闇買いを拒否し餓死を選んだ二人

食糧不足により配給される食糧はきわめて乏しく、成人一人あたりの米の配給量は21(300グラム)

しかなかった。それでもおかずが一杯あれば、主食はこの程度でも足りるが、当時はおかずといえば、

漬物がせいぜい。動物蛋白として、貧弱な干し物を一週間に一回か二回食べられれば、恵まれた方だった。

また、21勺の米も、ほかにイモとかカボチャなどの配給があれば減らされ、さらに一週間から一ヶ月におよぶ

遅配はしょっちゅうだった。このため、飢え死にしないためには、法律で禁じられている闇米を利用しないわけには

いかなかった。この時期、闇米を買わなかった家庭は殆どなかったといっていい。

そうしたなかにあって、断固として闇買いを拒否し、餓死を選んだ人物が二人いる。

一人は、東京高校(旧制)のドイツ語教授亀尾栄四郎で

「いやしくも教育者たる者、表裏があってはならぬ。どんな苦しくても、国策に従う」という固い信念のもとに

配給の食糧だけで六人家族を養っていた。

しかし、六人が三日間に食べる配給がネギ2本といった状況では、どうしょうもなかった。

教授は、自分は殆ど食べずに、子供たちに食物を与えていたが、ついに力尽き、昭和201011日に亡くなった。

もう一人は、山口良忠判事である。

食糧難で国民のほとんどがヤミ買いをして生き延びていたとき、配給だけで生活をしていた一人の判事が死亡、

世間に大きな衝撃を与えた。この判事は、東京地方裁判所で食糧のヤミ売買を中心にした経済統制違反を担当する

山口良忠(34歳)で、昭和22年10月11日のことであった。

山口の死は,『朝日新聞』の記事がなければ、おそらく世に知られることはなかった。

死後二十日余りたった11月4日朝日新聞西部本社が山口の死をスクープ記事で報じたのである。

だがこれは、「朝日新聞」といっても地方版の記事、目にする人も限られていた・翌5日東京版が記事にしてから

がぜん大きな話題になった。

本文にはこう書かれていた。

「押し寄せるインフレの波では二人の子供が訴える空腹さえ満たしてやれなかった、そのたびに妻矩子さんはタケノコを提案し、

急場をしのごうとしたが、山口判事は”人を裁く裁判官の身でどうしてヤミが出来るか、給料でやって行け”と家人をしかりつけ

配給だけの生活を命じた」また、記事中に引用された日記は次のような内容であった。

「自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ敢然ヤミと闘って餓死するのだ自分の日々の生活は

全く死の行進であった、判検事の中にもひそかにヤミ買いして何知らぬ顔で役所に出ているのに、自分だけは今かくして

清い死の行進を続けていることを思うと全く病苦を忘れていい気持ちだ」この記事を読んだ人々は驚いた。

山口を「現代のソクラテス」「憂国の士」とたたえる人から、「悪法の鬼」「冷徹なな判事」と批判する人と、意見は分れた。

またどう受け止めたらいいのかととまどいを見せる人も多かった。

赤塚行雄は、「当時、15歳だった私は、世の中には偉い人もいるものだと思いつつも、しかし、他方では、

内心この人のことをちょっと時代遅れの融通のきかない頑固者のようにも思った。しかし、山口判事は、とにかく、

こうした形で国家に抗議してくれたのだと考えたりもした」(『青少年非行・犯罪史資料』第一巻)と書いている。

ある夜、山口は妻の矩子にこう話しかけた。「経済犯を裁くには、その人たちが罪に落ちる直前の苦しみ、立場に立たないと、

正しい裁きは出来ないと思う。これから僕の食事は、必ず配給だけで賄ってくれ」

山口も法が現実の食糧事情に合致してなことは充分に承知していた。だから、矩子や二人の子供にも配給生活を守らせることは

しなかった。だが自身は判事である以上、裁判から逃れるわけにはいかない。ヤミ買いをしたり、弁護士に転職する判事も

少なくなかったが、山口は苦悩のすえ、配給生活は守ろうと決意した。配給米の量は一日・2合5勺(21年11月から)

それも米とは名ばかりで、麦、芋、南瓜の方が多いという代物だった。加えて遅配・欠配も珍しくなかった。

山口の住んでいた東京世田谷区では、このとき、遅配は11日にもなっていた。遅配が長びけば、当然、山口夫妻のもとには

食べるものが何もなくなる。そんな日、二人が口にするのは塩味の汁だった。体力は衰えていった。そのうえ、食糧の遅配が、

ヤミ買いを増やしていった。検挙者も増え、山口の仕事はますます忙しくなった。100件以上もの審理をかかえ込み、

連日のように夜遅くまでその処理に追われた。体力の消耗は激しく、22年3月には栄養失調状態が周囲にもはっきり分るようになった。

同じ世田谷区に住む矩子の父親たちが食糧を送り届けたが、山口は受け取らない。それならばと、週に一、二度食事に招待しようとしたが、

これも断った。8月に入ると、山口の栄養失調は危険な状態を迎えようとしていた。足もとはふらつき、かさばる資料はもう持てず、

熱も下がらなかった。8月27日、ついに東京地裁の階段で倒れた。医者の診断は栄養失調による肺浸潤。

初めて休暇を取り、佐賀県の実家へ帰ったが、もう病状を好転させるだけの体力は残っていなかった。

山口は自らの職業的倫理観に従って、自らの死を迎えたのであった。

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