
かわうそ亭読書日記
2004年
9月1日(水)
『京極為兼 忘られぬべき雲の上かは』今谷明(ミネルヴァ書房/2003)を読む。とても面白かった。
今回は感想ではないが、個人的な勉強ノートをとったので、書評のページに載せておく。中世の文学史に詳しい方には、なんだこんなこと、という程度の半端なまとめだが、まあ、あくまで自分用のものということで――。
9月3日(金)
『冬の犬』アリステア・マクラウド/中野恵津子訳(新潮社/2004)を読む。
すべてのものに季節がある、二度目の春、冬の犬、完璧なる調和、鳥が太陽を運んでくるように、幻影、島、クリアランス、の8編を収録。
すべてカナダ東部のケープ・ブレトン島に定着したスコットランド人の子孫にまつわる物語。名もなき人々の家族の歴史が短い物語の中に重層的に折り畳まれている。
どれも忘れがたくすばらしい傑作ぞろいだが、なかでも「幻影」、「島」のふたつの作品に心を奪われた。表題作である「冬の犬」の自然描写も美しくいつまでも記憶に残る。
粗野で、猛々しく、荒々しい側面。繊細で、澄明で、鋭敏な側面。残酷さと優しさと。この作家の作風にきわだった両面があるのは、自然というものが(したがって人間が)その両方をもっているからなのだろう。
9月4日(土)
『マドンナの引っ越し』池内紀(晶文社/2002)を読む。
どこまでが事実でどこからが空想なのか。台湾や東欧などの気ままな旅。行く先々で出会ったさまざまな人々の話は事実というにはあまりによく出来すぎている。しかし、そんなことを言うのは野暮というものだろう。思い出というのは、しょせんは事実とは異なるものなのだから。
9月6日(月)
『セレクション俳人13 対馬康子集』(邑書林/2003)を読む。遮断機をくぐる雪国かも知れず
とび箱を越えて驟雨の中に入る
雁行くを見る空壜を鳴らすとき
9月7日(火)
『密教マンダラと文学・絵解き』真鍋俊照(宝藏館/2004)を読む。
対談、シンポジウムなどからなる。登場するのは、ドナルド・キーン、宮坂宥勝、杉浦康平、佐伯彰一、米原寛、難波恒雄、前田常作、村岡空、石元泰博、湯川れい子。
「絵解き」というには図版は貧弱、仏教用語に解説もなく不親切。発言も独り善がりで荒削り。くだらん本だな。読んで損した。
9月8日(水)
『朗読者』ベルンハルト・シュリンク/松永美穂訳(新潮社/2000)を読む。
この本を長いことデスクに積んだままにしておいたのは、どこかでネタバレの書評を読んで興が殺がれたためだった。それにベストセラーになってしまうと、あんまり面白く感じないということもある。
ほかに読む本がなくなったので、仕方なく読み出す。悪くはないけれど、そんな傑作というほどではなかろう。
9月12日(日)
『マシアス・ギリの失脚』池澤夏樹(新潮文庫)を読む。
南洋の島国、人口7万人ほどの小国ナビダード共和国大統領マシアス・ギリ。日本の南洋統治時代に私生児として生を受け、三歳にして孤児となった。のんびりした島のことだから、そのまま成長しても食うに困るということもなかっただろうが、なぜか語学の才能があったことがきっかけになって日本との関係を背景に社会の階層を登りつめる──
すぐれた小説はたいていそうだが、本書も切り方によっていろいろな面があらわれる。南洋の小国をだしにして、じつはこれは戦後日本の政治や権力のパロディなのだとか、文明における聖と俗の寓話だとか。しかし、そういう頭をつかった分析的な読み方をするよりこの小説は、だらだらと読んで「ああおもしろかった」と言ってもらいたい、と作者はきっと思っているような気がする。
本書のなかでもアラビアンナイトへの言及があるように、これはそういうタイプの小説なんである。
9月14日(火)
『男性自身 卑怯者の弁』山口瞳(新潮文庫)を再読する。
シリーズ15、16、17(80年から82年)三冊からのセレクション。山口瞳は1926年生れだから、五十四歳くらいからの三年間の身辺雑記のはず。
ここに書くようなことではないが、ここのところわたしは虫の居所が悪い。なにを見ても、なにを聞いても不機嫌になる。そんな年さ、となかば自分を揶揄するようなところもあるが、こういうときには、山口瞳の文章が不機嫌にぴたりとおさまって中和されるような気がする。『どうぶつはいくあそび』きしだえりこ作/かたやまけん絵(のろ書店/1997)を読む――というか眺める。以前、掲示板で美保子さんに教えてもらった絵本。たしか日経に高橋順子さんが紹介していたとかいうことで。
9月16日(木)
『現代アラブの社会思想』池内恵(講談社現代新書/2002)を読む。副題「終末論とイスラーム主義」
本書の感想。いまのイスラーム世界には知性の輝きというものはまったくないようだ。
しかし暗愚はいつまでも続かない。かならずこの袋小路を打ち破る思想が現れる。その目撃者たらん、というのがおそらく著者の志なのだろう。闇が深ければ深いほど暁の曙光は美しい、と。
アラブにも、イスラムにも好意を持たない私は「百年河清を待つ」だな、と冷たく思うが、著者はそうではない。そうではないところが、じつはすこし羨ましい。
9月18日(土)
『佐藤佐太郎秀歌』(角川書店/1997)を読む。
第一歌集の「歩道」(1940年)から第十三歌集の「黄月」(1983年)までこの歌人の四十三年にもおよぶ歌業のなかから一三四六首を選んだ。編集にあたったのは門人の秋葉四郎氏。
奈良の古本屋で手に入れて以来、ここ数ヶ月の枕頭本であった。氷塊のせめぐ隆起は限りなしそこはかとなき青のたつまで 「冬木」
冬至すぎ一日しずかにて曇よりときをり火花のごとき日がさす 「開冬」
旧恨も新愁もなきおいびととして冬庭にひかりを浴ぶる 「天眼」
9月21日(火)
『陳舜臣中国ライブラリー19 耶律楚材』(集英社/2000)を読む。
耶律楚材、草原をつなぐ、秦の始皇帝を収録。
「草原をつなぐ」は讀賣新聞に連載したエッセイ。「秦の始皇帝」はNHK人間講座のテキストがもとになっている。
耶律楚材は禅系の仏徒で在家の居士名は湛然(たんねん)居士という。もともとは契丹人(遼)の皇族だが、女真族の金に滅ぼされたあと父は金の宰相をつとめた。息子の耶律楚材は、金の末期にモンゴルのチンギス・ハンに招かれ(実質的には下って)初期のモンゴル帝国の礎を築いた。夏目漱石のつかっている仏教がかった言葉には「湛然居士文集」からの出典が多いという研究もあるとか。
9月23日(木)
『インパラは転ばない』池澤夏樹(光文社/1990)を読む。
初出は雑誌「CLASSY」1988年6月号から1990年5月号まで。飯野和好さんのイラストレーション。
9月24日(金)
『やつあたり俳句入門』中村裕(文春新書/2003)を読む。
軽いタイトルとそれに合わせたような軽快な文体に惑わされてはならない。本書はしたたかな俳句史の本である。(「俳句入門」というのは正しくない)
ホトトギスの世襲制の家元制度を真っ向からくだらないと言い、日本伝統俳句協会なんて名乗りのいけ図々しさを批判し(まったく同感)、山本健吉とかれによって勢力を固めた戦後の大家たちの去就に疑問を投げかける(ここはやや保留)。なにごとも旗幟鮮明は気持ちのいいもので、本書を読む快感はそこにありそうだ。
たとえばこういう箇所、
「当時、無季俳句を懸命につくっていた秋元不死男や安住敦が、戦後になって、無季ではいいものができないから、俳句は有季でなければといい出すが、それは順序が逆で、いい句ができなかったのは無季のせいではなく、自分の能力のせいだということを忘れているか、ごまかそうとしている。見苦しい姿である。」(p.157)
あはは。
豊かな詩的精神を現代俳句が身につける可能性が過去にあったとすれば、それは新興俳句運動が立ち上がった時点であり、その代表的な作家は渡辺白泉だったというのが、著者(とおそらく師の故三橋敏雄)の立場のようだ。新興俳句運動は戦中の軍国主義によって弾圧されたが、この時代に俳句の水源をもつ戦後の大家たちが口をぬぐって新興俳句運動に正当な評価をしてこなかったことが、いまの俳壇の問題だという指摘は傾聴に値する。
9月26日(日)
『本という不思議』長田弘(みすず書房/1999)を読む。
わたしの場合、本に対しての思い入れというのは比較的少ない方だと思う。そもそも読むのはたいてい図書館の本だし(本書も図書館の本)、読んでしまえば、内容はほとんど忘れてしまう。新刊でも古本でも、ハードカバーでも文庫でも、誰かの書き込みがあってもさして気にならない。できることなら、気持ちのいい装丁で読みやすい組み方であればとは思うが、それもこだわりというほどのものでもない。
長田さんの本に対する考え方はぼくには共感できるところ多い。本を読むということがいい時間を過ごすことであり、孤独な人生への贈り物を受け取ることだと考えればそれで十分なのではないかと思う。
長田さんはこんな風に言う。
「いい年になってからジョギングなんかはじめるよりは、いい年になったらちゃんと本を読み、若いときにはちゃんとジョギングをしたほうがずっといい、と思う。」
9月29日(水)
『生物の複雑さを読む』団まりな(平凡社/1996)を読む。副題「階層性の生物学」
銅線と電子基盤はどちらが複雑か。電子基盤とコンピュータはどちらが複雑か。いずれも自明のことだが、これを著者流に定義すれば、まず包含関係があること。銅線は電子基盤に含まれ、電子基盤はコンピュータに含まれている。第二に新しい機能が付加されていること。電子基盤には銅線だけではできない回路をつくることができ、コンピュータは電子基盤だけではできない複雑な情報処理ができる。こういう関係を、著者は階層関係にあるとまず定義し、生物の進化、栄養摂取、生殖などの構造を階層性という観点から切り分けてみせる。細かな点は素人には理解がむつかしいが、大枠ではすっきりとわかる。ただし、著者自身も認めているようにどちらがより複雑であるかというのは、つまるところは人間の主観であるとも思える。
9月30日(木)
『花神コレクション俳句 清崎敏郎』(花神社)を読む。
虚子最晩年の弟子のひとり。富安風生門下、のちに風生より結社「若葉」を継承。(「若葉」主宰は現在鈴木貞雄)かへり見る雪山既に暮れゐたり 「安房上総」
猟銃の一文字ひく谺かな
文庫本ばかりの書架も桜桃忌 「系譜」
雪止んで来ればみるみる日当り来