床 屋

床屋 とこや 理髪店、理髪師。元来は江戸時代の男性の髪をゆい、ひげ、月代(さかやき)などをそることを業とした店、またはその職人を

さした。床をはり葭簀(よしず)をかけただけの、住居をかねない粗末で簡略な店、あるいは移動できる店を床店(とこみせ)とよんだが、

そうした店で営業したことから髪結床(かみゆいどこ)とよばれた。かみいどこ、かみゆいや、とこ、とこば、かみどこ、浮世ともいう。

応仁の乱(1467〜77)以後、被り物をかぶらず、頭部を露出したままの露頂が男性に流行し、以来男性の髷(まげ)が発達した。

16世紀半ばの屏風(びょうぶ)絵には、床で男性の髪をゆう光景がえがかれている。髪結床の語は江戸時代初期からもちいられ、床屋の語も

江戸時代後期の19世紀初期にはみられる。

明治時代には服装に西洋風が導入され、1871年(明治4)に発布された散髪令以後、髷は一般の風俗からは姿をけした。

以後床屋はゆうことをはなれて、髪を流行や好みにしたがって切ることとひげをそること、すなわち理容がおもな仕事となった。

理髪店の名称は1879年の理髪人鑑札交付にはじまる。他方、江戸時代以来、歌舞伎の鬘(かつら)の髷をゆう職人を床山(とこやま)とよび、

床屋と区別している。歌舞伎、映画その他演劇の鬘のほかに、相撲力士の髷をゆう職人も床山という。

ヨーロッパでは古代ギリシャのアテネで専門の床屋があらわれ、散髪、ひげの手入れ、マッサージ、簡単なけがの手当てなどをおこなった。

古代ローマ人は短くかりこんだ髪をこのんだ。また剃刀(かみそり)によるひげ剃りは前5世紀半ばに、ギリシャの床屋につたえられて以来、

一般に普及した。床屋の店は大通りにひらかれ、この仕事専門の奴隷をもたない客でにぎわった。

中世初期のヨーロッパには床屋の記録はとぼしいが、中世後期には外科医や歯科医をかねる役割をもった床屋が登場し、

ギルドも結成された。彼らは理髪のほかに瀉血(しゃけつ)、抜歯、骨折・ねんざ・やけど・創傷などの治療もおこなった。この理髪外科医が

看板としてもちいた白、赤、青の縞の棒は、瀉血の際に血で赤くそまる握り棒と包帯をあらわし、瀉血をおこなうことを意味した。

これは今日の理髪店にもつたえられている。

18世紀には鬘の流行にともない、その手入れや整髪も床屋の仕事となった。19世紀後期にはアメリカで最初の免許制度が施行され、

以来、理髪に関する近代的技術や設備が開発された。

 

断髪・廃刀令

明治4年(1871)8月9日: 「士農工商四民の断髪勝手たるべき事」という太政官布告がでた。断髪は文明開化のシンボルとなった。

「断髪、脱刀、勝手たるべき事」と言う断髪廃刀令が出された。大阪でも、あちらこちらに「断髪屋」が開店し始めた。

最初は、川口居留地の異人屋敷に通って、イギリス人から技術を習い、上本町九丁目に「異人直伝」とPRして、青まんだらの

あめん棒看板を出したのが最初と言われて居る。(理髪店の看板である赤青白のまんだらあめん棒が、この当時より使用されて居た)

当時、大坂に二百軒程あった髪結床も進歩的な職人達は、剃刀をバリカンと鋏とに持ち替えた。断髪は「ザンギリ」と呼ばれて、

何処の床屋も連日大入満員の盛況だった。明治6年3月に明治天皇が断髪されてから目に見えてザンギリが流行した。

最初の頃は鋏も日本鋏が使用されて居た。当時の「断髪屋」が宣伝の為めのビラの文句に「丁髷だと月代銭(さかやきせん)が月六回。

一回二百文として月一分の利息で貯金すると、6歳から50歳まで千五百六十四両。80歳では五万八千余両と成る。

これに比べ断髪なら月1〜2回で済む」最初は月代銭より高かったが10年頃には10銭に、17年頃は5銭と段々安く成り、ザンギリが

庶民に浸透して行く。処が断髪が流行すると女性の中にも、みどりの黒髪をバッサリ切り捨てる女性も現れ、

慌てた政府は「いわれ無くして断髪する女性は罰金に処す」との、通達を出した程であった。

            浮世床

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