4にまつわる話

4という数字は 死 とつながり、縁起のよくない数とされている。

四捨五入ではないが、四は捨てられる運命の数といえよう。

四谷怪談は、、霊につながる話である。四苦八苦は、つらい苦しみにつかわれている。

四目十目は夜目遠目から変形した言葉で、年の違いが四つ目、十目違い、つまり三つ違い、九つ違いの男女の

結婚は離縁になるというものである。

四面楚歌 これもあまりよくない言葉ですね。 〔楚(そ)の項羽が四面を囲む漢軍の中に楚の歌を聞き、楚はすでに漢にくだったのかと

驚きなげいたという「史記(項羽本紀)」の故事から〕まわりが敵や反対者ばかりで、味方のないこと。孤立無援。

四分五裂 ばらばらになってしまうこと。まとまりのあるものが秩序を失って乱れること。

四に関係するあまり芳しくない話を列挙してみよう。

四大公害裁判

四大公害とは、 四日市喘息(三重)、 イタイイタイ病(富山)、 新潟水俣病、 熊本水俣病をさしていう。このうち新潟水俣病訴訟は、

1971年(昭和46)9月28日、 富山イタイイタイ病訴訟は71年6月30日(第1次)、同8月9日(第2次)、 

四日市訴訟は、71年2月結審、7月24日勝訴、 熊本水俣病訴訟は72年10月に結審し、73年3月20日それぞれ原告側の勝訴が確定した。

これらの判決の中でも四日市訴訟とイタイイタイ病訴訟の判決は、公害訴訟)史上画期的なものであった。

96年5月、全国7つの地裁・高裁で争われていた訴訟が和解、終結をむかえ、四大公害裁判はピリオドがうたれることとなった。

四・一六事件

四・一六事件 1929年(昭和4)4月16日に全国いっせいにおこなわれた日本共産党に対する大弾圧事件。

前年28年の三・一五事件とともに、第2次共産党事件ともよばれる。この2度にわたる一斉検挙により共産党の指導部は壊滅し、

以後、戦争終結まで活動は散発的になった。

田中義一内閣は、三・一五事件で共産党関係者を全国で約1600人逮捕したが、最高幹部渡辺政之輔らを逮捕することができなかった。

渡辺、市川正一、鍋山貞親などの指導者は、潜行しながら組織を再建し、機関誌「赤旗」の再刊や、中国の山東半島への

日本軍の出兵(第2次山東出兵)反対運動をはじめた。

田中内閣は、三・一五事件直後の1928年4月、治安維持法の改定をおこない、「国体の変革」に対する最高刑を死刑または

無期懲役にした。また、全国の警察に配置した特別高等警察(特高)を駆使して、捜査にあたった。

その結果、四・一六事件では、党員が所持していた幹部名簿をもとに、1道3府24県で約700人を一斉検挙した。

ほとんどの幹部は逮捕され、三・一五事件にくらべると起訴率も高く、治安維持法改定のため判決の刑も重かった。

1審判決のでた翌33年になって、佐野学、鍋山らの指導者は、獄中から転向声明をだし、その後、多くの転向者がでた。

四大工業地帯 かつての名残か

四大工業地帯 日本を代表する4つの工業地帯。東京都および川崎市、 横浜市を中心とする京浜工業地帯、

名古屋市を中心とする中京工業地帯、 大阪市や神戸市を中心とする阪神工業地帯、 北九州市を中心とする北九州工業地帯をいう。

工業出荷額は、京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯、北九州工業地帯の順に多い。

近年は、北九州工業地帯の地位の低下がめだち、瀬戸内工業地域、京葉工業地域、東海工業地域、北陸工業地域よりも

工業出荷額が少ないため、北九州工業地帯をのぞいて3大工業地帯といわれている。

四人組 これは中国の話だが、今は面影も無い

四人組 、文化大革命の中心となった毛沢東の妻、江青とその側近の王洪文、張春橋、姚文元(ようぶんげん)をさす。

文革派の中で上海グループともいわれ、文化大革命の間、また林彪なきあとの文革推進派のリーダーとして

イデオロギー急進路線を堅持し、周恩来など脱文革派との間で党の主導権争いをくりひろげた。

1976年9月に毛沢東が「既定方針どおり事をはこぶ」という遺言をのこして死亡すると、四人組は後継者として名乗りをあげた。

しかし彼らはすでに党内で孤立しており、10月に華国鋒(のち党主席、首相)らの指導で公安当局に逮捕された(北京政変)。

その後、脱文革の方向がうちだされると、四人組は文革諸悪の根源とみなされ、徹底的に糾弾された。

1980年に四人組に対する裁判がはじまり、江青と張春橋は執行猶予つきの死刑、王洪文には無期懲役、

姚文元には懲役20年の判決がくだされた。

四についてこんな意見もあります。

聖なる数四

出雲大社参拝の時には、四柏手を打ちます。この「四」が「死」に通じるとして、出雲大社は

「大国主という怨霊を封じ込める為の神社」であるという説があります。これは本当でしょうか?

まず、「四」の読み方としては古代は「し」ではなく「よ」または「よん」です。古代においての読み方の上からは

「死」はありえないという事です。そもそも「よん」「よ」は古代日本において聖なる数なのです。

人や神の魂には四つの種類があると考えられていました。「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」です。この四つの魂それぞれに

柏手を打つのが四柏手の原型だと思います。出雲以外でも、宇佐八幡宮・伊勢神宮・弥彦神社などでも現在も行われている事

から推定すれば、四柏手こそが古代における正式な神に対する儀礼なのではないでしょうか?

では何故一般的には四柏手でなく二回の柏手なのか?という疑問があります。古代確かに四回だった柏手が二回に

なったのは江戸期の国学それに準ずる神学の理論によるものではないかと推測しています。それは、

古代確かに四つであると考えられていた人や神の「魂」は「魂」「魄」二つであると理解しなおされたからではないでしょうか?

古代神道における「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」の四つの概念を、江戸神学は「魂・魄」二つの概念に改めたのではないでしょうか?

また、四が聖なる数だということをしのばせる例としては、遣唐使・遣隋使の船も四艘一組なのです。

危険な旅にわざわざ不吉な数字を用いるでしょうか?むしろ四という数字が縁起のよい数字だと考えられていたからこそ

「縁起担ぎ」のため四艘で船出したのではないでしょうか?

そして、柏手なんですがこれは相当昔から行われていた儀礼の一つです。魏志倭人伝において

「大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ」と記されているように「手を摶ち」ということは「柏手をうつ」

ということで貴人に対する挨拶の作法でもあるのです。卑弥呼の時代には尊敬の念を表す挨拶として柏手が儀礼・作法として

存在していたのです。

それと、蛇足になるかもしれませんが、金光教や天理教といった幕末に発生した「教派神道」の神前参拝のときの柏手も

「四柏手」であり、同じく教派神道に転身した出雲大社の柏手と同じ「四」であるということからも「四柏手」には「死柏手」

以外の意味が込められているとしか思えません。

       この  聖なる数四 は下記HPより抜粋しました。

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/index.shtml

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