
感想
1960年代の半ばからおよそ二十年間、黒龍江省と思われる地方の物語。
赤軍病院の内科医であるリン・コンは毎夏の7日間の休暇には故郷の村に帰っていく。若い頃に親の決めた結婚で娶ったシュウユーと役所に出向き離婚を申し出るためである。
かれは田舎に妻を置いて年老いた両親を見取らせ、都市部の軍病院に勤務しているのだが、この病院の同僚である看護婦マンナ・ウーとの結婚をもう十数年も昔から希望しているのだ。
妻のシュウユーは毎年、夫の諭しによっていったんは離婚に同意するのだが、いざ家庭裁判所の判事に「ほんとうに離婚したいのかね」と聞かれると、涙にくれる。付き添いの弟が、姉は文盲の農婦にすぎないが、夫の留守を守り、夫の両親である舅と姑が身罷るまで、村人の誰もが感嘆するほど献身的に仕えて来たことを判事に説明すると、リンの「二人の間には愛がない」のだという説明はいかにも身勝手に響き、毎年判事はこの離婚の申し出は却下すると述べるのだった・・・
こんな始まり方をする小説ですが、作者は母国語ではない英語で物語を淡々と語って行きます。あんまり淡々としていて、ページターナーの英文しか読まない人間としてはいささか退屈する。ところが、読んでいるうちに、なぜか主人公の主体性のなさや弱さふがいなさと一緒に生きるようになり、この退屈さがさほど嫌でなくなるのですね。
リンとマンナは、年度行事のように繰り返す離婚請求には、実はもうさほど期待はしていません。18年間の別居生活で当事者の意思によらず離婚が成立するという党の慣習によって自動的に離婚が成立するのを待っているのです。タイトルの『WAITING』はいうまでもなくここからきているのですが、最後にもうひとつ作家は仕掛けを残しています。
さて、この主人公のリンというのは、ほとほと駄目な奴なんですね。かれが妻を愛していないのは、つまるところ妻がぱっとしていないという理由だけなんだなぁ。
もちろん理解はできる。
かれは家系的な出自がよく(60年代の中国ですからこれは祖先が代々貧農や無産階級で、いわゆる名家の出身でないことを意味しています)頭の良さから党によって医学部に進学させられ医師になっているくらいですから、いわゆる近代的、進歩的な考え方をしなければならないと考えています。ところが、両親が勝手に選んだのは、この時代の最後と言ってもいい纏足をした娘で、無学であり、封建制の価値観のなかで自足している女だったのですね。しかも、帰郷して初めて会った妻は写真で見せられた(そのときでさえ十分老けて見えたが)顔立ちからさらに老いた婆々のごとき娘であった、というのだから、まあ同情はできる。(笑)こんな妻を、党や赤軍の同僚に紹介できるわけないじゃないか、というわけでかれは恥じているのです。
ところが一方で、看護婦のマンナを愛しているかといえば、これもむしろマンナにはめられたようなところが多分にあって、たしかに妻がマンナのような近代的な女だったらとは夢見たことはあったものの、それが愛かと自問するとよくわからないというのが本音なのだ。
人によっては、これをただの愛の物語ではなく、文化大革命以降の中国人の伝統回帰の寓話と見る向きもあるかも知れません。近代的な価値観を共産党の強権でみんな身に着けた振りをしていたが、開放政策になるととたんに中国人の封建主義的な価値観が復活するのだという具合に。だが、ぼくにとってはそんなことにはあまり興味がありません。
ぼくは、このリンとかれをめぐる人々の、ときに瑣末な、ときに激した感情のうごきにぴたりと歩みを合わせてここ数日生きていたような気がするのですが、(そういううまさがこの小説にはある)最後になって、いつも理性的で感情を抑制して生きているような主人公がわずかに破綻してしまうその瞬間に立ち合って、おもわず目頭が熱くなりました。それはよくある「泣かせ」(浅田次郎的なあざといやつね)とはあきらかに異なる、深い人間的共感といったものからくる感動でした。ああ、ここにもおれとおなじようにだめなやつがいる、という気持ちだったのです。
たまにはこういう地味な本を読むのも悪くないですね。
本書は1999年のアメリカのナショナル・ブック・アウォード受賞作です。