
かわうそ亭読書日記
2002年
1月5日(土)
お正月に読んだ本は『中島敦全集』(ちくま文庫)の1および2。
考えてみると中島敦は新潮文庫の『李陵・山月記』こそ再読、三読しているものの、その他はわずかに『悟浄出世』、『悟浄歎異』を二十歳の頃に一度読んだきりで、大半は今回初めて触れる作品だ。年譜によってこの作家の成した仕事を眺めるとき、あらためて畏敬の念に打たれる。しかし一方で『狼疾記』や『かめれおん日記』にみられる、自分がなぜこのようでしかあり得ないかという、自家中毒の極のような文章を読んで、ぼくはこの作家に対する親しみをはじめて感じていた。
1月6日(日)
『中島敦全集3』(ちくま文庫)を読む。
「弟子」、「李陵」、「名人伝」と続く最晩年の奇跡のような作品群は、日本語を読む我々への恩寵だとぼくには思える。篋底深く置かれていたらしい「北方行」をはじめとする未完の遺稿は、あるいはこの作家にもう数年の時間が与えられていたら、と思わざるを得ない。武田泰淳や三島由紀夫の小説を読むような芳醇な世界が、まさにすぐそこまで来ているとぼくは感じた。
1月7日(月)
『求道者の文学 中島敦論』清水雅洋(文芸社/2002)。
集中して一気に読んだ。なかでも、四『斗南先生』、六『山月記』、七『悟浄出世』『悟浄歎異』の三つの章が、とりわけぼくには興味深いものだった。なぜなら、ここで雅洋さんが精密に切り出してみせる中島の姿が、自分自身の姿に照らして、あまりに思い当たることばかりだからだ。だからそれはちょうど瘡蓋を剥がすような集中だったとも言える。痛いが止められないのだ。(ただしこれはぼくの問題で、著者の意図はもちろんそんなところにはない)
雅洋さんの「中島敦論」の魅力は、その思いきりのよさと明解さにある。逃げがないのだ。曖昧模糊として、あとからいくらでも言い逃れができるような卑怯未練な文体、精神がなにより嫌いなのだと思う。そういう精神と対極に在る中島敦を敬愛する所以かもしれない。
雅洋さんは中島の夭折を悼みながら、しかし「出発点で逝った大器」といった見方には断じて与しない。言われてみれば、たしかにそのとおりなのだ。三十三年の生涯でかれが遺してくれたものは、十分過ぎるほど完成されたものではないか。
1月9日(水)
『ハリー・ポッターと賢者の石』J.K.ローリング/松岡佑子訳(静山社)を読む。
本を読むとあまり幸せになれないらしいと、父親の姿から察したのか、我が家の豚児どもは、賢明にもおよそ本を読もうとしないのだが、めずらしくこのシリーズは十二歳の坊主が黙々と読んでいる。印象を言えば、きれいに鍍金が施された可愛らしい玩具である。これは必ずしも悪口ではない。そういうジャンルのものとして素直に楽しめばいいのだと思う。まともに論じるようなものではないけれど。
1月10日(木)
『亜愛一郎の逃亡』泡坂妻夫(創元推理文庫/1997)を読む。初出は80年代の「野生時代」や「小説推理」。このシリーズは『亜愛一郎の狼狽』、『亜愛一郎の転倒』、そして本書の三冊で完結している。ちょっと味な幕引き。
1月11日(金)
『紙の宝石 書票を楽しむ』土屋文男(北海道新聞社/1992)を読む。「書票」という言葉は馴染みがなかったが、要は蔵書印のように本の見返しに貼りつける蔵書票である。昭和18年、初代の日本書票協会会長であった志茂太郎氏によって新語として名付けられたとのこと。ラテンで「EX LIBRIS」(エクスリブリス)と表記され国際的な連盟もあるのだそうだ。本書には百数十枚の書票が原寸のまま、カラー印刷で掲載されているが、見ているだけで楽しい。好きな本にこの書票を貼ると本が一層身近になるのだと言う。高雅な趣味で羨ましい。
1月14日(月)
坊主と映画の「ハリーポッターと賢者の石」に行く。かれは三回目である。家族がばらばらに観るので、その都度「ねえ、ぼくも連れて行ってよ」とちゃっかり付いて行くのだ。まあ、それくらい12歳の子供を惹き付ける魅力はあるということか。
小説そのものが映像的な手法をふんだんに使っているので、むかしの映像技術であればちゃちな特撮でやはり原作の方が面白いということになるのだろうが、この作品は映像もとてもよくできていて楽しめる。ぼくはハーマイオニー役の少女にぞっこんだ。(笑)
1月15日(火)
『芭蕉・蕪村』尾形仂(岩波現代文庫/2000)を読む。1978年に花神社から発行されたものを岩波で再刊したもの。
芭蕉が漂白の詩人であれば、蕪村は籠居の詩人であろう。しかし、芭蕉にとっての伊賀がいつでも懐かしく詩人を迎え入れてくれる土地であったのに対し、蕪村の故郷は懐かしくとも帰ることのできぬ喪失感とともに思い出す禁断の土地であった。その意味では蕪村もまた帰るところを喪った心の旅人だったことになる。これまで蕪村の句はいまひとつぼくには捉えにくいものだったのだが、本書で蒙を開かれることが多かった。いい本だ。
1月16日(水)
雨の休日、『断崖の骨』アーロン・エルキンズ/青木久恵訳(ハヤカワ文庫)を家に垂れこめて読み耽る。これはスケルトン探偵ものの一冊。ぼくが好きなのは学芸員クリス・ノーグレンものなんだけど、これもいい暇つぶしになる。
1月17日(木)
『シュレディンガーのアヒル』林一(青土社/1998)を読む。林さんというのはたしかホーキングの翻訳なんかをしている人だったと思うのだけれど、どういう学問的な背景がある人なのかよくわからない。数学科なんだろうか物理学科なんだろうか。しかしどっちにせよ、冗談の好きな人であることは間違いないようだ。本書は機智に富んだ歴史小噺あり、数学にからめたシェイクスピアのパスティーシュありと読者を縦横に振り回して煙に巻く。いったいどこまでが本当のことでどこからが冗談なのか、その境目が絶妙で、感心していいのか、あきれるべきなのか、よくわからないところがすごい。(笑)
1月18日(金)
『短歌の世界』岡井隆(岩波新書/1995)を読む。歌人としての自身の経験から、実践色の強い案内になっている。著者が日頃行っていることは、
「(1)自分のよいと思う詩をくり返し読むこと。(2)とくに、自分の敬愛する歌人の作品をくり返し読むこと。(3)その歌人について、その歌について、くり返し人に語り、また、感想を書き批評や分析をしてみること。」
と書き、次のような言葉を添えている。
「この詩型は、読むことが、作ることと一体化しているのである。」
1月20日(日)
『森澄雄対談集 俳句のゆたかさ』(朝日新聞社/1998)を読む。「俳句朝日」の95年から97年にかけて連載された9人との対談集。対談の相手、以下の通り。大岡信、フランキー堺、露木茂、丸谷才一、佐治敬三、江国滋、川崎展宏、横川端、松本幸四郎。
本書で知ったこと。その一、アキ子夫人は女学生のときに弓道の国体で優勝した腕前であった。そのニ、森澄雄さんは若い頃、脚本家になろうとしたことがある。いずれも、松本幸四郎さんとの対談で語っている。どれも面白い対話になっているが、とくにこの幸四郎さんとのものがよい。
1月22日(火)
『三匹の蟹』大庭みな子(講談社文芸文庫)を読む。標題作の他に「火草」「幽霊達の復活祭」「桟橋にて」「首のない鹿」「青い狐」「トーテムの海辺」を収録。昭和四十三年の群像新人賞、芥川賞を圧倒的多数で受賞。こんなすごい新人にはみな震えあがったことだろう。同年の受賞者に丸谷才一がいる。なんという豊かさ。
今日は休日、近江へ芭蕉翁を偲ぶ文学散歩。
1月25日(金)
『嫌われものほど美しい』ナタリー・アンジェ/相原真理子訳(草思社/1998)を読む。副題「ゴキブリから寄生虫まで」。著者はニューヨーク・タイムズなどに寄稿するフリーランスの科学記者とのこと。ウェブで検索すると、ピュリツァー賞受賞(本書のカバーにもそう書いてあるけれど)やいくつかのベストセラーで、ナショナル・ブック・アウォードなどの候補になっている。本書もとても楽しいライフ・サイエンスの解説書だ。わが国にも竹内久美子さんというこの手のライターがいるが、竹内さんがドーキンスの利己的遺伝子という切り口で(最初はもの珍しかったけれど)平板な印象を与えるのに対して、この作家の本はオーソドックスで驚くほど守備範囲が広く、しかも偏見のなさが好印象を与える。新作が出たら英文で読んでみよう。
1月26日(土)
『ハリー・ポッターと秘密の部屋』J.K.ローリング/松岡佑子訳(静山社)を読む。第二作を読むとこの作家がなみなみならぬ力量の持ち主であることがわかる。見直す思いだ。
1月28日(月)
『5000年前の男』コンラート・シュピンドラー/畔上司訳(文春文庫/1998)を読む。1991年、アルプスの氷河から古代の人間の完全なミイラが発見された。ぼくは、これを当時テレビのドキュメンタリーで興味深く見た覚えがある。著者は、考古学者としてこのミイラの分析にあたった人物である。人に倦んで、世を厭う気分のときはこういうノンフィクションがちょうどいいや。