かわうそ亭読書日記
2004年


2月2日(月)

『時代の風音』堀田善衛/司馬遼太郎/宮崎駿(UPU/1992)を読む。ネット書友のかぐら川さんに教えてもらった本。
宮崎駿さんがいい進行役となって、堀田善衛と司馬遼太郎というふたつの知性を引き出している。その司会の塩梅がなかなかよろしい。「紅の豚」の舞台となったアドリア海の話から、クロアチアやユーゴの話につながって行くあたりがさすがであります。

2月4日(水)

『交換教授』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社/1982)を読む。
物語はいきなり北極点上空で(高度が違うから安全に)すれ違う二機の旅客機の機内から始まって度肝を抜かれる。こんな始まり方をする小説なんてありかよ、と。(笑)その後もくすくす笑えるシチュエーションが続いて、なんともおかしいオハナシなのだが、ラスト近くでは、やはりこの二人の乗った旅客機が(今度はかなりきわどく)ニアミスで接近するという仕掛け。始まりと終りとその間の変化をきちんと暗示している。じつに巧いもんだ。こういうタイプの小説をコミック・ノヴェルと呼ぶらしい。オハナシの時代背景は1969年だから大学は学生運動でドタバタしていて笑わされる。

2月5日(木)

『歌集 銀耳』魚村晋太郎(砂子屋書房/2003)を読む。友人の登貴さんよりのご恵与。感謝。
ゆったりとした頁に収まった宝石のような定型詩の配列。装幀の手触りも好ましい。
二度、三度と読み返してみた。とてもいい。これは愛蔵の歌集になりそうだ。帯文に塚本邦雄(「修辭のうまみは私にさへ兜を脱がせる」)解説に岡井隆というのもすごい。つよく印象に残った歌を何首か抜いてみる。

 残酷な包みをあけた日があつた 花水木、風に白をかかげて
 空に秋、ほぼみちてをり「うん」としか言はない人の目を深くして
 甘言を弄してゐたり蝸牛昏き目をふる午後の黒南風
 錠剤に導かれつつ見る夢の寒林が左右から焦げだす
 窓にゐて五月の雨をみるやうに静かだひとの鬱にふれても
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2月6日(金)

『桜の園』アントン・チェーホフ/小田島雄志訳(白水Uブックス/1998)を読む。
なんでまたチェーホフかというと、本のカバーが和田誠さんと田中一光さんの意匠になっているからなのだ。とてもおしゃれな雰囲気になっているので、どうしても読みたくなるのである。不思議なもんだ。ところで、本書の訳は小田島雄志さんだから、当然、英訳(マイケル・フレイン)からの重訳であります。

2月8日(日)

『むくどりは飛んでゆく』池澤夏樹(朝日新聞社/1995)を読む。
週刊朝日、1994年1月から翌1995年1月までの連載分。先日読んだ『むくどり通信』の続き。この年、池澤さんは沖縄に居を移しておられる。旅から旅の日々の記録、羨ましいかぎりだ。
こんな一節がある。

ぼくは昔は社会主義者だった。政治活動をしていたわけではない。利益や競争で釣らなくても人は働くと信じていたということだ。社会の役に立つ仕事があれば、人は努力してその仕事をする。利己的理由からではなく、他の人たちみんなが豊かに、愉快に、安楽に暮らせるように力を尽す。誰もがそういう姿勢で生きれば社会はよくなる。だから、みんな当然そうするだろうと思っていた。

このあとで、だが、結局そういう理想論が現実には破綻する顛末が語られる。同じだなあ、と思う。ぼくも若いときそう思い、社会にもまれてそれがうまくいかない理由を自分なりに考えることになる。そういえば、本書でも語られているが、池澤さんは若い頃、E・ウィルソンの『フィンランド駅へ』の翻訳に取り組んだ人だ。まあ、こんな悠長なことをしていては食えないというので断念したらしいけれど。


2月10日(火)

『莫言自選短編集 白い犬とブランコ』吉田富夫訳(NHK出版/2003)を読む。
竜巻、涸れた河、洪水、猟銃、白い犬とブランコ、蝿と歯、戦争の記憶断片、奇遇、愛情、夜の漁、奇人と女郎、秘剣、豚肉売りの娘、初恋、の14短編と、日本語版のための序文、2000年3月におこなったスタンフォード大学での講演などを収録。
1984年から1992年にかけて発表された作品である。上記の講演によれば、莫言が作品を発表しはじめたのは1980年代のはじめだから、比較的初期のもの。この作家には、短いセンテンスで、色や匂いや触感などを鮮やかに言語化するという詩人としての天分がある。それと同時に、溢れるような物語を紡いでゆくイマジネーション。短編作家としても非凡だ。
本書のなかでは、とくに
「猟銃」、「白い犬とブランコ」、「夜の漁」、「豚肉売りの娘」を買う。

2月12日(木)

『素敵な仕事』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(大和書房/1991)を読む。
1986年、サッチャー政権下でまもなく金融のビッグバンが始まろうとしている年。国際的な競争力や活力を失った産業の再生が英国の重大な政策課題であった時代――なんて言えば、なんだか昨今のわがニッポンを思わせる。今年を産業振興年としよう。大学と産業界は、もっと互いを知る必要がある、なんてお上の方針で、ラミッジ大学(
『交換教授』の舞台だね)から一人が企業に派遣される。毎週一日、経営者の「シャドー」としてその行動を見学するのがその役割。誰もが嫌がるそんな任務に割り当てられた不運な講師は、左翼のポスト構造主義の英文学講師にして美人のフェミニスト、ロビン。受け入れ先は英国の衰退しつつある第二次産業の都市ラミッジ(バーミンガムがモデル)の工業合同企業だが、もちろんこっちもそんな邪魔者が来るのは迷惑このうえない。ということで、この会社の雇われ社長のヴィックとロビンは最初から喧嘩腰なのだが・・・・
いやはやデイヴィッド・ロッジという作家は、じつに面白い。本書には
『交換教授』のキャラクターも脇役で出て来て楽しませてくれる。どんなにウンザリしていても、一応は礼儀正しいというのが英国流なのか。この二人のかけ離れたキャラが醸し出す雰囲気は、まったく素敵だ。本書の原題は、NICE WORK 。ぴたりとしたタイトルなり。

2月14日(土)

『恋文物語』池内紀(新潮社/1990)を読む。
「小説新潮」1988年4月号から1989年10月号までの連載をまとめたもの。連載時のタイトルは「世界の恋文」だったとのこと。恋文といっても、男女の思慕をストレートに綴ったものとはかぎらない。たとえば鞣革卸小売り商人ポオル・フェルドスパの章には手紙は一切登場しない。いたってそっけない家計簿がこの中年男の滑稽な恋を鮮やかに炙り出し、シャンソンの歌詞がこれに花を添えるという絶品。こういうの書かせると巧いなあ。

2月16日(月)

『花神コレクション俳句 原子公平』(花神社)を読む。
1919年小樽生れ。朝鮮総督府官吏となった父にしたがって一家は朝鮮へ。年譜によれば小児麻痺により小学校の頃より松葉杖を使用とある。中学進学は当時のこととて、成績が良ければ特別に許可するというものだったらしい。進学したのは名門の旧制元山中学。いまの北朝鮮だな。同級生に沢木欣一がいた。東京帝國大学の仏文に入学したのは二十三歳。東大では金子兜太、安東次男とつきあっていたという。1961年の現代俳句協会分裂時の幹事長で、翌年に中村草田男の「万緑」を除名になっている。まあ、そんなことはどうでもいいか。
俳句は若い時のものが面白い。

 兵若し切なし裸馬に青葉の鞭
 落陽の蜻蛉微塵の山河を去る
 椋鳥どもは潜み戦さは頭上に満つ
 友来たる花はなければルオーの絵


2月17日(火)

『吉田茂の自問――敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』小倉和夫(藤原書店/2003)を読む。
一九五一年一月、講和条約の交渉を間近に控えていた吉田茂は、外務省に若手課長を一人選び自分のところに寄越すように指示を出す。外務省政務局政務課長斎藤鎮男が上司の指示で箱根の別荘を訪ねると、和服姿の吉田本人が「よく来てくれたね」と出迎えた。
「自分はいま二度目の総理をつとめているが、最初のときは仕事に追われて落ち着いて外交のことを考える暇などなかったが、このごろ余裕ができたので、かねて自分が心にかけていたことを実行に移したいと思う」こう言って吉田は、満州事変から敗戦まで失敗に失敗を重ねてきた日本外交の評価を若手グループにさせ、報告書にまとめさせた。これが「日本外交の過誤」という文書で、五十年間秘密文書とされていたという。2003年に秘密指定解除をうけて公開されたこの文書と、この報告書のための「作業ペーパー」について前フランス大使の小倉さんが丁寧な解説をしている。
本書を評するに「面白い」というのは不謹慎かもしれないが、昭和史に関心のある人間にとってはまことに興味深い本。

2月19日(木)

『鑑賞・現代短歌 十 岡井隆』小池光(本阿弥書店/1997)を読む。
小池光さんのシャープな鑑賞で、岡井隆という歌人の仕事を時系列に辿ってゆく。短歌自体は変貌につぐ変貌だが、芯にある「前衛たらん」とする意志の強靭さ美しさに心惹かれる。

 飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ
 ひぐらしはいつとしもなく絶えぬれば四五日は<躁> やがて暗澹
 生きがたき此の生のはてに桃植ゑて死も明かうせむそのはなざかり
 わが裡にうつそりと立つ進歩派の莫迦め化粧濃き女を連れて
 薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ

(蛇足)
それぞれ鑑賞歌は見開き頁の先頭行にひときわ大きな字体で組んであるのだが、「薔薇抱いて」の歌は「湯に沈む」が「陽に沈む」と誤植、嗚呼!


2月20日(金)

『かもめ』アントン・チェーホフ/小田島雄志訳(白水Uブックス/1998)を読む。
このシリーズはマイケル・フレインの英訳から。マイケル・フレインという人はイギリスの劇作家のようだが、ロシア語ができるのかしら。

2月21日(土)

『葉桜 李正子歌集』(河出書房新社/1997)を読む。
イ・チョンジャ、1947年三重県上野市生まれ。「未来」所属。植民地時代に労働者募集の貼り紙を見て、十九歳で海峡を渡ったという父の最期を詠った歌。

 十九歳のあなたが渡る冬の虹ふるさとの山がみわたせますか
 「日本人 優シカツタ」きれぎれに語りぬ終の夕日の窓辺
 喜ビモ哀シミモ杳ク過ギシカバ今宵日本ノ雪ガ優シキ
 今はただあなたが安らかであるのなら盃に散るゆきのはなびら


2月22日(日)

『バーナム博物館』スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸訳(福武書店/1991)を読む。
全部で10の作品を収録。読んでるうちに、うとうと眠ってしまったり、目は活字をひろいながら全然別のことを考えていることに途中で気づいて、何度も同じところを読み返すやらで、やたら読み上げるのに時間がかかった。あまり面白くないのだ。ところがいったん読了した後で、ぱらぱらともう一度、よくわからなかったあたりの拾い読みをはじめると、これがやたら面白い。変な本だな。

2月24日(火)

『わが父草田男』中村弓子(みすず書房/1996)を読む。
本書には三つの特色がある。第一は言うまでもなく、著者が草田男の娘(三女)であること。子供から見た草田男の姿は、他の解説書ではうかがい知ることができないものである。第二は、その人が学者(仏文)であること。単なる家族神話や俳壇の裏話の紹介ではなく、草田男の文学者としての位置を専門家らしい緻密さで真正面からとらえている点である。そして第三は著者が敬虔なカソリックであり、その信仰の文脈の中で自我のかたまりのような父を受容していること。最後の要素がじつは本書を読む上での鍵なのだと思う。

2月25日(水)

『武玉川・とくとく清水』田辺聖子(岩波新書/2002)を読む。副題は「古川柳の世界」となっているが、正確には武玉川を川柳と呼ぶのは誤りらしい。江戸座俳諧の付句集、編者は慶紀逸(けいきいつ)。俳諧連句の練習としての前句付けから、さらに付句だけを抜いた集を出したもの。柄井川柳が柳多留を出したのは武玉川よりさらに十五年後であった。

2月27日(金)

『三人姉妹』アントン・チェーホフ/小田島雄志訳(白水Uブックス/1999)を読む。
小田島さんはアンドレーを最年長の兄とし三姉妹が年下の妹だという解釈をしておられる。ただこれだと四人の関係がやや平板に思える。少なくともオーリガはアンドレーの姉とした方がよくはないかなぁ。

2月29日(日)

『セレクション歌人3 江戸雪集』(邑書林/2003)を読む。

 大粒の雨にぬらされたくなくて崩れるかたちのわが肩を抱く
 タランチュラ 舞踏のような名の蜘蛛がいてあおぞらは眼をとじいたり
 こわいのよ われに似る子が突然に空の奥処を指さすことも

 子よすこし抱かれていよわが鼓動はやくなりたる夕ぐれなれば


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