像

 


 日露戦争開戦から百年の今年、旧樺太住民の一行がロシア・サハリン東海岸のレスノエ(旧落帆集落)を訪れ、一つの碑の除幕式に参列した。明治末の南極探 検に参加した二人の樺太アイヌ民族の記念碑だった。日ロのはざまでほんろうされ、独自の文化を持ちながら消滅のふちにある先住民の思いを探った。
 *  *  *
 「ああ、わたしのおばあちゃん」―。七月上旬、サハリン・ユジノサハリンスク市にある郷土博物館。戦前に建てられた日本風建物の中に展示されている写真 の前で、関東在住の安部洋子(あべ・ようこ)さん(71)は立ちすくんだ。
 樺太アイヌ民族の伝統衣装を身に着け、口の周辺に入れ墨がある女性の写真の下には名前、六十五歳という年齢、一九四六年撮影、場所は落帆とロシア語で書 いてあった。それは五十六年ぶりに訪れた故郷で出会った洋子さんの祖母だった。
 落帆で生まれ育った洋子さんは四八年、十五歳の時に一家で函館に引き揚げた。父は日本に着いて一週間で亡くなり、祖母も翌々年、死去した。「思いがけな かった。ああ、うれしい」。目から涙があふれ出した。
 博物館には祖母が弾いていた樺太アイヌの民族楽器「トンコリ」が展示されていた。祖父が着ていた民族衣装や自分でつくっていた犬ぞり、神を祭る道具、器 もあった。「この器はこう使って、右や左の神様に酒をささげるの」。洋子さんの脳裏に半世紀以上
も前の村の生活がよみがえった。
 サハリン国立大で少数民族問題を研究するリム・ソフィア教授は、サハリンでは既に絶えたとされる樺太アイヌの末えいが、目の前に現れたことに驚き、話を 聞いた。洋子さんは三世代の歴史を物語り、こう結んだ。
 「おばあちゃんの写真は永久にあそこにあるのでしょう。それを誇りに思います」
 北海道アイヌとは異なる独自の言語、文化を持つ樺太アイヌはサハリンに国境線が引かれていなかった明治維新当時、約二千四百人が暮らしていた。しかし一 八七五年の樺太千島交換条約で日本は全サハリンをロシアに譲渡する。
 北前船を通じた交易で日本と関係が深かった樺太アイヌ八百四十一人は北海道に渡るが、江別市対雁の開拓地に強制移住させられた上、疫病で半数近くがまも なく死亡。一九〇四年に始まった日露戦争に勝った日本は南樺太を領土とし樺太アイヌの多くは帰島した。

◎故郷の浜辺で泣き崩れて  母の記憶の金田一京助
 
 一九〇七年夏、大学を卒業して間もない二十五歳の言語学者、金田一京助(きんだいち・きょうすけ)は、日本領になったばかりの落帆を訪れた。北海道で学 んだアイヌ語は通じず、無為に数日間を過ごす。そんな中、金田一は遊びに夢中の子供たちに出会った。
 「ただ私は、『何?』という一語がほしくなった。それさえわかれば心のままに、物を指して、その名を聞くことができるのである。そこで、ふと思いつい て、こんどはめちゃくちゃな線をぐるぐるぐるぐる引き回した。年かさの子が首をかしげた。そして『ヘマタ!』と叫んだ」
 金田一のエッセーは戦後、国語教科書に採用され広く知られている。洋子さんの母親はその子供たちのひとり。「七、八歳のころに金田一先生が来て石を並べ てヘマタ、ヘマタとアイヌ語の勉強をしていた」と洋子さんに繰り返し話した。
 洋子さんの母親は美しく成長し、落帆の漁場主の妻となった。洋子さんも母と同様、浜辺で友と遊びマス、ニシン漁でにぎわう父の番屋に毎日のように通っ た。
 ユジノサハリンスクから東に車で約一時間。ほかの仲間が和人集落の跡で思い出を探る間、洋子さんは落帆の浜辺を五十六年ぶりに歩いた。「浜のにおいがす る。コンブのにおいだ。灯台が見える。感無量だよ」。洋子さんはオホーツク海に、そっと手を浸し、孫への土産に小石を拾った。日本の陶器のかけらも落ちて いた。
 「この海鳴りを聞いて育ってきたものね。しゃべるな、と言われてきたけれど、わたしには何も恥ずかしいことじゃない。こんないいところなんだから」とつ ぶやく。
 「母は九十二歳で他界するまでここに帰りたがっていた。最後まで樺太の石を大事に持っていた」―洋子さんは海を見渡すがけで泣きながら座り込んだ。
 近くで白瀬矗(しらせ・のぶ)の南極探検に参加した樺太アイヌ山辺安之助(やまのべ・やすのすけ)ら二隊員の記念碑の除幕式が始まり、落帆の元住民が現 在のロシア人住民と一緒に碑の再建を祝った。故郷訪問団長を務めた木村弘吉(きむら・ひろよし)さん(75)は「山辺は落帆に住んだすべての人々の代表 だ」と話した。村の中には元住民の家が一棟だけ原形をとどめていた。
 
  ◎「二重の苦しみ」背負って    語り継ぐ先住民族の思い
 民族の地位向上を目指し、花守信吉(はなもり・しんきち)とともに南極探検に参加した山辺安之助(やまのべ・やすのすけ)(一八六七―一九二三)。樺太 千島交換条約で日本に移住、疫病を生き延びてサハリンに戻り、日露戦争後は落帆の村づくりや学校建設に身を投じた。また金田一京助らの樺太アイヌ語研究に 献身的に協力した。
 南極への出発は一九一〇年。探検に国の支援がないと分かり、周囲は参加取りやめを勧めるが「昨日承諾し、今日違約したら『やっぱりアイヌだなぁ』とさげ すまれる。それは我慢できない」と決意を変えなかったと金田一は書き記す。ソリを引くカラフト犬は計六十匹に及んだが、多くは樺太アイヌの提供だった。
 秋田県金浦町の佐藤忠悦(さとう・ちゅうえつ)さん(64)は役場を退職して同町の白瀬南極探検隊記念館に勤務し、郷土の探検家を支えた山辺らの存在を 知る。また嵐のため南極に置き去りにされたカラフト犬の運命にも心を痛め、地元町おこしグループと慰霊碑づくりに取り組んだ。
 二〇〇〇年夏には落帆に木製の碑を建立。現地を管轄するコルサコフ市の要請で翌年、石碑に立て替えたが、何者かに破壊された。犬ぞりレースで交流があ り、ユジノサハリンスクに事務所がある稚内市の協力で「日ロ親善の証」として碑を作り直し、元住民の故郷訪問も同時に実現した。
 佐藤さんは山辺らの業績を語り継ごうと「南極に立った樺太アイヌ」(東洋書店)を出版したが子孫が名乗り出ることはなかった。戦後、大多数が日本に引き 揚げた樺太アイヌには「少数民族」「失郷民」としての二重の苦しみが待っていた。
 一九四八年、日本に引き揚げた洋子さん一家は樺太アイヌの血縁をかたくなに隠し続けた。結婚し二人の子供をもうけたが夫に出自を知られた。「土人」と侮 辱する夫と離婚、子供たちと北海道を離れ理髪師、裁縫師として生計を立てた。
 すべてを受け入れてくれる現在の夫と出会って、洋子さんは子供たちに自分の人生を語っている。妹や息子の妻からは「昔のことをもっと教えて」「書いてみ れば」と言われている。
 樺太アイヌ語は十年前に最後の話し手が死去した。出自を明らかにしている人はごくわずかだ。先住民の暮らしと悲劇を知る生き証人として、洋子さんは今、 自分を見つめ直そうとしている。

2000年8月 サハリン東海岸
  レスノエ(落帆集落)

白瀬隊ゆかりの樺太アイヌと樺太犬のふるさとを訪ねて


明治の南極探検出発直前の山辺安之助(左)と花守信吉

 
山辺のふるさと、落帆の海岸。金田一京助が子供たちから樺太アイヌ語を学んだエピソードは、 学校教科書を通じて広く知られているが、 その現場は、この周辺だった


落帆川河口。川にはおびただしいカラフトマスが上る。近くには日本軍の二つのトーチカがあった

 川は静かに流れる


浜辺の和人集落跡。右手に小学校があった


1軒だけ残った日本時代の住宅。金田一京助が泊まった可能性も


村には犬と牛がたくさんいる


トンナイチャ(旧富内湖)。だだっ広く、ただ静か


墓地は草が生い茂っているが現地の人は墓の場所を正確に記憶している


山辺安之助、花守信吉、そして樺太犬のための慰霊碑。落帆川、オホーツク海が見える
     
2000年に建てられた木碑は翌年、石に作り変えられるが、心無い何者かに壊されえてしまう。そのため秋田県金浦町の有志と稚内市、コルサコフ市 が協力して2004年にステンレスと御影石、コンクリートを使った頑丈な慰霊碑を再建する。この際、元住民多数が故郷を訪問、除幕式に参加した。



「明日へのラブレター」=南極探検の陰に  悲劇の歴史に思い寄せ  樺太アイヌと犬を慰霊

 一九一二(明治四十五)年、白瀬矗(のぶ)を隊長とする日本の南極探検隊五人は、犬ぞりで南緯八○度○五分の最終地点に達した。同時期に極点に初 到達したノルウェーのアムンゼンや、それと先陣争いを演じたイギリスのスコットには及ばないものの、当時としては画期的な成果だった。
 しかし、五人の中にいた山辺安之助、花守信吉の二人の樺太(現ロシア・サハリン)アイヌ民族とカラフト犬の悲劇の歴史を知る人は今も少ない。
 ▽白いチョウが舞う
 八月上旬、オホーツク海に面したサハリンの小さな集落レースナエ(旧落帆)。秋田県金浦町から来た「白瀬中尉をよみがえらせる会」のメンバー佐藤忠悦 (60)、渡部幸徳(51)、佐々木憲明(60)の三人は慰霊碑を探していた。しかし、どうしても見つからない。
 「この斜面に神社があって、上の高台に鐘楼があった」とロシア人住民。鐘楼の跡からは海と河口が見渡せた。「ここに慰霊碑を建てよう」。だれからとなく そう言いだしていた。
 用意してきた高さ一メートル三十センチの木の碑を地面に立てた。「探検隊の栄光の陰にいた二人と樺太犬をしのぶ」の文字。碑の前に花束と供物がささげら れ、小さな鐘を鳴らす音と佐々木の読経が静かな森に流れた。線香の煙が青空にたなびく。
 三人が合掌しているうちに、碑の近くに白いチョウが舞った。まるで二人と犬たちの魂が帰ってきたかのように。「約束を果たした」。渡部がつぶやいた。
 ▽置き去りにされて
 「よみがえらせる会」は地元出身の白瀬のチャレンジ精神を復活させようと八五年に発足。九○年、通信工事業を営む渡部らの呼び掛けで「白瀬南極探検隊記 念館」が開館した。佐藤は昨年、四十年間勤めた町役場を退職。希望して同記念館に勤務している。「戦前の本や新聞で調べて樺太アイヌの歴史を知り、少数民 族が時代の波にほんろうされた悲哀を痛感した」。中でも「山辺の人格には感心させられた」。
 山辺は樺太に生まれ、日本とロシアの条約で北海道に移住させられるが、仲間の半数が伝染病死するなど辛酸をなめた末、樺太に戻る。日露戦争後、落帆集落 の長だった時、白瀬の壮大な計画に感動。犬ぞりの技術を生かそうと参加する。
 山辺は花守と、犬ぞりに使う六十匹のカラフト犬を落帆などで集めた。探検終了時には二十六匹が生きていたが、暴風雪で船への収容が難航。「やっと六頭だ けを乗せた。犬は遠ぼえに鳴いて見送った」(山辺の自叙伝)。残りの二十匹は南極に置き去りに。「船が離れるにつれて犬は悲しげにうなだれていた。花守は ついにシクシク泣きだした」と白瀬は書いている。
 旧樺太住民の言い伝えでは「山辺と花守は帰郷後、家族同然の犬を殺したとしてチャランケ(査問)にかけられた。村人は犬の慰霊碑を建てて供養した」。そ の後、山辺はアイヌ自立のための開拓に力を注いで落帆に骨を埋め、花守は不遇な後半生を送る。さらに樺太アイヌは戦後、再び故郷を追われる非運に遭う。
 ▽「探してみよう」
 山辺、花守、そしてカラフト犬たちの苦難の運命は佐藤たちの胸を打った。「白瀬も最期まで犬のことを心残りにしていた。とにかく慰霊碑を探してみよう。 見つからなければ、新たに慰霊碑を建てて供養し、白瀬の思いを果たそう」。佐藤と渡部に会社を定年退職した佐々木も加わり、サハリン行きを決めた。「二十 世紀のことは二十世紀のうちにけじめをつけたい」
 三人が飛行機、フェリーと車でたどり着いた落帆は、山辺と親交があった言語学者、金田一京助が七十年前「美しい村」と表現した通り、川にはカラフトマス の大群が上り、岸辺では牛が草をはんでいた。
 約三十戸の住民は全員ロシア人。四七年五月に移住してきた男性(66)は「入植して半年は樺太アイヌの家族と一つ屋根の下で、食べ物を分け合って暮らし ていた」と話す。「(同年)九月に日本人と樺太アイヌ計数百人が広場に集められ、手荷物だけで馬車で送られていった。去る方も悲しそうだったが、総出で見 送るわれわれも悲しかった」
 三人は「山辺の墓を見つけよう」と、樺太アイヌの墓地らしい場所に行った。だが、草が茂り、土まんじゅうらしいものしかない。「ここが一番大きな墓だっ た」とロシア人主婦(57)が指さす場所で、三人は山辺をしのび、黙とうした。
 「白瀬をベースにいろんな人とつながっていくし、歴史の悲劇を知ることもできた。温故知新です」と渡部。三人は「これを出発点に、山辺と花守の子孫を探 しだそう」と決心した。
 白瀬隊隊員の消息調査でも二人の縁者は見つかっていない。「根強い差別で、樺太アイヌの子孫は出身を隠した人が多いが、白瀬とともに命懸けで探検をした 隊員に感謝したい」と言う佐藤は、まだ見ぬ山辺と花守の末えいに手紙を書いた。
 「南極の雪原に熱き思いをたぎらせた誇り高い祖父のことを伝えたい」(敬称略)

 ▽再び故郷を見る日を  メモ
 山辺安之助には自叙伝「あいぬ物語」と、金田一京助が残した後半生の記録がある。「白瀬中尉をよみがえらせる会」のサハリン行きに記者が同行したのは、 それを読んで高潔な山辺の精神にショックを受け、二十一世紀になれば山辺の波乱の生涯も、樺太アイヌの悲劇も忘れ去られてしまう、という焦りからだった。 昔と変わらぬ落帆の様子に、彼らが再び故郷を見る日が来てほしいと思った。
 独自の言語と文化を持つ樺太アイヌは明治初期には約二千四百人。その後、日本とロシアの関係の変化に振り回され、第二次世界大戦後は、多くが日本に移 住。長い差別の中で、現在出自を明らかにしている子孫は数人程度という。
 カラフト犬は一九五八年、南極観測隊に置き去りにされた「タロ」と「ジロ」が翌年生きて見つかり、話題になった。「樺太犬保存会」によると、国内では一 けた、ロシアでも百匹前後に数が減少している。    

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Scope-Sakhalin Ainu

SCOPE: Ainu descendant returns to Sakhalin

YUZHNO-SAKHALINSK, Russia, Aug. 4  Kyodo - Yoko Abe returned to Sakhalin Island for the first time in more than half a century and had a pleasant surprise.

In a museum, she came across a photo of her grandmother dressed in a traditional Sakhalin Ainu costume with tattoos around her mouth.

Abe is a descendant of indigenous Sakhalin Ainu, who had a language and culture different from the Ainu of Japan's Hokkaido. She was among a group of Japanese visitors to Sakhalin attending a ceremony unveiling a monument honoring two Ainu who took part in the 1912 Japanese expedition to the South Pole.

The ceremony was held in Lesnoe on the east coast of Sakhalin early last month in memory of Yasunosuke Yamanobe and Shinkichi Hanamori, the Ainu who went to the South pole with expedition leader Nobu Shirase, a Japanese Imperial Army officer.

The Japanese Empire acquired southern Sakhalin after it defeated Russia in their 1904-1905 war.

The Ainu living here would face the exploitation and racism that Hokkaido Ainu suffered at the hands of Japanese.

The expedition monument is the third of its kind.

The original wooden memorial was built in summer 2000 at the initiative of Chuetsu Sato, 64, who works at the Shirase South Pole expedition museum in Japan's Konoura, Akita Prefecture.

It was replaced by a stone cenotaph the following year at the request of Korsakov city, which has jurisdiction over the village.

But someone destroyed it, and the municipality of Wakkanai, Hokkaido, cooperated in the construction of the new monument.

The group was comprised of Abe and other former residents of the village.

Abe, 71, stood in front of the photo of a woman on display at a folk museum, a Japanese-style building constructed in Yuzhno-Sakhalinsk before World War II, after which Sakhalin reverted to Russia.

''Oh, she's my grandmother,'' said Abe, stupefied at the photograph. A brief explanation in Russian said the woman in the photo was 65 and the picture was taken in 1946 in Ochiho, the Japanese name for Lesnoe.

Abe was born in Lesnoe but her family was evicted to Hakodate, Hokkaido in 1948.

The family concealed its Ainu origin due to racism against Ainu by Japanese. The Ainu have faced discrimination and forced assimilation at the hands of the Japanese ethnic majority.

Her father died a week after the family settled down in Hakodate and her grandmother died in 1950. ''It was unexpected,'' she said with tears in her eyes as she saw the picture of her grandmother. ''I am really pleased.''

The museum also had on exhibit a Sakhalin Ainu stringed instrument called a ''Tonkori'' that her grandmother had played as well as her grandfather's Ainu clothes, a dog sled he had made, tools, and containers used to make religious offerings.

Lim Sofiya, a professor at Sakhalin National University who specializes in ethnic monitories, was surprised to see Abe because the Sakhalin Ainu had ceased to exist. The Russian professor listened to her tell the history of the three generations of her family.

She asked, ''Is the photograph of my grandmother going to stay there forever? I am proud of that.''

About 2,400 Ainu were said to have lived in Sakhalin around the time of Japan's Meiji Restoration in 1868. In 1875, Japan and Russia signed a treaty in which Tokyo conceded Sakhalin in exchange for the Kuril Islands.

A total of 841 Sakhalin Ainu moved to Hokkaido due to their close trade relations with Japan, but they were transferred to Ebetsu city for land development.

Nearly half of them died in an epidemic. Japan gained the southern half of Sakhalin as part of the spoils of war and many Sakhalin Ainu returned to the island.

On her trip to Sakhalin, Abe also visited Lesnoe, located about an hour by car from Yuzhno-Sakhalinsk, while other members of the group went to former Japanese villages. She strolled around the beach and picked up pebbles as souvenirs for her grandchildren.

She said her mother cherished a stone she brought from Sakhalin and always said she wanted to return to the village until she died at age 92.

She said her mother was among children who encountered noted Japanese linguist Kyosuke Kindaichi, who visited the beach in 1907 to practice his Ainu language skills. The last person who spoke the Sakhalin Ainu language died 10 years ago.

Abe married following her move to Japan from Sakhalin and had two children. When she told her husband of her Ainu background, he called her an ''aborigine,'' a dirty word in Japanese.

She divorced him, left Hokkaido with her children and took care of them by working at a barbershop and doing needlework.

She later married a Japanese who was not ashamed of her background, and keeps telling her children and relatives all about Sakhalin Ainu.

Some descendants of Sakhalin Ainu live in Japan but few make their background public due to the discrimination they would face by Japanese.

Hiroyoshi Kimura, 75, and the leader of the group of visitors said Yamanobe, one of the two Ainu who took part in the polar trek, was ''a representative of all those who lived in the village.''

Yamanobe (1867-1923) joined the expedition hoping to enhance the status of Ainu. He was also credited with promoting the village and building a school.