かわうそ亭読書日記
 2001


12月1日(土)

『日本の詩集15 伊東静雄詩集』(角川書店)を読む。ぼくは詩がよくわからない。でも詩を読むのは、嫌いではない。わからない詩であっても、読みながらなにか言い知れぬ情動が頭の中にわきあがってくるのが不思議だからだ。伊東静雄もよくわからない。しかし、大きく動く何かがある。そういえば17歳の三島由紀夫が愛読したのが、この詩人だったと記憶する。その名も「春の雪」という妙にこころ動かされる詩があった。

みささぎにふるはるの雪
枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく声のけさはきこえず
まなこ閉じ百ゐむ鳥の     (ももゐむ)
しずかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春来むとゆきふるあした


12月5日(水)

秋篠音楽堂で「コレリ大尉のマンドリン」を観る。いささか甘いが悪くない。ペネロペ・クルスは可愛いなぁ。(笑)
『宇野浩二全集 第一巻』(中央公論社/1972)を読む。大正2年(1913)から9年(1920)までの小説十一編を収録。「清ニ郎夢見る子」、「屋根裏の法學士」、「蔵の中」、「苦の世界」、「長い戀仲」、「耕右衛門の改名」、「轉々」、「人心」、「あの頃の事」、「因縁事」、「美女」。宇野浩二は大阪の作家、宗右衛門町という粋な町で子供時代を送っただけに典型的な軟派文弱作家なんだが、自分を戯画化しても悪趣味に陥らず、品のよいユーモア小説を見事な文章で読ませる。まことに芸ある作家で面白い。

12月6日(木)

『ストリートワイズ』坪内祐三(晶文社/1997)を読む。野口悠紀雄さんからの抗議をかるくいなした文章小気味よし。『「超」勉強法』について、抗議の元になった坪内さんの文章はたったこれだけ。
「目を通していなくても、私には、分かる。これらの本が語るものが、私が読書に求めているものでないことが。」
ぼくは百パーセント坪内さんに同感。読まずにそれが駄目だとなぜわかる、なんてことを言っても仕方がない。読みたい人が読めばいい。そういう本を書いただけの話。

12月7日(金)

『臨床読書日記』養老孟司(文春文庫)を読む。初出は「文學界」93年から96年の連載。取り上げられた本も面白そうだが、それは単なる材料である。瞬時に「わかる」文章もあれば、どう考えてもいまはわからない文章もある。瞬時に「わかる」文章とは、たとえばこういうものだ。

「人間が合理性と非合理性、大脳新皮質と辺縁系とを備えた脳を持っている以上、昔から奇跡はあったし、これからもあり続けるはずである。」(「神秘主義と合理主義」p.126)


12月9日(日)

『古くさいぞ私は』坪内祐三(晶文社/2000)を読む。「人力車夫の思い出」という文章がある。1年生のときの学園祭でちょっとわけがあって人力車夫をやったらしい。そのときのキャンパス内外のスケッチが傑作だったな。

12月11日(火)

『ダンス・ミー・アウトサイド』W・P・キンセラ/上岡伸雄訳(集英社文庫/1997)を読む。カナダ、アルバータ州のインディアン居留地に住むサイラス・アーミンスキンを主人公にした連作短篇。キンセラは大好きな映画「フィールド・オブ・ドリーム」の原作者である。この短篇はとてもいい。思わぬ拾い物をした気分だ。「インディアン」なんて言葉を見ると、すぐにしたり顔で「そういう言い方は間違っているよ」などと言い出すタイプがいつの世にもいるものだ。そのくせ自分たちの特権的な生活の偽善にはまったく鈍感という輩。この小説がまず笑い飛ばしているのは、そういう連中だ。自他に向けた強烈な笑いに満ちた小説だけれど、読後感はあまりに哀しい。キンセラのインディアンものの最初の紹介者は村上春樹だった。(「モカシン電報」)さすがと言うべきか。
ちなみに題名を見て、不出来な編集者の和製英語かと疑う人がいるかも知れない。これは原題のとおり。英語の綴り方を習っている18歳のサイラスが先生に書いた作文なので文法はおかしくてもいいのである。

12月13日(木)

『HAFU』吉村明美(ながらみ書房/2001)を読む。ふと手に取った未知の人の歌集。ぱらぱらと目を通していくうちにいつのまにか深く引きこまれる。短歌によってすこしずつ見えてくる作者の身辺。たぶん同い年の人であるようだ。大島弓子の「綿の国星」に出て来るウォータークラウンの話(ぼくもあれは大好きな話だ)を紹介したあとで作者はこんな文章を書いている。
「全身麻酔での手術を、この数年の間に三回受けた。(中略)自分の足で再び歩けるようになった時、自発呼吸が戻った時、職場に復帰できた時、その時々に、生きていることの喜びを感じることができた。雨上がりの街を自分の足で歩いてみると、きらきらと輝く世界があった。懸命に生きる全ての者は祝福され、ウォータークラウンを載っけられているのだと思い出した。/職業柄、命の大切さを伝えるべき立場にありながら、自分を好きになれず、自分の命を大切に思えない時期があった。生きていることが苦しくてたまらなかった。/題名にある『HAFU(はふ)』はわたしの家族となった白犬(ゴル)の溜め息である。ゴルと暮らし始めた頃の私は溜め息をついてばかりいた。すると、本当に困ったもんだね、というようにゴルは、私の顔をのぞきこむ。そしてそのうち自分も小さく可愛くHAFU(はふ)と溜め息をつくことを覚えてしまった。」(「あとがき」より)
例によって、書きとめた歌をいくつか。
 
 
夜明けより車軸を下ろす雨が降る今日で四十六年生きた
 我一人息する程の空間の見つけられねばゆきどころなし
 生きてゆく力は気体であるらしくたえずシュウシュウ抜けてすべなし
 雨として地上の者らに贈らるる数限りなきウォータークラウン
 生きてきて良かったと思える空に遭う銀杏裸木の透けるその先

 

12月16日(日)

『THE INTERROGATION』Thomas H. Cook (BANTAM/ARC)を読む。
日本でもたぶん同じなんだろうが、英米では新刊本が出版される前に、書評家や翻訳エージェントなどに向けた版が作られているようだ。こういう非売品の本をARC(advance reading copy)と呼ぶらしい。黄色の表紙には「
This is an uncorrected proof.Please note that any quotes for review must be checked against the finished book.」という一文がある。たしかに、何箇所か素人のぼくでも気付くエラーがある。本になる直前の「かたち」なのだろう。今回読んだのは来年3月に出る予定の新作である。
この作家はたいてい新刊で読むのだが、さすがにまだ出版されていない時点で先行して読めるのはファンとしては嬉しい。米国駐在のネットで知り合った方のご好意で譲っていただいたのである。内容については、ここではふれないが、今回はなんだか舞台劇を読むような印象。相変わらず、どうしようもなく暗い物語である。──好きだけど。(笑)

12月17日(月)

『俳句はかく解しかく味う』高浜虚子(ワイド版岩波文庫/1991)を読む。虚子による元禄、天明の古典俳諧を中心にした鑑賞と入門の書。初出は大正七年(1918)、虚子四十五歳。俳句とはすなわち芭蕉の文学である、というのが虚子がここで言っていることだが、ただこれだけではその言わんとすることがちとわかりにくい。大岡信さんの解説がここでもよくツボを押さえて理解を助けてくれる。ひとつには碧悟桐の「新傾向俳句」をにらんでの理論闘争という側面があったようだ。(くわしい説明は手にあまる)だが、いまのぼくから見ると、単純に初心者に親切な俳諧鑑賞でありがたい本だと思う。例えば、「郭公大竹原を漏る月夜 芭蕉」の評釈でこの句の情景を説明したあとでこんな一節がある。
「こういう句を解する時分に、時鳥の大竹原を漏る、という風に解する人があるかも知れん。それは俳句の句法になれないためである。郭公で一度切って、郭公(鳴くや)、大竹原を漏る月夜、という風に読めばいいのである。」
こういうところからきちんと学べばいいのだなと思ったことだ。

12月19日(水)

『俳句 この豊かなるもの』森澄雄/きき手・榎本好宏(邑書林/1994)を読む。主宰誌「杉」に掲載された昭和五十七年から平成五年に至る十二年間のインタビュー13編。この間は森澄雄さんは脳梗塞からのリハビリ、アキ子夫人の死という大きな出来事を抱えていた。聞き手の榎本好宏さんというのは、この「杉」創刊に参画、主宰に仕えて同誌の編集長を十八年間つとめたという俳人である。

12月20日(木)

『木菟燈籠』小沼丹(講談社/1978)を読む。かねたくさんの読書日録を読んで、読みたくなった一冊。いいなぁ、これ。手にして読むにちょうどいい大きさの本というのがある。ぶ厚すぎても野暮だし、あんまり薄いとものたりない。装丁もできればクロス貼りで、きれいだけれど何度か読まれて、やや草臥れたくらいが丁度いい。そしてもちろん中身の文章がこれらにきちんと応える力があること。こういう本は手元におきたくなる気持ちがとてもよく分かる。(ぼくのは図書館の本。借り出すときにちょっと面白いことがあったのだが、それはまた別の話)

12月22日(土)

『向こう岸からの世界史』良知力(ちくま学芸文庫/1993)を読む。かぐら川さんに教えていただいた本なり。
第1部と第2部はちょっと読みにくくて苦痛だったが、読み物風の第3部と随筆のような第4部は、ぼくのような人間にも十分面白かった。もちろんこれは、ぼくに社会科学や思想史などの教養が欠けているせいであって、ここがしっかりしている人はまた違う感想をお持ちになるのかも知れない。
1848年のウィーン革命は世界史の上ではブルジョア革命として規定されるわけだが、バリケードの中で最後に血を流したのは当時のルンペン・プロレタリアートであり、反革命の暴力として彼らを殺戮したのは、実際には外人部隊のクロアチア人だった。世界史のなかでは主人公であるはずの旧勢力も歴史の新興勢力たる市民諸君も実際にはさして手を汚さず、歴史なき棄民と歴史なき傭兵が互いを無惨に殺しあった。
外国のしかも遠い過去の話だろうか。そうは思えない。人口と富のアンバランスは流民を生む。自明のことである。司馬遼太郎さんは、わたしは日本の未来を見ないで死んで行ける、それがありがたいと語っていた。

12月24日(月)

やましたこうしんさんに教えていただいた『芥川龍之介』宇野浩二(筑摩叢書/1967)を読む。いやぁ、面白かった。前半の交遊録のあたりはなんとも可笑しくて哀れ。後半の作品論は、同じ小説作家としての「王様は裸だ」的な分析ですばらしく説得力あり。宇野浩二の文体でこの長大な評伝を読むと、ありありと目に見えるように大正の作家群像の面影が彷彿とする。かれらは「文学者」という気取った呼び名ではなく、やはり「文士」という名前がふさわしいようだ。

12月29日(土)

『宇野浩二全集 第三巻』(中央公論社/1972)を読む。収録作品以下の通り。橋の上、八木彌次郎の死、遊女、空しい春、一と踊、滅びる家、歳月の川、夏の夜の夢、心中、或る青年男女の話、二人の青木愛三郎、屋根裏の戀人、夢見る部屋、青春の果、山戀ひ、子を貸し屋
「ゆめ子もの」と呼ばれる作品群を中心にした巻。
『一と踊』を荒川洋治さんが「突風のごとき傑作」と評したことを脱兎さんに教えていただいて、これはぜひ読んでみたいと思ったのだ。たしかに素晴らしくうまい。今回ぼくがとくに気に入ったのは本巻のなかでは一番長い『山戀ひ』かな。これもまた「ゆめ子もの」である。

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