戦 後
死からの脱出−−20年11月北鮮・清津より引揚者の体験記
北鮮の清津から南鮮へ向けて出る最後の引揚列車、それも4両編成の貨車でした。
20年11月初旬、厳寒に向かうこの地を、ほんとうに着の身着のままで離れました。
ソ連軍の切断作戦のため、この町も次第に反日のきざしが強くなってきました。
今日まで何百里歩きつづけたことでしょう。地下足袋もすり切れ、衣類もボロボロ、背中の
子供も投げだしたくなるような重さでした。
いまはただ汽車に乗り、たとえ少しでも内地に近づくことができればという気持ちで一杯でし
た。 運転手は北鮮の人とソ連兵のようでした。
しかし汽車は、ニ、三の駅を走っては二日も三日も止まって動こうともしません。夜ともなる
とソ連兵が貨車に乱入し、いつもの略奪です。いままでも散々やられてきた事です。
ただ婦女子に対する暴行だけは恐ろしかったです。
80名あまりの人が一貨車に詰め込められた状態で、ちようど1ヶ月ぶりに私達はキンコウ
という町に下ろされました。久しぶりに手足を伸ばして土の上で夜を明かしました。
一日も早く京城へ脱出したい気持ちで一杯でした。
キンコウから南鮮に山を越えて脱出を図りました。日本人は私達二組、全部で八人で行動
しました。ところがこの単独突破は朝鮮の子供に見破られ、ソ連兵に密告されて失敗に終
わりました。
昭和21年2月4日、の夜、死にもの狂いの脱出を決行しました。
私達が収容されている海州の対岸が南鮮です。
月が光っていました。月明かりをたよりに、私は子供を背中に、鍋を首にぶら下げ、食糧を
手に息を殺して、あぜ道を静かに抜けて、息つくひまもなく引き潮の海上に走り出したので
す。
無人の海は不気味なほど静かで、暗黒の別世界のようでした。
月は雲に隠れ、あたりは暗くなってきました。
だんだん疲労が激しくなってきました。足元が浮いたようになってきました。睡魔が襲ってき
ます。
前方に黒い人影が見えます。ちかずいて見ると、この土地の引揚者の人達です。
「ご苦労さん、どこから来ました。はぐれないよう、私達のあとについて来て下さい」
とまるで、神の救いにあったような気持ちでした。
海を渡り切ったところに大きな川が流れていました。腰まであったでしょう、無我夢中でそれ
を渡りやっと岸に上陸することが出来ました。
私達40名中8名がこの海の犠牲となりました。
私達の身代わりになった方の冥福を祈りこの記事を終わります。
(毎日新聞社 一億人の昭和史より転載 「ある引揚者の体験記」 )