感想
黒死病は1333年に中国で発生、交易船でイタリアに至ると、たちまちシエナで8万人、フィレンツェで10万人、ローマで30万人が死亡。フランスを席捲し、イギリスに到達したのは1348年の6月24日と記録されているんだそうです。十数年にわたるこの疫病で最終的には当時のヨーロッパの実に半分、5千万人が死んでいった、ということをわたしは本書で具体的に知りました。まさに死に黒く塗りつぶされた中世ヨーロッパの地獄絵です。しかし、この直後にルネッサンスが始まることを思うと、なにか不思議な暗示のようなものも感じますね。
本書は、ちょうどその1348年のオックスフォードを舞台にしています。
――そして2054年の同じ大学町も。
そう、これは実はタイムトラベルもののSFなのですね。
主人公は中世史を専攻している女子学生。彼女は、ペストが村という村を滅ぼしていくちょうどその年のイギリスに間違って「降下」してしまい、帰還の道を閉ざされてしまいます。彼女を気遣い、なんとか救出の手だてを見つけ出そうと奮闘する指導教官が2054年のパートの主人公。
700年の時を隔てながら二人の師弟は愛情と尊敬で結ばれている。これがまた、泣かせる。
しかし、時間旅行などというSF的な意匠はさほど重要ではありません。考え様によっては、すべての歴史小説というものは、所詮は現代人の視点で描かれているわけですから、作家が空想上の時間旅行によって見聞した物語だとみなすこともできます。
むしろ歴史家が過去に「降下」するという設定の方が、いっそ正直な歴史小説かもしれない。
この設定によって作者は15世紀のイギリスの普通の人々の姿を、まるで親しい隣人のように等身大に描くことができているような気がします。
そのささやかな願い、幸せ、善意、自己犠牲、信頼、そういうすべての人間が人間であることの証しのようなものが、人がまるで無意味に死んでいくかのような地獄のなかにあって、ひときわ鮮やかに輝くのを認めることができるのです。
SFというジャンルにとって大切な唯一のものが、センス・オブ・ワンダーであるとするなら、本書はまさに優れたSFであると断言できます。
もっとも、そんなことはこのジャンルに魅せられた人々には当然なことのようで、ネビュラ賞、ヒューゴー賞、ローカス賞のトリプル・クラウンに輝いた傑作だということを、訳者の大森望(見事な翻訳)さんの解説で知りました。
それも当然という気がします。
まさに素晴らしい贈り物のような作品です。