感想
中国、山東省高密県東北郷大欄市。山東半島は青島に近いこの農村が、莫言さんの小説宇宙の故郷である。以前、NHKラジオで週2回、この作家の『鉄孩』と『夜漁』というふたつの短篇を講読するという講座があり、朗読を担当した梁月軍さんという女優の素晴らしい中国語に酔ったものだが、そのときも小説世界の舞台はここ高密県であった。ふたつの短篇はどちらも少年を主人公にした一種の幻想小説で、『鉄孩』は毛沢東の大躍進政策で数千万人が餓死するという時代背景のなかで、子供の収容所から放り出された少年が、餓えてもはや食べるものがなくなり、鍋や機関車までばりばり食い出すというブラックユーモア。『夜漁』の方は、それから少しあと、劉少奇の調整経済政策で農村がほっと一息ついた時代(もっともこれはまた毛沢東の文化大革命によってさらなる狂気へ叩き込まれるほんの小春日和だったわけですが)の少年の性的な幻想を叙情的に歌い上げた絶品だった。
この短篇講読の講師であった藤井省三さんによれば、莫言文学のキーワードは「魔術的レアリズム」ということになるのだが、今回、この作家のかなり長大な小説を読んで、まさにその意味がよく理解できた。物語は1937年の日本の侵略で幕をあけ、抗日、日本の敗戦、国共内戦、毛沢東の時代を経て、1990年代の繁栄の裏の拝金主義と腐敗の時代で一応の完結をみるのだけれど、こういう歴史の大きな波にもまれる人々の「泣くがいやさに笑い候」的な物語のどれほどが、歴史的事実を反映しているかかどうかは(あとがきで作家自身が述べているように)さほど重要ではない。重要なのは、公式の歴史的事実の裏で、幾多の男や女が天にささげた必死の祈りや、なすすべもなく流した涙や、一途な恋の歓喜、盲目的な母親の愛情なんだよ、というのがおそらく作家のよって立つ「レアリズム」なんだと思う。そういう人間の根源的なものを一面の高粱畑、草原、大河など高密県のまるで細密画のような風景描写のなかで描ききったこの小説家の素晴らしい力技に感嘆せざるを得ない。
「日本の読者へ」と題するあとがきによれば、作家はこの小説を90日ほどで(寝ているときは夢のなかで)書きあげたという。にわかには信じがたいことながら、それが可能であったのは、おそらく、高密県東北郷の宇宙は作家の頭のなかに現実以上の現実として存在していたからだろう。
物語の主人公は上官金童(シャングアン・ヂンドン)という男。彼には8人の姉がいて、それぞれすべてに来弟、招弟、想弟などという名前がついていることからも分かるように、母親は男の子を産めないことで亭主や姑に過酷な仕打ちを受けつづけていた。金童(8番目の姉は彼の双生児の片割れだが)は8人目にして初めて生まれた上官家の男の子なのだ。この少年、なぜか乳房にすべての欲望が固着しており、成長しても普通の食物は口にできない。かれにとっては、普通の食物は「生き物の屍」としか思えないのだ。いつまでも母親の乳首から離れられないこの少年が、20世紀の強烈な中国の現代史のなかでどんな運命を辿るのか。物語は、金童の姉達の数奇な恋や結婚と平行して、奇想天外な展開を見せて行く。
いかなる偉人であれ(金童は偉人とは生涯正反対の人物だが)、所詮は、お母ちゃんのおっぱいをたらふく飲んで満ち足りている赤ん坊がその原形であろう。さすれば、この金童という奇怪な男は、どうしても自分の分身であることに読者は気づく。エロスの原形、欲望の原形。それをつきつけられたことにたじろぎながら、ああ、人間ってそういうもんだよなぁと笑える人は、おそらく信用できる。
『豊乳肥臀』は公式には中国では禁書だそうだ。(もっとも嬉しいことには、実際には割に容易に書店で購入はできるらしい)国家や政治や思想というものが、お母ちゃんのおっぱいより重要だと信じたがっている連中はどこにもいるものだ。そういう連中は実は人間のくずである、ということをほんとうの歴史は教えてくれているのだが。
戦争末期の日本、文化大革命の中国、スターリンのソ連を見よ。