昭和17年

 当時の戦況  付記 当「89才のホームページ」より

 

 

 

 

 

昭和17年

処が、昭和十七年一月 我々昭和十三年九月召集の補充兵に内地帰還の命令が出た。

内地防備要員との噂がもっぱらであった。

何でもいい、召集解除にならなくてもいい、毎日夢にまで見続けていた日本である。我々は欣喜雀躍した。

そして昭和十七年二月  とうとう我々の夢は現実となった。

待ちに待った召集解除である。

昭和十三年九月に入隊して、実に 三年六ヶ月振りである。

召集解除され、原隊を出た時の気持ちは到底筆舌では言い現わせないもので、

死を宣告された者が、生えの希望を叶えられたに等しいものだつた。

昭和十七年二月に私は召集解除となったが、南方作戦は日増しに拡大し、マニラ、セベ

レス、ビルマ、 シンガポール、ジヤワ、ボルネオにと広がっていった。

一方緒戦に真珠湾で太平洋艦隊を失い、日本軍の為すが侭に見過ごして米軍は、ようやく反撃に転じていた。

即ち昭和十七年四月十八日、B25十数機は、京浜、名古屋、四日市、神戸等を初空襲。攻撃の兆しを見せ、昭和十七年六月五日と六日にかけ、

ミッドウエー海戦が行われた。この海戦は両艦隊の総力を挙げての戦いで、日本軍は空母 4 (飛竜、赤城、加賀、蒼竜) を失い、緒戦に得た日

本軍の主導権は、米軍の手に移り、以後太平洋戦争は次第に敗北へと追いこまれて行く。

継いで米軍は八月七日には早くもガダルカナル島及びツラギ島に上陸。

更に八月−−>十一月にかけて、第一次−−第二次 ソロモン海戦が行われ、日本の

制空権は次第に失われて行く。

 

    昭和17年 私記

文芸春秋より 抜粋

1月1日  

大東亜戦争の新年を迎える。快晴。

1月8日

本日の観兵式に付いては敵襲を警戒、陸軍機150にて警戒。何事もなく終了。

1月12日

政府は本日、蘭印と戦闘状態に。作11日 メナド、タラカンに上陸。

1月13日

昨夕、海軍潜水艦はハワイ諸島西南にて米航空母艦レキシントン型1隻撃沈。

(注)  これはまったくの誤報で、しかし大本営海軍は、1月22日戦況上奏のおり、レキシントン撃沈の旨報告している。

2月9日  

皇軍シンガポール島に上陸

2月11日

紀元節。皇軍シンガポール市街の一角に突入。

2月17日

シンガポール島を昭南島と改称。

3月9日

ジャバ島全軍無条件降伏。

(注)  3/7日 ジャワのオランダ軍降伏、8日ビルマのラングーン占領、ニューギニアにみ上陸と日本軍快進撃。

天皇 「あまり戦果があがのすぎるよ」

帝都空襲にあわてふためく

4月18日 

帝都各所に初めて爆弾、焼夷弾投下せらる。

(注)  この日ドウリットル爆撃隊、B25爆撃機16機による、日本本土空襲にさいしての狼狽ぶりは。

侍従 「陛下 空襲です。御退がりください」

天皇 「そんなはずはないだろう。先程海軍大臣(嶋田繁太郎)がおってきて、空襲にきても夕方だろうと言っていた」

侍従 「いや、いま東京を空襲しているのでございます。お早く-----」

4月19日

前2.01空襲警報、両陛下、金庫室へお移り。本警報は各地監視哨より、爆音をきいての発令だったが、その後異常なく 3.51解除。

隠されたミッドウェイ海戦敗北

5月7日

コレヒドール島陥落。陸海軍に勅語を賜う。

5月8日

珊瑚海海戦では、米空母一隻撃沈、一隻中破の戦果。損害軽空母一隻喪失、空母一隻中破であったが、日本海軍は追撃を中止し、

ポートモレスビー攻略の目的は達せられなかった。

6月7日

昨日あたりより、御気色、御不良。海軍の戦果についてではないか。

(注)  この日はミッドウェイ海戦敗北の日である。世界最強を誇っていた空母四隻を喪失した。

軍令部は損害二隻とウソの報告を天皇にしていたことになる。

10月27日

南太平洋海戦。大戦果発表。

(注)  ガダルカナル島争奪をめぐって日米は全力を結集して戦った。陸軍の総攻撃の支援のため出動した日本の機動部隊と、米機動部隊

とが衝突航空決戦が展開された。日本は大損害を受ける。

陸も海も攻撃挫折の報に、天皇は切歯扼腕。

天皇が京都で語った戦争観

12月11日

伊勢神宮御参拝のため京都に行幸。

天皇左の如き思し召し、御洩らしあり。

一、戦争は一旦始めれば、中々中途で押えられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗めている。したがって戦いをはじめるときは、

   よほど慎重に考えなければならぬ。戦いはどこで止めるかが大事なことだ。

二、 自分は支那事変はやりたくなかった。それは ソ連がこわいからだ。且つ、自分の得ている情報では、支那は容易のことでは行かぬ。

       外務省の情報でも、海軍の意見もそうであった。然し参謀本部や陸軍大臣杉山の意見は、支那は鎧袖一触すぐ参るということだった。

三、 石原莞爾が作戦部長で、ソヴィエット恐れるに足らずという意見だったが、後にソヴィエット恐るべしとの意見に変わった。

四、 東条になってからは、十分に準備が出来た、然し12月8日前に輸送船団が発見されたと云う事で、駄目かとおもったが良かった。

五、 満州事変において、戦いは中々途中では止められぬことを知った。

六、 自分の花は奥州訪問の時だったと思う。

(注)  戦いが不利になったときの天皇の心のうちが良く分かる。

12月31日

天皇風邪気味。

(注)  この日の大本営会議で、ガダルカナル島奪回作戦は中止。部隊撤収決定。

つづく