感想
政治と個人という現代ではさほど共感を呼ぶとは思えない主題、しかも愚直なまでに真面目な文体である。正直に言って、とくにきっかけがなければ買うことはなかっただろうと思う。ところが、往々にして世のものごとがそうであるように、実際に縁あって本書を読んでみると、これがじつに面白い。しかし、多少の不満もある。
主人公、柴田龍彦の父親は蔵相、外相などを歴任し現下の混迷した政治情勢のなかで次期総裁、総理大臣に最も近いと言われる大物政治家、柴田龍三である。福岡の西日本新報の社主一族の出身で、朝日新聞の記者となり、ベストセラー作家となったという華麗な経歴の持ち主。やはり大物女優であった妻との間に二人の息子があるが、生まれたときから病弱だった長男には尚彦と命名し、次男の龍彦の方に自分の「龍」の字を与えた。主人公の龍彦は、日本で最も影響力のある出版社に勤めるかたわら、最大ゼネコンのオーナーの娘と結婚した覇気ある若者だった。だが、小説の冒頭では、なぜかこの主人公は準禁治産者なみのあつかいで父親に末席の秘書として仕えている。精神もおそろしく不安定である。やがて、物語はこの龍彦の蹉跌に遡りつつ平行して父親の政権獲得の権謀の世界を描いていく。
――といった感じのストーリーだが、これを読んで、「ああ、例の華麗なる一族ね、オレたちの生活実感とはかけはなれた世界だわな、興味無いね」などと単純に考えてはいけない。(これはどちらかと言うとぼく自身の反省の弁)
小説とはもともと未知の世界に目を開いてくれるものなのである。未知の世界が読者の陳腐な「常識」と都合よく折り合ってくれるものであるかどうかは問題ではない。もし政治家や官僚、マスメディアなどのそれぞれがもつ強大なパワーに対して紋切り型の批判(たとえばかれらは庶民の生活感が欠けているといった類のものをここでは思えばいい)しか持ち出すつもりがないならば、それは文章を書く人間の頭の悪さか、あるいはプロパガンダとして「反」権力で飯を食う人間の薄汚さを示すものでしかないだろう。
この作品は、いくつか不満はあるが、すくなくとも紋切り型の「常識」への不潔な擦り寄りがない点で、ぼくはその志に拍手を送りたいと思う。こういう骨の太い現代小説の書き手がどんどん腕を上げてくれれば貧相なわが国の現代小説も面白いものになるに違いない。
先日読んだリチャード・ノース・パタースンの『PROTECT AND DEFEND』のような本格的な人間ドラマをこの作家には期待したい。
本書の結末のつけ方は、必ずしもぼくはいいものだとは思わないけれど、正反対の方向まで行きつき、しかもそのことの意味も認めた上での主人公の決断であるから納得はできる。しかし、これ以外には、彼に人間としての再生はあるまいと言うなら、それは違うとぼくなら言うだろう。喪失は誰にもある。主人公の行動は感傷ではないのか。過去に遡りそこからやりなおせばそれでいいというものではあるまい。きっとお前はまた、同じことを繰り返すだけだよ、とぼくは思った。
もうひとつ不満に思ったこと。
こういうアクチュアルな同時代をあつかった小説はモデル問題と言う点で作家にはリスクがある。それはよくわかるけれど、時事の扱い方が少し思わせぶりすぎる。
たとえば主人公の義妹(嫂の妹)は皇太子妃候補として騒がれている設定だから、これを現実にあてはめると1993年の雅子妃決定よりは前の時代設定となる。小説では龍三は第十五代自民党総裁となるが、現実の第十五代総裁は宮沢喜一で就任は1991年。
小説のなかでも、主人公が「土地価格の暴落はすでに始まっています」などという情勢分析を行なうシーンもあるので、まあ舞台は1991年頃においてもよさそうだが、一方で「一昨年」アメリカでは共和党の現職を破って16年ぶりの民主党大統領が誕生したという設定である。クリントン政権の発足は1993年だから、これを生かせば小説の舞台は1995年頃と見るべきかも知れない。いや、もっと単純に主人公が使う携帯電話は折りたたみ式の薄型のものである。ああいうタイプが普及したのは、早くとも98年頃ではなかったか。
もちろん、こういった矛盾は意図的なものである。作家は周到な設定で、現実とは違う「世界」を築き、そこで作家の追及したい主題を思い存分書きこもうとしている。ただ、残念ながらこの作品のなかでもっとも説得力があるのは、田中角栄をモデルにしたことがあからさまな藤田元総理の言葉を回想する場面なのである。もとよりこの場面にしても虚構であるには違いない。しかし、この登場人物の存在感は、田中角栄という戦後日本の「フィクション」に寄りかかっているとぼくは思う。
小説にとって、作家のつくりあげた虚構より現実(のイメージ)の方が勝っているというのは作家の名誉になることではあるまい。