かわうそ亭読書日記
2001
10月1日(月)
『咸臨丸 栄光と悲劇の5000日』合田一道(北海道新聞社/2000)を読む。津軽海峡を望む北海道木古内町の更木岬沖合いで、咸臨丸が座礁沈没したのは明治四年(1871)9月20日夜。安政四年(1858)オランダから長崎の幕府海軍伝習所の練習艦として回航されてきてからわずか15年ほどの短い「生涯」であった。遣米使随伴船として荒れ狂う太平洋を乗り切った栄光から、戊辰戦争を経て修理につぐ修理でついには動力機関を外され、帆船運搬船として最期を迎えるまでを克明に追った本書はとても面白い。
10月2日(火)
『埴輪の馬』小沼丹(講談社文芸文庫)を読む。11の短篇小説。あるときふいに過去が幽霊となって姿を現わしても、それは恐ろしいものでも不気味なものでも懐かしいものでもない。まるで幽霊と記憶とは同じものじゃないかと作家は言っているかのようだ。
10月3日(水)
ラッセ・ハルストレム監督の「ショコラ」を観る。水曜日の午前中、カミサンとふたりで行ったら4、50人の観客中、おっさんはぼく一人で恐縮する。言葉の本来の意味でのカトリック的な映画なり。この監督は「サイダーハウスルール」で注目。ジュリエット・ビノシュもよかったが、何と言ってもジュディ・デンチの存在感が素晴らしい。ぼくのツボにぴたりとはまった映画で大満足でありました。原作があるのかどうかよく知らないが、お気に入りの作家、アリス・ホフマンの世界に近いような感じだな。
10月4日(木)
『二十世紀を読む』丸谷才一・山崎正和(中央公論社/1996)を読む。注目は近代日本と日蓮宗という章。昭和初期の日蓮宗の国柱会には「協賛員」、「研究員」、「信行員」の三種類があり、三番目の「信行員」は会費もべらぼうに高い熱烈な信者だが、この「信行員」に入会と同時になった人物が、宮沢賢治と石原莞爾。北一輝や石原の王法瞑合(満州国)と宮沢賢治を論じた箇所が面白い。
10月5日(金)
『連句のすすめ』暉峻康隆・宇咲冬男(桐原書房/1991)を読む。かなり実戦的な内容。ほとんどが両吟歌仙となっていて、こういう場合の運びの機微がよくわかる。
10月6日(土)
『薬菜飯店』筒井康隆(新潮文庫/1992)を読む。スカトロとスプラッターで大笑い。こういうのが嫌いなヒトに対する嫌がらせみたいな小説集であります。ぼくは大好き。
『藤沢周平句集』(文藝春秋/1999)を読む。小説でお馴染みの「海坂藩」という架空の藩の名前がじつは氏が結核療養中に投句していた馬酔木系の俳誌の名前であったとは迂闊なことに初めて知った。森澄雄についての「青春と成熟」という鑑賞がとてもいい。
10月8日(月)
『プレオー8の夜明け』古山高麗雄(講談社文芸文庫/2001)を読む。この作家の作品ははじめて読む。少し前の文藝春秋の「本の話」に本人が『フーコン戦記』にいたる戦争三部作(これで48回菊池寛賞受賞)のことを淡々と書いていて、ちょっと気になっていたのだ。本書の表題作は49歳で江藤淳につよく促されて書き始めた一連の小説のひとつで芥川賞受賞作(1970年)。年譜をみると、作家となってから、いろいろな旅行記があるようだ。いい作家だと思う。表題作の他に、「白い田圃」、「蟻の自由」、「戦友」、「知人」、「名無しの権子の思い出」、「女」、「父」、「七ヶ宿村」を収録。いずれも捨てがたい。
10月9日(火)
『黒後家蜘蛛の会 1』アイザック・アシモフ/池央耿訳(創元推理文庫)再読。こうしんさんが本書収録の「明白な要素」のトリックが秀逸であると読書日記に書いておられて、昔々に読んでいるのは確かながらどんなハナシだったか全然思い出せず読み返す。情けないことにどの一篇も忘却の彼方、初めて読むのと変わらず。この分では、近い将来「アクロイド」ももう一度びっくりできるようになるのであるまいか――とこれは不安である。
10月10日(水)
『俳句 口誦と片言』坪内稔典(五柳書院/1990)を読む。「三月の甘納豆のうふふふ」や「桜散るあなたも河馬になりなさい」で有名(?)な俳人の俳論集である。予想に反して、本書の中核となった戦後俳人論(昭和57年「俳句研究」に連載)の硬質かつ切れ込みの鋭いことにびっくり。しかし、ぼくにはとても共感できる俳句の捉え方だった。たとえば、こんな一節。常識的には、表現は何かを表出する。しかし、俳句は、何かを表出する表現ではなく、一句として存在することばが、何かを喚起し指示する、そういう表現なのではないだろうか。つまり、一句のうちで完結しているものにはさして意味がなく、一句が喚起し指示する、その働きに俳句という表現の特殊性があるということだ。
人間の学としての俳句――高柳重信
10月12日(金)
『夏の夜の夢・間違いの喜劇』シェイクスピア全集4/松岡和子訳(ちくま文庫/1997)を読む。この2作、松岡さんにとっては最初の注文を受けての翻訳だったようだ。シェイクスピアにとってもその巨大な仕事の出発点ともいわれる作品。それを自身の翻訳の出発点としているのは偶然だろうか。読んでいてもとてもたのしい戯曲。いろんな演出を想像するのも面白いがやはり舞台が見たい。
10月14日(日)
『子規とベースボール』神田順治(ベースボールマガジン社/1992)を読む。
正岡常規(つねのり)、幼名処之助(ところのすけ)、通称升(のぼる)とこの時代までは士族の子弟は名前が多い。さらに子規は少年時代より自分でも何十もの雅号をつくっている。獺祭魚夫とか獺祭書屋主人などとならんで「野球」という号がある。通称の「のぼる」にかけて野(ノ)球(ボール)と洒落たのだ。久方のアメリカ人のはじめにし
ベースボールは見れど飽かぬかも
10月17日(水)
『求婚する男』ルース・レンデル/羽田詩津子訳(角川文庫/1996)を読む。イギリスの娯楽小説は奥行きが深い。雨の休日をカウチで過ごすにはちょうどいい本である。成金男の恋狂いという単純な話なんだが、この作家の手に掛かると心理的な崩壊感覚の描写がじわじわと効いてきてなかなか味わい深い。
10月19日(金)
『イスラーム生誕』井筒俊彦(中公文庫)を読む。第一部「ムハンマド伝」第二部「イスラームとは何か」の二部構成。著者によればこのふたつの論文の間にはおよそ30年の歳月が流れている。第一部は若年の著述で、青春の夢をじかに言葉に移したような作品だという。しかしこの「ムハンマド伝」の面白いことと言ったら。なによりびっくりするのが情熱的なその文体で、これがあの『意識と本質』を書いた人の若い頃の文章なのかと感動しきり。
──ところが、てっきり20代の頃の著述かしらと思って、念のためにきちんと調べたら、なんと38歳のときに書いたものだった。二重にびっくり。
10月22日(月)
『旅にしあれば』古山高麗雄(小澤書店/1994)を読む。兵隊蟻として著者がさまよった雲南省再訪、生まれ故郷新義州(北朝鮮)、わずか数十分だけ足を踏み入れることを許された感傷旅行のふたつを筆頭に、時事をあつかった随筆や競馬について、また雑誌「旅」に寄稿した国内旅行記など多彩な文章が楽しめる。
「路傍の旅籠屋――越中鰤街道を行く」という紀行文の一節を引く。拙掲示板で話題になった八尾である。
宮田旅館の入り口の脇に、吉井勇の歌を刻した小さな石碑が建っている。旅籠屋の古看板に吹雪して
飛騨街道をゆく人もなし 勇私は、ゆく人もない時期にゆく人になればいい。こうれからもそういう旅を続ければいい。私の環境なら、これからそういう旅をすることもできそうである。それをありがたく思わなくては、と思う。
この作家の文章はとても好きだなぁ。
10月24日(水)
『反歌 佐佐木幸綱歌集』昭和歌人集成27(短歌新聞社/1989)を読む。
60年代という歌人の青春時代に対する返し歌である。年譜に照らすと歌人51歳の歌集。いつも感じるのだが、男性の歌人はいかにも女性にモテそうな人が多い。この本の見返しに載った著者の写真もまるで映画俳優のようである。困るなぁ。(笑)
例によって気に入った歌をいくつか抜いてみた。傘を打つ雨の重みを楽しめる右手に気づく、渋谷、夕暮
帆のごとく過去をぞ張りてゆくほかなき男の沼を君は信じるか
夢に生きたることなき嘆き嘆き合いてぐい呑みに酒盛りあげて居り
追わるる夢見つつ覚めたる昨日今日われは中年の肥えたる麒麟
人は一人を生きて過ぎにき十余年昔師走の暁の霜
10月28日(日)
『Blue Diary』Alice Hoffman (G.P.PUTNAM'S SONS /2001) を読む。
アリス・ホフマンはどうもインタヴュー嫌いで通っているらしい。東部の名門大学を出て、結婚しいまはボストン郊外に住んでいるなんてことしか伝わらない。現代小説でありながら、どこか古典的な味わいがある。最新作の本書まですでに14冊の長編と3冊の子供向けの本を出している。もう少し、翻訳されてもいい作家のような気がする。ただし本書はいまひとつかな。
10月30日(火)
高浜虚子の『俳句への道』(岩波文庫/1997)を読む。晩年の虚子が「ホトトギス」の選句を長男年尾に譲ったあとで立子の主宰する「玉藻」に連載した俳話が中心になっている。いま読むと多少皮肉な感想も(立子に対しても)抱くけれど、ここではそれにふれない。なんとなく意外だったのは、碧梧桐と袂を分った後も、俳句については一切話をしなくなったものの、それ以外の私交は以前と変わらなかった、と言っている点である。この二人は、同じ下宿で国からの仕送りを一つ財布にして暮らしていた時期もあり、下宿の娘をめぐっての恋敵でもあった。