挿絵 その三

志村立美

明治40年、群馬県高崎に生まれる。

立美は、日本画家の山川秀峰に師事し修行をした後、挿絵画家としてデビュー。そして、林不忘の 連載小説「丹下左膳」の挿絵などに

よって、一流人気挿絵画家としての地位を不動のものとしました。

戦前においては、立美・岩田専太郎・小林秀恒の三人が「挿絵界の三羽烏」とうたわれ、花形挿絵画家として輝かしい一時代を築き、

戦後も立美・専太郎は双璧とされ華やかに活躍、挿絵界の寵児となったのでした。そして晩年は日本画制作に専念し、

美人画を追求し続けました。享年73歳。
 

                       

志村立美・画『別冊読切傑作集』表紙原画     志村立美・画/林不忘・作『一人三人全集 丹下左膳 こけ猿の巻』口絵

    

           美人画                                 挿絵

杉本健吉

1905(明治38)9月20日  名古屋市に生まれる。

1925年に岸田劉生の門下に入る。絵画作品は極力売ることをせず、生活はイラスト、商業用ポスター等の副業で賄い、

特に吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得た。1987年  名古屋鉄道により、

愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、

美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、2004年肺炎のため死去。

  杉本健吉「牡丹」の画像

                            杉本健吉画

山口将吉郎

鶴岡市出身、荘内中学で小貫搏堂から指導を受け、東京美術学校にすすみ、結城素明に師事する。吉川英治より4歳年下、

山口将吉郎と吉川英治といえば、「神州天馬侠」と挿絵。吉川英治の作家デビュー翌年の大正14年から昭和15年まで、

昭和8年を除いてほぼ途切れることなく山口将吉郎は挿絵を描いている。口絵、挿絵を描き武者絵を得意とする。

山口は少年少女小説の挿絵を数多く手がけ、吉川英治とは名コンビであった。享年76。

         武者画

小田富弥

小田富弥  明治28年〜平成2年 岡山で生まれ、博多、大阪へと移り住む。17歳で北野恒富の門に入る。

国芳→芳年→年恒→恒富と相承されてきた江戸浮世絵美人画の系統で中村貞以、樋口富麿の兄弟子として日本画を学んだ。

岩田専太郎の代理で挿絵の仕事を始めたのがきっかけとなり、挿絵画家として人気作家となる。

恒富から受継いだ文展・院展への志を抱きながらも挿絵を描き続けた。大衆文学の黄金時代を彩る代表的な挿絵画家である。

               

                      小田富弥絵

 

谷脇素文

大正末から昭和初期に、≪川柳漫画≫というものが流行しました。川柳を題材にしたひとコマ漫画です。

昭和5年から7年にかけて「川柳漫画全集」などというものが刊行されたほどです。

この川柳漫画で最も名を成したのが、吉川英治の出世作「剣難女難」の挿絵を描いた谷脇素文

素文は何冊も川柳漫画の単行本を出していますが、その1冊「川柳漫画 うきよさまざま」には、

吉川英治(雉子郎)の代表句『柳原涙のあとや酒のしみ』を漫画にしたものが収録されています。

バナナのたたき売り 谷脇素文(1878-1946)画
[『川柳漫画 いのちの洗濯』 
大日本雄弁会講談社 昭和5年より]

竹下夢二

竹下夢二 明治17年9月16日岡山県邑久郡本庄村に生まれる。本名 茂次郎 

明治32年 神戸中学に入学。12月同校中退 明治35年 早稲田実業学校に入学 

明治38年 「直言」にコマ絵掲載される 「中学世界」に“筒井筒”が第一賞入選し、投書家時代を終える

明治42年 最初の著作「夢二画集・春の巻」発行 ベストセラーとなり、夢二の抒情画は天下にひろまる

大正7年  京都府立図書館において第2回竹久夢二抒情画展覧会

昭和6年  アメリカ・ヨーロッパへ旅立つ(昭和8年帰国

昭和9年  9月1日富士見高原療養所で50歳の生涯を閉じ、有島生馬氏らにより雑司ケ谷墓地に埋葬される

夢二恋の遍歴

24歳のとき最初の妻たまきと結婚し長男虹之助をもうけましたが、2年で協議離婚。20代後半、夢二は実に多くの画集を刊行するほか、

あの有名な詩『宵待草』を発表しました。

宵待草  待てど くらせど 来ぬ人を

           宵待ち草のやるせなさ

                今宵は月も出ぬそうな

大正3年、夢二は日本橋に港屋絵草子店を開き、ここで生涯の恋人彦乃と出会います。人目を忍ぶ二人の恋は、交わす恋文のなかで

「山」「河」と呼び合う哀しくはかないものでした。

大正6年、夢二と彦乃は金沢・湯桶温泉を旅し、この旅が夢二と彦乃の生涯最高の思い出の旅となりました。

翌年の大正7年、彦乃は病に倒れ、父の手に奪いかえされてしまったからです。彦乃はまもなく25歳の短い生涯を終えました。

彦乃をなくし茫然自失の夢二はそののち数々の女性を愛しましたが、その悲しみが消えることは生涯ありませんでした。

心の傷を癒すように、夢二は「山」を、榛名をこよなく愛しました。

『あらゆる事物が破壊の時期にありながら、未だ建設のプランは示されていない。しかもわれわれは生活せねばならない。

快適な生活のためには各々が自己の生活、衣食住から建てていかねばならない。そういう我々の生活条項を満たしてくれるために、

幸い榛名山上に若干の土地が与えられた。榛名山美術研究所をそこに設ける所以である。

1935年5月 榛名山美術研究所 竹 久 夢 二』

   

                     

富永謙太郎

富永謙太郎 新境地を開いた挿絵画家!

1904年(明治37年)、森町城下に生まれた富永謙太郎は、30歳の頃に画家を目指して上京、はじめは映画の絵看板を描いていましたが、

菊地寛に認められプロの挿絵画家としての第一歩を踏み出しました。 独自の画風を確立して岩田専大郎・志村立美らとともに

「御三家」と呼ばれました。挿絵界に新境地を開いた功績は大きく、1985年(昭和60年)、多くのファンに惜しまれながらこの世を去りました。

享年80歳。

 

  

                       富永謙太郎の挿絵

鴨下晃湖

鴨下晃湖 1890(明治23)年2月25日〜1967(昭和42)年10月20日。大正・昭和期の日本画家。本名中雄。

1902(明治35)年松本楓湖(まつもとふうこ)の門に入り、大和絵系の歴史画を学ぶ。文展、帝展で活躍、昭和初期から挿絵を手がけ、

戦後は挿絵に専心した。岡本綺堂『半七捕物帳』、柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』は名作。

        鴨下晃湖の挿絵

樺島勝一

樺島勝一 かばしまかついち 1888〜1965 「正チャンの冒険」で知られる人気漫画家。挿絵画家としても活躍。

本名、椛島勝一(かばしまかついち)。

長崎県に生まれ、11歳のころに自宅の押し入れから出てきたアメリカの古新聞をみてペン画を自修する。商業学校中退後、

父の死を契機に1913年(大正2)に上京して広告の版下などを描きながらペン画の独学をつづける。その後、みとめられて博文館などの

雑誌に挿絵を描くなどしていたが、22年に朝日新聞社に入社して、その翌年から「アサヒグラフ」に「正チャンの冒険」を連載、

子供漫画の世界に大きな足跡をのこした。昭和期に入ると挿絵画家に転じ、「少年倶楽部(しょうねんクラブ)」に掲載された

冒険小説などに多くの挿絵を描いた。

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       正ちゃんの冒険

 今から80年前、日本初のグラフ誌や新聞に連載された『正チャンの冒険』は、

 絵物語風のナレーションと「ふきだし」が入った、新しいスタイルの少年漫画とし

 て誕生しました。                             

 冒険好きで勇敢な少年正チャンが、リスをお供にお伽の国を旅する物語は、子供

 から大人まで幅広く愛され、正チャンは国民的人気者となり、「正チャン帽」とい

 う名称も生まれました。『正チャンの冒険』は、大正リベラリズムを時代背景にし

た、自由とロマンあふれる物語とモダンな画風で世間の注目を集め、近年では、二十世紀デザイン切手にも選ばれ、

少年漫画史上に残る傑作として再評価されています。