1941年初版 1990年第45刷
感想
岩波文庫でわずか100ページ足らずのこの「日記」、まずは多少の予備知識。
一条帝の御代、皇后定子、中宮彰子のサロンが妍を競い、紫式部、清少納言が文芸上の丁々発止を繰り広げた時代に、和泉式部は彰子の女房となります。
このときはすでに夫のある身ですが、和泉式部は弾正宮為尊 親王の愛人になるのですね。(亭主は地方官で別居中でした)
ちなみにこの為尊親王てぇお方は、冷泉帝と藤原兼家の娘、超子の間のお子さんで、超子さんというのはあの道長の妹にあたります。つまり、当時の社交界で、皇族であり、国家最高実力者の甥であったわけですが、だけでなく、当時最高の美男のプレイボーイとして名を馳せた人物だったのでありますね。この寵愛を受けたのが和泉式部ですから、まあさすがに彼女、すごいゴシップの華であったことは疑いない。
しかも、ここからがすごいのだけれど、この為尊親王が若くして死んでしまうと、今度は同じく冷泉帝と超子の間に出来た弟宮の帥宮敦道 に口説かれてその愛人に納まるのでありますね。とくにこの弟宮というのが、兄ちゃんに輪をかけた色好みで、愛人として通ってくるくらいにしときゃいいのに、彼女を自分の屋敷に連れて帰ったりして、正妻が家出はするわ、祭り見物の牛車の御簾をあげて和泉式部との艶やかなツーショットを見物人に見せつけるわ、というやんちゃぶりで、まあ、これがたいへんなスキャンダルになるのであります。(
この『和泉式部日記』は、弾正宮が死んでしまって、「わたしぃ、もう恋なんかしないわぁ、みたいなぁ」なんていう独白(このあたり相当悪意があるな 笑)からスタートするくせに、あっという間に、弟宮の求愛を受け入れて、いやだいやだ、ホント浅ましい、他人に後指さされてまで、なんでこんなことしてんだろと嘆きながら、弟宮の強引なアプローチにやっぱり体で応えてしまう愛人の1年にも満たない生活をつづったものなんであります。面白いんだな、これが。
大半が、帥宮(そちのみや)と彼女の相聞歌と前後の出来事を記した文章なんだが、よく脚注を読んで進まないと、何をやってるのか、わからない。とくに、この二人がいつ「した」かというのはうっかりすると見逃してしまうんだなぁ。脚注で「後朝の歌である」なんて書いてあって、「えっ、おいおい、ここでやったのかよ」なんて下品な読者はびっくりしちゃう。
だいたい、鎌倉以前というのは、これはおなじ日本人としてみるより、むしろ異国の文化として観察した方が理解しやすいと、司馬遼太郎センセーも言っておられるくらいですから、こういう王朝の文芸は、あまりまじめにぼくらの恋愛感情の延長線上で見ない方がいいのかもしれない。そもそもこれらは、当然すべて読まれることを前提とした恋愛日記なんだということは、常に頭に入れておかなければならないわけで、ということは恋と芸術の一種のパフォーマンスでもあって、彼女はそれを芸として演じているわけですね。だから、この日記に「哀しい女の性」なんぞを投影して、昔も今も恋はつらいものねなんて考えるとちょっと違うだろうなとぼくは思う。
しかし、その一方で、そういう芸術表現や、遊びの筈でありながら、恋と言うのは、本来動物的なものですから、そういう本人の思惑には納まりきれず、突然当人たちに牙を剥く一瞬もあり、この「日記」の見所も、そういう一瞬がやはり歌のどこかに焼き付いている、そんな危なさにあるように思うのです。