
かわうそ亭読書日記
2004年
1月4日(日)
年末年始にかけて読んだ本、以下の通り。『白檀の刑(上・下)』莫言/吉田富夫訳(中央公論社/2003)
山東省高密県東北郷、いつもの莫言の小説世界である。時代は『豊乳肥臀』よりやや遡る清末、西暦1900年頃の時代。ドイツによる膠済鉄道敷設に楯突いた猫腔(マオチャン)と呼ばれる民衆芝居の元座長が白檀の刑という残虐刑に処せられるまでの物語。京劇の「じゃんじゃんじゃん」というやたら派手な鳴り物や甲高い台詞回しを参考にしながら読むといいのかも。『漱石全集第三集』(岩波書店/1994)
「草枕」「二百十日」「野分」を収録。昨年につづいてお正月の漱石読み。文豪の世間への不愉快さに混じる<嫉妬>のようなもの。むかしはそれほど感じなかったものだけれど。『ダマセーノ・モンティロの失われた首』アントニオ・タブッキ/草皆伸子訳(白水社/1999)
太っちょの貴族である弁護士のドン・フェルナンドは魅力的。『オーランドー』ヴァージニア・ウルフ/杉山洋子訳(ちくま文庫/1998)
なんともへんてこりんな小説だが、どこかおかしな魅力はあるな。
1月6日(火)
『上り坂下り坂』青木玉(講談社/2001)を読む。
様々な新聞や雑誌の求めに応じて書かれたとおぼしきコラムやエッセイ。余計なお世話ながら、ちゃんとした原稿料を貰っておられないのではあるまいか、というような雑誌もなかにはある。それでも、まったく手抜きのない仕事ぶりに、いかにも律儀なこの方らしいと微笑ましい思いがする。
日本古書通信というタブロイド紙に書かれた「うちの本」という一篇や、CDクラブマガジンの「五重塔」(おそらく朗読CDの解説として書かれたものではあるまいか)という文章などはなかでも出色のもの。
1月7日(水)
『セレクション歌人31 吉岡生夫集』(邑書林/2003)を読む。
巻末の略歴を読むことで、つまり作者の境遇を知って一層心の底に届く歌。それがなくとも一読、思わず莞爾とする歌。どちらもそれなりに面白い。
後者のタイプをいくつか抜く。単純に尾をふることのかなしくて犬の頭を抱き寄せにけり
それはこんな顔だつたかいとふりむきし女のやうな茹卵むく
「桃太郎」「一寸法師」妻は子の耳にふきこむ拝金主義を
かみさまも裏側ゆゑにせはしくて縫目のあとのしるき隠嚢
1月10日(土)
『シュガー』 A・S・バイアット/ 池田栄一・篠目清美訳 (白水社/1993)を読む。 収録は以下十一短編。
ラシーヌとテーブルクロス、バラ色のティーカップ、七月の幽霊、隣の部屋、乾いた魔女、面目丸つぶれ、E・M・フォースターが死んだ日、取替え子、気配、そり返った断崖、シュガー
本書はバイアットにとって最初の短編集。かなり自伝的な色の濃い作品が多い。いくつかの短編のなかで描かれる父の一族、母の一族の肖像はたぶん正確なものなのではないかという気がする。この作家の研究をする人には宝庫のような本かも知れない。もっとも、ぼくのようなお気楽な読者には、そういう作品(「シュガー」はその典型だが)は、見事だとは思うが、やや、たいくつだ。
一番気に入ったのは「七月の幽霊」という佳品である。こういう幽霊話は大好きだな。
1月13日(火)
『楽園ニュース』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社/1993)を読む。この作家のものを読むのははじめて。面白い。すっかり気に入った。
「楽園ニュース」というのは、とりあえず小説の主な舞台であるところのハワイからきているわけだが、読んでいくと、これがもう少し深い意味を帯びていることがわかる仕組みになっている。
ユーモラスな語り口に、にやりとしたり、やれやれと苦笑したりしながら読んで行くと、終盤からあれれというような展開になってきて、ぼくは思わずほろり泣いてしまった。見かけよりずいぶん重い問いかけをもった小説だ。デイヴィッド・ロッジは1935年生まれ。イギリスのカトリック作家、評論家として人気があるらしい。
1月14日(水)
『絵具屋の女房』丸谷才一(文藝春秋/2003)を読む。
もう少しあとでゆっくり読むつもりだったのに、読み出すと止まらないのが丸谷さんのエッセイ。「本のジャケット」という文章のなかで、丸谷さんは本式に読もうというときは邪魔なのでラパー(というんだな、知らなかった)は外して、読み終えて本棚にしまうときにラパーをつける、と書いておられる。このやり方、ぼくも同じ。もっとも、最近は大半が図書館の本だから、このやり方をするのは洋書ぐらいだけれど。
1月15日(木)
『自ら墓標を建つ―私の人生論ノート』高島善哉(秋山書房/1984)を読む。本書はかぐら川さんのウェブ日記(「めぐり逢うことばたち」)を読んでさっそく探したもの。さいわい見つかった大阪中央図書館の所蔵本には「高島善哉の会/寄贈の記」というシールが見返しに貼ってあった。
学問の世界に生きる人はかくあってほしいというような方。読後ぼくらもせめてたまには襟を正さなければいかんなあと思ったことだ。
門外漢がいいかげんなことを書いてはいけないので、以下はかぐら川さんによる著者の紹介。「高島善哉先生(1904〜1990)は、戦前から、スミスやマルクス、リストなどの経済学史上の巨人を、「価値論」「生産力」という基本観念にまで遡り、かつ日本人としての立場を根底におきながら吸収、紹介されてこられた方であり、日本の社会科学が独り立ちするための基礎固めをされた泰斗でおられた。
先生は、若い頃から目を病まれ視力を失われてからでも、奥様やお弟子の方の音読によって、学を進めてこられた真摯なる学究であった。(2002年1月10日の条)」晩年にいたってこの方の文章にはしばしば俳句への言及があるのが面白い。ご自身の句。
目に見えぬ富士の高嶺や秋の声
1月17日(土)
『日本語を書く部屋』リービ英雄(岩波書店/2001)を読む。
いろんな文芸誌、新聞などに発表された三十編ばかりのエッセイ、評論、作品解説などをまとめた本。全体は三つのパートに分かれている。母国語ではない日本語で書くとはどういうことかという表現をめぐる問題がひとつ。具体的な作家や作品をめぐる文学論がひとつ。もうひとつは異文化同士の越境という現代的な考察。
具体的にリービ英雄が取り上げている作家は、中上健次、大庭みな子、安部公房、大江健三郎、司馬遼太郎など。
表紙のカバーには、新宿の「日本語を書く部屋」と思しき写真。いや、きたない部屋だね。でも、なんだか学生時代の下宿を思い出して懐かしい。
1月19日(月)
『むくどり通信』池澤夏樹(朝日新聞社/1994)を読む。
週刊朝日、1993年の連載。池澤さんによれば、鴎外に「椋鳥通信」というコラムがあった由。「江戸時代の俗語で、田舎から都会に出てきたお上りさんの意味だそうだ。何でも珍しくて、きょろきょろ見てまわる。あきれたり、感動したり、失敗したりする。そこのところが似ていると思ったのが拝借することにした理由。」(あとがきより)
1月20日(火)
『おおげさがきらい』池波正太郎(講談社/2003)を読む。
「完本池波正太郎大成」全三十巻の編纂作業により池波家の所蔵品などから発見された短文が二百五十余篇、発表順に五分冊とした。これは最初の一冊。時代は昭和31年から昭和42年まで。
都庁職員と劇作家の二束のわらじ時代の文章は、後年の作家の文体とはかなり違う。やがて、文筆業者として独立し、直木賞候補6回目にして受賞となるのが本書の時代であるわけだが、これは池波先生の三十代から四十代前半にあたる。この頃の世相や先生の日常がうかがえてなかなか面白い。
1月21日(水)
『杉田久女』坂本宮尾(富士見書房/2003)を読む。今日は久女忌。
すぐれた作家論。昭和十一年のホトトギス除名の直接の原因となったことについて、新資料により光が当てられているが、それは小さな部分で、本書の値打はやはり、著者がアウトサイダーではなく、結社俳句の世界で生きている俳人であることだろう。すなわち、虚子の人間としての品性の卑しさを書くことはいまでもかなり勇気のいることだったろうと思う。ただし、本書は田辺聖子の評伝と異なり、久女の人間像より、あくまでその俳句そのものに焦点をあてており、その点がやはり俳人の書いた評伝としてすぐれた点だと思う。
1月23日(金)
『エデンを遠く離れて』池澤夏樹(朝日新聞社/1991)を読む。
初出は「マリ・クレール」87年11月から90年10月。3年分36回のエッセイ。科学や数学といったちょっとムツカシイお話を、洒落た文章で読ませるというコーナーだったのかな。
1月25日(日)
『セレクション俳人12 筑紫磐井集』(邑書林/2003)を読む。
有季定型でありながら、現前なるを詠むという俳句の精神をてんで無視した不逞の俳人。(笑)こんなに面白い句集は久しぶりだ。蕪村にはあったが、現代俳句で王朝の世界や日本史を描くなんて手はコロンブスの卵。まいった、まいった。渡殿にをんな怖るる蛇の衣
十六夜の内侍がうつすものがたり
獺がたばかりそこね花あかり
六波羅に蟇鳴く遠のいくさかな
1月27日(火)
『抱擁T』A・S・バイアット/栗原行雄訳(新潮文庫)再読。
ほんの数ヶ月前に読んだばかりだが、ちょっと理由があってまた読み返している。なにしろよくできた小説だから全体の構図はもちろん、細部の記憶も結構あざやかに残っている。そうなるとオハナシの筋を追うことには全然エネルギーを使う必要がないので、作者がここにこんな言葉を置いた意味は何だろうとか、ここで使われている隠喩はどういう効果を作品に与えているだろうか、なんて、いろんなことを考え出して、それが楽しくて仕方がない。
上巻では、19世紀のアッシュとクリスタベルがお互いの理解を深めて行くのが往復書簡、すなわち「書かれた言葉」によってであるという点が面白い。実際に逢ってしまえばほとんど話らしい話もできないのに、手紙の文章の圧倒的な豊饒さ。まるで文章こそが二人の本質であり、肉体などは仮のものに過ぎないとでも言うような。
一方、現代のローランドもモードも、その文学研究者としての方法論は、あくまでテクスト中心主義であり、作家の個人生活や作家の人間関係などに過度の関心を寄せる方法にはあまり興味がない。
つまり、どちらの男女も「書かれた言葉」に取り憑かれているのだが、それは必然的に現実の社会生活において手痛いしっぺ返しを覚悟しなければならない。なぜなら社会は人間の肉体の営みであるのだから。しかし、それをわかった上でもなお「書かれた言葉」で生きていくことこそが詩人や文学者の栄光というものであり、ぼくら「下賎な」(ヴァルのこの言葉には苦笑してしまうが)仕事に身をすり減らしている者にとって、そういう人間がいるということがじつは救いになっているのだと思う。
1月28日(水)
『鑑賞・現代短歌 三 齋藤史』河野裕子(本阿弥書店/1997)を読む。
齋藤史にまつわる「物語」――二・二六事件との関わりから距離をとって、歌そのものと向き合いたいという河野さんの意図は分るような気がする。代表作としていつも取り上げられるようなものより、あまり人口に膾炙していない歌の鑑賞に力をいれている。てのひらは化石のごとく重ければ壁のおもてに掛けて退く
乗換駅のベンチにながく待つ夢の常に孤りにて行方知らず
すこし眠れば獲りし小鮒らいつしかに必ず居なくなる夢の魚籃
岡に來て両腕に白い帆を張れば風はさかんな海賊のうた
1月29日(木)
『抱擁U』A・S・バイアット/栗原行雄訳(新潮文庫)再読。
下巻は聖杯探求という古典的な物語(ロマンス)が「宝物までの速さ比べ(レイス)と、追跡劇(チェイス)」というこれもまたロマンスの正統的なパターンに変容する。そして、この速度感覚に乗って頁を繰って行くと、最後の最後に意外な事実が明かされて大団円を迎えるのだ。このあたりは言うまでもなく、スリリングな冒険小説や探偵小説のテクニックの援用である。
本書は、こうした古典的な物語の原型や、現代的なエンタテインメントの技法を、それ自体がパロディでありながら、(読んでいる最中は)それと気付かせないような巧みさでひとつの作品世界に溶かし込んでいる。とんでもなく豪華で洗練の極み。
十九世紀の詩人に取り憑かれて、そのテクストを読み解くことに学者としての生涯をかけるのも決して悪くはないような気がするが、主人公の一人であるローランドが、聖杯探求の冒険の果てに、自分のテクストを、アッシュではない自分自身の言葉・詩を書き出すのは喜ばしい。人生はテクストの中だけにあるものではない、という当たり前のことを、テクストにしか関心のなかった人間が発見する。文学を主題にした文学というある意味では不健康なものがここに鮮やかに昇華されているのではないだろうか。
1月31日(土)
『イン・ザ・ペニー・アーケイド』スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸訳(白水社/1990)を読む。
中篇一つ、短編六つを収録。中篇の題名は「アウグスト・エッシェンブルク」というのだが、十九世紀末の新生ドイツ帝国の首都ベルリンを舞台に、天才的な人形からくり師の栄光と失意を描いてため息の出るばかりに魅力的な作品。
本書はこの中篇を第一部とし、やや傾向の似た短編を三つずつまとめて第二部、第三部としている。作品集としての構成も面白いものがある。第二部の、アンチクライマックスの短編群は、ちょっとレイモンド・カーヴァーを思わせるが、個人的にはあまり好みではない。一番うっとりとしたのは「東方の国」という幻想の中国を描いた短編で、訳者の柴田さんもこれを好んでおられる由。